第3章 ケルンにおける大司教・都市参事会とユダヤ人

第1節 大司教と都市参事会

 ドイツ中世都市は、同地における封建的割拠状態の中で強力な自治権を確立していったのであるが、その過程において、諸種の権利をめぐる旧来の都市領主との対立は不可避であった。中世ドイツ最大の商工業都市ケルンにおいても、都市領主であるケルン大司教と都市参事会との間に激しい対立が生じており、その中でユダヤ人保護権に関する問題も1つの争点となった。

 既述の様に、12世紀以降のユダヤ人は皇帝による直接の保護下に置かれていた。しかし、ユダヤ人の存在が国庫所属の財産として見做される様になった13世紀前半、ユダヤ人に関する諸権利は、担保物件または帝国からの封として、各封建領主或いは都市に譲渡されていったのである。1)ケルンにおいては、その権利がいつ譲渡されたかを示す資料は残されていないが、1252年4月には、大司教コンラートによってユダヤ人保護状が発布されている。2)

 このコンラートの在位期間(1238〜1261)は、皇帝の二重選挙に基く大規模な内乱と、いわゆる大空位時代の到来という時期にあたる。彼はこの様な帝国政治の混乱に乗じて、積極的に領邦権力の拡大に努めた人物であった。すなわち、近隣諸侯との戦闘や周辺諸侯領の購入等を通じて支配領域の拡大を図る一方で、アールヴァイラー市の建設、ボン市における城壁の築造等、領邦政策にも力を注いだのである。3)そして、ケルン市及びその周辺領域におけるユダヤ人保護権の獲得も、その様な政策の一環として行われたのであった。

 一方ケルン市側は、1216年に都市参事会を形成して以来、対外政策において近隣諸都市及び諸侯と同盟を結び、自治獲得に向けて力をつけ始めていた。同市におけるユダヤ人は、すでに1106年には他の市民同様に市壁警護の義務を負っており、都市成員としての役割を果たしていた。4)また、この時点における土地台帳には、キリスト教徒とユダヤ人とが区別無く記載されている5)事から、ユダヤ人が租税や取引の面においても、キリスト教徒市民と同様に扱われていた事が推測される。そういった状況の中で発布された1252年の保護状は、ユダヤ人に関する裁判権と徴税権とを主張するものであった為、両者間に深刻な対立を生む結果となった。6)

 この様な対立関係の中、1257年には近隣諸侯を巻き込んだ両者間の戦闘が発生した。しかしこの戦闘の決着は、翌年5人の仲裁裁判官の手に委ねられる結果となっている。この仲裁裁判における都市側の訴えから、両者の争点は「主に裁判権と都市の自由な経済活動に関するもの」であったと思われる。即ち大司教に対する都市側の訴えは、不当な関税を徴収した事、教会裁判権を行使して、度々世俗裁判権を妨害した事等であった。特に後者に関しては、ユダヤ人の問題にも言及が為され、その裁判に大司教が介入する事の不当性が訴えられている。しかしこの訴えに関しては、ユダヤ人に関する諸権利が、帝国から大司教に与えられた封に属すものである事を理由に、完全に棄却される結果に終わった。なお、この翌年大司教は、ケルン市がそれまでユダヤ人から得ていた4ソリドゥスの収入を公認する事で、同市にユダヤ人保護への協力を要請している。これは、都市の協力が得られなければ、ユダヤ人を保護すること自体が困難であったからだと思われる。しかし、この4ソリドゥスという金額が、大司教がユダヤ人から得ていた収入に比べて、極めて少額であった事は言うまでもない。7)

 ユダヤ人保護権をめぐるこの様な関係は、そのまま両者の力関係を反映していたと言える。しかし、大司教コンラートの死と共に、その状況は一変するのである。彼はその在位中に、ライン川下流地域における最強の諸侯としての地位を築き上げたのであるが、その過程で内外に多くの敵対勢力を作る事は避けられなかった。ケルン市を含めたこれら敵対勢力の抵抗運動は、早くも次の大司教エンゲルベルト2世(1261〜1274在位)の時代に激化し、その領邦権力は著しく収縮させられたのである。さらに彼は、ケルン市及びその同盟者との戦闘において3度も捕虜となる失態を犯し、1265年以降14世紀前半に至るまで、大司教はケルン近郊のブリュールに滞在する事を余儀なくされたのであった。この結果、ケルン市に対する大司教の影響力は、大幅に削減される事になった。8)

