第2章 中世におけるユダヤ人迫害

第1節 十字軍の猛威

 第1回十字軍は、周知のように1095年のクレルモン公会議において、異教徒から聖地エルサレムを奪還する目的で提唱された。このウルバヌス二世の呼びかけは、空前絶後ともいえる宗教熱の高揚を引き起こした。十字軍の目的がキリストの敵を征伐することにある以上、最も身近な異教徒、「キリストを殺した」ユダヤ人が真先に攻撃目標とされるのも自然な成り行きであったと言える。この第1回十字軍による迫害は、ユダヤ人迫害史における重要な転換点となった。それまでに迫害事件が全くなかったわけではないが、以前のそれは散発的且つ比較的小規模なものだったのである。1)

 最初の迫害は、早くもクレルモン公会議直後の1095年12月、フランスのルアンにおいて発生した。狂信的な十字軍志願者達は武器を手に取り、同市のユダヤ人をシナゴーグに詰め込んだ。そしてそこから引きずり出して性別、年齢に関係なく無差別に殺害したのである。しかしこの時、「キリスト教信仰に帰依することを同意した者は虐殺の脅威を免れ」た。2)

 ルアンの事件に見られる「シナゴーグの襲撃」、「洗礼か死かの二者択一」という要素は、この時代のユダヤ人迫害に共通したものであった。そしてこういった迫害の論理となったのは、キリストの最大の敵であるというユダヤ人観である。教皇グレゴリウス1世(590〜604在位)以後教会の公式見解は、ユダヤ人は終末にあたってキリスト教に改宗するであろうから、その存在は許容すべきであるとしていた。しかしこの考え方は、一般の民衆には理解し難かったに違いない。3)

 ルアンの事件後、北フランスのユダヤ人共同体は、ライン川流域の全共同体に向けて同様の事態がおこる危険性を知らせた。しかしながら、ラインラントの共同体は十字軍による迫害の危険をさほど感じていなかったと思われる。なぜならば、当初ドイツでは十字軍の呼びかけがフランスほどの熱狂を引き起こさなかったし、また同地のユダヤ人は当時西欧において最も繁栄しており、皇帝や司教から約された保護を確信していたからである4)

 しかし、フランスを出発した十字軍が近づくに連れて、ドイツでも宗教熱が急激に高まり、当然のごとく同時に反ユダヤ人感情も高まった。この様な状況の中で、ハインリヒ四世は全封臣にユダヤ人の保護を命じた。5)にも関わらず、ライン川流域のほぼ全ての共同体が壊滅的な被害を被る事になるのである。以下、シュパイエル、ヴォルムス、マインツの3都市について、その迫害の状況を詳しく見ていく。

 ドイツにおける迫害は、まず1096年5月3日、シュパイエルにおいて始まった。この日、ライニンゲン伯エミーヒョ6)の部隊がシナゴーグを急襲した。当日がユダヤ教の安息日であったため、大勢のユダヤ人が集まる礼拝時を狙ったが、予め危険を察知したユダヤ人は礼拝を早めに切り上げており、その時中には1人もいなかった。その後兵士達により、市内の11人のユダヤ人が殺害された。シュパイエル司教は、「武装兵を引き連れ、暴徒を捕えてその腕を切り落とすといった断固たる態度で臨み、騒動を制圧した」。7)

 ヴォルムスでは5月18日と25日に、同じくエミーヒョの部隊によって多くのユダヤ人が殺害された。ヴォルムス司教は司教館にユダヤ人を匿ったが、十字軍の圧力を受けてキリスト教への改宗を勧めた。やがて十字軍兵士が司教館に乱入し、中にいたユダヤ人を殺害した。乱入した者の中には、近在の農民も含まれていた。その後市内でも殺戮が行われ、ヴォルムスでは2日間で約800人のユダヤ人が犠牲となった。8)

