注意:「交流教育」とは、障害のある児童・生徒と小学校等の通常の学級の児童・生徒ガ、
行事等を通じて活動を共にする教育を言う。
「交流学習」とは、特殊学級を設置している小学校等において、特殊学級の児童・生徒と通常の学級の児童・生徒が教科や行事等で活動を共にする教育を言う。
G.交流教育を有意義なものにするために必要なことは何か
1.交流学習と一言でいっても、いろいろなものがあって、それぞれの学校の特色が反映される学習だと思うが、ではその交流学習を有意義なものにするにはどうしたらよいのか。
まずは、私だったら障害児との交流学習を一番に考えたい。それは、これからともに社会を生きていく一員として、お互いの理解を深めなければならないと考えるからである。きっと、普通の小学校に通っている子どもたちは、障害を持った子どもたちと触れ合う機会はそうそうないのではないかと思う。実際私が小学校に通っていたときも、障害をもった人と接した機会がなかった。でも、一緒に遊んだり、行事をしたりすることによって、これから一緒に歩んでいく障害をもった子どもたちを理解しすることができるであろうし、また、親同士の理解をも深めることができるであろう。
次に、地域の人々との交流学習が考えられる。地域のことに関することや、歴史に関することや、音楽や図工などにとても優れている人を授業に招き、授業をしていただくことができるだろう。そのような授業を行うことで、子どもたちはとても興味がもてると思うし、また地域の人にも、子どもたちの実態をみてもらうことができる。また、参観日を設けたり、学校・地域行事を一緒にすることで、お互いの理解が深まるであろう。行事では、学芸会を見てもらったり、運動会や豆まきなどで、地域の人々に参加してもらうことなどができると思う。
3つ目に、学校同士の交流が考えられる。例えば、授業の中で討論を行うとか、一緒に地域のことについて調べてみるとか、お互いの町を紹介しあうとか、一緒に芋掘りや田植えを行ってみるとか、いろいろなことができると思う。それぞれの学校の属している地域によって、できることは違ってくるだろうし、また授業の本読み一つにしても、お互いがそれぞれ意見を言い合うことできるであろう。インターネットを使った交流学習というのも今後増えてくるのではないだろうか。
以上が私が考える交流学習であるが、どれにも共通する大事なことは、いろいろな人と触れあい、意見を交わすことによって、人間性を豊かにし、社会性を高めることができるということではないだろうか。
2.交流教育とは、総合的な学習の時間や、その他の教科学習において、自分たちの学級、学校だけで調べたり、発表したりするだけでなく、他の学校の子どもたちと交流し合いながら共に学び合うような学習である。つまり、自分たちの学習を交流校に知らせることにより、交流校のよいところを模倣したり、意見を述べたりすることにより、新たな課題を発見し、自ら学ぶ意欲を持つことができるということである。
この交流教育を有意義なものにするために必要なことは、情報交換手段の効果的な活用方法を考えることではないだろうか。インターネットの普及により簡単に情報を得たり、メールをやり取りしたりできるようになり、交流校とテレビ会議をしたり、インターネットホームページでの公開が可能になった。これらの活用は、交流教育をより有意義なものにするだろう。さらに、変化の激しいこれからの社会を生き抜く現代の子どもたちにとってコンピューターに慣れ親しむことは必要であるので、この交流教育の場は重要な経験になるはずである。
交流教育は、近隣の学校とのみ可能なわけではない。インターネットにより、例えば、海外の学校との交流も自動翻訳システムなどの活用により、ある程度可能になる。交流のパートナーの広がりは、地理的、空間的なものにかぎられたものではない。異世代が、ネットワーク上で交流を展開するのも、生涯学習時代にふさわしい姿ではないだろうか。小学生と中学生の意見交換、子どもと専門家の共同作業など、たとえ同一地域内であっても、異校種とか異年齢といった視点で、パートナーを拡張し、子どもたちと他者のコミュニケーション能力を、質的に高めることができれば、交流教育は更に有意義なものになるだろう。
しかし、せっかくの学習成果も、その年度だけの一年で片づけてしまっては、次の年度も一からのスタートになってしまう。前年度までの学習の成果は、誰もが見ることができるように整理・保管し、閲覧できるように、しておくことが重要である。学習してまとめたことは、次の学年の児童・生徒たちの有効な手段となり、学習の手引きになるはずである。以上のことが交流教育を有意義なものにするために必要であると私は考える。
3.交流学習では、子供の自発的な行動を大切にしてより綿密な計画を立てていかなくては行けない。そしてまず子供にとって身近にできる体験できるほうがいい。日常生活の中で接する機会が少ない障害を持った人との出会いと気づきの体験を通して、障害を持っている人達への理解と関心を深め、人と人との関わり合いや支えあうことの素晴らしさを体感することが出来る。
実際に計画する際には、交流する側の人たちについて事前に知っておくことも必要だ。その人によっては何か特別な配慮を必要とするかもしれないし、その人を知らなければ誤解をまねくこともありうるからだ。そして、どんな風にその人と接していくのか、自分に出来ることはあるのか、など考えたりするのだ。そのためにも、教師は事前の打ち合わせを怠ってはいけない。この子供への事前指導の段階から、子供自身の手で計画していくという意識のもと進めていく。また、こちらが迎え入れる側である時は、まず迎え入れる側がその人が中にはいっていきやすいような雰囲気作りをしなければいけない。そのためにも、その人の事を知る必要があるが、この雰囲気作りは、子供から出た様々な意見を取り入れて行っていく。なかなか中に入ってくることが出来ない人がいたら、その人のところまで迎えに行くなどして温かく迎え入れる。この時も、子供たち自身からの自発的な働きかけを大切にする。
また、交流活動記録を残すなどして、日常活動で子供が自主的に活動できるような環境作りをする。その時だけで終わらずに、その後も密に連絡をとりまたいつでも交流できるようにしておくといい。
子供たちは、この学習を経てたくさんのことを体験して学び取る。その中で、みんなで共に生きているということを大切にしなくてはいけない。そして、その学んだことを今後の生活に生かせるようにしていかなくてはいけない。
教師側は、教師間の連携を図りながら、そのときにあった交流学習を選ばなくてはいけない。
4.交流学習とは、日頃違う場所で学んでいる子供たちが、一つのところに集まり、ともに学ぶというものである。交流学習とは幅広いものを指すが、ここでは特に、盲、聾、養護学校にかよう子供たちが地域の学校を訪れるという交流学習を取り上げたい。この交流学習の目的は主に、障害を持った子供の地域に対する生活基盤の形成と、双方の支え合いの関係を形成する事が目的である。現状では、学期に一回から二回の学校行事や学年の行事に合わせて地域の学校へ「交流」という形で学習するというのが一般的であるようだ。実際このような「交流学習」は、小学部ではそのような関係が希薄になり、中学部では年に一、二回になり、高学部にいたっては、ほとんど皆無という状態である。このような交流学習では個人と個人の関係づくりが難しく、支え合う人間関係は形成されない。しかし、交流の回数を増やせばいいというのではなく、双方が真剣な関係を作っていけるようにしなくてはならない。いいかえると、障害をもった子供は、このような「交流」で地域に生活基盤ができるわけがないのである。
