【註】

はじめに

1)西川正雄編、『ドイツ史研究入門』、東京大学出版会、1984年、273-275頁。

最近の研究動向は、社会の中の異質な存在としてユダヤ人を捉えるのではなく、社会におけるユダヤ人の存在を積極的に評価しようとする方向へ向かっている。ユダヤ人迫害の原因論に関しても、こういった研究の中で新たな視点が模索されている。岩波敦子、「中世都市ケルンに於けるユダヤ人保護 −都市の自治権獲得の過程の中で」、『史学』〈慶大〉、59-23号、1990年、2-3頁。

2)スペイン系のユダヤ人をセファルディムと言う。彼等はイスラムの支配下で、8世紀から15世紀に至るまで繁栄を誇っていた。ちなみに、本稿で考察の対象となるドイツ系のユダヤ人は、アシュケナジムと呼ばれる。

1 中世ユダヤ人の経済活動

1)H・H・ベンサソン(村岡崇光訳)、『ユダヤ民族史3中世篇T』、六興出版、1977年、2430頁。(H. H. Ben-Sasson, ed., A History of the Jewish People, London, 1976.)以後『民族史3』と略す。ルイス・ワース(今野敏彦訳)、『ユダヤ人問題の原型・ゲットー』、明石書店、 1993年、24-26頁。(Louis Wirth, The Ghetto, University of Chicago Press, 1928 黒川知文、『ユダヤ人迫害史−繁栄と迫害とメシア運動』、教文館、1997年、72頁。ローマには紀元前2世紀にユダヤ人が移住している。またフランス南部には2世紀、ライン流域の数都市では遅くとも4世紀頃にはユダヤ人の存在が確認される。

2)『民族史3』、23-24頁。

3)同上書、26-27頁。

4)同上書、28-32頁。

5)湯浅赳夫、『ユダヤ民族経済史』、新評論、1991年、144頁。

以前はシリア人がいて、ユダヤ人同様国際商人として活躍していたが、7世紀頃ばったりとその姿を消した。イスラムの進出により祖国が征服された為と思われる。

6)『民族史3』、33頁。

7)同上書、34頁。

8)同上書、35頁。直前の引用部も同じ。

9)同上書、36頁。

10)同上書、37頁。

11)同上書、36-37頁。

12)ユダヤ教の安息日。金曜の日没から土曜の日没までの期間を指す。この間ユダヤ教徒は一切の仕事をしてはならない事になっている。

13)ルイス・ワース、前掲書、36-38頁。

14)『民族史3』、148頁。

15)1139年の第2回ラテラノ宗教会議での決定事項である。この決定は1179年、1215年にも再確認されている。湯浅赳夫、前掲書、167-168頁。

16)『民族史3』、148-149頁。

17)同上書、149頁。引用部も同じ。

18)当時の金利は、ケルン783パーセント(1273)、アウグスブルク866パーセント(1276)等、相当に高いものも認められていた。ウィーンでは、1244年に年利174パーセントさえ許可されている。大澤武男、『ユダヤ人とドイツ』、講談社、1991年、38頁。

19)『民族史3』、150-151頁。

20)同上書、151-152頁。

21)中島 健二、「中世西欧の高利禁止法に関する一考察 −そのねらいは何だったのか」、『金沢大学経済論集』、32号、1995年、85-86頁。

22)同上論文、86頁。

23)同上論文、86-88頁。

24)田中史高、「中世中期のユダヤ人と都市生活 −ライン川流域の司教都市を中心に」、『歴史学研究』、613号、1990年、87頁。

25)イギリスでは1290年に、フランスにおいては14世紀に度々ユダヤ人の国外追放が決定された。 湯浅赳夫、前掲書、175-177頁。

26)キリスト教の教会にあたるユダヤ教の礼拝施設。ユダヤ人の信仰生活の中心となる。

27)『民族史3』、52-53頁。

28)田中史高、前掲論文、89頁。

29)『民族史3』、34-35頁。

30)ルイス・ワース、前掲書、35-36頁。

31)『民族史3』、56頁。

32L・ズィーヴェルス(清水健次訳)、『ドイツにおけるユダヤ人の歴史−二千年の 悲劇の歴史』、教育開発研究所、1990年、24頁。(Leo Sievers, Juden in Deutschland Die Geschichte einer 2000jahrigen Tragodie, Hamburg, 1977

