以下の註で用いる文献に関しては、初出時以後は、著者名と発表年で略記する。

第一章

第一節

() 南川高志、「238年のローマ帝国―『軍人皇帝』と元老院の戦い―」、『史林』78‐2、1991年、31ページ。

()弓削達、「ドミナートゥスの成立」、『岩波講座 世界歴史3 地中海世界V 南アジア世界の形成』、1970年、9ページ。

() 豊田浩志、『キリスト教の興隆とローマ帝国』、南窓社、1994年、66−70ページ。これら以外にも、帝国内での分離国家の建設や、疫病の間欠的流行、異常気象による農作物の減収・自然環境の悪化など、様々な問題がローマ帝国を襲っている。

() 弓削達、『世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教』、河出書房新社、1989年、387−388ページ。

()4帝の名前と支配領域は以下の通り。

東方正帝ディオクレティアヌス:トラキア・ポントゥス・アシア・オリエンス

               (ブルガリア・トルコ・シリア・エジプト)

東方副帝ガレリウス:パンノニア・モエシア(ギリシア・ユーゴ)

西方正帝マクシミアヌス:イタリア・アフリカ(エジプト以西の北アフリカ)

西方副帝コンスタンティウス:ガリア・ヒスパニア・ブリタニア

()弓削達、1989年、395−396ページ。

() 松本宣郎、『キリスト教徒大迫害の研究』、南窓社、1991年、155ページ。正帝が退位し、副帝位にいた者が正帝位に就くことになっていた。

()ディオクレティアヌスは退位後も元老としての重みを持ち、再度帝位に就くことすら要請されている。

()松本宣郎、1991年、155−157ページ。

第二節

(10)「使徒行伝」参照。また、「コリント人への手紙」、「エペソ人への手紙」、「テサロニケ人への手紙」などにもこれを窺うことができる。なお、筆者が使用しているのは、

  『新改訳 新約聖書』、国際ギデオン協会、1983年。

(11)「使徒行伝」28章。

(12) ピエール・マリー・ボード(佐伯晴郎訳)、『キリスト教の誕生』、創元社、1997年、86−92ページ。

(Pierre-Marie Beaude, Premiers chretiens, premiers martyrs, Gallimard, 1993)

(13) 弓削達、『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』、日本基督教団出版局、1984年、第1章1、2節。

  松本宣郎、「古代末期地中海世界とキリスト教―心性史的考察の試み―」、『地中海学研究』]V、1990年、18−21ページ。

  ピエール・マリー・ボード(佐伯晴郎訳)、1997年、62−64ページ。

(14)弓削達、1984年、第1章1、4節。

(15)松本宣郎、1990年、11ページ。

(16)松本宣郎、1991年、15ページ。

(17)カラカラ帝が発した勅法。欠字部分が極めて多いため、厳密な内容については研究者間の意見の相違が甚だしいが、それが、極めて少数の例外をのぞいて帝国内の全自由民にローマ市民権を付与するものであったことはおおむね一般に認められている。

  弓削達、1970年、6ページ。

(18)直訳すると、「私は与える、それは汝が私に与えてくれるために」という意味になる。ローマ人のいう“宗教”とは、人間を神々と結合する紐帯を保持する義務、またはそのために人間が反復する祭儀の施行を意味した。この信仰は個人の魂の救済に係わるものではない。また、ローマ人の顕著な徳目の一つとされた“敬神”も個人の心情に関することではなく、神々の加護を信頼して、神々にふさわしい祭儀、すなわち犠牲を捧げることにほかならなかった。このような神々と人間との関係は、あたかも保護主と被護民との間柄のように、“信義”で結ばれた相互的なものである。人間の敬神と神々の恩恵とを結びつけるのがdo ut desの原理であった。