交流学習を有意義なものにするには、交流する主体者の実態を知る必要がある。なぜなら、交流する子供たちは学校だけであるわけではない。成長を支えてきた家族、地域そして社会がある。多くの時間をともに歩んできた人たちとの関係や時間を抜きにして子供たちが,語れることはねわずかである。障害を持った子供たちが自分たちと分けられた状況にあるということをどういう風にとらえているかをまず知る必要がある。どうして共にいつも学べないのかなどのことを、子供はどういう風にとらえているかを知り、交流学習を組み立てる必要がある。
一人一人の個性の伸長、個性に応じた教育を行う資質能力が教師にも求められるが、この教師の教育実践的態度は、子供一人一人にも生かされてくると思う。友達同士の個性や良さを認め合い、共に支え合っていこうとする心の育成にも関わってくるからである。交流学習を行う際には、何のための交流学習なのか、子供の実態に即しているのかを考慮し、どちらかの一方的な交流学習にならないようにしていくことがのぞまれる。
5.新学習指導要領には、幼稚園から、小学校、中学校、高等学校に至るまで、「障害のある幼児児童生徒や高齢者などとの交流の機会を設けること」について、教育課程編成・実施にあたって配慮すべき事項の中に明記された。それを具体的に実施する時間として、従前の特別活動等の取り扱いに加えて、総合的な学習の時間を有意義に活用して成果をあげることが期待される。
障害のある児童生徒が社会参加・自立していくためには、盲学校、聾学校及び養護学校や特殊学級において、障害の状態に応じた適切な教育を行うとともに、児童生徒の経験を広め、社会性を養い、好ましい人間関係を形成し、その能力を最大限に伸ばしていくことが必要である。
交流学習は、障害のある児童生徒が、小・中・高等学校の児童生徒や地域社会の人々とふれあう機会を設け、理解を深めると同時に、小・中・高等学校の児童生徒が交流により障害のある児童生徒等に対する正しい理解と認識を深め、豊かな人間形成を図り、社会性を育成し、人権尊重の意識を高める上でも極めて有意義な活動であるといえる。
交流学習に取り組んでいくためには、しっかりと計画を練る必要がある。その段階として、@学校の実態に応じた相手校を選定し、交流を依頼するA両校の連絡会をもつB年間計画、単元計画(事前指導・事後指導等を含む)の活動計画を立てるC教員や保護者に向けての理解啓発、特に教員は障害等について十分理解しておく。D活動計画のねらい、一人ひとりのねらいを明確にし、自己評価や相互評価を取り入れた交流教育の評価をするE評価に基づいて改善案を作成し、次年度に引き継ぐなどが挙げられる。
以上の中でも、交流学習の内容をいかに深めていくかは、Bの事前指導、事後指導にかかってくる。特に、初めて接する学年の児童生徒には、障害に対する十分な理解が必要である。
交流学習を行っていく上での課題として、まず相手校選定上の課題であり、盲・聾・養護学校の数は限られており、児童生徒数も少ない。盲・聾・養護学校の交流相手校はすでに指定されている場合もあり、新たに交流学習を希望する学校は、相手校の教育課程や児童生徒に負担にならないように工夫しなければならない。次に、児童生徒の障害の重度化・多様化の傾向にあり、積極的に交流学習に参加できない児童生徒もいる。そのため、小・中・高等学校は、事前に十分な情報交換を行い、この活動がともに喜びあえる活動となるように考えていかなければならない。最後に、相互理解を深めていくために、教師は、児童生徒の理解の実態を踏まえ、適切な事前事後指導と交流の場でのアドバイスを行い、活動を支援していくことが大切である。
6.交流学習と一言で言っても、さまざまなものが挙げられる。地域の方、お年寄りとの交流、障害者との交流、姉妹校など海外の学校との交流、他の小学校との交流などである。これらの交流学習が今、多くの学校で行われているが形態は多様である。全ての交流学習が子どもたちにとって、本当に有意義なものとなっているのかという疑問点もある。どのような交流学習が、有意義であるといえるのかを考えてみる必要がある。
交流の相手が誰であれ、一度きり、その活動時間内だけのレクレーションに終わってしまってはまったく意味が無い。できることならば、子どもたちのほうから、「このような学習のために、このような人と交流したい」というような意志を持って、交流学習を進めていくべきである。そのような活動の中でこそ、子どもたちは自ら学び、自ら考える力を育てていけるはずである。
具体例をあげると、近年子どもたちの体験の不足が言われている。そこで教師はできるだけ多くの体験活動を授業に取り入れるよう努力しているだろう。がしかし、それにも限界がある。また。調べたい内容が海外のものであった場合などは、どうしても現地にいって調べることが困難である。このようなときに、実際にそれを体験したことのある他校の生徒や、海外の学生とインターネットなどを通じて交流することはとても意義深いものであるといえる。
これからの交流教育を有意義なものにするために必要なことは、その活動を行うに当たって事前にどれだけ子どもたちがその内容に興味関心を持つかということである。それがあれば、活動中子どもたちは積極的に学ぼうとするであろうし、活動後もさらに興味を広げ、そこから新たな学習活動につながっていくものと思われる。また、これまでの学習の成果が生かせる場であることも、子どもたちの学習意欲を高めるために必要である。
7.交流学習を有意義なものにするために次の3つを実践する。
(1)教師間と家庭とのネットワークづくり
交流学習を進めるにあたっては、全ての教師が交流学習について同じ考えをもちその重要性を認識しておかなければならない。その中でも、特に特殊学級の教師とは連絡を密にして取り組まなければならない。また、その学校の方針や保護者にも理解をしてもらうために、絶えず学校と家庭との間でも連絡を取り合う必要がある。
(2)教師の障害に対する指導観
障害者の問題は根強く、単純なものではない。教師は正しい障害観の基で、交流学習を行うことで健常者や障害者のお互いに何を学ばせたいのか、何を感じさせたいのかを明確にして行わなければならない。例えば、難聴の生徒と交流学習を行う際に、単に手話を覚えてコミュニケーションすることができるということで終わるのではなく、聴覚障害についての問題を考え、その結果、自分達はどのように行動するべきなのか、そして実際に行うことができるかといった実践力を養うといったねらいを明確にする必要がある。
(3)事前指導・事後指導の充実
