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※以下の註で用いる文献に関しては、初出時以降は著者名と発表年で略記する。
はじめに
(1)「はじめに」の内容は主に以下の参考文献に基づく。橋口倫介、『騎士団』、近藤出版社、1971年。阿部謹也、『ドイツ中世後期の世界−ドイツ騎士修道会史の研究−』、未来社、1974年。山内進、『北の十字軍−「ヨーロッパ」の北方拡大−』、講談社、1997年。この三文献はいずれも筆者にとって啓発されるところ大であり、本稿のほぼ全体の記述に関して参考としている。
(2)騎士修道会(英
the Order,独 Ritterorden )は単に「騎士団」と邦訳されることも多いが、本稿では教会直属の宗教的軍事団体である騎士修道会と世俗的騎士の結社(イギリスのガーター騎士団など)・騎士軍などとの区別を明確にするため「騎士修道会」の語を用いる。橋口倫介、序文1頁・本文1〜10頁。なお同書は『十字軍騎士団』講談社、1994年として改訂出版されている。テンプルをはじめ騎士修道会についての一般的解説書としてたいへん有用である。(3)三大騎士修道会を主とする騎士修道会の一般的性質・特徴については、以下の文献および本稿第一章を参照。橋口倫介、1971年、1〜21頁。阿部謹也、1974年、35〜57頁。A=ジェラール、『ヨーロッパ中世社会史事典』、池田健二訳、藤原書店、1991年(Agnes
GERHARDS、LA SOCIETE MEDIEVALE,MA Edition,Paris,1986)、72〜74頁。(4)テンプル騎士修道会に関しては以下の文献を参照。橋口倫介、1971年。篠田雄次郎、『聖堂騎士団』、中央公論社、1976年。
(5)聖ヨハネ騎士修道会に関しては以下の文献を参照。橋口倫介、1971年。塩野七生、『ロードス島攻防記』、新潮文庫、1991年。
(6)阿部謹也、1974年、14頁。
(7)シュテンデ
Stande とは「身分」の意であり、ドイツの各領邦において議会を形成することとなる貴族・聖職者・市民の三身分の集団を指す(まれに農民が参加)。シュテンデの目的は専ら、自身が属する身分の権益を強化することにあった。山田作男、「身分制国家についての理論」、『プロイセン史研究論集』、近代文藝社、1994年所収。ハインリッヒ=ミッタイス・ハインツ=リーベリッヒ、『ドイツ法制史概説 改訂版』、世良晃志郎訳、創文社、1971年(Heinrich Mitteis,Deutsche Rechtsge-schichte,ein Studienbuch,neubearbeitet von Heinz Lieberich 11.erganzte Auflage,Munchen,1969)、383頁他。騎士修道会《国家》におけるシュテンデの活動に関しては阿部謹也、1974年、323頁以降。山田作男、「身分制国家プロイセン」、1994年前掲書所収。(8)ドイツ騎士修道会に関しては以下の文献および本稿全体を参照。阿部謹也、1974年。山田作男、1994年。山内進、1997年。
(9)ドイツ騎士修道会は1809年にナポレオンによって完全に解体されたが1834年以降再結成され、現在も同名の結社として一応は存在していると思われる。阿部謹也、1974年、11〜17頁・443頁。伊東孝之・直野敦・萩原直・南塚信吾監修、『東欧を知る辞典』、平凡社、1993年、303頁。
(
10)山内進、1997年、15〜21頁。(
11)阿部謹也氏は前掲書で以下のように述べている。「このドイツ騎士修道会《国家》はまさにドイツ中世後期の世界がもつ内的矛盾を体現した存在であったから、その歴史を描くということは同時にドイツ中世後期の世界を描くことに等しい。」阿部謹也、1974年、16頁。なお同書はドイツ騎士修道会に関する邦語の一般に入手可能な文献としては現在なお最も包括的かつ緻密な内容の著作であると思われる。第一章 騎士修道会と周辺の世界
