はじめに
G
・シュタットミュラー、『ハプスブルク帝国史──中世から1918年まで──』、矢田俊隆解題、丹後杏一訳、刀水書房、
1989年、131頁。(
Georg Stadtmuller,Geschichte der habsburgischen,Macht,1966)
第1章
1)矢田俊隆、『ハプスブルク帝国史研究』、
1977年、32、224−225頁。矢田俊隆、『東欧史』、山川出版社、
1977年、227頁。遅塚忠躬、『ヴィジュアル版世界の歴史14ヨーロッパの革命』、講談社、
1985年、191、202−203頁。川村清夫、「ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーのスラヴ民族主義への影響──チェコ、スロヴァク民族主義との関連において──」、『紀尾井史学』、第8号、1988年、22、25−27頁。2)羽場久尾子、「近代東欧における民族と地域・国家再編──民族とは何か──」、『歴史評論』、第
527号、1994年、39頁。3)矢田俊隆、『ハプスブルク帝国史研究』、
1977年、34頁。4)遅塚忠躬、
1985年、147−148頁。丹後杏一、1997年、13頁。5)遅塚忠躬、
1985年、145−147、171−174頁。6)同上、
202−203頁。7)川村清夫、
1988年、26頁。8)丹後杏一、
1997年、310−311頁。9)同上、
310頁。川村清夫、1988年、22−25頁。10
)矢田俊隆、『ハプスブルク帝国史研究』、1977年、29−32頁。丹後杏一、1997年、45−108頁。長谷川輝夫他、『世界の歴史17ヨーロッパ近世の開花』、中央公論社、1997年、458−461頁。稲野強、「ハプスブルク家支配の確立」、南塚信吾編、『新版世界各国史19ドナウ・ヨーロッパ史』、山川出版社、1999年、157−175頁。11)
18世紀のハプスブルク帝国の諸改革は当初、オーストリア継承戦争(1740−1748) においてプロイセンに奪われたシュレジェンの地を奪還するため、また列強による侵略から帝国を守るために行われた。12
)丹後杏一、1997年、52頁。13
)諸領邦における身分制議会に出席権を持つ身分で、主に貴族や聖職者など。彼らは租税承認権や裁判権など地方政治において、帝国から権利を獲得していた。14
)槇裕輔、「ハプスブルク帝国国政改革における『寛容令(Toleranz−Patent)』 についての考察」、『法学研究年報(日本大学・院)』、第27号、1998年、304−314頁。15
)本稿「はじめに」、2頁を参照。16
)六地域と政庁は以下の通り。・ボヘミア…プラーグ
・モラヴィア、シュレジェン…ブリュン
・ガリツィア、ブコヴィナ…レンベルク
・上および下オーストリア…ウィーン
・ティロル、フォラールベルク及び前オーストリア…インスブルック
…グラーツ
丹後杏一、
1997年、73頁。17
)同上、109−122頁。稲野強、1999年、164−166頁。18)
皇帝はハンガリー議会から「シュテファン王冠」を受けるという伝統的儀式によって、ハンガリー王としてみとめられていたのである。よってヨーゼフ2世がその王冠の授与を拒否し、それをウィーンに持ち帰ることは、ハンガリー議会が持つハンガリー王任命権を奪うと同時に、議会―等族勢力の諸権利を認めないという態度の現われだったのである。19
)川村清夫、1988年、25−26頁。20
)矢田俊隆、『ハプスブルク帝国史研究』、1977年、31頁。
第2章
1)矢田俊隆、『東欧史』、
1977年、227−228頁。2)南塚信吾、「ハンガリー――アジアからヨーロッパへ――」、南塚信吾編、『東欧の民族と文化』、彩流社、
1989年、158−161頁。3)マジャール語文芸の分野で活躍した人物として、キシュファルディ・カーロイやヴェレシュマルティ・ミハーイなどがいる。また雑誌では『アウロラ』などがある。 同上、
162頁。 篠原琢、 「「長い19世紀」の分水嶺 」、南塚信吾編、『新版世界各国史19ドナウ・ヨーロッパ史』、山川出版社、1999年、186−189頁。4)南塚信吾、
1989年、161−162頁。5)この転換が起こったのは、およそ1830年代である。同上、
1989年、162頁。6)ヨーゼフ
2世の経済政策による産業の発展により、ハンガリー地域にも1,2割ほどの都市市民層が形成されていた。彼らはジェントリと呼ばれる地域の保守的な小貴族とハンガリー化したドイツ人と、自由主義的大中貴族と帝国西部から移民してきた少数の都市ユダヤ人などである。 羽場久尾子、1994年、40−41頁。7)南塚信吾、
1989年、142頁。 矢田俊隆、『東欧史』、1977年、231−232頁。8)南塚信吾、
1989年、142?143頁。 矢田俊隆、『東欧史』、1977年、233?234頁。9)その他、陪審裁判制の採用、国家の補償による賦役その他封建的諸権利の廃止等。
10