交流学習を充実することは重要であるが、それ以前に事前・事後指導がきちんと行われていなければ有意義なものにはならない。事前指導では、障害者の立場となって実際に問題や気持ちを体験するといった学習が必要である。例えば目をハチマキやタオルで覆い隠して歩き、視覚障害者と同じ状況を作り出す。そこで、大変だと思った所やもし補助をしてもらえるのならばどうして欲しいなど、実際の経験を通して学ぶ。事後指導では自分が実際に交流してみてどうだったか、どうすれば良かったかなどを話し合う場を設定しなければならない。そして視覚障害の深い問題についても指導を行う必要がある。
健常者と障害者が大きな壁で閉ざされていた時代や考え方は変化を遂げ、ライフステージの全ての段階において全人的復権を目指すリハビリテーションの理念と、障害者が障害のない者と同等に生活し、活動する社会を目指すノーマライゼーションの理念が社会に浸透している。交流学習もその理念から行われるものであり、生涯を通じてお互いがよりより生活を送るための経験と能力を養う1つの手段として有効なものである。交流教育を有意義なものにし、生徒にノーマライゼーションの理念を実践することができる資質や能力を育くむために、日々精進していく決意である。
8.交流教育を意義あるものにするためには、必要な条件として交流する相手をよく知るということと押し付けにならないということである。私が実習をした養護学校では2つの小学校と交流を持っていた。実習中にそのうちのひとつの学校の児童が交流にきた。私がそこで驚いたのが、私のクラスの児童のことを詳しく知っていたということである。名前や顔を知っているというだけではない。たとえばこの子はこういう障害があるから、こういう配慮が必要だ、ということまで知っていたのである。小学生たちはお土産を作ってきていた。A君には手の力が弱いから、針金で手に巻きつけるマラカスを、Bさんはすぐなんでも口に持っていくのでペットボトルのマラカスをというような工夫がされていた。その楽器で授業を行った後、私は指導教官になぜよく知っていたのか尋ねた。聞くところによると、遠足で同じところにいったのが縁でもう1年近く交流が続いていて、はじめはビデオレターでお互いの様子を写し、紹介しあったほかは教師はほとんど関与していないということだつた。動機や目的がはっきりしていればここまで発展するのかと感心した。
障害のあるなしに関わらず、交流することで双方得るものは大きい。ただ、目的や動機がはっきりしない押し付けの交流では得るものが少ない。きっかけが与えられれば児童たちは自分たちで、交流を自然に発展させる潜在能力があると私は考える。
私はどうも交流教育に対する教師の関心が、事前の準備や内容ばかりに目をとられすぎているような気がする。それはもはや児童にとって押し付け以外の何者でもない。本当に大切なことは交流するきっかけや動機を児童に与えることであって、内容は後からでも工夫できるし、要求があってから準備しても遅くはない。つまりは入り口をどのように魅力的にするのかであって、ほかのことは置いていても差し支えない。はじめから完成されたものを児童に与えるのは押し付けであり、児童の感性に頼る部分を残しておいてもよいと私は考える。交流教育を進めるに当たってはこのようなことを私は実践していく所存である。
9.交流教育とは、普通学校間や普通学校に通う子どもたちが地域の人たちや高齢者や障害者などと、特殊教育諸学校や特殊学級の子どもたちが普通学校に通う子どもたちのような健常者と学校教育の一環として活動を共にすることである。活動の形態も様々で、各学校間でのVTRの交換やパソコンを活用した交流などの間接的な交流、学校行事などに招待したり、活動を共にする直接的な交流がある。交流教育と聞くと、特殊教育諸学校と普通学校の子どもたちが触れ合うことを連想しがちであるが、普通学校間や特殊学校間で行われる場合もある。
普通学校間や普通学校と地域の人たちや高齢者などとの交流の例としては、地域の工場で働く人たちの話を聞いたり、実際に工場での仕事を体験してみたり、高齢者施設を訪問し、昔の遊びを教わったり、話を聞いたりすることなどが挙げられる。このような活動を通して子どもたちの職業観が養われ、豊かな人間性が育まれるのである。
特殊教育諸学校と普通学校の児童・生徒間で行われる交流教育に関しては、特に意義深いものであると考えられている。特殊教育諸学校では対人関係や社会生活などで困難が見られることがあり、早い時期からこうした点に十分配慮し、将来の社会参加に必要な資質を養うことは極めて重要であるとされている。交流教育は障害のある子どもたちの経験を広め、社会性を養い、好ましい人間関係を育てることができる絶好の機会である。普通学校の児童・生徒にとっても障害児と接することにより、障害児とその教育にたいする正しい理解と認識を深め、同じ社会に生きる人間として共に助け合い、協力し合いながら生きていくべきだという意識、人権を尊重する態度などを養うことができるのである。
実際に交流教育を行うにあたっては、交流の相手方に交流の必要性、意義等について十分説明し、互いに理解を深めていくことが大切である。交流教育を円滑の進めていくためには、交流教育を実施する学校とその相手方で実際の活動内容や役割分担等について十分な事前指導を行うことが大切である。交流教育中は子どもたちが主体的、積極的に取り組めるような援助を行い、交流教育後は次回の交流教育に向けての反省点などについて話し合う必要がある。交流教育を有意義なものにするためには、各学校の交流教育についての理解や意欲が大切であると考える。
10.近年、特殊学校や特殊学級に通う子どもと通常学級に通う子どもが活動を共にする教育活動の場が増えてきている。また、世間でもノーマライゼーションの理念が重要視され、新学習指導要領においても交流学習をいっそう明確に位置付けている。そのような状況の中、私は、交流学習を有意義なものにするために必要なこととは、障害を持つ子も持たない子も積極的に参加できる場を作るということだと考える。そのための取り組みを以下に述べる。
まず、交流学習を行う前にしなければいけないことは、障害を持つ子への偏った意識の壁をなくすということである。偏った意識の壁が高い学校・学級においては、なくすまではできなくてもできる限り低くするように努力しなければならない。例えば、道徳の時間を使い、『五体不満足』の著者である乙武洋匡さんを取り上げ、VTRや文章を使いながら様々な場面で頑張っている障害児・者の取り組みや想いを考える。この際、注意しなければいけないことは、教師が一方的に自分の考えを伝える時間にしないということである。あくまで子どもたちが自分で考え、感じる時間にしなければならない。
次に、障害児・者への意識を高めたところで、自分の身の周りや今までの意識を振り返る。交流を行うお互いの相手についても考えておく。特殊学校との交流の場合は、お互いの不安を取り除くために事前にビデオレターを交換する等も考えられる。また、教師が安全面を考え、交流する際に気をつけることはしっかり伝えておく必要がある。
そして、交流して実際に感じたことや考えたことを作文として残し、相手に送る等様々な場面で交流していく。1回で終了するのではなく、継続的に行っていくことで、一時的な意識にとどまらず生涯を通じてもつことのできる長期的な意識へと変わっていくだろう。