(1)橋口倫介、1971年、序文1頁。
(2)阿部謹也、1974年、56〜57頁。
(3)本節の内容は主に以下の参考文献に基づく。橋口倫介、1971年。阿部謹也、1974年。山内進、1997年。
(4)A=ジェラール、1991年、72頁。
(5)「キリストの戦士」の概念および騎士の宗教的道徳に関しては、阿部謹也、1974年、53〜57頁。マルク=ブロック、『封建社会』、堀米庸三監訳、岩波書店、1995年(Marc Bloch,
LA SOCIETE FEODALE ・ ,Albin Michel,Paris,1939,1940)、393〜396頁。ヨアヒム=ブムケ、『中世の騎士文化』、平尾浩三・和泉雅人他訳、白水社、1995年(Joachim Bumke,Hofische Kultur−Literatur und Gesellschaft im hohen Mittelalter, Munchen, 1986)、377〜402頁。(6)
Hugues de Payens. テンプル騎士修道会初代総長(在任1128〜1136)。パイヤン城の主であったが、初老となってから無償の奉仕活動に一身を捧げた。(7)『十字軍史料集西欧篇』
Recueil des historiens des Croisades,1841, rep.1968−.筆者は原著未読。本稿の引用は、同文献所収ジャック=ド=ヴィトリ、『年代記』からの橋口氏による和訳。橋口倫介、1971年、32頁・265頁。(8)
Baudoin . イェルサレム王国第三代国王(在位1118〜1131)。騎士ユーグらにイェルサレム市内の「ソロモン神殿(テンプル)」跡を宿舎として与え、後の騎士修道会の名称の由来を生んだ。橋口倫介、1971年、34〜35頁。(9)清貧と労働を旨とするシトー派修道会は、典礼の過多・豪奢な生活へと偏向したクリュニー派修道会を批判しこれに代わって十二世紀に発展した。しかしながら労働の結果としての財産の蓄積が次第に利潤追求へと変質し、同会自体が非難の対象となっていった。今野國雄、『修道院−祈り・禁欲・労働の源流−』、岩波書店、1981年、125〜148頁。A=ジェラール、1991年、146〜149頁。
(
10)Bernard de Clairvaux. (生没年1090〜1153)シトー派修道会士・クレルヴォー修道院長。禁欲的な生活態度と深い信仰心、確固たる信念に裏付けされた弁舌によって名声を博し、聖俗を問わず全ヨーロッパ的な影響力を有した。橋口倫介、1971年、15〜16頁・36〜38頁。山内進、1997年、57頁・70〜77頁。(
11)A=ジェラール、1991年、74頁。(
12)山内進、1997年、72頁。(
13)ベルナールによる十字軍勧説の重要な一環として、彼がドイツ北部の諸侯に十字軍参戦を説くにあたって聖地ではなくバルト海沿岸のスラヴ人討伐を目的とした遠征を正当とみなし、教皇に働きかけて罪の赦免を獲得しうる十字軍として公認させたことが挙げられる。この「北の十字軍」は、第二章で述べるプロイセン征服が行なわれる前段階というべきものとなった。ベルナールは十字軍の「聖戦」理論の確立とその量的・方向的拡張に多大なる役割を果たしたと言えよう。山内進、1997年、77〜107頁。同、「入るように強制せよ(compelle intrare )−伝道の思想と異教的フロンティア−」、『比較法史研究−思想・制度・社会』6号、1997年論文。(
14)橋口倫介、1971年、41頁。(
15)本稿の引用は聖ベルナール、『新しき騎士たちを称えて−テンプル騎士修道会について』(S.Bernardi Abbatis De Laude Novae Militiae:Ad Milites Templi. )、J=P=ミニュ、『ラテン教父著作集』所収(J.P.Migne,Patorologiae cursus completus, series latina,CL ,Paris,1879,p.922.)より、山内氏による和訳。筆者は原著未読。山内進、1997年、76頁。(