  秀村欣二、「ローマ皇帝支配の意識構造」、『岩波講座 世界歴史3 地中海世界V 南アジア世界の形成』、1970年、46ページ。

弓削達、1984年、341ページ。

(19)秀村欣二、1970年、73ページ。

(20)豊田浩志、1994年、184−225ページ。

(21)アウレリアヌスはパルミラの女王ゼノビアとの戦いに加護を与え、勝利を得さしめたと信じるシリアの不敗太陽神の祭儀をローマに導入し、ローマ的伝統に適応した神殿と祭祀団を設立するとともに、帝国の宗教的統合の道を開いた。

  秀村欣二、1970年、74ページ。

第三節

(22)エウセビオス、『教会史』、第7巻13章。本稿で使用したテキストは次の通り。

秦剛平訳、『エウセビオス 教会史』全3冊、山本書店、1986〜88年。

(23)エウセビオス、『教会史』、第8巻1章。

(24)大迫害期の出来事の、クロノロジーの画定は非常に困難である。

本稿では基本的に、松本宣郎、1991年、に従う。

(25)ラクタンティウス、『迫害者たちの死について』13章。

なお、筆者は原著未読。本稿では秀村欣二、1970、松本宣郎、1991年、

豊田浩志、1994年、中の紹介を使用する。

(26)@−Fの内容は、ラクタンティウス、『迫害者たちの死について』、エウセビオス、

『教会史』、『パレスティナ殉教者伝』をまとめたもの。なお、筆者は

『パレスティナ殉教者伝』は未読。本稿では本稿では秀村欣二、1970、

松本宣郎、1991年、豊田浩志、1994年、中の紹介を使用する。

(27)ニコメディアでの発令は2月、パレスティナでは3月か。アフリカでは5月から6月にかけて。松本宣郎、1991年、99ページ。

(28)エウセビオス、『教会史』、第85章。

(29)松本宣郎、1991年、76ページ。

(30)秀村欣二、1970年、78ページ。

(31)ラクタンティウス、『迫害者たちの死について』、9章15節。

(32)エウセビオス、『教会史』、第8巻6、8章。

(33)松本宣郎、1991年、79−80ページ。

(34)松本宣郎、1991年、80−81ページ。

(35)秀村欣二、1970年、78−79ページ。

(36)エウセビオス、『教会史』、第10巻8章。

第二章

第一節

()豊田浩志、「『ディオクレティアヌスのキリスト教大迫害』をめぐって(1)」、『上智史学』37、1992年、248ページ。

()キリスト教側の主観に基づく記述であるからという理由であるが、これ以外にも理由がある。エウセビオスは大変な悪文家であった。ペンギン古典叢書のG・A・ウィリアムソンはその翻訳の難しさについてこのようなコメントを付している。

  「翻訳者は多くの問題に直面する。エウセビオスのギリシア語訳が決して容易でないからである。彼は膨大な語彙を駆使するが、ギリシア語のあるものは古典ギリシア語には見出されぬものである。それらの意味は必ずしも浩瀚なギリシア語辞典の中ですら見出されるものではなく、文脈から推定しなければならず、あるギリシア語にいたっては辞典の中にすら全く見出せない。他の語の場合、その意味が多岐にわたり、どの意味で用いられているのか必ずしも明らかではない。・・・彼は尋常ではない、長い、こみいった文を好む。彼は文章を簡潔にとどめようとしたデモステネスの技量を持ち合わせていない。・・・」

  秦剛平、「三 終わりに―『教会史』のギリシア語について」、『エウセビオス 教会史』第1巻、山本書店、1986〜88年、288−290ページ。

()本節の内容は、その大部分を松本宣郎、1991年、に拠っている。

()ドナウ軍団の後背地であるダキア、パンノニアは帝国内でも最もキリスト教の浸透度の少ない地方で、ミトラス信仰を中心とする異教徒がほとんどであり、兵士集団としての性格からしても反キリスト教的意識は強かった。

  松本宣郎、1991年。

()マクセンティウスの統治領域では教会はほぼ完全な自由を享受していた。おそらく312年2月頃、彼は司教ミルティアデスの時代に平静を回復したローマ教会に、正式の勅書によって、迫害中に没収した教会財産の返還を指令している。