教育活動の一環として交流をしている時間だけ積極性をもつのでは、有意義なものにできたとは言い難い。生涯を見通したときに、交流学習がノーマライゼーション理念の導入として子どもたち一人一人が何か感じてくれるだけでもいい。その導入がしっかりしたものであれば、展開・発展し有意義なものになっていくのではないだろうか。その場だけの交流にとどまらず、教育活動の中で行った交流学習が生涯を通じて生きていくものにしなければならない。
11.相手を理解するにはお互いに接点を持つことが大切であるが、その接点として「交流教育」がある。そういう点で、「交流教育」の意味は非常に大きいものがあり、外からの働きかけで生活経験が広まるとともに、生活力が高まり、将来社会に出たときに必要な対人関係の調整力や集団への参加能力、態度を養うことができる。小・中学校、高等学校、特殊教育諸学校に交流の意義が示され、開かれた学校づくりを進める学校どうしで交流の機会が多くなるだろう。
交流で取り上げられる活動例としては、運動会、文化祭等の学校行事の相互訪問や、自然体験活動、勤労体験活動、環境美化活動などが考えられる。活動をともにすることによって豊かな人間性が形成され、学校全体の活性化が期待できるだろう。また、学校どうしが共通のねらいをもって進めようとすれば、双方の学校で総合的な学習の時間をこれにあてはめることもできる。
交流教育を有意義なものにするためには、学校間、または地域との交流を複数回設定することであると私は思う。複数回行うことで、自分たちのあり方も考え、失敗したなと思う点は改善し、非常に意義深い交流ができるはずだ。そして、その次の段階は、もう少し自由な場で交流できればいいと思う。たとえば、行事などで知り合い、その後、町で出会う、あるいは、地域に出たときに、手を振ってくれたりする。そういうことがあれば、継続的になり、さらに一人一人の心の中に入ったような形で、お互いを理解したり、人間性が豊かになっていくという目的に添うことになるだろう。
学校が地域に開かれていくためには、教師も地域活動に参加すること、さらに地域との交流の機会を通して、子どもに望ましい社会性を育てていくことが大切である。
12. 障害のある児童・生徒と通常の学級の児童・生徒の交流教育は、両者にとって大変必要なものである。様々な人たちとの交流を通して子どもたちは豊かな人間性を身に付けていくからである。また特殊学級や特殊諸学校に通う障害のある子どもは、いつも少人数の集団のなかで生活しており、通常の学級のような集団生活は社会性を身につける上でも貴重な体験となる。このような交流教育をより有意義なものにするために必要なのは、互いのことをよく知るための準備と、子どもたちの自主性を重視することだと考える。
互いのことをよく知ることは、この交流教育の大きな目的の一つである。そのための準備をすることで、交流はより深くなり、より有意義なものになると言える。例えば、通常の学級の子どもたちでは、相手の子どもの障害について調べて事前に学んでおいたり、一緒に楽しく活動するにはどうしたらよいかなどを考えておいたりするのも一つの方法である。また、障害をもつ子どもにとっても事前の学習は不可欠である。これから何をするのかなどを伝えて、子どもが目的意識を持つことが大切である。そのために、パソコンを使って情報を集めたり、事前に手紙や電子メールの交換などをしておくとよい。
上に述べたような事前の準備や実際の交流の場において大切なのは、子どもたちが自ら何かをしようとする姿勢である。初めのうちは、子どもたちも何をしたらよいのか、どうように接していったらよいのかと、戸惑う面もあるかもしれない。そのようなときは、教師の助言や支援も必要であろうが、決して強制はしないようにすべきである。教師の行うことは、交流のきっかけや動機付けにすぎない。そこから先は子どもたちの自主性に任せるべきであり、子どもたちが自ら考え自ら行動することにこの交流教育の意味がある。
以上の2点を踏まえた上での交流教育はより価値のあるものとなる。障害のある子もない子もこの交流教育を通して、お互いを一人の人間としてとらえノーマライゼーションの考え方を自然と身に付けていくことができる。そしてその考え方が、豊かな人間性を育むのに大きな役割をはたすのである。
13.交流教育とは、障害をもつ児童・生徒と通常の学級に通う児童・生徒とが行事などで活動を共にする教育のことである。
近年、多くの小学校と盲、聾、養護学校の間で交流教育が行なわれている。多くの学校で行なわれているということは、それだけ得るものが多いということではないだろうか。では、交流教育を有意義なものにするために必要なこととは何であろうか。
第一に、綿密な計画をすることである。この計画にもいくつかのプロセスがある。まず、交流教育の目的を明確にもつということである。私の考える交流教育の目的は、同じ人間としての他者を理解して受け入れる気持ちを育てることである。交流教育は障害を理解するためだけに設けられたものではなく、仲間作りであると私は考える。目的のない交流からは何も生まれないであろう。そして、相手のことをよく知ることである。新しい仲間に出会うからには、相手がどんなことに興味をもっているのか、どんなことをやりたい、してほしいと思っているのかなどを知る必要がある。これは盲、聾、養護学校の児童・生徒から通常の学級の児童・生徒に対する一方的なものではなく、お互いに情報交換をしていきたいものである。このことにより、お互いがまず一歩、歩み寄れるのではないだろうか。障害を理解する方法にはテレビ番組や本を紹介するという方法も考えられるが、実際にこれから交流を深めていこうとする相手の方が変な先入観のない出会いになると考えられる。まだまだ頻繁にあるわけではない交流教育だからこそ、お互いのことを知ったうえで計画を立てることが何よりも大切なのである。
第二に、あくまでも子ども主体の交流教育にすることである。子どもたちは大人の存在がすぐそばにあると、子ども同士で交流するよりもついつい大人に従ってしまいがちになる。同年代の子ども同士だからこそできる交流を大切にしてほしい。実際に触れ合うことで子どもなりの理解をするであろう。この場合、教師は一歩下がって子どもたちを見守る必要がある。また、子ども主体の交流教育を進めるために計画段階から子どもも一緒にすることも効果的であると考えられる。
このように綿密な計画の下、子ども主体ということに意識をおいて交流教育を進めていくことが望ましい。交流教育は、交流をしたその日、その場限りで終わることではない。計画から、振り返りまでの全てを含めて交流教育である。また、継続的に行なっていくことが大切である。交流教育を仲間作りであると考えるからには、出会った仲間と末永く付き合っていきたいものである。
14. 交流教育といって最初に思いつくのは障害児との交流である。最近では特殊学校ではなく、普通学校に通う障害のある子どもも増えてきている。しかし、健常児には障害児に対する知識はない。それは、きちんとした交流の場がもたれていないからであるといえる。実際に、障害者が電車に乗っていても、席を譲ろうとしない人は沢山いる。子供のときに障害児・者との交流を持っていれば、そんなことはなくなるのではないだろうか。