16)塩野七生、1991年、52頁。(
17)聖ヨハネ騎士修道会の起源に関しては文献によって若干の差異が見られるが、本稿は主に橋口倫介、1971年、44〜50頁に拠った。阿部謹也、1974年、37〜38頁。ハインリッヒ=プレティヒャ、『中世への旅 騎士と城』、平尾浩三訳、白水社、1982年、242〜243頁。(Heinrich Pleticha,Ritter Burgen und Turniere, Arena‐Verlag Georg Popp,Wurzburg, 1977)(
18) Gerard.(?〜1120)「福者ジェラール」、聖ヨハネ騎士修道会初代総長として扱われる。橋口倫介、1971年、46〜49頁。(
19)Raymond du puy. 聖ヨハネ騎士修道会第二代総長(在任1120〜1160?)。修道士ながら戦闘的かつ行動的性格で、「デュ・ピュイの会則」により同会を病院から実質的な騎士修道会へと再編した。(
20)阿部謹也、1974年、37〜39頁。(
21)橋口倫介、1971年、51頁。(
22)騎士修道会の会則に関しては橋口倫介、1971年、51〜59頁。阿部謹也、1974年、39頁・56頁。篠田雄次郎、1976年。(
23)本節の内容は主に以下の参考文献に基づく。橋口倫介、1971年。阿部謹也、1974年。篠田雄次郎、1976年。(
24)騎士修道会への寄進に関しては橋口倫介、1971年、60〜67頁他。(
25)ゴドフロワ=ド・ブイヨン(Godefroi de Bouillon 第一回十字軍の指導者の一人、初代イェルサレム国王)が結成したといわれる王国下属の騎士修道会。橋口倫介、1971年、4頁。(
26)橋口倫介、1971年、66頁。阿部謹也、1974年、39頁。(
27)橋口倫介、1971年、48頁・69〜70頁。阿部謹也、1974年、38頁。(
28)橋口倫介、1971年、159頁。聖ヨハネ騎士修道会の莫大な所領数はむしろその管理が「まことにルーズなものであった」(阿部謹也、1974年、37頁)すなわち集中的所領経営を熱心には行なわなかったこととも関連するかと思われる。(
29)橋口倫介、1971年、69頁。(
30)阿部謹也、1974年、37〜38頁。(
31)騎士修道会の軍事力に関しては橋口倫介、1971年、95〜110頁他。(
32)橋口倫介、1971年、29〜31頁・95頁。(
33)橋口倫介、1971年、109〜110頁・126〜128頁他。(
34)一例としてテンプル騎士修道会では二十二代中戦死・戦病死が合計十三名。橋口倫介、1971年、97頁。騎士修道会では総長ほか幹部が最前線に赴くのが通例であり、ドイツ騎士修道会もタンネンベルクの戦い(第二章二節参照)で総長以下多数の幹部が戦死している。阿部謹也、1974年、324頁。(
35)テンプル・聖ヨハネ騎士修道会の城塞に関しては橋口倫介、1971年、67〜68頁・ 101〜108頁。篠田雄次郎、1976年、82〜83頁。(
36)騎士修道会、特にテンプル騎士修道会の経済活動に関しては橋口倫介、1971年、159〜177頁。篠田雄次郎、1976年、110〜112頁。(
37)橋口倫介、1971年、128頁。(
38)フランス王家とテンプル騎士修道会の財政面での結びつきに関しては橋口倫介、1971年、172〜174頁他。篠田雄次郎、1976年、110〜117頁。(
39)テンプル騎士修道会はダマスクスの太守と結んで同市攻囲戦においてサボタージュを行なっ たとも、第六回十字軍ではアイユーブ朝との秘密交渉による領地返還を画策したともいわれる。橋口倫介、1971年、132〜137・189・204頁他。また1224年のアレッポのスルタンと聖ヨハネ騎士修道会との間の休戦条約締結以降、各騎士修道会単独での条約締結が数例確認されている。櫻井康人、「エルサレム王国における騎士修道会の発展−会議・集会の分析を中心に−」、『史林』第81巻4号、1998年。(