33)『民族史3』、164-165頁。

34)同上書、165頁。

35)田中史高、前掲論文、90頁。

第2章 中世におけるユダヤ人迫害

1)藤田一成、「ユダヤ人に対する血の中傷−儀式殺人および聖体冒涜をめぐって」、

『神奈川大学人文研究』、86号、1983年、2-4頁。

2)小崎閏一、「第一次十字軍時代のユダヤ人迫害」、『鹿児島女子大学研究紀要』、9-

号、1988年、2-3頁。

3)同上論文、3、6-8頁。

4)同上論文、4頁。

5)同上。

6)Emicho von Leiningen。彼は負債を背負った貴族であった。L・ズィーヴェルス、前掲書、22-23頁。

7)小崎閏一、前掲論文、4頁。

8)同上。

9)400zekukimは銀4,800oz(148.8kg)。同上論文、12頁。

10)同上論文、5頁。

11)『民族史3』、66-68頁。

12)田中史高、前掲論文、93頁。

13)小崎閏一、前掲論文、310頁。

14)1103年のラントフリーデによって、帝国全土のユダヤ人を皇帝個人の保護下に置こうとする試みは、永続きしなかった。結局これが達成されたのは、フリードリヒ2世治下1236年であった。『民族史3』、164-165頁。

15)藤田一成、前掲論文。鈴木利章、「秘儀的少年殺害(Ritual Murder)信仰の成立とユダヤ人−聖ウィリ アム神話とラテン・キリスト教世界の影」、『神戸大学文学部紀要』、11号、1984年。

16)藤田一成、前掲論文、16-17頁。

これ以前の事件においては、ユダヤ人が虐殺された形跡は残されていない。ブロアでの事件後、この種の中傷には必ずと言ってよい程ユダヤ人虐殺が付きまとった。鈴木利章、前掲論文、99頁。

17)ユダヤ人は汚くて臭いというキリスト教徒の先入観を反映して、ユダヤ人を汚物・糞便と結び付けたエピソードは数多い。藤田一成、前掲論文、21頁。同上論文、17-19頁。なお、994名という数は誇張されたものである可能性が強い。この事件に関しては、他に18名のユダヤ人が処刑されたとも伝えられている。鈴木利章、前掲論文、100頁。

18)黒川知文、前掲書、118頁。

19)フリードリヒ2世は、1236年に5件の儀式殺人事件が立て続けに起こった事から、キリスト教に改宗したユダヤ人の代表を集め、事の真相究明にあたらせた。結果は当然の如く儀式殺人の容疑を否定するものとなり、これを受けて彼は、1236年7月5日、ユダヤ人に対する非難は事実無根であるとして厳禁した。一方インノケンティウス4世は、1247年のオーストリアでの事件に際して、無実の罪でユダヤ人を投獄・処刑した当地の司教及び有力者を非難している。また、この種の事件で再びユダヤ人を煩わす事の無いように命じ、これに違反した者は破門を以って罰する事を警告した。この様に皇帝・教皇は、概してユダヤ人を保護する立場を貫き通した。しかし、こういった中傷に基づく比較的小さな事件に、彼等が積極的に介入する事は非常に稀であった。 藤田一成、前掲論文、23-27頁。

