1603年、ジェームズ1世の即位によって、イギリス史はステュアート朝の時代に入る。このステュアート王朝期の約100年の間に、イギリスは2度革命を経験し、歴史における一つの重要な転換点を迎えた。この時代には、イギリスのみならず、ヨーロッパ諸国においても何らかの危機がみられた。「17世紀の全般的危機」とされているこの危機は1620年代の経済不況とともに始まり、およそ1世紀間続いた。これには人口の減少や停滞、生産、特に毛織物工業にみられた極度の収縮、またそれと並行した国際商業の不振などがあげられる。(1)
中世のイギリスは羊毛輸出国として知られており、15世紀に毛織物業が急速に発達し、16世紀前半には毛織物の大輸出国となっていた。さらに、1530・40年代に、王室財政の危機打開策として、通貨の悪鋳が繰り返されると、ポンドの為替レートが暴落して、イギリス産毛織物は外国の人々にとって安価なものとなり、輸出量はたちまち倍増した。毛織物の輸出が激増すると、必然的に羊毛価格が上昇し、牧羊業が利益の多い産業になった。トマス・モアが「羊が人間を食う」(2)と評した第一次囲い込み運動が起こったのは、このような背景においてである。「開放耕地(オープン・フィールド)」をあらため、垣根などで囲って境界を明確化した。この時代の囲い込みは、耕地の牧場化を伴った点に特色がある。囲い込みはまた、薪を採ったり、家畜を放牧したりできる共有地をなくしてしまったため、貧農は生活の基礎を失い、賃金で雇われる以外に生きるすべがなくなった。一方で、囲い込みを実践したジェントリーやヨーマンらの地主は、ますます富裕になって農業以外の企業活動にも手を染めていくことになった。
しかし、16世紀半ばには、経済の状態は一変した。「悪貨は良貨を駆使する」という警句で知られるサー・トマス・グレシャムが登場して、1551年に通貨の品質改良に乗り出したため、30年代とは逆にポンドが強くなり、輸出が激減した。(3)この状態はそれほど長くは続かなかったが、やがて毛織物の最大の輸出先であったアントウェルペンが、ネーデルラント独立戦争によって封鎖された結果、このヨーロッパ最大の国際市場は一挙に衰退し、イギリスも毛織物の市場を失うことになった。その後、16世紀後半になって、イギリスでは「新毛織物」やガラス製造、製紙、製塩、石鹸製造等々の新しい製造工業が多数出現し、特に石炭業が著しい発展を見せた。この現象は「初期産業革命」と呼ばれており、これらは、たばこや染料用植物の栽培、探検・植民活動などと同じく、「旧毛織物」工業の不振と人口増加によって、決定的に不足してきた雇用の増加を狙って、ジェントリー層が始めたものであった。(4)
初期産業革命が進展していたとはいえ、16・17世紀のイングランドでは、なお人口の大半が農業に従事していた。16世紀は「価格革命」の名が与えられるほどの物価騰貴の時代であり、穀物価格や地代は激しく上昇し、毛織物や職人の日当などはごく僅かしか上昇しなかった。これは物価騰貴の基本原因が激しい人口増加にあったことを示している。事実、1522年に230万人程度であったイングランドの人口は、1603年には310万人以上になったといわれる。(5)
人口が増えると食糧の需要も増すが、農業に適した土地は限られているため、食糧の生産が追いつかずに、食糧品が急騰する。他方、人口が増えると労働力は過剰気味になって、賃金は激減する。加えて、食糧が騰貴すると、羊毛などの工業用原料や、動力源である馬などの家畜も増やすことができなくなり、やがて製造工業や商業においても雇用は増えなくなった。こうして、16・17世紀には、人口増加の圧力を農業が支えきれず、危機的な状況が生じていた。北部や西部の辺境では飢饉が繰り返され、時には食糧暴動が発生した。特に、1620年代には、東欧で通貨が悪鋳されて、イギリス商品が割高になったうえに、三十年戦争の影響をも受けて、危機は政治や社会の体制を揺るがすほどに深刻化したのである。
しかも、ステュアート朝を開いたジェームズ1世は怠惰な上に浪費家であり、更に悪いことに、彼は多くの役職を、国民の信頼をつなぐ地位とは考えず、自分の友に分配すべき商品だとみなした。「彼は役柄に適した人材を選ぶのではなく、家来に役をただくれてやったのである」(6)とトレヴァ=ローパーは述べている。こうすることによって、彼は公徳心の低下を急速に押し進め、かつ、イングランド国民をも離反させる結果となった。国民からすれば、我が身を委ねている国の多くの役職が、スコットランド人や取り巻き連中の手に渡って行くのを見るのは忍びなかった。
