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2007,5,14.発行 編集:吉田優子(H12年度生:ドイツ特派員)
ドイツ研修レポート No.18
5/14受信
「ダッハウ強制収容所」
ここミュンヘンから北西19キロの所に、ダッハウというところがあります。
ミュンヘンの中央駅から電車で15、20分でしょうか。そこからこの「強制収容所」まで、20分おきにバスが出ています。
ドイツの強制収容所というと、ポーランドのアウシュヴィッツが有名ですが、ここ、ダッハウの収容所はドイツ初のもので、この後に各地に建てられた全収容所のモデルになったものです。ドイツでは、今でも各地に強制収容所の跡地が残されています。歴史から目を背けずに、事実を見つめて行こうと言う、ドイツの教育方針に基づいているのだと思います。
先日、このダッハウ強制収容所に行ってきました。1933年、政治犯用の強制収容所として、ドイツに初めて建てられた強制収容所。バスを降りた所にプレハブのような建物があり、ここで、オーディオガイド(日本語はありません)を借りたり、英語かドイツ語のガイドツアーの参加を申し込む事が出来ます。
そこから、砂利道を100メートル程進むと、右側に収容所の入り口があります(写真1)。入り口には「ARBIET
MACHT FREI」・・・「働けば自由になる」と掲げられています。当時ここに連れてこられた人々は、この言葉を朝晩目にして、何を思っていたのかと考えてしまいました。
私はこの日、英語のガイドツアーに参加しました。入り口から右手に、管理棟として使われていた建物が残っていて、今はその中が展示室になっています(写真2)。残念ながら、表示もドイツ語と英語のみです。
| 写真1 収容所の入り口 |
写真2 展示室 |
展示の内容は、ドイツ内外の収容所の数、場所。どのような人が収容されていたのか、収容所での生活がどのようなものだったのか、絵や写真も数多く展示されていました。
強制収容所は、戦時中の労働力を確保するため、ユダヤ人だけでなく、宗教、思想、政治上の問題で捕えられた人々が生活をしていた場所です。収容所の中でも、どのような罪で、収容されているのか分かるように、それぞれが腕にマークと、名前の代わりとなる番号を付けていたそうです。ここでは、もう名前は必要なく、点呼の際も番号で呼ばれます。この点呼は、朝晩2回行われ、1人でも足りないと、何時間もその人が見つかるまで、全員が立ち続けていなければならなかったそうです。長いときには20時間にも及んだそうです。その間、飲み食いはもちろん、トイレに行く事も許されません。それどころか、微動だにでもしようものなら、拷問にあっていたそうです。
収容所での基本的な生活ですが、朝食をとり、トイレ、身支度を済ませると、次々に電車で仕事場に運び込まれ、夕方、クタクタになって電車で戻り、夕食をとり、床につくというものです。自由時間も多少あったようですが、大声で話したりする事は決して許されず、シャワーも週に1度だったそうです。トイレも各棟に5人が使えるようなものしかないのですが、朝など10分くらいしか時間がなく、とても込み合っていて大変だったそうです。でも、点呼の時間に遅れようものなら、拷問が待っていました。
収容所では、常に見せ物としての拷問が行われていたそうで、むち打ちの刑、吊るしの刑と言われるものがありました。本当に些細な事でも、この拷問にあうのですが、ガイドで聞いた一つの例を紹介します。囚人はみな、同じ服を着ていますが、ボタンが取れたり、整っていない状態になっていると罰せられます。また、ハンカチ以外のものは携帯が認められていませんでした。が、ある日1人の囚人が、仕事の途中で、ボタンが取れてしまい、その場で付けようにも道具がなかったので、ボタンをポケットに入れて持ち帰ったそうです。そこで、彼が受けた刑は2つ。なぜなら、整っていない服を着ている上に、ポケットに許可されないものが入っていたから。今の私達から考えたら、こんな矛盾した話はありませんが、そんなことがここでは日々当たり前に起こっていたそうです。
むち打ちの刑では、台(写真3)に腹這いの形で膝をついて座り、背中を2人の管理者から鞭で打たれます。打たれる人はその痛みに耐えながら、自分で数を数えなければならず、痛みで声が出なかったり、数え間違えると1からやり直しだったそうです。
| 写真3 むち打ちの刑用の台 |