 そして、ケルン市政における両者の関係を決定的に覆した事件が、大司教ジークフリート(1275〜1297在位)統治下、1288年に発生した「ヴォリンゲンの戦闘」である。この戦闘で捕虜とされたジークフリートは、その後1年以上の間幽囚の身を余儀なくされ、その間に大部分の領地と権利は削り取られてしまったのであった。この事件以後、大司教のケルン市に対する支配権は実質上ほぼ完全に消滅し、ケルン市は軍事及び警察権、関税徴収権、貨幣鋳造権等を、大司教の意志と関係なく自主独立に行使しうる存在となったのである。9)

 大司教の政治的支配を脱したこの時から、ケルン市は事実上自由帝国都市に等しい、強力な自治権を手にする事となった。しかし、その地位は皇帝によって明確に認められたものではなかったため、その後も大司教は名目上ケルン市の都市領主であり続けたのであり、本来ならば都市領主に属するはずの諸権利も、観念的には大司教の下に存続したのである10。特にユダヤ人保護権に関しては、皇帝から大司教個人に与えられたものであった為、大司教は以後も保護状を発布し続ける事になった。しかし1288年を境に、大司教の実質的なユダヤ人保護能力は著しく低下したと考えられ、実際の保護の担い手は都市参事会に移ったものと思われる。また大司教の支配からの完全な独立を目指すケルン市にとって、多額の収入をもたらすユダヤ人保護権を獲得する事は、大司教への対抗策としても不可欠であった。11従って以後は、都市参事会からもユダヤ人保護状が発布される事になり、その結果ユダヤ人は2重の保護主を持つ事になったのである。そこで次節では、両者から発布された保護状が如何なるものであったかについて、見ていきたいと思う。

 


 

第2節 2つの保護状

 1288年以降の保護状として現存する最初のものは、大司教ヴィクボルト(1297〜1304在位)によって発布された1302年の保護状である。9年間という期限付きで発布されたこの保護状では、裁判に関してユダヤ人が与えられていた特権、つまりユダヤ人間の訴訟は基本的にユダヤ人の間で裁決して良い事、ユダヤ人とキリスト教徒間の訴訟はシナゴーグで行われる事、が再確認されている。また税に関しては、決められた保護金を支払うのならば、その他一切の税を免除する事が宣言されている。ここで決められた保護金とは、保護状発布に際して支払われるべき1200マルクと、毎年2回に分けて支払われるべき60マルクであった。そして、この保護状に関して特筆すべき事は、証人として都市参事会員15名の名が連ねられている事である。これは、ユダヤ人保護に関して参事会が発言権を持った結果であると考えられる。12

 都市参事会による保護状として資料上確認し得る最初のものは、1321年に発布されている。この保護状によりユダヤ人は、以後10年間「共住市民samenburgerin13として、その身体及び財産を保護される事になった。参事会によってこの保護状が発布された背景としては、ケルン市がユダヤ人に多額の債務を負っていた事が挙げられる。従って1321年の時点では、保護の見返りとしてユダヤ人から保護金が支払われた形跡はないが、1324年に保護状が再発布された際には、300マルクの保護金が要求されている。さらに1321年の保護状の期限が切れる1331年には、年額1800マルクを2回に分けて支払う事と引き換えに、10年間の保護延長が為された。14

 こうして都市参事会から次々と保護状が発布されていく一方で、大司教ハインリヒ2世(1304〜1332在位)も、1321年、1330年、1331年と立て続けに保護状を発布している。これらの保護状では、以前の大司教による保護状と同じく、税や宗教儀式、裁判等に関する特権がユダヤ人に与えられたのであるが、ここでは特に次の2点に注目したいと思う。まず、ヴィクボルトの保護状においても確認されていた裁判に関して、ユダヤ人を裁く権利は、ラビ15と大司教にある事が強調されている事である。これは、1321年に参事会がユダヤ人間の訴訟の調停にあたる事を決定した事に対して、その権利が従来通り大司教に属す事を主張したものと思われ、ユダヤ人裁判に関して両者の間に対立があった事を示している。そして2点目は、ケルン市に移住してきて同地で結婚したユダヤ人は、年毎の税を免除されるという条項についてである。この条項はそれまで与えられていた如何なる特権よりも友好的なものであり、ユダヤ人のケルン市への移住を促進する事が、大司教にとって重大な関心事であった事を明瞭に表していると言えるだろう16

