No. 2005,9,13.発行   編集:佐々木直子(H4年度生)

     ろうあ者の要求ー堺編5 


 さて、堺市は、早くから「ろう重複障害者」について積極的なとりくみをおこなっています。1982年に開所した「もず共同作業所」は全国で初めてのろう重複専門の無認可作業所です。ただ、私たちは全国で初めてと自負していますが、その後、北海道で実は古くからろうあ者を受け入れるの施設があったことを知り、びっくりしていますが。
 堺ろう学校の高等部で最初にろう重複障害児を受け入れた先生の話によると、「この人たちの進路をつくるために、教育実践だけではなく、共同作業所をつくることもあなたの仕事だ」と言われ、通常の仕事以外にたくさんの活動をされたということです。
 もず共同作業所は、ろう重複と一言に言うけれど、重複する障害は知的障害であったり、肢体障害であったり、精神障害であったり、視覚障害であったり・・・。またそれらの障害が、三重にも四重にも重なっていたり、手話または視覚言語と言うコミュニケーション手段は共通するにしても、さまざまな障害に対しての適切な処遇を求められ、それも、貧しい経営の中にあってさまざまな苦労をしてきました。やがてその実践を通じて「生活施設が必要である」というニーズが明らかになり、大阪の「なかまの里」建設運動につながりました。ただ、まだ若いご両親の場合はまだまだ地域の作業所に通わせたいということで、ほくぶ障害者作業所の構想が生まれてきました。
 働く場所をつくる。それが私たちの最初の目的でした。念願かなって1995年、ほくぶ障害者作業所が、聞こえる障害者との混合施設として、(どんな障害を持っていても受け入れると言う理念からは「混合」というのは言い方が変なのですが、専門施設が多い中でほくぶ障害者作業所は独特の性質を持っているため、あえてこういう言い方をしています)認可設立されました。
 だんだんと実践をすすめていったり、利用者の声を聞いたり、ご家族の声をつぶさに聞いていくと、実は働く場づくりだけでは生活全体の問題が解決されないということを痛感し、さまざまな視点から、企画をつくったり、地域生活について検討したり、そして今では、10年前若かったご家族の方も徐々に高齢になられるということで「生活の場づくり」が必要に迫られています。
 利用者の方々は、地域で作業所に通うといっても、休日になれば、または作業所が終わったあと、非常に退屈な時間を過ごしてしまうということがわかってきました。ガイドヘルパーという制度があって、知的障害の手帳を持っているとそれが利用できることになっていますが、ガイドヘルパーの中には手話のできる人が非常に限られていて、表向きは利用できることになっていても実際に利用できないという事態が起こっています。ご家族が元気なときは遊びに一緒に行くことができるのですが、もう年齢的に利用者もそういう要求はあまりなく、やはり、友人と交流したい、一人でガイドヘルパーさんと一緒にどこかへ行きたい、という思いは強くあります。ですがなかなか実現できていません。
 ほくぶ障害者作業所が設立され、もず共同作業所が解散するときに同時にもず共同作業所運営委員会も解散したわけですが、同時に「重度重複聴覚障害者の働く権利と生活を考える『もずの会』を設立し、さまざまな論議をすると同時に、ろう重複障害者の利用者に呼びかけて交流会の企画をおこなっています。
鍋、花見、調理実習などなど、ろう盲者の方々が参加されることもあり、交流をすることに大変喜んでいただいています。
 また具体的な生活の場については、グループホームが提案され実現に向けて具体的にすすめられていて、今年度中には一つ目が開所する予定になっています。
 ですが一つのグループホームではすべての利用者のニーズに応えられるわけではありません。はじめの一歩に過ぎないのです。資金も不足し、補助金も限られているのですが、だからといって放棄してはならないことなので、関係者は心を砕いて細心の注意を払いながら計画を進めています。
 またグループホームの定義自体が、身辺自立のある程度可能な方を対象に想定されているので、そうではなく、かなり身体面での介助を必要とする場合でもグループホームに入居できるよう検討もますます進んでいます。
 熱心にすすめてはいますが、必要を満たすにはまだまだ至りません。願わくば、良い方法を模索して、グループホームが遠い希望とならないよう、奮闘していきたいと思います。
 多様な要求に応えるため、堺市ろうあ者福祉協会も、及ばずながら協力をしています。せっぱ詰まった要求であるのに、ひとつひとつ積み重ねていくのは関係者は努力しているといっても当事者にとっては遅すぎます。その点で私たちはまだまだ足らないし、ひとつ事業が成功してもそれに甘んじることなくどんどんすすめていかなければならないのです。
 でもそれが、ろう重複障害者の一人でも喜ぶことになれば、どんなに苦労してもそれだけで十分私たちは喜ぶことができます。もちろん一人だけでは全体が良くなってないのですが、これがたくさんの当事者関係者の喜びに発展していくように、まだまだ努力は続いていくのです。


中世の自由自治都市・堺と呂宋助左衛門

堺HAMONOミュージアム 呂宗(ルソン)助左衛門

 堺はもと京都のどこかの寺の荘園だったのですが15世紀の前半から町人たちが年貢納入を請け負うようになり、やがて裁判なども自分たちでおこなうようになりました。
 指導したのは10人の納屋衆(倉庫行の豪商)で、これが堺の自治の始まりとなり、のちに会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる10人の豪商たちが都市を治めるようになりました。
 堺は海に面し、都市の周りを堀で囲み、貿易船なども行き来する栄えた都市で、宣教師ガスパル・ヴィエラは本国に送った手紙の中で堺のことを「東洋のヴェニス」と書きました。それくらい美しい都市でした。
 会合衆でもあった、伝説の豪商・納屋(なや)助左衛門はルソンとの交易で財産を築き、後に呂宗(ルソン)助左衛門(小説や大河ドラマの「黄金の日々」主人公)と呼ばれるようになりました。
 日本一の鉄砲生産地としても知られ(この鉄砲鍛冶の技術は今では堺刃物の技術として残っています)巨大な富を持っていたので、戦国大名たちは、「堺を制するものは天下を制す」の合い言葉のもとに、その富を支配下に置こうとして画策し、争い、堺商人を自分の領地に移住させ、また堺の力を弱めようともしました。
 しかし、1615年、大阪夏の陣の炎が中世自由自治都市・堺を焼き尽くしてしまいます。かろうじて当時の都市を囲っていた堀と言われている「川」が残っています。堺市は周辺町村を合併して今では大きな都市になりましたが、昔ながらのその地域を「旧堺」と呼んでいます。
 堺HAMONOミュージアム(堺市伝統産業会館)では堺名物の包丁が展示されていたり、刃物に関する相談も受けているそうです。堺の刃物は切れ味がいいので、長持ちするしお魚をさばくにも便利だと言いますが、高価で、私には手が出ないのが残念です。ほしいなあ・・・・