40)特にテンプル騎士修道会とドイツ人勢力・皇帝派とは概して敵対的であった。橋口倫介、1971年、198〜205頁他。(
41)当時ロードス島はビザンツ帝国領だったが聖ヨハネ騎士修道会により武力制圧された。橋口倫介、1971年、215頁・256頁。塩野七生、1991年、37〜48頁他。(
42)Phliippe .(生没年1285〜1314)通称「端麗王」le Bel. 官房長ノガレに命じて教皇ボニファティウス八世を捕縛した「アナーニ事件」でも知られる。橋口倫介、1971年、219〜226頁。篠田雄次郎、1976年、118〜123頁。(
43)テンプル騎士修道会弾圧に関しては橋口倫介、1971年、215頁以降。篠田雄次郎、1976年、113頁以降を参照。(
44)橋口倫介、1971年、247〜252頁。(
45)テンプル騎士修道会訴訟事件に関する先行研究は橋口倫介、1971年、23〜26頁。(
46)橋口倫介、1971年、252〜255頁・263〜264頁。また、聖ヨハネ騎士修道会とフィリップとの間で、テンプル騎士修道会解体について秘密裏に合意があった可能性も完全には否定できない。篠田雄次郎、1976年、125頁。第二章 ドイツ騎士修道会の発展
(1)本節の内容は主に以下の参考文献に基づく。、阿部謹也、1974年。ヘルマン=ハインペル、『人間とその現在−ヨーロッパの歴史意識−』、阿部謹也訳、未来社、197
5年(Hermann Heimpel,
Der Mensch in seiner Gegenwart.Acht histo- rische Essais.1957)。山田作男、『プロイセン史研究論集』、近代文藝社、1994年。山内進、1997年。今来陸郎、「プロイセンにおけるドイツ騎士団国家の発端」、『西洋史学』16、1953年。(2)H=ハインペル、1975年、106頁。
(3)阿部謹也、1974年、35頁。
(4)「ナルラティオ」
Narratio de Primordiis ordinis Theutonici は十三世紀前半にパレス ティナのドイツ騎士修道会士が著したものと見られており、B=デュビックによって初めて公表された。B.Dubik,Des hohen Deutschen Ritterorden Munz‐Sammlung inWien.Wien,1858(Nachdr.Bonn 1966)。筆者は原著未読。本稿の引用部分はM.Toppen,
Scriptores Rerum Prussicarum ,S.220ff.のテキストからの山田作男氏による和訳。筆者は原著未読。山田作男、「いわゆるNarratioについて」、1994年前掲書所収、149〜168頁。『ナルラティオ』に関する全体の記述は同文献および阿部謹也、1974年、35〜52頁に基づく。
(5)
Friedrich von Schwaben. (生没年1164〜1191)皇帝フリードリヒ一世(バルバロッサ)の長男。父の死後も聖地で十字軍活動を継続した。(6)
Heinrich .(生没年1165〜1197)。ドイツ王・皇帝・シチリア王。フリードリヒ二世の父であり、王・皇帝位の世襲化を規定する「帝国相続法案」を提起したが実現できなかった。(7)
Innocent .(在位1198〜1216年)英王ジョンを屈伏させるなど教皇権の絶頂期を現出させたことで知られる。フリードリヒ二世の後見人でもあったが後には対立した。(8)阿部謹也、1974年、45〜46頁。山田作男、1994年、154頁。
(9)ヘルマン=ハインペル、1975年、104頁。
(