  弓削達、「コンスタンティヌスの“改宗”とドナティズム紛争」、神戸大学論集『研究』八、1958年、18ページ。

第二節

()豊田浩志、1994年、第二章。

()試算を行った約300年間での元老院身分の概算は少なくとも6000名に達し、その身分に所属した女性を加えると元老院身分の総数は少なく見積もっても15000名を下らないと想定される。豊田浩志、1994年、88ページ。

()後期ローマ帝国の代表的官職であり、4世紀を通じて追跡可能な「道長官」職を中心に据え、それとの比較のため「正規執政官」・「ローマ市長官」・「コンスタンティノポリス市長官」職を併記し、官職就任者中の信者数を試算している。

  豊田浩志、1994年、89ページ。

()この時代、皇帝の意思は属州総督職からの元老院議員排除・騎士身分登用という形で端的に表現された。軍人皇帝時代において、皇帝権はもはや法的な擬制を必要としないまでに露骨な成長を遂げていたのである。属州総督に関する人事権の完全掌握に基づく、皇帝による属州支配主導権の確保は、専制君主政の第一歩であったといえる。

  豊田浩志、1994年、58ページ。

(10) Klauserは第一論文でキプリアヌスの『背教者について』第六章の一文を主史料とし、そこに出てくるprocuratoresなる語が帝国財務官吏官を示していることを論証し、それによってこの時期にキリスト教聖職者が騎士身分の中に進出していたこと、を立証しようとしている。また、第二論文では異教徒の宗教哲学者ケルソスの『真の言葉』の本文から、マルクス=アウレリウス帝(161−180)が帝国の絶望的状況の中で、キリスト教徒上層に対しあらゆる供犠義務から解放することで行政官職・武官職への彼らの志願を勧誘した事、『偶像崇拝について』に見られるテルトゥリアヌスの証言から、この勧誘がセプティミウス=セウェルス帝(193−211)下でも堅持ないし刷新されたこと、エウセビオスの『教会史』から多くのキリスト教徒がディオクレティアヌスの迫害に至るまでそれを利用していたことを論証しようとしている。

  豊田浩志、1994年、93−102ページ。

(11)豊田浩志、1994年、103−104ページ。

(12)豊田氏はヴァレリアヌスの時代にいたキリスト教祓魔師集団が伝統的なローマの占卜である腸卜に対抗する集団として宮廷にかかわっていたとし、ディオクレティアヌスの時代には、キリスト教徒が、宮廷内はもとより、行政軍事官僚群として帝権の一翼を担っていたと考える。氏の論考には興味深いものがあるが、貨幣資料などの直接資料が無いこと、論拠の大部分をエウセビオス史料の記述に求めていることなど問題点が多い。詳細な考察には敬意を表するが、筆者には氏の立場は承服できない。

第三節

(13)松本宣郎、1991年。

(14)ディオクレティアヌスの宗教意識に関しては、伝統のローマ宗教に極めて忠実であった保守主義者としての定評が与えられている。大迫害を行う前に、神託を伺うといった行動を起こしていることから、現実的な政治家としての面以外に、3世紀のローマ人らしい信仰心の持ち主であったことが窺われる。

(15)エウセビオス、『教会史』、第8巻1章。

(16)松本氏のこの認識は正しくない。皇帝によるキリスト教迫害は、基本的に帝国が危機的状況に置かれている時に行われているものだからである(第四節参照)。大迫害のように帝国が安定してから着手される迫害は例外的と言える。

(17)ラクタンティウス、『迫害者たちの死について』、13章1節

(18)史料には当然のことながら激しい迫害を行った総督の事例ばかりが出てくるが、名を挙げられていない総督たちのほとんどは、ディオクレティアヌスの迫害の本来の狙いに忠実な能吏たちであったと思われる。司教達と友好的な総督、異端の書や医書を聖書と偽って教徒が引き渡してもそれを黙認した総督、妊娠中の婦人の刑を延期した総督、など迫害の中でも冷静・穏和であった当局者を少なからず見出しうるからである。