 なお、ハインリヒによるこれらの保護状に対して、どれだけの額が支払われたかという問題に関しては、1321年、1331年のものについては管見の限り知る事ができない。しかし、1330年の保護状に関しては、ユダヤ人が大司教に8000マルクを融資した見返りとして、10年間の期限付きで発布されており、それと共に年額70マルクの支払いが要求されている。17

 この1330年の保護状は、その有効期限を5年残した1335年、約半世紀ぶりに入市した大司教ヴァルラム(1332〜1349在位)によって、以後7年間有効とされた。しかし、この保護期間延長にあたっては、大司教と都市側との間に対立が起こっている。ここで問題となったのは、都市の名望家層がシナゴーグにおいて、しかもラビの前でさばかれる事についてであった。この事は都市側、特に上層市民にとっては侮辱として感じられたのである。この対立は1335年の保護状には何ら影響を及ぼさなかったが、その期限の切れる1342年、新たに13年間の期間延長が為された際に次の事が定められている。すなわち、「ケルン市民はケルン市の法(ius Colonie)によって裁かれるべきこと、ケルン市およびケルン市民は裁判の際に負担を負うことがない」という事である。18この事は、ユダヤ人保護権に関する都市側の影響力が、この時期かなり拡大していた事を窺わせる。ちなみにこの保護状の同年、1342年には、都市参事会による保護状も大司教同様に13年間の延長措置が取られている。19

 以上、14世紀前半における大司教・都市参事会双方の保護状を概観して明らかな様に、この時期の保護状はどれも期限付きで、しかも多額の保護金と引き換えに発布されている。それ以前の保護状においても保護期間があるにはあったのだが、それは、一定期間の後にさらに契約を更新するか否かを、個々人の裁量に任せる為の期間であった。20保護状自体に期限が設けられる様になった背景には、ユダヤ人を取り巻く状況、もしくは彼等に対する意識に何らかの変化があった事が推測されるが、それが保護主にとって多大な利益をもたらすものであった事は明らかである。つまり保護期限を設けるという事は、新たな保護状の発布或いは保護期限の延長に際して、より多くの収入が得られるという事であった。21従って本稿において繰り返して述べてきた様な、ユダヤ人保護と地方支配層の利益との関係は、ケルン市においても顕著に現われているのである。

 また双方の保護状の内容を見ていくと、ユダヤ人保護に対する両者の姿勢は微妙に異なっていた事が分る。大司教による保護状は、ユダヤ人のケルン市への移住を促進する事を最大の目的とし、彼等に様々な特権を与えるものであった。即ちユダヤ人は、保護金以外の税を免除され、また裁判においてもキリスト教徒より有利な条件を与えられており、彼等は大司教の保護の下で特別団体を形成していたのであった。一方都市側による保護状は、ユダヤ人を飽く迄も「共住市民」として、その保護下に受け入れようとするものであった。従って都市参事会の保護に対する姿勢は、ユダヤ人に与えられた特権に徐々に制限を加えていくものになったのである。1321年に決定されたユダヤ人間の裁判への参事会の介入、1335年の裁判に関する対立等22は、保護におけるこの様な方向性を明らかに示すものであった。

 以上のように、政治的に対立する2者双方から保護状が発布され、しかもその保護に対する姿勢が異なっていた事は、ユダヤ人及び彼等を取り巻く状況にどのような影響を及ぼしたであろうか。この点については、黒死病に基づく1349年の迫害事例を基に、次節において明らかにしてみたい。

 


 

第3節 1349年の迫害

 1349年8月、黒死病に基づく迫害の波はケルン市のユダヤ人にも襲いかかった。ユダヤ人が井戸に毒を入れたとの噂が市内に広まり、23日と24日の夜、市参事会の制止にも関わらず夜陰に乗じてユダヤ人街が襲撃された。多くのユダヤ人が火刑或いは自ら火中に入って犠牲となり、その財産は略奪された上、ユダヤ人街には火が放たれた。2日間での犠牲者は25000人に達したと伝えられる。なお翌年1350年には、ユダヤ人の財産を巡り、大司教と市参事会との間で調停が結ばれている。23