 さらにエミーヒョの部隊はマインツに向かい、ここでフランスやイギリスから来た他部隊と合流した。シュパイエルとヴォルムスでの事件を既に知っていた共同体の有力者は、マインツ大司教や世俗領主などに、約400ゼクキム(zekukim)の銀9)を贈って保護を約束させた。大司教は、エミーヒョの部隊を市内に入れないように命令していたが、5月27日、反ユダヤ的な一部市民によって市門が開放された。大司教は大司教館に多くのユダヤ人を匿い、両者の交渉の仲介をしたが、やはりここでも攻撃を回避することはできなかった。ユダヤ人も戦える者は武器を取って抵抗したが、十字軍士の圧倒的な数に屈した。大司教やその家臣は、身の危険を感じて逃げ出していた。27日から29日にかけての虐殺で、1000人前後のユダヤ人が犠牲となり、マインツの共同体は壊滅した。10

 その後もエミーヒョの部隊の一部によって、多くの都市のユダヤ人が襲撃されたが、シュパイエルの様に迫害が初期の段階で食い止められる事は稀であり、ほとんどの場合、約束された保護は実質的な機能を果たさなかった。大部分の保護者にしてみれば、保護の見返りとして如何に多額の支払いが為されたとしても、それは自らの命と引き換えに出来るものではなかったのである。また、大多数の人間が社会からユダヤ人を一掃しようとしている状況の中で、ユダヤ人を保護する事は、それら全てを敵に回す事を意味していた。従って、例え自身が直接的な危険に晒されなくとも、保護の約束を守り通す事は割の合わないものと感じられたに違いない。11

 1096年における反ユダヤ人感情は、保護が約束された時点のそれとは比べ物にならないほど増大していた。これは、キリスト教においてかなり初期の段階から存在していた「キリスト殺し」としてのユダヤ人観が、宗教熱の高揚に伴って一気に表出された結果に他ならない。しかしそこには同時に、商業や金融業において成功を収めた、裕福なユダヤ人への反感も存在していた。その証拠に、前述の各都市において暴徒となってユダヤ人を襲ったのは、旧来の都市領主や、都市や農村の貧民層であった。キリスト教徒の商人を含めた上層都市民は、個人的にユダヤ人を匿い、保護している。12また、十字軍の資金が、原則として自弁であったことから、大部分の十字軍部隊が資金不足の状況に陥ったという事も、迫害を促進する原因となった。遠征途上で窮乏した彼等はユダヤ人からの略奪という手段を採ったのである。唯一ユダヤ人迫害をしなかったと言われる隠修士ピエールの部隊は、彼の部隊に食糧を供給するよう各地の共同体に要請した書状を、北フランスの共同体から受け取っていた。13

 この様に、1096年における反ユダヤ人感情の増大は、宗教的憎悪に様々な経済的要因が結び付いた結果であった。そしてその様な状況の下では、個々の領主たちと結んだ保護の約束は、ほとんど無力である事が明らかになった。1103年のラントフリーデ以後、ユダヤ人が順次皇帝個人の保護下に組み入れられていったのは14、以上のような背景によるものであったが、その保護規定に定められたユダヤ人の地位が、ユダヤ人を蔑視する傾向を助長した事は、前述の通りである。

 


 

第2節 儀式殺人と聖体冒涜

 1096年以後、それまでユダヤ人とキリスト教徒との間に成立していた、日常的な平和共存関係は崩れ去った。1度増大した反ユダヤ人感情は、第1回十字軍が終わりを告げた後も容易に消え去るものではなく、また、「第2級の人間」、「キリスト教徒の奴隷」としてのユダヤ人観は、広く民衆の中に定着する事となった。この様な状況の中で、ユダヤ人に対する数々の根も葉もない中傷が生まれた。中でも多くのユダヤ人迫害事件を引き起こす切っ掛けとなったのが、ここで取り上げる儀式殺人と聖体冒涜の中傷である。

 儀式殺人とは、ユダヤ人がキリスト教徒の少年を誘拐し、キリストの受難に見立てて殺害した上で、その血を祭儀のために用いている、という中傷である。この中傷に基く事件として資料上確認できる最初のものは、1144年、イギリスのノリッジで発生した。そしてここから、イギリスの周囲の都市、さらには大陸へと中傷の波は伝播していくことになる。15以下、具体的にいくつかの迫害事例を挙げてみたい。