では、どのようにすればよいかということが問題となってくる。一番よいのは学校行事を通して交流をはかることだ。例えば、運動会や学芸会にお互いを招待し合い、仲良くなることもできる。一緒に少しの時間でも過ごすことによって、お互いのことを理解するきっかけになると思う。しかし、招待する前に、どういう人を招待するのかということを調べておくことでも、相手を理解する第1歩となるであろう。
しかし、交流は学校同士だけで行うものではない。やはり、親や地域の方々がいてくれるからこそ、安心して学校に通うことができるのである。したがって、地域の人々とも一緒に交流できる場をつくることも大切である。子どもたちだけが、障害児・者を理解していくのではなく、地域全体として理解でしていくことで、社会全体への理解へとも深まっていく。それは、共に生きるという喜びを味わうことができるのでとても大切なことといえるであろう。人との関係が希薄化してきている世の中で、相手のことを知ろうとすることや知ったときの喜びを育てるためには交流教育はとても必要なものである。それを有意義なものへ変えていくためには、学校・地域の理解や協力が一番必要だと考える。
15.新学習指導要領では、小・中学校においても「交流学習」について明記されることになった。このことから、盲・聾・養護学校には、小・中学校から「交流」の申し出が相次ぐ現状だという。このように、「交流学習」の機会は今後ますます増えるだろう。
重要なのは、「交流学習」を数さえ重ねればいいということにとどまらず、より有意義なものにしていく必要があるということである。では、交流学習を有意義なものにするためにはどうしたらいいのだろうか。
ここで注目したいのは、交流学習には大きく三つの形態があるということである。校内の交流、学校間交流、そして地域の交流である。どの形態がいいかという視点ではなく、それぞれの形態の特徴を踏まえて、その長所を充分活かした活動を続けることが重要だと思われる。
その具体例は次の通りである。校内の交流では、授業や給食の時間など、日頃の教育活動を通して行える。学校間交流では、運動会や文化祭など、学校行事を通して交流することが中心となると思われる。学校行事では、児童生徒だけでなく、家族も行事を見に来るので、より広く障害児に対する理解が深まるいい機会となると思われる。また、電子メールや手紙交換を利用してでも学校間で交流ができる。これにより、離れている場所にいる人とのコミュニケーションの楽しさを味わうことが出来ると考える。地域の交流では、盲・聾・養護学校の子ども達が、学校単位ではなく、個々の地域の学校による交流がもっとも大切であると思われる。というのは、盲・聾・養護学校の児童生徒は、自分が住んでいる地域から離れて学校に通う者が多いため、地域の子どもとふれあう機会が極めて少ないからである。また、地域の交流を通して、健常のこどもも自分の住んでいる地域にも障害のある友達がいることを知ることが出来、障害にたいする理解をより身近に感じ取って出来るようになると思われる。
16.交流教育を有意義にするために必要なことを@事前指導A交流教育当日の指導B事後指導の3つにわけて考える。まず事前指導であるが、交流教育先が決まったら子供達に伝え、どういう人達と交流するのかを知らせる。次に交流する時間で何をするか考えなければならないが、あくまで交流するのは子供達であるから、子供達に計画させることが大切である。教師は話し合いに参加し、助言をすればよいと考える。また、交流する相手について詳しく知る必要もある。例えば盲学校と交流教育を行なうこととなっている場合は、当然盲に関する知識を事前に得る必要がある。交流の際に盲児が危険な体験をしてしまうことがもし起こったら、せっかくの交流教育が台無しになってしまうため、そういったことが起こらないためにも擬似体験をさせるなど様々な手段をとり、事前にしっかり教育することが求められる。そして当日は互いに楽しく気持ちよく過ごせる環境になるよう努力しなくてはいけない。
交流教育当日の指導にあたっては、教師は子供達の交流の場を大切にし、積極的な交流ができるよう、こどもが困っていれば助言をすることが望ましいと考える。こどもたち全員が互いに交流できるように、特にクラスの中で控えめな子供には注意を払いたい。また例えば車椅子を児童が動かすといったような、危険が予測される場合についてはしっかりと注意しなくてはいけない。「また会いたい」と子供たちが思えるような雰囲気作りを心がけることが必要である。
事後指導にあたっては、交流してみてどうだったか、交流する前と何が変わったか等、子供達の心に問いかけ、交流教育で一人一人が得たものを文章で書かせたり、討論会にするなどして子供の心にしっかり印象づけることが大切である。反省点なども挙げさせて、教師はそれに対するアドバイスをすることで次回の交流教育を充実させることができる。また、交流先へお礼の手紙を書いたりすることで今後の交流が一層充実したものになるだろう。教師は交流教育全体を通して、子供達にいろんな視点で物事を考えられるように、他人の気持ちを考え、尊重できるこどもを目指して指導していくことが大切である。
17.交流学習の意義は2つあり、1つ目は障害のある児童生徒の発達を促すことである。障害児はその障害の為にどうしても活動の範囲が狭くなりがちで、健常児や他の障害児との接触が少なく、集団で遊んだり生活したりする経験が、健常児に比べると乏しくなりがちである。また、親から世話してもらうことが多く、自分で積極的に行動しようという意欲を持ちにくく、主体性が育ちにくい。その為、社会性や自発性・主体性が育ちにくい。2つ目は障害のある児童生徒に対する障害のない児童生徒の望ましい態度を形成し、それによって障害のある児童生徒の学校・学級適応を促進することである。障害児は何かの援助を必要としている。特に通常学級に在籍している障害児は、周りの子供たちが障害児のことを理解して援助してくれれば、より学習しやすくなる。こういう経験は、健常児にとってもとても有意義なものである。
よって、健常児・障害児の両方にとって有意義なものでなくてはならない。その為には教師は少し離れて、危険がないかを見るくらいでいい。障害児においても健常児においても援助のしすぎはよくない。場の設定としては、健常児と障害児で2人ペアにして一つのことをするようにして、それを個人にしたり、大勢にしたりしてその中でどう援助したらよいか、健常児が気付き、障害児は、まずは、みんなで何かをすることの楽しさに気付かせ、交流学習を繰り返す中で主体的な動きを引き出すことが必要である。教師が今挙げた気付きを引き出すよう、援助するとして、最も大事なことは一度で終わらせないことである。健常児にとってはただ遊んだ、で終わり、障害児にとっては何かした、でしかなくなってしまう。日本での交流学習は障害児が通常の学級に行くの主流であるが、逆も多いに有効である。障害児の普段の学んでいる姿を見てもらうのも、健常児にとっては有意義である。多くの交流学習では、形だけ成立させているものが多いように感じる。教師がすべきことは、子供ができる方法で援助することや自発的な動きを気長に待つことである。大事なのは、子供自身の自分でしたんだという気付きとこんな風に援助したらいいんだという気付きである。