 ここで伝えられている25000人という犠牲者数は、当然著しく誇張されたものであろうが、これは、この時行われた虐殺が相当の規模であった事を示していると思われる。ケルン市においては、1096年の迫害の際、大司教によって一応ユダヤ人保護が達成されたのであるが24、1349年の迫害では、大司教・都市参事会による保護は、共に全くと言って良い程機能しなかったのである。その背景には、ユダヤ人を取り巻く様々な状況の変化があると思われるが、中でも1096年の段階と最も異なっていたのは民衆の反ユダヤ人感情の大きさだったであろう。既に見てきたように、ユダヤ人に対する差別・中傷は、12世紀以降キリスト教社会全域に広く普及していったのである。

 こういった反ユダヤ人感情がケルン市民の中にも定着していた事は、1266年の大司教エンゲルベルト2世による保護状に明らかである。この中で大司教は「余は、ケルン司教区内のユダヤ人が不当な扱いを受けており且つ侮辱を被っている事実を知っている」と述べた上で、ユダヤ人の墓地を荒らす事、ユダヤ人の宗教儀式を妨害する事、ユダヤ人に特別税を課す事を禁じている。従ってこの事は、実際これらの反ユダヤ的行動が、ケルン市民によって為された事を示している。そしてこの様な禁令は、以後度々発布された大司教の保護状から消え去る事はなかったのである。25

 反ユダヤ人感情の増大という現象は、キリスト教社会において全体的な傾向として認められるのであるが、ケルン市においては、それとは別にユダヤ人への反感を掻き立てる要素があった。それは、1252年以降、ユダヤ人が大司教の保護下において特別団体を形成していた事である。彼等が大司教に与えられた税及び裁判等に関する特権は、ケルン市民との間に摩擦を生じさせ、その反感を募らせていくに十分なものであった。26従って前節において述べたように、都市参事会がユダヤ人の特権を徐々に制限していった事は、ケルン市民のユダヤ人に対する不満を代表するものであったとも言えるだろう。

 しかしここで問題となるのは、ケルン市の参事会が少数の都市貴族によって構成されていたという事である。27そのため、市政の運営は彼等の利害に基づいて為されていたのであり、既に13世紀中頃には、都市貴族と一般市民との間に矛盾が発生していた。即ち参事会によって、主に商業に従事する都市貴族に有利で一般市民には不利な租税が賦課された事、或いは、財政の運用が都市貴族に有利に為された事等に基づいて、一般市民の間には大きな不満が広がっていたのである。28そしてこの様な都市参事会の政策は、ユダヤ人保護の面においても強く現われたのではないかと思われる。つまり、ユダヤ人に特権が与えられ、その結果ケルン市へのユダヤ人の移住が促進される事自体は、財政収入の面から都市側にも有利であったと思われる為、参事会によって実施されたユダヤ人への規制措置は、参事会及び都市貴族に都合の悪い特権だけを制限するものになったと考えられるのである。29従って特別民としてのユダヤ人の存在は、都市参事会によっても否定されるものではなかったと思われる。

 以上の様な、都市貴族の利益を最優先した参事会の政策は、ケルン一般市民を経済的に圧迫するものであった。しかしその一方で、「キリスト教徒への永久的隷属を課せられている」はずのユダヤ人は、多くの特権を持って特別団体を形成していたのである。こういった状況は、一般市民のユダヤ人に対する反感を一層強くする事に繋がったと思われる。

 こうして次第に反ユダヤ人感情が高まっていく中で、1310年にはユダヤ人街とその東側の境に壁が作られる事になった。そして1330年には、ユダヤ人襲撃事件を切っ掛けとしてユダヤ人街全体が壁で囲まれ、その入り口には門が作られる事になったのである。30この様なユダヤ人街の隔離は、2重の保護主を持った為に不安定な立場に立たされたユダヤ人が、自衛の為に自ら進めたものであった。しかしこの事は、都市空間におけるユダヤ人団体の異質性を際立たせる結果となり、ユダヤ人に対する差別意識をさらに強める事になったのである。31

