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2006,4,20.発行 編集:佐々木直子(H4年度生)
ろうあ者の要求ー堺編9
沖縄平和の旅ー南部戦跡
12月2日から4日まで「愛と平和を語るつどい」で沖縄本島へ出かけてきました。参加人数は20名。沖縄県は私にとっては初めてでした。友人はよくダイビングに出かけて、本島ではなく離島でたいへんすばらしい海と珊瑚礁を見るのだとか。いつもごみごみしている大阪湾を眺めている私としては大変うらやましいなあと思って過ごしてきた次第です。
沖縄県は、古くは琉球という国として栄えるものの、1609年に薩摩が侵入し、薩摩藩の領土とされてしまいます。その後明治政府によって「琉球処分」がなされ、琉球王国は解体されます。太平洋戦争の折には日本の中で唯一地上戦が行なわれ、多数の犠牲者を出しました。そして1972年5月15日に日本に返還されるまで、アメリカの領土であった歴史を持ちます。
魂魄(こんばく)の塔
アメリカ軍が沖縄の中部に上陸したあと、だんだん南部方面へ侵攻し、南部になればなるほど犠牲者が多くでたため、この南部に平和の塔や碑などが多数存在します。みなさんもご存知なのが「ひめゆりの塔」
だと思いますが、このひめゆりの塔も見学しました。ですが、心に残っている場所から紹介したいと思いますので、この魂魄の塔から紹介いたします。
見るからに非常に質素な塔で、なぜこの場所かと思いながらガイドさんのお話を伺いましたら、ここは3万体以上の犠牲者の骨が葬られていた場所なのだとか。だから一種の骨塚なのです。沖縄戦では軍民問わず多数の人が犠牲になり、どこでどう亡くなったのかわからなくなった方もたくさんおられます。その方達の遺族はここにきて故人を偲び、涙を流すそうです。
沖縄の住民の方々にとっては、日本軍もまた敵でした。つまりアメリカ軍だけに虐殺されたのではなく、日本軍もまた沖縄の住民の方々を守ってはくれなかったどころか殺す側になっていたのです。
戦後、畑を耕すたびにでてくる遺骨。そのときはもうアメリカの領土になっていたため、骨を拾って供養するにも、アメリカの許可が必要でした。ですから、長い時間その遺骨は放置されたままになっていたとい
うことです。
その畑からとれる作物が巨大な姿になって現れた。
あまりにも多くの方の肉体が土にかえったため。
その魂魄の塔の周りに、都道府県からの慰霊碑が建ち始めます。それを危険視した政府は、なんとこの魂魄の塔から骨を別の慰霊碑に勝手に移動したと言います。
平和を、戦争に対して本質から反省するのではなく、表面だけで終わらせたい勢力、それが日本の政府なのですね。
平和の礎(いしじ)
韓国人慰霊碑や、平和祈念資料館を見学して、平和祈念資料館の裏手にでたところにあります。たくさんの石碑が立ち並び、沖縄戦で命を落とした方々の名前が23万以上も記されています。ここは海に隣接していて、その海というのが本当に美しいわけですね。ほっと一息つこうと思ったら「ここから追いつめられた方々が次々に飛び込んで死んでいった」というお話を聞くと、なんと悲しい美しさなのかと涙が止まりませんでした。それから美しい海の象徴なのか、潮のにおいがしない。こんな経験は初めてです。
もちろん沖縄県の方々の名前が一番多いわけですが、北海道の方の名前の多さにも疑問を持った方から質問がなされました。それは、北海道にはアイヌの人が多く、その人たちもまた日本政府により差別を受けていたため、危険な場所で戦わされたのですね。
それから大韓民国など朝鮮半島の方々の名前も記されていましたが、
「これは少なすぎる」というお話でした。朝鮮半島から日本に強制的に連行された方々はもっと多く、従って、犠牲者ももっとたくさんいるはずなのだということ。でも、当時の日本政府は朝鮮半島の方々の名前など記していなかったため誰が犠牲になったかはっきりわからないということです。そして、その朝鮮半島の方々のお名前の中に女性の名前がない、これは、女性だったら「慰安婦」として連行されていたことになる、非常に故人に不名誉なことになるのです。なんという戦争犯罪を日本は犯したのでしょうか。
米軍基地のある沖縄
さて、現在の沖縄。米軍基地が集中していることで有名です。つい最近も、ヘリコプターが大学に落下して、一般住民に多大な迷惑をかけていますが、もっと以前だと米軍兵士による少女暴行事件などがあり、基地のあることが住民の生活を脅かし続けています。
沖縄2日目は、キャンプシュワブー辺野古、キャンプハンセン、嘉手納基地を策越しにあるいは展望台から覗きました。辺野古では座り込みをする予定だったのですが、説明だけ聞き、座り込みをしている団体には参加者から差し入れをしてきました。(写真は女性部のてづくり) シュワブ、とか、ハンセン、というのは、沖縄戦で戦功のあったアメリカの将軍の名前だそうで、こんなもの沖縄の土地に名前を付けられて嫌でしょうね。
写真にある白い鉄条網のようなものは、突起のところがカミソリのようになっていて、うかつに触れるとけがをします。こういったものによって、こちら側が日本、あちら側がアメリカ、というようにきれいな浜が分けられているのです。
このきれいな海(大浦湾)にはジュゴンという人魚のモデルとなった水生哺乳類の国際保護動物が生息していて、えさ場になっています。なんとこの海に巨額の国費をつぎ込んで、埋め立てて大きな滑走路を作る予定なのだとか。それをさせないために、座り込みを続けているということです。どうかこの海を守ってほしいとそう願わずにはいられません。