21)鈴木利章、前掲論文、96-97頁。

22)前述のリンカーンをはじめ、グロスター(イギリス)、トレント等で確認される。同上論文、99頁。黒川知文、前掲書、116頁。

23)4回ラテラノ宗教会議。教皇権の威勢を誇示した空前の規模の宗教会議であり、各国の代表者も含めて総勢1500名が参加した。当時の社会に大きな影響を及ぼしたこの宗教会議では、ユダヤ人に関しても重要な決定が為された。即ち、ユダヤ人の高利貸しに対する規制強化、キリスト教徒が従属を強いられるような職務からの排除、ユダヤ人を識別するための衣服の義務づけである。この様な反ユダヤ主義的決定は、ユダヤ人を差別化する傾向を助長した。今野国雄、「第4ラテラノ公会議について」、『増田論集』、1979年、260-262頁。

24)藤田一成、前掲論文、9-11頁。引用部は10頁。

25)L・ズィーヴェルス、前掲書、42頁。

26)同上書、48頁。

27)同上書、49頁。野崎 直治、「ペスト−鞭打ち苦行者−ユダヤ人虐殺−危機の時代としての14世紀 (2)」 、『歴史と地理』、468号、1994年、20頁。

  1. 28)同上論文、23頁。
  2. 29)L・ズィーヴェルス、前掲書、49-50頁。

「洗礼を受けた若干のユダヤ人と子供と女性は処刑を免れた」とも言われる。

野崎 直治、前掲論文、23頁。

  1. 30)同上論文、23-24頁。
  2. 31)黒川知文、前掲書、133頁。L・ズィーヴェルス、前掲書、51頁。
  3. 32)野崎 直治、前掲論文、24頁。
  4. 33)野崎 直治、前掲論文、24頁。直前の引用部も同じ。

「カール四世はルクセンブルク兼ボヘミアの領主として、自分の領土ではすぐさま厳

罰を加えたりして迫害をやめさせることができたが、ドイツの小都市では、この迫

害をなす術もなく傍観し、それどころか遂には抜け目なく交渉して、将来の政治の

同調者に刑の免除を約束さえした。」

フェルディナント・ザイプト(永野藤夫、他 訳)、『図説 中世の光と影 −一つの

完結した世界の歴史 −〔下〕』、原書房、1996年、457頁。(Ferdinand Seibt GLANZ

UND ELEND DES MITTELALTERS Eine endliche GeschichteWolf Jobst

Siedler Verlag GmbHBerlin1987.)

カール4世は、それまでのドイツ国王ルートヴィヒ・デア・バイエルの対立国王とし

て、1346年に選挙された。しかしその後も、依然としてルートヴィヒを支持する勢

力は少なくなかった。カール4世の正式な戴冠式は、1349年に挙行されている。

林毅、「自由帝国都市ケルンとケルン大司教」、『阪大法学』、149150号、1989

年、112頁。

34L・ズィーヴェルス、前掲書、52頁。

35)同上。

36)ケルン市におけるユダヤ人の存在は、既に321年に確認される。

岩波敦子、「ユダヤ人団体のトポグラフィー −ケルン市を事例として」、『史学』

〈慶大〉、61-34号、1992年、152頁。

3 ケルンにおける大司教・都市参事会とユダヤ人

1)1209年にマインツ、1212年にヴォルムス、1233年にはレーゲンスブルクのユダヤ人に関する権利が譲渡されている。岩波敦子、「中世都市ケルンに於けるユダヤ人保護 −都市の自治権獲得の過程の中で」、『史学』〈慶大〉、59-23号、1990年、14頁。

2)同上論文、8頁。

3)林毅、前掲論文、102-103頁。

4)岩波敦子、1992年、154頁。

5)同上論文、158頁。

5)岩波敦子、1990年、12頁。

7)同上論文、10-12頁。引用部は11頁。この時点で大司教がユダヤ人から受け取っていた金額は、管見の限り明らかではないが、1250年にドルトムントのユダヤ人を保護下においた際には、年25マルクの保護金が要求されている。なお、1マルクは12ソリドゥスである。同論文、15頁。