18.交流学習を有意義なものにするために必要なことは、特殊学級と、普通学級とが密に連携を取れていることである。交流学習と題して、それぞれの学級に訪ね、交流をすることも無意味とはいえない。交流することによって、お互いに興味を持ち、お互いの事をもっと知りたくなるかもしれない。それだけでも有意義だと言えると思う。しかし、もっと有意義なものにするためには、事前の学習が必要である。普通学級の子どもが障害児について正しい知識を持ち、お互いが思いやりの気持ちを持って交流できるように勉強していくことが必要である。しかし、教師が自分の持っている知識や考え方だけを子どもに植え付けてはいけないと思う。確かに、交流する学級の子どもたちがどういう障害を持っているかというその障害についての理解は必要であるが、それは、教師ではなく子どもたち自身に調べさせることによって理解を深めていくのだと思う。そして、どういうふうに接しなさいということをあまり理解していない教師が子どもたちに教えることは、子どもたちに先入観を植え付けることになってしなうのではないだろうか。もちろん、普通学校の子どもに、障害児をよく理解している特殊学級の教師が授業をしにくることがよりよい方法だと思う。そして、特殊学級に普通学級の教師が勉強しに行くことも重要である。このような教師同士のお互いの学級への行き来も必要なことである。しかし、交流学習とは、あくまで子どもたちの学習である。子どもたちが自分で知ったことを理解し、お互いに共感し合うことが大切である。そのために、教師があれこれ口を出さずに子ども自身同士で関わっていくようにしなければならない。だから、障害児とどう接するか、どんなことがうれしくて、どんなことが嫌かは子どもたちが気付いていかなければならない。そのためには、まず自分たちで障害を学んだ上で、障害児と交流し、分からないことを聞くことが必要だと思う。大人は聞いてはいけないと考えると思う。しかし、分からないことを推測して分かった振りをするよりも、分からないと言ったほうが本当に理解できるようになると思う。もちろん教師は、思いやりをもって聞くという態度を育てなければならない。障害児の方も聞かれることに慣れていないだろうから事前の配慮が必要だろう。とにかく子どもたちにとっては、多く交流することこそ有意義なのだと思う。
19.交流教育とは、学校内の通常の学級と特殊学級とで行われるもの、通常の学校と特殊諸学校とで行われるものなど様々なケースがあるが、いずれも様々な人との交流を深め、社会に参加するための最初の段階であると私は考える。また自分と相手の違いを知り、認めることを学習させることを目的の一つとする。
交流教育は小学校低学年という早い時期から始め、同じ児童生徒との交流を定期的に、長期に渡って続けていくべきである。健常児にとって早い時期から障害のある児童と触れ合うことは、自然と障害を受け入れ、障害に対する偏見を生みにくくなるのではないかと考える。また定期的に長期に渡る理由は、障害児の様子を長期に渡って実際に見ることで、障害児の成長を学ぶことができるからである。
障害児は、人との交流が少なくなりがちである。交流教育によって社会に参加し、いろんな人と交流し様々な活動を共に行うことは障害児にとっても良い経験となる。
交流教育をするにあたって、双方の教師は話し合いの場を持ち、密な計画を立てなければならない。教師の間に共通の理解をしておくべきである。また、どちらも事前指導・事後指導をするべきである。通常の学校・学級では障害について無知なままいきなり交流するより、ある程度どんな障害なのかを把握しておいた方が理解も深まり接しやすくなる。その際小学校低学年に指導する場合なら児童に分かりやすいように説明し、高学年になれば自分たちで障害について調べさせるなどの工夫をしながら指導していくべきである。また特殊学級・諸学校では事後指導で自分たちの活動を振り返らせる時間を設け、一貫した流れを作り、次の活動へも入りやすくなるような工夫をする。
以上述べたようなことを実践すれば交流教育はより有意義なものになると私は考える。
20. 交流学習の、交流する対象は多数考えられる。私がよく聞くものには、障害児・者、高齢者、外国人などとの交流がある。交流学習を有意義にするためには、事前指導により、何を目的として交流学習を行うのか、そのためにはどういう観点をもって行うべきかというような、目的意識をはっきり持たせるということ、事後指導で、交流学習での経験の価値を考えさせ、これからどうしていくべきかを考えさせる時間を持つということ、また、教師自身も、明確な交流学習における目的、ねらいを持っておくことである。
まず、事前指導について述べる。事前指導は、子どもたちにこれからの交流学習では何を学ぶのか、何のために行うのか、どういうことを考えながら学習するべきか、子どもそれぞれが何を目標に臨むか、など交流学習を行う意義、目的などを子どもたちに十分理解させておかなければならない。そうでなければ、なぜこのような学習をするのか、何を学べばよいのかがわからないまま、交流学習を行い、子どもそれぞれ感じるものはあったとしてもそれだけで終わってしまうのではないだろうか。
次に、事後指導について述べる。事後指導では、交流学習で経験したこと、感じたことを振り返り、これからの生活、学習を考える時間として交流学習を価値あるものにし、経験したことを子ども自身で振り返ることができるようにする。
さらに、教師自身、交流学習における目的、ねらいを明確に持っておくべきである。また、交流の対象となる人に関してもある程度知っておく必要がある。交流学習の中で子どもにその時その時に応じた必要な助言は子どもの学習をより深めることができるのではないかと考える。また、教師は交流学習について対象者側に主旨をよく説明しておかなければならない。交流学習によって子どもたちにどのような経験をさせ、何を得させたいかなどをよく説明し、対象者側にもよく理解しておいてもらうべきである。
交流学習を行ううえで、教師は交流学習についてよく計画をたて、ねらい、目的を明確にもち、交流学習の対象者にもそれをよく理解してもらっておくべきである。そのうえで、子どもたちに事前指導を行い、子どもたち自身にもねらいをもたせる。子どもたち自身にしっかりしたねらいを持たせるためにも事前指導は重要な意味をもつ。子どもたちが、目的、ねらいを持って行うことが交流学習を有意義なものにするのではないかと考える。
21. 現代の子ども達は、異年齢の子ども達との付き合いが少なく、また、友人がいても心の深いところまで出さない表面的な付き合いが増えている。この人間関係の希薄化を改善するためにも交流学習を積極的に行う必要がある。交流学習には、都市部と農村部といった異なる地域間の交流、幼児やお年寄りなど異世代間との交流、障害者との交流といった様々なものがある。
交流学習を行うには、やはり、地域社会の協力が必要である。しかし、学校が地域に協力を求める態度を示すのではなく、地域社会との連携を築く出発点として、先ず、学校が地域に積極的に協力していくことが大切であると考える。例えば、地域の清掃活動を行ったり、地域のお年寄りに対するボランティア活動を行ったりする。そうすることで、地域に役立ち、学校と地域とのつながりができるだけでなく、子ども達にとってもこれらの活動は学びの場となる。また、このような活動がきっかけとなり、土曜休業日など、地域の行事に参加したり、地域施設を活用したりなど、自分に合った有意義な過ごし方を見つけられるかもしれない。