10)Hermann von salza.ドイツ騎士修道会第四代総長(在任1210〜1239年)。出自はチューリンゲン方伯家のミニステリアーレン。阿部謹也、1974年、60〜64頁他。ヘルマン=ハインペル、「ヘルマン=フォン=ザルツァ−ひとつの国家の建設者」、1975年前掲書所収。フリードリヒ=フォン=ラウマー、『騎士の時代−ドイツ中世の王家の興亡−』、柳井尚子訳、法政大学出版局、1992年(Friedrich von Raumer,GESCHICHTE DER HOHENSTAUFEN UND IHRER ZEIT<Klassiker der Geschichtsschreibung>,Droste Verlag,Dusseidorf,1968)、308頁他。本稿第三章二節も参照。(
11)山内進、1997年、154頁。(
12)Friedrich .(生没年1194〜1250、1197〜1212年シチリア王、1212〜1220年ドイツ王、1220年より皇帝、1229年にイェルサレム王)ホーエンシュタウフェン家最後の皇帝。生涯の多くを生地であるシチリアで過ごし、イスラム文化との交流による高い教養を身に付けた。シチリア王国とドイツ王国の統一を核とした世界帝国政策とドイツにおける帝権強化を推進しようと試みたが、歴代教皇やイタリア都市、ドイツ諸侯などとの抗争により果たしえなかった。H=ハインペル、1975年。F=ラウマー、1992年、280頁以降。本稿第三章も参照。(
13)総長ヘルマンによる地中海所領集中経営などの初期の計画に関しては阿部謹也、1974年、67〜69頁・77頁・108頁他。(
14)ハンガリア問題に関しては今来陸郎、1953年。阿部謹也、1974年、64〜76頁。山内進、1997年、154〜156頁。(
15)阿部謹也、1974年、66頁・114〜115頁。山田作男、「フリードリヒ二世のいわゆるリミニ黄金文書(1226)について−ドイツ騎士団長と帝国との関係−」、『愛知学芸大学研究報告(人文)』7号、1958年、22頁。(
16)今来陸郎、1953年、261〜262頁。阿部謹也、1974年、64〜69頁。山内進、1997年、156〜157頁。(
17)本節の内容は主に以下の参考文献に基づく。阿部謹也、1974年。山内進、1997年。山田作男、1958年論文・「クリスティアン司教とドイツ騎士団−ドイツ騎士団のプロイセン進駐の前提−」、『愛知教育大学研究報告(人文)』27号、1978年。ドイツ騎士修道会《国家》の概略に関しては阿部謹也、「ドイツ騎士修道会国家の成立と衰退−中世後期東ドイツ社会史研究−」、『一橋論叢』第50巻第4号、1963年が優れている。(
18)阿部謹也、1974年、109〜110頁。山内進、1997年、107〜112頁。すでにバルト海南・西沿岸部は聖ベルナールの勧説を契機として1147年から複数回行なわれた十字軍によってキリスト教化されていた。本稿第一章註(13)参照。(
19)リヴォニアとはスラヴ系民族である「リーヴ人」の住む土地の意であり、エストニアとリトアニアの中間の一帯を指す。山内進、1997年、107頁。(
20)司教アルベルトは十字軍を導入してリーヴ人を制圧し、リーガ市に司教座を置いてリヴォニアの首府とするなど征服・伝道に多大な成果を収め、1207年にはリヴォニア司教区を預かる辺境伯に任じられた。さらにデンマーク軍と並んでエストニアにも侵攻した。山内進、1997年、112〜144頁。阿部謹也、1974年、120頁。(
21)正式名称は「リヴォニアのキリストの騎士兄弟団」だが、マントに剣の印を付けたため通称で呼ばれる。司教アルベルトに服属し十字軍の間隙を補ったが、改宗者への搾取など教皇の意に沿わない行動が多く非難を浴びた。リヴォニアに所領を有していたが後にリトアニアに敗れドイツ騎士修道会に併合される。山内進、1997年、114〜147頁。(
22)教皇によってプロイセン全土を支配しうる権利を与えられ司教に任じられたクリスティアンは、プロイセン人の武力蜂起に対応できなかったためドイツ騎士修道会の進出後権利を削減されてゆき、プロイセンに設定された四司教区の一つで妥協しなければならなかった。山田作男、1978年論文。(