吊るしの刑では、両手を後ろに組んで、天井からロープで吊るされるのですが、基本的に肩を痛めてしまい、その後仕事に復帰出来なくなる事が多く、そうなると、他の収容所に送られます。つまり、他の収容所で処刑される為に移動させられていたのです。ここで、ショックだった事ですが、強制収容所には、ダッハウのように、拷問や実験として処刑があったものの、大量虐殺は行われていない収容所と、アウシュヴィッツのように大量虐殺を行う為に建てられた収容所があったという事。そして、基本的に虐殺用の収容所はドイツ国外に建てられていたという事です。つまり、政府が真実を国民に隠していたのです。戦時中、国が一丸となって戦う為に、政府が国民を動かす為に...本当に色々な悲惨なことが起こっていたのだという事を知りました。
そのような生活から誰もが逃げ出したかった事は、想像するまでもありませんが、収容所の囲いは、恐ろしいもので、7年間の歴史の中で、たった1人だけが脱走に成功したそうです。その一人も、収容所の造られた最初の年に脱走しており、その頃はまだ、警備が行き届いていなかったのではないかということです。
収容所の囲いは一見そんなに高くありません。が、そこには、電流の流れる有刺鉄線が張り巡らされていて、その脇には、水の流れていない堀があります(写真4)。その更に手前には、芝生の緑地帯があり、基本的にはここに足を踏み入れた時点で、監視塔から銃弾が発射されていたそうです。
| 写真4 水の流れていない堀 |
収容所には、バラックと呼ばれる囚人が生活していた建物がありましたが、アメリカ兵が解放した際に全て取り壊されたので、今、ここで見る事の出来るバラックは、復元のものです。
収容所が出来た当初は、1部屋に、200名を収容していたそうで、ベットと棚と簡素ながら、生活出来る設計になっています(写真5)。が、終戦時には、その部屋に2000人が詰め込まれていたそうです。木でできた2段ベットは、大人の男性一人が寝るのにやっとの大きさでした。終戦時、そのベットに4、5人が、無理に寝ていたそうですが、実際、骨と皮になるほど痩せていたため、想像もできませんが、そのような事が可能だったそうです。
| 写真5 ベッドと棚 |
また、バラックの中には、聖職者用の特別な棟が建てられていました。このようなときでも、聖職者は少し特別な存在だった事が、ドイツという国を表しているように思いました。
両側に17棟ずつ並んでいたバラックの間には、ポプラ並木があります。ここは囚人の数少ない憩いの場だったそうです。そこを抜け、左に折れると、収容所の火葬場地区につながる入り口があります。そこをくぐると、砂利道とバラックの灰色の収容所とはうって変わって、緑の多い公園のような空間に入ります。1940年、拷問などによる、死者が急激に増加したため、ここに、火葬場が作られました。その2年後、更に大きな火葬場(写真6)が作られ、その横には、ガス室が建設されましたが、ここダッハウのガス室は1度も使われなかったそうです(写真7.8)。
| 写真6 火葬場 |
写真7 ガス室 |
写真8 ガス室 |
ここでは、本当にたくさんの人が火葬され、その灰は外に撒かれていたそうです。が、最後には、火葬に使う石炭もつきてしまい、アメリカ兵がここを解放した際には、至る所に死骸が山積みになっていたそうです。火葬場のパネルに書いてあったのですが、アメリカ兵はその様子を発見した際、ダッハウに住んでいた全ての住人を収容所に連れてきて、その悲惨な様子を見せ、死骸の埋葬を手伝わせたそうです。「知らなかった」では、済まされない現実がそこにはあったのでしょうが、その光景を目の当たりにして、市民はどう感じたのか、想像出来ないと思いました。
このような収容所の跡地がドイツの色々なところに残されており、中に記念のモニュメントや教会が建てられています。ダッハウのモニュメントの1つに、大きな鉄でできた人間の入り組んだものがあるのですが(写真9)、これは、この収容所の塀の有刺鉄線からイメージして作られたものだそうです。
| 写真9 モニュメント |
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このようなガイドを聞きながら約1時間半、収容所の中を歩いて回り、最後に博物館になっている建物に戻って、22分間のドキュメントフィルムを見ました。確かに目を背けたくなるような映像もありますが、これが現実だったという事を知るべきだと思いました。
過去に目を向けて、事実を知り、今の生活の中で何が出来るのか、何をすべきなのかを考えるいい機会になりました。