 以上のように見てみると、大司教・都市参事会それぞれの利益に基づく保護政策は、主にケルン一般市民の反ユダヤ人感情を助長する事に繋がったと言う事が出来るであろう。また、結果的にユダヤ人への差別意識を強める事になったユダヤ人街の閉鎖化は、両者の間で互いにユダヤ人保護権が主張された為に生じた、ユダヤ人の法的立場の不安定性に起因するものであったと言える。従って1349年の大規模な迫害の下地は、間接的ではあれ、彼等によって形成されたと言っても過言ではないと思われるのである。


おわりに

 中世ユダヤ人迫害において地方支配層の果たした役割を、その金銭的欲求という側面から、原因論の中心に据えて検討する。これが本稿の目的であった。ここで改めて地方支配層という概念を規定するならば、それは次の様になろうかと思う。即ち、地方または都市における権力者として、ユダヤ人に関する諸権利を握っていた者。或いは、その社会的地位を利用して、ユダヤ人を取り巻く状況に影響力を持ち得た地方の有力者である。彼等は、本稿において見てきた様に、種々様々な形で迫害に関与していたのである。

 ケルン市における大司教・都市参事会両者は、曖昧な形ではあれ、共にユダヤ人保護権を行使し得る存在であった。しかし彼等による保護は、少数の弱者を守ろうとするものではなく、専ら自身の経済的利益に基づくものであったと言える。その事は、14世紀以降の保護状がどれも期限付きで多額の保護金を伴った事や、迫害後にユダヤ人の財産に関する調停が結ばれた事に明らかであろう。この様な保護主の利益に基づく保護は、同市における1349年の迫害事例に証明される様に、実際の有事においては全く機能しないものだったのである。従って、こういった両者の保護政策の下でユダヤ人団体の特殊化が進み、結果としてケルン市民の反ユダヤ人感情が増大したであろう事を考えれば、迫害に関して両者の果たした役割は看過し得ないほどに重要であったと言えるだろう。なお、ユダヤ人保護権をめぐる複数の地方支配層の対立という現象は、ケルン市に限らず、シュトラスブルクやエアフルト等複数の都市において確認される。1)これらの都市に関しては、その対立がどういった結果に結び付いたかについて管見の限り知る事はできないが、この事によってユダヤ人のおかれる立場が著しく不安定になった事は間違い無いと思われる。

 迫害の原因形成という立場から見た以上のような地方支配層の役割は、それが彼等によって明確に意識されたものではないという点で、極めて間接的なものであったと言える。しかしその一方で、儀式殺人の中傷に基づく迫害の発端となったノリッジの事例の様に、直接的に迫害に関与した地方支配層の存在も確認される。これらの地方支配層は、自らが迫害に参加する事こそ稀であったが、その財政的欲求に基づいて直接迫害事件に結び付くような中傷を生み出したのである。確かに、11世紀末以降ユダヤ人迫害事件が頻発したのは、民衆の中に反ユダヤ人感情が増大した結果であったと言える。しかしながら、民衆がユダヤ人への虐殺行為に走る為には、その行為を正当化する絶対的な根拠が必要であった。2)そして、それを提供したのが指導的立場にあった地方支配層だったのである。また、直接迫害の原因を作らなかったとしても、事実無根の中傷事件においてユダヤ人に有罪を宣告した地方支配層の役割は、迫害行為の拡大と言う観点から重要であったと思われる。

 中世ユダヤ人迫害における直接の行為者は、そのほとんどが一般の民衆であった。これまでの研究が主に民衆の心理的要因を中心として論を展開していったのは、おそらくこの点に起因するものだと思われる。しかし本稿において見てきた様に、地方支配層は迫害の形成・拡大の面において重要な役割を演じたと思われるのである。とは言え、彼等の迫害に対する関わり方は各都市または地域によって様々であり、それら他地域の状況を見ていく事無しには、地方支配層が迫害に関して果たした役割を一概に結論づける事は出来ない。従ってこの点を検討していく事が筆者の今後の課題となるが、少なくとも、ユダヤ人から上がる利益への関心に基づいた地方支配層の行動は、従来のように二義的に捉えられるべきではなく、迫害における主要な原因の一端として捉えられるべきだと考えるのである。

 


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