23)マソヴィエンのドブリン砦を拠点とした「ドブリン騎士修道会」は前述の刀剣騎士修道会と同名の組織で、事実これにならったものだったが非常に小規模で実質的に無力であり、1235年にはドイツ騎士修道会に吸収された。山内進、1997年、307頁。(
24)H=ハインペル、1975年、117〜118頁。(
25)リーミニの金印勅書に関しては山田作男、1958年論文。阿部謹也、1974年。H=ハインペル、1975年、117〜118頁。山内進、1997年、157〜158頁。(
26)ドイツ騎士修道会のプロイセン進出初期の状況に関しては阿部謹也、1974年、122〜123頁他。山内進、1997年、160〜174頁。(
27)騎士修道会《国家》の中央集権化推進期に関しては阿部謹也、1974年、258〜311頁。本部移転に関しては山内進、1997年、195〜197頁。(
28)代表的なドイツ騎士修道会批判としてはロジャー=ベーコンによるものが挙げられるが、そこでは騎士修道会が伝道の対象たるべき異教徒を奴隷化していると攻撃されている。山内進、1997年、193〜194頁。支配者側が人数で劣る騎士修道会《国家》では伝道・改宗よりむしろプロイセン人の集落や慣習などをある程度維持した状態で抑圧的支配が行なわれていた。阿部謹也、1974年、130頁・199〜204頁・307頁。プロイセン人の隷属的地位に関しては異論もある。佐々木博光、「ドイツ騎士修道会とプロイセン人」、『史林』第72巻第6号、1989年。(
29)騎士修道会とリトアニアとの戦争は村落の略奪を主体とした消耗戦であったが、年二回行なわれる軍旅への参加は西欧の貴族から非常に人気を博し、半ば遊戯と化していた。阿部謹也、1974年、317頁他。山内進、1997年、197〜200頁。(
30)ヴワディスワフ一世、ポーランド王(在位1320〜1333)通称「短身王」。分裂状態にあったポーランドを次代のカジミェシュ三世と二代で再統一・発展させることに成功した。阿部謹也、1974年、259頁他。伊東孝之・直野敦他監修、1993年。(
31)カジミェシュ三世、ポーランド王(在位1333〜1370)「大王」。ユダヤ人をはじめとする非キリスト教徒に寛容で優れた教義による改宗を旨とし、クラクフ(ヤギェウォ)大学を設置した。山内進、1997年、208〜209頁。伊東孝之・直野敦他監修、1993年。(
32)ヴワディスワフ二世ヤギェウォ(1382〜1392リトアニア大公、1386〜1434ポーランド王)ヤギェウォ(ヤゲロー)朝の創始者。リトアニアの強力な大公ゲディミナスの孫にあたり、ドイツ騎士修道会に対抗するためリトアニア全土の改宗を交換条件にポーランド女王ヤドヴィガと結婚し同国の王位に即いた。優秀な政治家であり、従兄弟のリトアニア大公ヴィタウタスとともに騎士修道会《国家》に大打撃を与えた。山内進、1997年、210〜216頁。阿部謹也、1974年、324頁。伊東孝之・直野敦他監修、1993年。(
33)ポーランド連合と騎士修道会《国家》に関しては山内進、1997年、188〜218頁。(
34)タンネンベルク(グルンヴァルト)の戦い前後からのドイツ騎士修道会の衰退に関しては阿部謹也、1974年、313頁以降。山内進、1997年、218頁以降。(
35)阿部謹也、1974年、397頁他。(
36)騎士修道会《国家》の解体に関しては阿部謹也、1974年、395頁以降。(
37)本節の内容は主に以下の文献に基づく。阿部謹也、1974年・1963年論文。(
38)騎士修道会の行政組織に関しては阿部謹也、1974年、165頁・315頁他および1963年、433頁。ハンス=K=シュルツ、『西欧中世史事典−国制と社会組織−』千葉徳夫・小倉欣一他訳、ミネルヴァ書房、1997年(Hans Kurt Schu−lze,GRUNDSTURUKTREN DER VERFASSUNG IM MITTELALTER,2 B nde,2.verbesserte Auflage,Stuttgart・Berlin・K ln<VerlagW.Kohlhammer>1990-92)、217頁。(