 1171年、フランスのブロアで起った事件の契機は、あるキリスト教徒が、ロアール河畔で子どもを処分するユダヤ人を目撃した、という報告であった。結局遺体は発見されなかったが、ノリッジの事件が伝わっていたこともあり、ユダヤ人による子供殺害事件と断定された。結果40名のユダヤ人が投獄され、内31名が火刑、残りは千ポンドと引き換えに釈放された。16

 1255年のイギリス、リンカーンの事件では、あるユダヤ人の結婚式の翌日に、3週間前から行方不明になっていたヒューという名の少年が、ユダヤ人街の汚水槽17から死体となって発見された。容疑者であるユダヤ人が、拷問された末に、儀式のために殺したと自白した。この事件に関係したとされる994名のユダヤ人は、ロンドンに連行された上で投獄された。少年ヒューは聖人に認定されている。18

 1235年、ドイツのフルダでは、あるキリスト教徒の家が焼け、焼け跡から5人の子供の死体が発見された。ユダヤ人が儀式のために殺したといううわさが広まり、拷問によって自白を強要された。フルダのユダヤ人は、ちょうど同市に到着した十字軍によって殺害された。1285年にミュンヘンでおきた同様の事件では、シナゴーグに逃げ込んだユダヤ人180名が、建物ごと焼き殺された。19

 これらどの事件を取ってみても、ユダヤ人を犯人と決定する証拠は、キリスト教徒側の曖昧な証言や拷問の末の自白などである。またブロアの事例の様に、遺体すら発見されない場合であっても、ユダヤ人の犯罪は立証されていった。ユダヤ人は、その教義上人間の血の使用は厳禁されており、無論殺人も強く禁じられている。彼等が儀式のために殺人をするなどという事は、少し教養のある者ならば、明らかに誤りだと分ったはずである。実際、教皇インノケンティウス4世や皇帝フリードリヒ2世は、この中傷を事実無根であるとして非難している。20しかし、この中傷による事件は中世を通して頻発した。そこにはどのような背景があったのだろうか。

 まず挙げられるのが、地方の教会が抱える問題である。儀式殺人が最初に確認されるノリッジ大聖堂の近辺には、聖ベリ・エドマンズ修道院やイーリ修道院があった。前者は、869年デーン人により殺害、殉教死した聖エドマンド王の聖遺物をまつり、後者は、聖女エセルフレダの聖遺物を持っている。ノリッジ大聖堂は裕福であったが、この二つの修道院に比べて魅力にかけ、巡礼者を惹きつける事ができなかった。そこで少年の遺体が発見されたとき、絶好の機会とばかりにその罪をユダヤ人に着せ、良き聖遺物を手に入れようとしたのである。十字軍に前後して巡礼に対する関心が高まっていた状況の中で、魅力ある聖遺物を持っている事は、財政的に非常に有利であった。少年の聖遺物を得たノリッジ大聖堂は、13世紀後半にはノフォーク州近隣において、聖ベリ・エドマンズ修道院に次いで裕福な大聖堂となっている。21ノリッジ以外にも、数カ所で被害者の少年が聖人とされている22が、おそらく同様の効果をねらったものであろう。

 さらに、ユダヤ人を犯人にでっち上げる事には、支配者側にとって他の財政的利点があった。すなわち、投獄したうえで、多額の釈放金を受け取ったり、処刑したユダヤ人の財産を没収する事ができたのである。また、事件が地方領主や民衆による迫害につながった場合には、常にユダヤ人の財産は略奪されている。

 以上から考えると、ユダヤ人の財産を虎視耽々とねらう者にとって、儀式殺人が真実であるか否かは問題ではなく、ただ巨額の財政収入を得る絶好の機会として捉えられていたように思われる。市参事会のメンバーやある程度高位の聖職者などの中には、儀式殺人が事実無根の中傷である事を知っている者が多くいたであろう。しかしそれを承知の上で、自らの利益を追求するためにユダヤ人を有罪にしていったという事は、十分に考えられる。教皇や皇帝の非難にも関わらず、儀式殺人の中傷が頻発したのは、こういった理由によるものと思われる。