当時の政治においては、財政問題が特に目を引くが、封建法上国王がもっていた後見権と徴発権に対しても反感が強まるばかりであった。更に、国王大権によって課せられる輸入付加金などの課税問題をめぐって、庶民院では国王権力によってなされる経済規制への反発も巻き起ころうとしていた。宗教問題についても論争の火種はつきず、国王権力に対する庶民院の反発は強まるばかりであった。
前述のような、多くの問題をかかえた17世紀の様々な機会を得て、社会的に、また政治的にも上昇してくる人々がいた。それがジェントリーと呼ばれる人々である。彼らはもともと「平民」の出自であり、「貴族」とは一線を画す存在であったが、17世紀の社会変化を上手くとらえて、自らの地位を上昇させ、貴族社会へ進出するに至った。まずは、彼らジェントリーの登場過程を時間的に追っていこうと思う。
ジェントリーの起源は、西ヨーロッパにおいて中央統制が弱まった、封建制度の成長期に求められる。1066年のノルマン・コンクェスト以降、封建制度が確立するに従って、主君である王の保護と土地の給与に対して、家臣である諸侯たちの臣従と奉仕の関係が成立した。さらに、諸侯が彼らの家臣たちと同様の封建関係を結んでいく中で、貴族や修道院長などの貴族位にある大領主層と、騎士、地方ジェントルマンなどの平民の小領主層との間に、はっきりとした線が引かれるようになった。この後者のグループが大領主層と農民層の間に位置する中産の地主階級(ジェントリー)であった。彼らは地方の経済生活において、当時発展しつつあった企業家的階級をも包括していた。(7)
14世紀に入ると、ジェントリー層に自由保有農から上昇してきた農民、裁判官、州長官などの新しい人々が加わり、その幅を広げていった。この当時、国王が州長官に議会に席を占める二人のナイトの選出を各州から選挙で行うよう指図し、これがジェントリーが直接国の代表となる契機となった。議員としての影響力は、地方での治安判事、州の長官・副長官の任命において、大いに決定的であり、こうして治安判事になった有力なジェントリーは、地方の警察権と裁判権を握るようになった。ジェントリーは地方の治安維持だけでなく、王城の管理人、会計検査官、王の代理人の地位に任命され、これらの任務を果たすことによって中央の権威と地方の業務を結びつける主要な役割を担うこととなった。(8)
ジェントリーは王のための役職に就くことや政治的、行政的領域での成功だけではなく、拡大する経済の中で上手く機会をとらえることでも上昇し、直営地管理の成功、農地の牧場への転換、製粉場の貸出し、鉱物資源の開発などにより、ジェントリーの数は増大した。結婚によって成功するものもいた。
16世紀は、人口と貿易が一世紀あるいはそれ以上の衰退期の後に再び急速に成長した時代であった。16世紀はじめから上昇傾向を示し始めていた物価は上昇し続け、15世紀の後半期と1640年との間に、羊毛価格は4倍、木材は5倍以上、農産物は6倍以上、家畜・穀物は7倍以上に上昇した。(9)こうした市場傾向の利点を手にすることができる地位にあったのは、市場に出しうる余分の羊毛、木材、穀物、家畜を持っていた地主であった。また、14・15世紀の不景気の時に土地を借り受けた借地農も、市場が活発になると自己の生産物からより高い収入を獲得することができた。というのも、地代がほとんど固定されていたため、生産力の上昇によって生じた余剰生産物が借地農のもとに蓄積されていたからである。直営地の借地農はかなりの資産家となった場合もあった。こうして、地主や借地農らは富を蓄え、彼らもまたジェントリー層に加わっていくことになった。
1536年と1539年に行われた修道院の解散もジェントリーの興隆をもたらした。修道院の解散により、その土地は国王の手に入り、国王は徐々にその土地を売り始めた。1542年から47年の間に、土地の約3分の2が売却され、1558年までに4分の3が売却された。1540年代にピークを迎えたこの土地売却は、土地を拡大して上昇しようとする専門職の人々、商人、政府の役人や既存のジェントリーなどにとって上昇する大きな機会であった。また、分散していた修道院の土地を買い集めるジェントリーもいた。ノーフォークでは土地購買者の多くは、すでにその地方で有力なジェントリー層であったウィンドハム家やタウンゼント家などであった。(