39)H=ハインペル、126頁。(
40)阿部謹也、1974年、152〜153頁他。(
41)ミニステリアーレンに関しては服部良久、『ドイツ中世の領邦と貴族』、創文社、199 8年、121頁以降。北嶋繁雄、「中世盛期ドイツの帝国ミニステリアーレン」、『史潮』104号、1968年。H=ミッタイス、1971年、309〜311頁他。阿部謹也、1974年、60〜64頁・72〜73頁他。(
42)阿部謹也、1974年、61頁。(
43)ミニステリアーレンと騎士修道会、ミニステリアーレンと皇帝の関係については阿部謹也、1974年、62〜63頁。H=ミッタイス、1971年、309〜311頁他。(
44)阿部謹也、1974年、101〜105頁・314頁他。(
45)阿部謹也、1974年、316〜317頁。(
46)ドイツ騎士修道会の各所領・組織内の人的結合については阿部謹也、1974年、76〜108頁・313〜320頁。第三章 騎士修道会《国家》の成功要因
(1)本章全体の考察は主に以下の文献を参考としたものである。阿部謹也、1974年。H=ハインペル、1975年。
(2)阿部謹也、1974年、297〜311頁。
(3)阿部謹也、1974年、304〜309頁。
(4)本節の内容は主に以下の文献に基づく。H=ハインペル、1975年。山田作男、1994年。『ナルラティオ』からの引用に関しては本稿第二章註(4)を参照。
(5)十二〜十三世紀の《ナショナリズム》(特にドイツ)に関してはW=コンツェ、『ドイツ国民の歴史−中世から現代まで、歴史の成果−』、木谷勤訳、創文社、1977年 (Werner conze,
Die duetsche Nation. Ergebnis der Geschichte, Vandenhoeck & Ruprecht, Gottingen,1963)、14頁。A=ジェラール、1991年、253〜254頁。江川温、「民族意識の発展」、朝治啓三・江川温・服部良久他編 著、『西欧中世史(下)−危機と再編−』、ミネルヴァ書房、1995年。マルク=ブロック、『封建社会』、堀米庸三監訳、岩波書店、1995年。(Marc Blo−ch,LA SOCIETE FEODALE ・ ,Albin Michel,Paris,1939,1940) 531〜538頁。(6)M=ブロック、1995年、537頁。
(7)マリアドイツ病院に関する記述は阿部謹也、1974年、35〜52頁。山田作男、1993年、149〜168頁。本稿第二章註(4)参照。
(8)『聖ベルタン修道院年代記』からのK=フォルストロイターによる引用の、阿部謹也氏による和訳。Johann von Ypern,
MGSS,Bd.25,P.796 .zitiert nachForstreuter
.P.17.(Chronicon S.Bertini).筆者は原著未読。阿部謹也、1974年、36頁・47頁註(5)。(9)阿部謹也、1974年、41頁。
(
10)Narratio de Primordiis ordinis Theutonici . 引用はM.Toppen,Scriptores Rerum Prussicarum ,からの山田作男氏による和訳。筆者は原著未読。山田作男、1994年、153頁。(
11)Narratio de Primordiis ordinis Theutonici . 引用はM.Toppen,Scriptores Rerum Prussicarum ,からの山田作男氏による和訳。筆者は原著未読。山田作男、1994年、158〜159頁。(
12)山田作男、1994年、158頁。(
13)Narratio de Primordiis ordinis Theutonici . 引用はM.Toppen,Scriptores Rerum Prussicarum ,からの山田作男氏による和訳。筆者は原著未読。山田作男、1994年、155頁。(