私が教育実習に行った養護学校では普通学校との交流学習を行っていた。障害者と関わることのない児童は、始めは戸惑いや障害者に対する偏見もあったが交流を深めることで、障害を持つ人達も自分たちと同じ人間であり、障害は個性の一部であると感じることが出来るようになり、交流学習は子ども達にとって本当によい経験となっている。
私は教師として、先ず自分が地域の活動に積極的に参加することで、児童の地域への参加を促し、地域社会との連携を深めていきたい。そして、交流教育を通じ、塾での勉強に追われる子どもやコンピューターゲームに熱中する子ども達に、人々と触れ合い、協力することや思いやることの大切さを伝えていくように努力したいと考える。
22.交流教育は、時代とともに変化しています。地域の方と触れ合う身近な交流から、国際化の影響も受け海外の方と交流することや、情報機器が充実してきた現代だからこそできるインターネットによる遠隔地にいる子ども達との交流まで、幅広い人々と交流することが可能になっています。人間関係がうまく取れないと言われるこの時代ですが、情報交換だけでなく人と関わるという意味でも交流教育は大切だと思います。そして、私はこの交流教育を有意義なものにするためには、まず、「相手を思いやる気持ちを育てる」ことが必要なのではないかと思います。交流教育だけに関わらず、人と交流を深めようとする時に自分中心の事ばかり相手に伝えても、相手に伝わらなかったり、相手のことを理解しなければ交流とは言えないと思います。例えば、国際交流を行う際、自分たちが一方的に日本語で話しても相手に伝わる内容はとても少ないです。そこで、少し外国語を混ぜたり、イラストや写真で紹介したりと、どうしたら相手に伝わりやすいかという方法を考えるこが、人と交流をする上で大切なことだと思います。このように、まずは相手のことを考えることのできる「思いやりの気持ちを持つこと」が必要ではないかと思います。そしてもう一つは、「交流教育を終えた後に必ず形に残す」ということです。一般に人と交流する時はその場だけのものになってしまいがちですが、交流教育は「教育」の一つであることから、この場限りで終わらせてはいけないと思います。どんな活動をしたのかを大きな模造紙にまとめて描いたり、自分達はどんな準備をしたのか、どんなことを伝えたのか、そして相手から学んだこと、この活動がどうだったかなどの道筋をまとめて必ず振り返りをするようにします。交流教育ではただ出会いの場だけではなく、活動を通して自ら学んだことや考えたことを心に留めさせ、今後の学習に生かせるものにしていく必要があります。そのようなことからも、「形に残す」ということはとても大切なことだと思います。私は、交流教育というものは新しい知識や気付きを得るとても良い学習だと思います。この新しい知識や気付きを子ども達がもっとたくさん学ぶことができるように、教師はよりたくさんの交流する機会を作り、活動させる必要があると思います。
23.交流学習を有意義なものにするために次の3つを実践することが考えられる。まず、(1)教師間と家庭とのネットワークづくり である。交流学習を進めるにあたっては、全ての教師が交流学習について同じ考えをもちその重要性を認識しておかなければならない。その中でも、特に特殊学級の教師とは連絡を密にして取り組まなければならない。また、その学校の方針や保護者にも理解をしてもらうために、絶えず学校と家庭との間でも連絡を取り合う必要がある。次に (2)教師の障害に対する指導観 である。障害者の問題は根強く、単純なものではない。教師は正しい障害観の基で、交流学習を行うことで健常者や障害者のお互いに何を学ばせたいのか、何を感じさせたいのかを明確にして行わなければならない。例えば、難聴の生徒と交流学習を行う際に、単に手話を覚えてコミュニケーションすることができるということで終わるのではなく、聴覚障害についての問題を考え、その結果、自分達はどのように行動するべきなのか、そして実際に行うことができるかといった実践力を養うといったねらいを明確にする必要がある。次に(3)事前指導・事後指導の充実 である。交流学習を充実することは重要であるが、それ以前に事前・事後指導がきちんと行われていなければ有意義なものにはならない。事前指導では、障害者の立場となって実際に問題や気持ちを体験するといった学習が必要である。例えば目をハチマキやタオルで覆い隠して歩き、視覚障害者と同じ状況を作り出す。そこで、大変だと思った所やもし補助をしてもらえるのならばどうして欲しいなど、実際の経験を通して学ぶ。事後指導では自分が実際に交流してみてどうだったか、どうすれば良かったかなどを話し合う場を設定しなければならない。そして視覚障害の深い問題についても指導を行う必要がある。
健常者と障害者が大きな壁で閉ざされていた時代や考え方は変化を遂げ、全人的復権を目指すリハビリテーションの理念と、障害者が障害のない者と同等に生活し、活動する社会を目指すノーマライゼーションの理念が社会に浸透している。交流学習もその理念から行われるものであり、生涯を通じてお互いがよりより生活を送るための経験と能力を養う1つの手段として有効なものである。交流教育を有意義なものにし、生徒にノーマライゼーションの理念を実践することができる資質や能力を育くむために、日々精進していく決意である。
24.学校では、同じ学校の中だけでなく、養護学校や盲学校、聾学校との交流学習が行われている。中学校だけでなく、小学校や幼稚園、高校などでも行われている。お互いの学校に行き一日共に生活をしてみて交流を深めている。運動会や文化祭などの行事で一緒に楽しめるように組まれている。一日同じ授業を受けて、給食を食べて生活するというようなこともある。交流学習が有意義なものになっているのだろうか。お互いのことを知ることができ、自分の行ってない学校で一日を過ごすのはさまざまな発見ができ、良い刺激になると思う。しかし、これも一年に2、3回ある程度でほとんどお互いのことをどれだけ分かるだろうか。一日会うだけでは本当にごくわずかなことしか分からないと思う。学校に一日来てもお客さんのような感覚になってしまうし、来る側も学校の仕組み、新しい初めての環境で戸惑うだけで終わってしまう。学習を通して、交流を深めるのであれば、たまに来るお客さんではなく、もっと交流する機会を増やしてお互いのことを知ることが大切だと思う。
25.私の通っていた中学校には特殊学級が設置されていた。私たちの学校では7組という形で設置されていて、各学年5組が交流クラスであった。私は1年生と2年生の二年間5組だったので交流学習も体験した。私の学校では、給食や掃除、毎日のホームルーム、合唱コンクールや文化祭、体育祭などの行事、道徳や体育の時間も7組の生徒と同じクラスメートとして学習していた。今思えばみんなその7組の生徒を自分たちと何にも変わらないクラスメートとして接していた。時にはその生徒に対して手助けをしなければならないこともあったが独りぼっちになっているようなことは決してなかった。私たちが特別にこうしなさい、ああしなさいと指導されていた訳でもなかったが、その子に留まらず、クラスひとりひとりにみんなに思いやりがあったからだと思う。本当にいいクラスだった。私たちが特別に7組の生徒に対しての手助けの方法や配慮の仕方を習っていたほうがかえって「あの子は特別なのだ。」という意識をもったかもしれない。