8)林毅、前掲論文、103頁。

9)同上論文、104-105頁。

10)同上論文、105-106頁。

11)岩波敦子、1990年、23頁。

12)岩波敦子、1992年、164-167頁。

13)samenburgerinという語は、本来すべての権利と義務を持った市民に対して用いられる。しかしケルン市の史料では、市壁内の住人といった意味で用いられている。中世都市においてユダヤ人が市民権を得ていたか否かという問題については、ヴォルムスのユダヤ人がキリスト教徒と同等の権利を持っていたと主張されている。ケルン市のユダヤ人が市民権を持ったと言う資料は残されていない。岩波敦子、1992年、168頁。

14)岩波敦子、1990年、16頁。

15)ユダヤ教の司祭。厳格な戒律に規定されたユダヤ人共同体内においては、実質上社会を運営する指導者である。

16)岩波敦子、1992年、169-170頁。

17)岩波敦子、1990年、17頁。

18)岩波敦子、1992年、170頁。

19)岩波敦子、1990年、17頁。

20)1252年の大司教コンラートによる保護状では、保護期限は2年とされ、2年後に立ち去るか留まるかはユダヤ人の自由選択に任されていた。同上論文、8-9頁。

21)岩波敦子、1992年、167頁。

22)1322年には、ユダヤ人の土地取引に課税する事も決定されている。岩波敦子、1990年、18頁。

23)岩波敦子、1990年、18頁。 林毅、前掲論文、114頁。 野崎 直治、前掲論文、24頁。 L・ズィーヴェルス、前掲書、50頁。

ケルン市における1349年の迫害において、大司教が何らかの保護措置を取ったという事実は確認されない。従ってこの時点での実質的な保護者は、やはり参事会であったと思われる。しかし大司教は、1346年にカール4世からユダヤ人保護権を再確認されており(岩波敦子、1990年、18頁。)、依然として公式の保護者であり続けていた。1350年にユダヤ人の財産に関する調停が結ばれた事は、以上のような背景の下、両者の間に何らかの妥協或いは協力関係が成立していた事を示すと思われる。調停の詳しい内容については、管見の限り明らかではない。

24)『民族史3』、58頁。ケルン「大司教は逸早く市内のユダヤ人を近在の各所に分散疎開させて難を逃れさせた」 小崎閏一、前掲論文、5頁。

25)岩波敦子、1990年、12-13頁。引用部も同じ。

26)岩波敦子、1992年、173頁。

27)ケルン市には参事会員を排出する14の家系が存在していた。参事会員は任期1年であり、退任後は2年間参事会への選出が禁じられていた。しかし、退任者が後任人事を提案し、また自分の家系の者を選出する事が許されていた為、事実上ケルン市参事会はこれらの家系によって独占されていた。辻多江子、「中世ケルンにおける都市参事会と市民との関係」、『歴史研究』〈大阪教大〉、29号、1992年、107-106頁。

28)林毅、前掲論文、115-116頁。参事会が一般市民を圧迫するような政治を行っていた事は、1258年の仲裁裁定における大司教の訴えから知られる。

29)1335年の、「名望家層が」シナゴーグで裁かれる事に対する都市側の訴えは、この事を裏付けるものである様に思われる。また、1321年の保護状に記された「共住市民」という言葉は、ユダヤ人は市壁内の住人として、参事会の管理下に置かれるべきであるという事を主張するものであったと推測される。

30)門の鍵は市の役人とユダヤ人側双方が持っていた。門は夕刻閉め、翌朝早く開けられたが、「市庁舎がユダヤ人地区に在ったため、会議期間中はこの限りではなかった。」岩波敦子、1992年、169頁。

31)同上論文、169-171頁。

おわりに

1)岩波敦子、1990年、14-15頁。

2)藤田一成、前掲論文、11-12頁。