14)阿部謹也、1974年、44頁。山田作男、1994年、155〜156頁。(
15)H=ハインペル、1975年、97頁。M=ブロック、1995年、538頁。(
16)阿部謹也、1974年、41頁。(
17)橋口倫介、1971年、187頁他。(
18)M=ブロック、1995年、537頁。(
19)阿部謹也、1974年、41〜46頁。ドイツ騎士修道会会則でドイツ人以外は入会を拒絶することが明文化されたのは十五世紀からである。佐々木博光、1989年。しかしそれ以前からドイツ人が圧倒的主流であったこと、この団体がドイツ人の排他的集団と見なされていたことはほぼ確実である。阿部謹也、1974年、50〜51頁他。H=プレティヒャ、1982年、245〜246頁。(
20)東方植民運動に関しては阿部謹也、1974年、148〜160頁。W=コンツェ、1977年、13〜15頁。林健太郎・野崎直治他著、林健太郎編、『世界各国史3 ドイツ史 増補改訂版』、山川出版社、1993年、119〜123頁。伊東孝之・直野敦他監修、1993年、309〜311頁。(
21)林健太郎・野崎直治他著、林健太郎編、1993年、120頁。(
22)林健太郎・野崎直治他著、林健太郎編、1993年、120頁。(
23)W=コンツェ、1977年、14頁。(
24)H=ハインペル、1975年、97頁。(
25)阿部謹也、1974年、40頁。(
26)実際には一般の帝国ミニステリアーレンは自身の社会的上昇・勢力強化に力を注いだため自由貴族との融合や多数の封主との結合を果たす者が多く、皇帝の期待に背く形になったのである。H=ミッタイス、1971年、310頁。北嶋繁雄、1968年。(
27)シュタウェン家の帝国政策に関しては阿部謹也、1974年、45〜46頁・110〜112頁他。山田作男、1953年論文。神聖化に関しては榊原康文、「ビトントの説教壇レリーフとフリードリヒ二世の皇帝理念」、『北大史学』33、1993年。(
28)H=ハインペル、1975年、123頁。(
29)H=ハインペル、1975年、108頁他。(
30)阿部謹也、1974年、68頁・75頁。フリードリヒ二世を王位に即けること自体は教皇の計画でもあった。皇帝の勢力を導入することで十字軍を強化するためである。ここにも教皇と皇帝の競合の性質の微妙さが表れている。(
31)プロイセンを中心とする北方への勢力拡大を巡る抗争に関しては、阿部謹也、1974年、108〜121頁。H=ハインペル、1975年、113〜125頁。山田作男、1958年論文・同1978年論文。(
32)阿部謹也、1974年、114頁。教会の伝道理念の一端としては山内進、「私の羊たちを飼いなさい(Pasce oves meas)−インノケンティウス四世と異教世界−」、『一 橋論叢』第116巻第4号、1996年を参照。(
33)具体的にどのような書簡からの抜粋であるかは不明だが、1229年のフリードリヒ二世のエルサレム王載冠式以後のものと思われる。H=ハインペル、1975年、110頁。(
34)本節の考察は主として阿部謹也氏の研究を基礎としたものである。阿部謹也、1974年(
35)阿部謹也、1974年、298〜303頁他。山田作男、1994年、8〜9頁他。(
36)H=ハインペル、1975年、127頁。ノルマン朝ルッジェーロ二世が建国したシチリア王国は高度に集権化された統一国家であり、早期から法律と行政文書保存が重視され、財務や司法なども「近代的」に整備されていた。H=ミッタイス、1971年、337頁他。M=ブロック、1995年、518頁。(
37)騎士修道介《国家》の計画性とプロイセンという地域社会からの乖離に関しては阿部謹也、1974年、304〜308頁他。おわりに
(1)山内進、1997年、60〜61頁。
(2)阿部謹也、1974年、346〜347頁。
(3)阿部謹也、1974年、148〜149頁他。山内進、1997年、274頁以降。