 では、聖体冒涜の中傷はどのように、またなぜ広まったのだろうか。この中傷は、1215年23以後教会の公式教義として採用された、化体説に基づいて生み出されたものである。この化体説とは、聖餐のパンとぶどう酒はキリストの血と肉に変化するとしたものであり、その恩恵に与る事が救済の必須条件とされたのであった。化体説の普及に伴って、キリスト教徒は、「キリスト殺しの重罪を犯した邪悪な民族の末裔であれば、キリストを虐待し、その受難を再現するために、聖体の中に実在するキリストを念頭において聖体を冒涜する事は、十分にありうるのではないか」、と考えるようになった。24

 つまり聖体冒涜の中傷とは、儀式殺人におけるキリスト教徒の少年が聖餐のパンに置き換えられたもの、と言う事が出来る。従ってこの中傷に基く迫害の経過と結果に関しても、儀式殺人の場合と酷似したものであった。聖体冒涜の中傷においては、作為的に血をつけたパンや、パンに赤い黴を生やしたものが事件の証拠とされ、これらが教会に展示されて、巡礼者を呼び寄せた。25また処刑や虐殺にあたっては、やはり財産の没収や略奪が行われている。

 以上2種類の中傷事件において、地方支配層がその財政的欲求に基づき、積極的な関与を示したのは明らかな事実である。そして、ここで筆者が強調したいのは、彼等がユダヤ人を裁いたり、時には民衆を煽動できる立場の人間である事。また、特に聖職者については、民衆に知識を与える立場の人間であるという事である。この事を念頭において考えた場合、この種の中傷が一般に信じられる様になり、その結果各地でユダヤ人迫害が頻発した事に関して、地方支配層の果たした役割は重要であったと言えるのではないだろうか。

 


 

第3節 黒死病と共に

 1348年のいわゆる黒死病のときにも、ユダヤ人は中傷の的となった。医者も聖職者もその原因を説明できない不可解な死に、人々はおびえ、これは天罰かユダヤ人の仕業に違いないと考えた。例え天罰だとしてもユダヤ人がそれを招いたと考えられ、いずれにしてもユダヤ人の責任にされる事に変わりはなかった。結局、ユダヤ人が井戸の水に毒を入れたという風聞が広まり、ドイツにおいて多くのユダヤ人が犠牲となった。ペストは、キリスト教徒もユダヤ人も関係なくその命を奪ったため、この中傷がばかげている事は多くの者が気付いてはいた。しかし迫害は止まることなく拡大し、終にはナチス以前のドイツ史上、最多の犠牲者を出すに至ったのである。26

 ドイツにおける一連の迫害は、ジュネーブ湖畔のシヨンでの事件を機に始まった。シヨンの有力者達は、ある1人のユダヤ人を長時間の拷問にかけ、数人のユダヤ人と共に井戸に毒を入れた事を自白させた。この風聞がドイツ地域に伝わり、概して南から北へと迫害の波を広げていく事になったのである。27ここでシヨンの有力者達が採った行動、つまりユダヤ人に自白を強要した事は、先の中傷事件と同様に、彼等に何らかの財政的欲求があった事を示唆するものと思われる。従って本節では、虐殺されたユダヤ人の財産の行方が分っている都市に焦点を絞り、具体的な迫害事例を見ていきたいと思う。

 まずフライブルク・イム・ブライスガウでは、1349年1月1日、井戸に毒を入れた容疑でユダヤ人が投獄されている。その後裁判で1部のユダヤ人が自白した事に基き、多くのユダヤ人が火刑に処された。その際「子供、女性および最も富裕なもの12名は処刑を免れた」。処刑されたユダヤ人の財産は、複数の支配層の間に争いを生じさせた。28