10)修道院の土地は、おそらく多くがジェントリーの手に入ったと考えられる。ノーフォークにおいて、この州の1,527マナーのうち、ジェントリーの所有マナー数は1545年までに977から1,094へと増大し、1565年には1,181に上昇した。その後、国王が67マナーの所有者となり、貴族は159、教会は91、大学、病院その他の施設は29のマナーの所有者となったが、この数字から、ジェントリーが全マナーの4分の3以上を所有していることがわかる。(
11)17世紀後半から18世紀初頭にかけては、イギリスにおいて、植民地帝国の形成とそれを背景とした貿易の劇的発展がみられた。1660年の王政復古からアメリカ独立戦争直前の1775年までの約1世紀間に、貿易の規模が、それまでとは対照的に、劇的な上昇を記録し、それにともなって貿易相手地域が、カリブ海・北米の植民地を中心に、東インド会社の活動したアジア、奴隷貿易の展開したアフリカに急展開した。植民地を核とする貿易の展開は、イギリスの社会や経済にも決定的な影響を与えたことから、これらの変化全体は「イギリス商業革命」と呼ばれている。
こうして商業革命が展開すると、イギリス国内では貿易商人の地位にも大きな変化が起こった。17世紀初めまでのイギリスでは、大地主である貴族とジェントリーが支配階級を形成していたのに対して、商人や製造業者は「卑賤」な階級とみなされており、ジェントルマンが商業を行なえば、ジェントルマンの資格を失うとみなされていた。しかし、17世紀半ばから商業革命が展開すると、外国貿易商の地位は急速に改善され、もはや地主ジェントルマンにも似た「高貴」な職業とみなされるようになったのである。また、商業革命は、ロンドンやブリストルのような港町を発展させ、従来では考えられなかったほどの大都会が成立した結果、都市的な生活文化が広がっていくことになった。
こうして上昇してきたジェントリーの序列は、1611年にジェームズ1世によって創設された新位階である「バロネットbaronets(準男爵)」と、「ナイトknights(騎士)」、「エスクワイアesquires(郷士)」、「ジェントルマンgentlemen(単なるジェントルマン)」の4つに分類される。全人口中に占める比率は、16世紀初頭で1から2パーセント、17世紀末でもおよそ3パーセントにすぎない。しかし、各序列別の家族概数でみると、15世紀末に聖職貴族を除く貴族60に対して、ナイト500、エスクワイア800、ジェントルマン5,000であったものが、17世紀末になると、貴族160に対して、バロネット800、ナイト600、エスクワイア3,000、ジェントルマン12,000に増加している。(
12)16・17世紀は、意欲のある人々にとっては成り上がるための良い機会だったのであり、様々なかたちで富を得たジェントリーは、準貴族ともいわれ、最上層の貴族と中間層であるヨーマンとの間に位置する、一つの社会集団を形成するにいたったのである。では、ジェントリーが様々な機会をとらえて、社会的に、また政治的に上昇して、近づいていった貴族の世界とはどのようなものだったのであろうか。
イギリスにおける、爵位を持つ公爵Duke、侯爵Marquess、伯爵Earl、子爵Viscount、男爵Baronら貴族の数は極めて少ない。1603年の貴族の数はわずかに55名で、1641年でも121名にすぎず、同時期におよそ2万もの貴族がいたフランスと比較すると、その少なさがより感じられる。(
13)各貴族は、単に爵位を与えられるのではなく、その所領、領地も与えられ、爵位名の多くは領地名に由来している。ベドフォード公、ノーサンバーランド公などは爵位名と領地名が一致する好例であるが、マンチェスター公のようにそこに近い領地を持つだけであったり、ノーフォーク公のようにノーフォークにはわずかな土地しかなく、所領の大部分はサセックス、シェフィールドなどに持っているということもあった。(14)貴族にとっては、平民との結婚は考えられないことであり、あってはならないことであった。貴族は結婚に際して、領土と財産の維持のために、家系の存続が第一義であり、結婚は愛情が優先するのではなく、家系継承者を得ることが優先された。従って、持参金の多い、かつ相続権を持つ男兄弟のいない娘を嫁に迎えることが第一の希望であった。特に、公爵家では、公爵家に見合う貴族の家系に限度があり、限られた範囲内での結婚は血族結婚となることが多く、やがては狂気の因子や身体障害の種を家系に持ち込むことにさえなった。(