しかし、現実ではこのようなクラスばかりではないだろう。特に、教師の認識が大きく関わってくる。教師は障害を持った児童・生徒に対しての深い認識と障害の種類や専門知識が必要である。小学校の早い段階から、特殊学級に在籍する生徒は本人のために特別な支援が必要となる教科の学習以外は通常のクラスで学習をするべきだと思う。クラスに特別な支援を必要とする子がいて当たり前。みんなで思いあって生活して当然という認識を持たせるようにしなければならないと思う。これが社会全体のバリアフリーにもつながっていくし、人の気持ちを思いやり、いじめや差別はありえないという教育にもつながると思う。
26.「交流学習」、この言葉は昨今大きなキーワードとなっている。社会ではバリアフリーが大きく採り上げられ、障害者と健常者がともに協力しあって生活できるような社会作りにしようといろいろな活動が行われている。教育現場においても徐々に障害をもった子どもたちと健常の子ども達が同じ場で学ぶという、活動が行われている。しかし、まだまだ小数であり多くの課題を抱えている。では、これらの交流教育を有意義なものにするためにはどのようなことが必要となってくるのであろうか。まず、一番のキーワードは健常者の障害者に対する、知識・理解である。現在、バリアフリーがいたるところでささやかれてはいるが、健常者の障害者へ対する理解はあまりなされていないのが現状である。まず、社会でともに生活する者として、障害者のことを知り、理解することが大切であると思う。そのためには、先ほども採り上げたが、学校においての交流学習の場を有効に利用する必要がある。それらの学習の中で障害者へ対する思いやりや、接し方など実際に経験して、自分なりに考えながら学習していけるようにしなければならない。また、障害者においても、ただ健常者からの働きかけを待っているのではなく、自分で社会に出て行くための力量や知識をこれらの学習を通して養っていく必要がある。次に、教師のあり方である。教師の授業の構成の仕方によってそれらの場は、子どもにとって活動しやすい場か否か、変わってくる。教師は常に子どもが活動しやすい学習の場を用意しなければいけないし、障害者と健常者のい間に立って二者の架け橋となれるような立場にならなければいけない。そして、教師自身も専門性を持って、それらの知識を子ども達へ伝えていく必要があるのではないだろうか。このように、交流学習の場は、これから社会に出てともに生活していく子ども達にとって、社会にでる前にともに活動のできるとても大切な場であるといえる。交流学習の場は、これからの社会で活躍する大人を教育する場として重要であるし、未来の社会がともに協力し合って生活のできる場にするために、知識・理解を養う場であるともいえるであろう。
27.「交流教育」とは特殊学級もしくは特殊教育諸学校に在籍する児童生徒が通常の学校・学級や地域社会の人と活動を共にする教育の形態である。現在の学習指導要領にも総合的な学習の時間や特別活動「指導計画の作成にあたっての配慮事項」に「交流教育」は明記されている。いくら「交流教育」が注目を集めているからといってただ特殊教育諸学校の児童・生徒を普通学校に連れて行き同じ時間を一緒に過ごせばいと言うものではない。私自身、小学生の時に交流教育を経験した。学期に数回近くの養護学校の生徒が来て、一緒に給食を食べたり、遠足に行ったり比較的頻繁に行われていた。回は重ねていたが実際は前述のような交流の形態であった為、養護学校の生徒と手をつなぐ係りと言うものをじゃんけんで負けた人が行うというようになっていた。形式的には「交流」できていても真の交流はできていなかったように思う。逆に養護学校の生徒に対する偏見の意識を益々育ててしまっていたのではないだろうか。
「交流」していく中で理解が生まれることもあるが、まずは通常学校・特殊教育諸学校関係なく事前学習で「交流教育」について理解を深めることが不可欠である。例えば、事前に車椅子体験をし、町の中のバリアを調査する等である。
また、交流を行う通常学校の教師の中にも障害児に対して誤った考え方をもっている先生がまだまだ多いと思う。交流教育を進めていく上で教員自身がこの活動の意義を明確にしておく必要がある。
「交流教育」は特殊教育諸学校の児童・生徒が通常学校に出かけて行くものが主流となっているが「交流」と言うからには一方的なものである必要は決してない。普通校の生徒が交流校に出かけ実際に普段どんな学校生活をしているのか知ることでお互いを正しく理解することにつながると思う。交流教育を意義あるものにするためには活動後の事後学習も重要である。交流学習の当日だけのこととせず、手紙を書いたりし、振り返りを行うことで子ども達自身が交流教育の意味を感じながら次回へとつなげることができるのではないだろうか。
28. 交流教育は、時代とともに変化しています。地域の方と触れ合う身近な交流から、国際化の影響も受け海外の方と交流することや、情報機器が充実してきた現代だからこそできるインターネットによる遠隔地にいる子ども達との交流まで、幅広い人々と交流することが可能になっています。人間関係がうまく取れないと言われるこの時代ですが、情報交換だけでなく人と関わるという意味でも交流教育は大切だと思います。そして、私はこの交流教育を有意義なものにするためには、まず、「相手を思いやる気持ちを育てる」ことが必要なのではないかと思います。交流教育だけに関わらず、人と交流を深めようとする時に自分中心の事ばかり相手に伝えても、相手に伝わらなかったり、相手のことを理解しなければ交流とは言えないと思います。例えば、国際交流を行う際、自分たちが一方的に日本語で話しても相手に伝わる内容はとても少ないです。そこで、少し外国語を混ぜたり、イラストや写真で紹介したりと、どうしたら相手に伝わりやすいかという方法を考えるこが、人と交流をする上で大切なことだと思います。このように、まずは相手のことを考えることのできる「思いやりの気持ちを持つこと」が必要ではないかと思います。そしてもう一つは、「交流教育を終えた後に必ず形に残す」ということです。一般に人と交流する時はその場だけのものになってしまいがちですが、交流教育は「教育」の一つであることから、この場限りで終わらせてはいけないと思います。どんな活動をしたのかを大きな模造紙にまとめて描いたり、自分達はどんな準備をしたのか、どんなことを伝えたのか、そして相手から学んだこと、この活動がどうだったかなどの道筋をまとめて必ず振り返りをするようにします。交流教育ではただ出会いの場だけではなく、活動を通して自ら学んだことや考えたことを心に留めさせ、今後の学習に生かせるものにしていく必要があります。そのようなことからも、「形に残す」ということはとても大切なことだと思います。私は、交流教育というものは新しい知識や気付きを得るとても良い学習だと思います。この新しい知識や気付きを子ども達がもっとたくさん学ぶことができるように、教師はよりたくさんの交流する機会を作り、活動させる必要があると思います。