嘉手納(かでな)基地は敷地が非常に広く、電線なども地上にはなく地下に配線されているそうです。基地内のアメリカ軍人の家は家族と一緒に住めるようになっているとか。これも日本の「思いやり予算」から出ています。ゴルフ場も2つついているとか。シェルターもあります。
それから一機で施設が10ばかり建つような高価な戦闘機も多数配備されています。
「こんなに土地やお金があるんだったら、施設にまわしてほしいわ」とつぶやいた参加者もいますが、確かにその通り。障害者自立支援法で、障害者自身が福祉サービスを受けるために自己負担をしなければならないという制度を作る前に、基地をなくし武力を放棄して、そのぶんを国民の福祉にあてたらどうなのでしょうか。基地があって、沖縄の人が安全になっているわけではなく生活を脅かしているだけなのに、なぜ政府は、このようなところにお金を費やし、弱者のためにお金を使わないのか。これには「日米安全保障条約」というものが根底にあります。
一時期は「ソ連」というものがあり、冷戦と言われた時代もあった。
でもソ連は崩壊して、冷戦はなくなったはずです。極東の安全ということももはや意味がないと思うのですが、安保条約をグローバル化して、
実はこの嘉手納基地からもイラクへ飛んでいるのです。日本の政府は人殺しの手助けをしているとしかいいようがありません。
基地はいらない。
福祉にまわしてほしい。
これは誰もが思う願いではないでしょうか。
首里城(しゅりじょう)
夕刻訪れたのが世界遺産(2000年12月ユネスコに登録)である「首里城公園」。正確にはここを中心とする「グスク群」が登録されています。
沖縄の人たちが「本土」と「沖縄」を分けて言うその理由の一端がわかりました。なるほど、「本土」とは違う文化を培ってきた歴史がありますね。
交易によって栄えた琉球王国は中国や朝鮮半島の文化を積極的に取り
入れています。そして沖縄自身も自分たちの文化を大切にするところ。
ここでは文化の担い手がたくさん育っていると言います。
海は我々を分つのではなく ひとつにしてくれる
戦争を知ったが故に 我々は平和を望む
(中略)
世界はひとつの島なのだ
世界はひとつの島なのだ
(ミクロネシア連邦憲法前文より)
糸数アブチラガマ
沖縄戦のとき、自然にできた洞窟が、防空壕として使用されました。沖縄の言葉で「ガマ」といいます。以前、愛と平和を語るつどいで、「GAMAー月桃の花」を上映しましたが、その「ガマ」と同じです。
以前はあちこちに「ガマ」の存在が確認されていましたが、今では知られることもなくなったガマもあるとか。
いきなりあらわれるぽっかりと口のあいた洞窟の中は広く、でも入るときはかなりの急斜面で入れば懐中電灯を消すと、真っ暗。何も見えません。それでも数日経つと、人間の目は不思議なものでその暗闇の中でも何か見えるようになるそうですが、外の光を見るためには、いきなりではなく目を慣らさないといけなかったそうです。
ここは何に使用された、というような説明を受けながら、奥へ進んでいくわけですが、ガマの中でいちばんよい場所は日本軍の居場所だったそうです。また、病院もその中にあって、負傷兵の看護が行なわれたそうですが、軽傷の兵隊は戦線に復帰できる見通しがあるため、優先的に治療を受け、重傷の兵隊は、満足に看護も受けられなかったそうです。
また、看護に当たる女学生の数も少なかったそうです。
衛生状態が良くないので、傷口にうじがわく。そのうじが神経を刺激して非常に痛むそうです。ですから、看護する女学生に兵隊は「うじをとってほしい」と願うそうですが、なにしろ手が足りないため、うじを完全に取り去ることなく、つぎの兵隊の看護に当たらなければならない、とそのような状況であったそうです。
ガイドの方が、ガマの現在の入り口付近の天井の色と、現在の出口付近の天井の色を比べてください、とおっしゃっていましたので、最初の方の岩の自然な感じの色を覚えまして、奥(戦中は入り口)付近にすすみ、もういちど天井の色を見ましたら、真っ黒でした。それは爆発によるすすなどが付着していて、また、ドラム缶の破片も突き刺さっているような(爆発で突き刺さった)場所でした。ここには一般の住民がおかれたそうです。
いつ、爆弾が爆発してもおかしくないような危険な場所に、一般住民を?そして軍隊は暗闇の中とは言えど、安全な場所にいた?
平和のために、国を守るために、軍隊は必要という議論がありますが、沖縄戦のとき軍隊は一体何を守るためにあったのでしょうか。
ヌチドゥタカラ(命こそ宝)
ガマの中で赤ちゃんが泣くと、だまらせろと軍隊から言われる。どうしても泣き止まないので、母親自らの手で首を絞めたり、岩に赤ちゃんを叩き付けたりして殺す。その経験をした方々はそのことがいつまでも忘れられなくて、心の傷となって終生残る。
3日間という短い旅でしたが、中身が濃くて、私では咀嚼しきれない内容であったと思います。
私たちは、聴覚障害者の立場で、命を守ろう、よりよい人生を送れるよう、と努力をしています。人一人の命を輝かせることが本当に難しいということを私などは痛感いたしますのに、人を殺すということはなんと簡単で浅はかなものでしょう。
戦争と福祉は相容れない。
命を守る側となって、これからも平和について考えていかなければならないと思います。
企画された方々、本当にご苦労様でした。ありがとうございます。
(おわり)