  エウセビオス、『教会史』、第8巻1、5章。

(19)逮捕されず、信仰告白の機会も無かったが、祭儀はせず、他人からは時が来れば改宗するだろうと寛大に解釈されえた信者を指す。

第四節

(20)ラクタンティウス、『迫害者たちの死について』、10章。

(21)弓削達氏も大迫害をディオクレティアヌスにとって極めて重要な政策と捉えている。

  弓削達、1989年、397ページ。

(22)第二節及び註(12)参照。

(23) 新田一郎、「キリスト教迫害研究の新展開」、『歴史評論』543、1995年、55ページ。

第三章

第一節

()ラクタンティウス、『迫害者たちの死について』、19章4節。

()テトラルキアはその成立以来実子継承を廃してきた。しかし、それが決定的な原則であったか、は疑問である。ディオクレティアヌスもガレリウスも実の男子を欠いていた。

  松本宣郎、1991年、175ページ。

()これらの事情から、コンスタンティヌスがガレリウスの第二テトラルキアに好意を持っていなかったであろうことは想像に難くない。

第二節

()ラクタンティウス、『迫害者たちの死について』、9章9節。ラクタンティウスのガレリウス描写は悪意に満ちて執拗であり、他のどの悪徳皇帝よりも悪辣であったと言う。

  これは当然キリスト教側の視点によるものであり、信頼に値しない。

()ラクタンティウス、『迫害者たちの死について』、9章11節。

()彼の旗下の軍隊がドナウ軍団であったことも考慮しなければならない。第二章註()参照。

()実際、大迫害の勃発にガレリウスが主体的な役割を果たしたと考える研究者は極めて多い。ガレリウスの母ロムラがドナウ彼岸の土着の山岳神の信者であったこと、また彼がディオクレティアヌスとはいささか異なる神々を奉じていた(ペルシア戦役後アレクサンドロス崇拝に傾いたとする史料もある)と考えらることなども考慮すべきである。

  ラクタンティウス、『迫害者たちの死について』、11章1節。

()その上、彼は退位したディオクレティアヌスに助言を求め、帝国首位の地位保全にあらゆる手段を講じている。

  エウセビオス、『教会史』、第8巻13、14章。

()依然としてマクシミヌスの領内で激しく続けられていた迫害は十分な効果を生み出せず、熱狂的な殉教者の出現は異教徒の中に動揺を生じさせ、全住民への祭儀強制も反感を買っていた。キリスト教徒の中には鉱山で集会を強行するグループも現れ、エジプトでは内乱状態すら生じたと言われる。

  エウセビオス、『教会史』、第9巻6章。

(10)ここからマクシミヌス選任に関してはガレリウスの意向が強く働いた、と一般に推測されているが、彼が副帝として継承した領土はその大部分がディオクレティアヌスの旧領土、オリエンス道であり、その重要性から考えても、選任の断を下したのはディオクレティアヌスであると考えられる。

(11)彼は副帝として太陽神ソル・インウィクトゥスを第一の守護神とした。これはテトラルキアの神々体系に忠実な対応である。その後彼は正帝位への昇任問題をめぐってガレリウスとの間に一時軋轢を生じたが、おそらく310年に自ら正帝位を宣するに至り、それ以後は死ぬまで、テトラルキアの主神ユピテルに因むヨウィウスの称号を採用し続けている。コンスタンティヌスとリキニウスの称号にヨウィウスの語はほとんど見出すことができないこと、そこにはもちろんキリスト教対策の相違が現れているのだが、それを含めても彼がディオクレティアヌスとその体制に愛着を持ち続けたことは明白であろう。

  松本宣郎、1991年、211ページ。

(12)同じ言葉はテオドシウス法典の人頭税廃止規定にも現れるが、このような積極的な自己とディオクレティアヌスとの父子関係を強調する姿勢はコンスタンティヌスら他のどの皇帝にも見出すことはできない。

  松本宣郎、1991年、211ページ。