)篠原琢、1999年、193−194頁。 矢田俊隆、『東欧史』、1977年、233−235頁。11
)同上、1977年、238頁。 南塚信吾、1989年、143頁。12
)羽場久尾子、「ハプスブルク帝国末期のハンガリーにおける民族と国家――「ドナウ 連邦」構想による中・東欧再編の試み――」、『史学雑誌』、93−11号、1984年、6−7 頁。13
)矢田俊隆、『東欧史』、1977年、239頁。 篠原琢、1999年、206−210頁。14
)矢田俊隆、『東欧史』、1977年、239−240頁。 篠原琢、1999年、214−215頁。15
)羽場久尾子、1984年、7−8頁。16
)ハンガリー地域は多数のスラヴ系民族を抱えていた。よって、ハプスブルク帝国が連邦制を敷くことで、チェコ人を先頭にスラヴ民族がまとまると、ハンガリー地域内のスラヴ民族の勢力が増大して、マジャール人の地位が揺らぐことになるのである。17
)帝国内妥協派の主張する「領土的一体性」とは、歴史的「聖イシュトヴァーンの王冠の諸邦」の地であり、その領土的不可分と同時に民族の不可分、つまりそこに住むものは「ハンガリー民族」であり、その地域内での連邦制は有り得ないとしたのに対し、コッシュートの言う「領土的一体性」とは領土的不可分のみであり、ハンガリー地域という枠の外での連邦制を主張していたがゆえに、その中の民族的区分についてはあまり顧慮しなかったのだと筆者は考える。そこに彼らの意見の食い違いが見られるのではなかろうか。18
)クロアチア人が獲得した政治的自治は、独自の議会と政府、クロアチア語の公用語が認められたが、ハンガリー王国が首長を任命したので不十分なものであった。このナゴドバによって、「二重制内部の二重制」が出来上がった。 小沢弘明、「二重制の時代」、南塚信吾編、『新版世界各国史19ドナウ・ヨーロッパ史』、山川出版社、1999年、222−223頁。19
)南塚信吾、1989年、163頁。20
)この時期、ハンガリー王国の国民的祝典(ハンガリー征服1000年祭、1848年革命50周年など)が相次ぎ、マジャール人の民族意識が刺激されたのも、独立への運動に影響している。 矢田俊隆、『東欧史』、1977年、245−246頁。21
)普通選挙法の導入は、マジャール人貴族にとって不利となり、権力を失うのは目に見えていたので、それらの要求を断念せざるを得なかった。
第3章
1)川村清夫、
1988年、27−28頁。進藤牧郎、『ドイツ近代史』、頚草書房、1963年、334頁。2)矢田俊隆、『東欧史』、
1977年、228頁。アンリ・ボグダン、『東欧の歴史』、高井道夫訳、中央公論社、1993年、145頁。(Henry Bogdan,Histoire des pays de l’Est──des origines à nos jours──éd.Perrin,Paris,1990) ヨーゼフ・F・ザツェク、「チェコスロヴァキアのナショナリズム」、P・F・シュガー、I・J・レデラー編、東欧史研究会訳、『東欧のナショナリズム−歴史と現在』、刀水書房、1981年、144-145頁。(Peter F. Sugar and Ivo J. Lederer eds., Nationalism in Eastern Europe,Universityof Washington Press,Seattle & London,1969)3)この頃チェコ語による出版物が数多く出されたが、主なものとしては、ヨゼフ・ユングマンの『チェコ語・ドイツ語辞典』『チェコ文学史』、フランティシェク・パラツキーの『チェコ民族史』、政治新聞の『プラハ公報』などがある。篠原琢、
1999年、186-187頁。4)南塚信吾、
1989年、80−81頁。5)アンリ・ボグダン、
1993年、144頁。6)ボヘミア貴族の中には民族再生運動に理解を示す自由主義貴族もおり、チェコの自由主義ブルジョアジーは政治的に未成熟であったため、彼らの権威と経済的支援を受けていた。その自由主義貴族は帝国から自分達の地位を守るため、彼らのオーストリア・スラヴ主義を拠り所にしていたのである。したがってチェコ人の敵対心は、もっぱら彼らの運動や権利の拡大を認めない支配的立場にいるドイツ人に対して向けられた。進藤牧郎、
1963年、354頁。7)稲野強、「オーストリア・スラヴ主義の形成過程――
19世紀前半のオーストリア帝国の再編問題によせて――」、『史観』、第116号、1987年、38頁。8)アンリ・ボグダン、
1993年、156頁。矢田俊隆、『東欧史』、1977年、235頁。9)大ドイツ主義…ドイツ統一をオーストリアの指導で実現しようとした立場。
汎スラブ主義(オーストリア・スラヴ主義)…帝国内のスラブ民族を統一しようとする立場。
ボヘミアにおけるチェコ人の地位の上昇は、同地域のドイツ人の諸権利が縮小することを意味したため、彼らはドイツ帝国に含まれることで、ドイツ人の地位を強固なものにできると考えた。スラヴ人は、ハプスブルク帝国内のスラヴ系民族が結束することで、帝国でのドイツ人やマジャール人と対等な立場となり、そうして帝国の連邦制の中で自治を行うことを望んだ。