 シュトラスブルクでは、1349年2月14日に同市のユダヤ人2000人が、暴徒と化した市民によって一人残らず焼き殺された。ユダヤ人の家からは、持ち出せるもの全てが略奪されたが、その中には多くの債務証書が含まれていた。ここまでは市民の思惑通りに進んだが、その後市参事会が介入して、略奪物の分け前と、持ち出した債務証書の引き渡しを要求した。結果、参事会が市民の債権者となる事になった。29

 7月24日にはフランクフルト・アム・マインのユダヤ人が犠牲となった。虐殺の詳しい状況及び犠牲者数は分らないが、ユダヤ人の財産処理に関して、参事会と皇帝カール四世、そしてマインツ大司教の間に熾烈な争いが生じた。しかし結局は、市参事会が権利を獲得している。30

 8月23日には、ドイツ最大のユダヤ人共同体のあったマインツで迫害が行われた。6000人と言われる同市のユダヤ人は、武器を手に入れ抵抗を試みたが、敗色が濃くなると自らの家に火をつけて自殺した。31ユダヤ人の財産は都市が相続し、大司教には毎年112マルクが支払われる事になった。32

 12月5日、ニュルンベルクでの迫害の経過は、「まったく不十分にしか伝えられていない」。犠牲者数は570人と言われ、火刑によって処刑された。同市でのユダヤ人迫害は、カール4世によって犠牲者の遺産の確保が前提とされており、数ヶ月前から周到に準備が為されていた。「略奪品の割当ては、都市全体にも、個々の市参事会構成員にも、前もって確保されていた」。33ちなみに、ニュルンベルクはペストによる被害を受けていない都市であった。34

 黒死病に基くこれらの迫害には、先程から繰り返し述べている様な、迫害と財政的欲求との関係が顕著に現われているように思われる。フライブルクの迫害において、「最も富裕なもの12名」が処刑を免れているのは、その一例であると言えるだろう。彼等がなぜ処刑を免れたのか、その詳細は明らかでないが、おそらく、彼等が都市にとって非常に有益な存在であったか、もしくは彼等に負っていた債務を免除させる等の約束を取り決めた結果であったのではないだろうか。また、同じくフライブルクと、フランクフルトの事例からは、ユダヤ人の財産処理に関して複数の支配層の利害が対立している事が知られる。ユダヤ人に保護を約束していた彼等が、その財産の獲得に積極的であったという事は、保護が実質的に機能しなかった事と考え合わせた場合、次の点を示唆するものと思われる。即ち、彼等からユダヤ人に与えられた保護は、人道的配慮を含むものではなく、ただ金銭的配慮のみに基づいた非常に表面的なものであったという事である。そして、ここで特に注目を要するのがニュルンベルクの事例である。同市での迫害は、民衆による暴動を発端とするものではなく、都市参事会と皇帝によって事前に画策されたものであった。従って、少なくともニュルンベルクにおいては、ユダヤ人迫害が多大な利益を得る絶好の機会と捉えられていた事が明らかである。

 しかしニュルンベルクの様な事例がある一方で、黒死病によって大きな被害を受けたにも関わらず、ユダヤ人迫害の起きなかったウィーンやレーゲンスブルクの様な都市がある事も忘れてはならない。35また迫害が行われた多くの都市についても、その経過及び結果に関しては決して一様ではないのである。この様に、迫害が都市によって異なる様相を呈する背景には、関係した支配層やユダヤ人を取り巻く諸状況の違いがあった事が考えられる。従って、こういった迫害の原因について論じる場合には、各都市ごとの個別研究が不可欠であろうと思われる。

 そこで第3章では、ドイツにおいて史料上最も古くユダヤ人の存在が確認される、ケルン市の事例を取り上げてみたい。36その際具体的には、ケルン市における地方支配層、即ちケルン大司教及びケルン市参事会両者の対ユダヤ人政策が如何なるものであったか。そしてそれらの政策が、同市における1349年の迫害にどのような影響を及ぼしたのかと言う事を中心に見ていきたいと思う。


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