15)こうした彼ら貴族たちの生活は奢侈に終始していた。ステュアート朝のジェームズ1世の即位によって、14世紀から16世紀末まで敷かれてきた贅沢禁止法が一括して廃止され、これ以降イギリス社会は、奢侈に基づく消費が新たな需要を呼び、それが社会発展の動力となる、という主張で満たされるようになった。イギリス経験論哲学の創始者ジョン・ロックも、「虚栄心」や「富の誇示」から生み出される「国民の贅沢な流行」は、「販路を減少するよりもむしろ増加する」(
16)と指摘している。ここでいう「国民」は富者のことであり、富者の奢侈的消費による経済効果に注目していることが見受けられる。そのような風潮のもと、貴族たちは自らの富を誇示するために、互いに競って奢侈を行った。彼らの奢侈・浪費ぶりは、レスター伯では、年間収入も消えるに十分であったといわれるほどのエリザベス女王への饗応や贈物の費用は、1575年のケニルワースにおいて行われたもので6,000ポンド、また、埋葬費には3,000ポンドをかけるほどであった。当時は、訴訟も頻繁に行われていたのであるが、訴訟件数の増加・法の不備に基づく費用の加算・長期化により、破産に瀕した旧家もあった。バークレー対ダッドレーの訴訟の場合には、バークレーは10週間の訴訟費用に1,800ポンドを要した。他にも、多大な費用を要する建築、ロンドン生活、結婚、ギャンブル、公務などがあり、特に当時の公務は、自発的奉仕の原則に立っていたため、多額の借財を残すこともあった。なかでも、最大の例はエセックス伯の48,000ポンドであった。(
17)17世紀末の、貴族の平均年収が2,800ポンドであったことを考えれば、その「私的奢侈」の甚だしさがみてとれる。そうした奢侈をして過ごしている貴族にも時代の流れは押し寄せてきた。新しい活動や機会に適応していくことが出来るグループは上昇し、出来ないグループは沈んでいく。両者ともその例は各階層の中に見出しうるが、「領主財産の危機」を深刻に感じ、またそれを克服するのに大きな困難につきあたったのは、身分の低い家系の新しい人々よりも、家柄の古い複雑に分散した所領と様々な公務をもつ貴族階級の人々であった。(
18)そのような名門旧家は大きな所領を受け継いでいるとともに、しばしば大きな負担をも受け継いでいた。その経費は以前と同じく大きなものであったのに対し、収入は以前通りではなくなっていた。貴族の一部では、特に旧貴族の財産は、まったくの見かけ倒しということも少なくなかった。それは凍結資産のようなもので、現金化は困難であった。彼らの所領の構造や組織は、すでに時代遅れなものとなっており、その財産は、収益性のあるものよりも、収益性の少ない定期市や市などの特権や、自由保有地や謄本保有地などが多かった。
さらに、貴族の政治的重要性にも変化が起きていた。中世においては貴族は政治の中枢にあったが、エリザベス1世の治世になってからは、貴族以外のものも政界に登用されるようになり、政治は貴族のみの特権ではなくなっていた。イギリス貴族の力と特権は初期ステュアート朝のもとで、一時的なものではあったが、深刻な衰退を経験し、16世紀後半には彼らの多くは財政的危機に見舞われた。彼らが経済的に立ち直った場合でも、それはしばしば自分らの小作を犠牲にしてのことであり、ステュアート朝の諸王が現金欲しさに爵位を売買したために、その位も価値を失った。彼らの多くは、不在地主となって、人々から嫌われた宮廷に寄生する存在となったのである。(
19)それゆえに、実質の土地所有者の多くは貴族ではなく、バロネットやナイト、エスクワイア、単なるジェントルマンなどのジェントリー層であった。貴族の衰退を、マナー(所領)を一つの財産の算定単位としてみてみると、シドニー家の場合では、1575年にリンカーンシア、ラトランド2州に年収約350ポンドの15マナー、サセックス、ケント2州に年収約150ポンドの2マナーを所有していたが、1600年までに、北部諸州の全マナー、すなわち所有マナー総数の60パーセントを売ってしまった。(
20)それは1575年度の総収入でいえば28パーセントにすぎないが、それでも、マナーを売ることで、またはマナーを担保に借金をすることで、家計の一部に当てていたことは事実だと考えられ、財政上その必要性があったことは否めないであろう。こうして、王侯・貴族は「私的奢侈と政治的愚行」によって滅び、国王の収入と権威は王領地の現象と共に失われ、これらの減収分をあわせ受け継いだジェントリーの財産のみが増大していった。その総収入は、1600年においてさえ、貴族、司祭、副司祭、僧会、および富裕なヨーマンの全部をあわせた収入の約3倍といわれ、しかも引き続き、農民、貴族、教会、国王の手からすべりおちてくる所領をジェントリーが手中におさめていくことになったのである。