10
)稲野強、1987年、34頁。矢田俊隆、『ハプスブルク帝国史研究』、1977年、110−112頁。オーストリア・スラヴ主義の政治理念をまとめると次の通り。
1.帝国内のスラヴ民族の連携を目指し、帝国の連邦制への移行をもとめる。
2.チェコ人のもとに帝国内スラヴ人が集結し、ドイツ人、マジャール人の支配、ロシアの絶対主義からスラヴ人を守る。
3.スラヴ人の自由な発展は、オーストリア帝国(ハプスブルク帝国)あってのものであり、あくまで帝国は存続されなければならない。
11
)アンリ・ボグダン、1993年、159-160頁。G・シュタットミュラー、1989年、142-143頁。ヨーゼフ・F・ザツェク、1981年、146頁。篠原琢、1999年、197頁。矢田俊隆、『ハプスブルク帝国史研究』、1977年、102−109頁。12
)革命の担い手が労働者や農民などであり、この自由主義的革命は、ボヘミアの貴族やブルジョアジーの権利を脅かすものであったので、彼ら特権階級は反革命の姿勢を示した。 進藤牧郎、1963年、366頁。13
)矢田俊隆、『東欧史』、1977年、236-237頁。アンリ・ボグダン、
1993年、161頁。14
)同上、175-176頁。「農民解放」は自由化のイメージがあるが、自由農民にすることによって、等族勢力
の財政的基盤が縮小されるのと同時に、帝国側は農民を直接支配下に入れることで、
財政的基盤ができる。この意味で保守化と言える。
15
)矢田俊隆、『東欧史』、1977年、249頁。16
)同上、250頁。小沢弘明、1999年、232頁。17
)ヨーゼフ・F・ザツェク、1981年149頁。18
)バデニーの言語令によって、ボヘミアとモラヴィアのすべての官吏はチェコ語とドイツ語の両方に精通していなければならなくなり、これはチェコ人が官公吏を独占する可能性を秘めていたため、ドイツ人の激しい反抗が起こった。それによってバデニーは解任され、言語令も撤回された。19
)矢田俊隆、『東欧史』、1977年、258頁。20
)この頃になると、チェコ人と南スラブ人の共同活動も見られた。また、チェコ人の抵抗運動は、秘密の集会や陰謀の形で展開された。21
)マサリクはギリシア正教徒を主とするセルビアへのロシアの関心に気づき、連合国側への援助要請に踏み切った。矢田俊隆、『東欧史』、1977年、261頁。小沢弘明、1999年、267頁。ヨーゼフ・F・ザツェク、1981年、150頁。
第
4章1)矢田俊隆、『ハプスブルク帝国史研究』、
1977年、2−19頁。鳥山成人、「ハプスブルク家とボヘミア・ハンガリー」、矢田俊隆編、『世界各国史13東欧史(新版)』、山川出版社、1977年、146−158頁。戸谷浩、「ハプスブルクとオスマン」、南塚信吾編、『世界各国史19ドナウヨーロッパ史』、山川出版社、1999年、97−114頁。2)カルロヴィッツ条約…1699年、オスマン帝国とオーストリア、ロシア、ポーランド、ヴェネツィア間の講和条約。これによりオスマン帝国からオーストリアへハンガリーとトランシルヴァニアが割譲された。またこの条約により、オーストリアの東中欧での覇権が確立する。
3)1703‐11年に起きたラーコーツィの解放戦争。ハプスブルク支配に対してハンガリー貴族の戦争。
4)羽場久尾子、
1994年、1頁。5)マジャール人は「領土的一体性」という考えを基礎に、ハプスブルク帝国からのハンガリー地域の完全独立を望んでいた。よって国民国家とは、ここではハンガリー国民国家であり、それまでのマジャール人の権利が維持された地域がそのまま帝国から独立するという国家が目指されたのである。
6)稲野強、
1987年、47頁。7)同上、
44頁。進藤牧郎、1968年、366−367頁。8)羽場久尾子、
1994年、37、39頁。9)稲野強、
1987年、47頁。10
)チェコ人が掲げていた汎スラヴ主義は、言うまでもなくロシアに対する親近性を持っていた。しかし1830年に起こったポーランド蜂起に対してロシアが弾圧を行ったこと、またロシアの専制支配機構や抑圧された農奴の存在などがあって、ロシアとの親近性を断って形成されていったのがオーストリア・スラヴ主義であった。よってチェコ人は専制ロシアとの提携をもつことを考えてはいなかったが、ドイツ人やマジャール人はそのように考えてはおらず、スラヴ民族が同系のロシアと結びつくことに、絶えず脅威を感じていたのである。しかしこのことは過剰な反応ではなかったのではないかと筆者は思う。なぜなら、第一次大戦時にチェコ人の中にロシアに投降する者がいたし、ロシアの専制政治が打倒された際には帝国内のスラヴ民族がロシアと接近することは十分考えられたからである。同上、38−40頁。11
)矢田俊隆、『東欧史』、1977年、247頁。12
)同上、241頁。