ヨーロッパ中世都市

 −リューベックの領域政策を中心に−

友広真弓


目次

はじめに

第1章 リューベック史概観

  1. リューベック前史
  2. ハインリヒ公の都市建設
  3. ハインリヒ以降のリューベック

第2章 市域の形成

  1. 境域設定
  2. 領域政策の開始

第3章 「領域政策」の意義

  1. 領域政策の目的
  2. 政策成功の理由
  3. 領域政策の性格の変化

おわりに

参考文献一覧


はじめに

 ヨーロッパ中世都市の研究は19世紀半ば以降、「中世都市成立史」あるいは「起源論」という形でさまざまな角度から議論されてきたが、今日においても一つの結論には至っていない。

 かつて都市生活を知らずそれを嫌って避けさえした1ゲルマン民族の地ドイツに、中世後期になると多数の都市が輩出されたという事実(付録図@)を、どのように説明するのかという問題から、古代ローマ都市連続説2に対して中世都市のゲルマン的起源を説く見解が大半を占めた。しかし、中世都市は何より商工業の中心であり、市場や商人・手工業者の存在が重視されなければならないとして、市場法から都市法の成立が証明された。さらにローマ都市の遺跡・王宮・司教座・城砦などを中心とする市域であるキヴィタスと、市場・商人定住区との二元性を指摘し、後者から都市共同体の発展が説かれたが、その研究は法制史的な色彩の強いものであった。今世紀に入ってピレンヌ3は、経済史的研究から都市形成の原動力として遠隔地商人の意義を強調し、今日の都市研究の主流を築いた。また、中世都市研究の古典的学説として、プラーニッツ4理論が権威ある通説であったことは周知の事実である。

 ピレンヌは中世都市の起源を、商業の発達と都市の動きから、11世紀に始まる商業ルネサンスにあるとしている。つまり商業の発達が最初に見られたイタリアとは、まさに都市の成立が始まった地方であり、それが最も急速に確立された地方である。商業の進展につれて都市の数は増加し、商業によって広まる経路に沿って出現する。それゆえに、彼は商業と工業こそが中世都市を都市と為し、中世都市は商工業の下に成長し続けた、と主張する。

 プラーニッツの学説は、次のようなものである。ヨーロッパ中世都市共同体の源流地は、セーヌ河とライン河に挟まれた地域で、ここはノルマン人の侵入後、北ヨーロッパ遠隔地貿易の中心となる。その際、中心的役割を担った商人たちは、キヴィタスではなくてそことは区別された場所に商人定住区を営んだ。これらの商人たちはキヴィタス市域に居住する全住民を包括する市民宣誓共同体へと発展していった。この市民宣誓共同体は、都市領主との闘争や平和的手段によって自治権を獲得したのだが、市の行政組織を掌握したのは宣誓共同体結成にあたって指導的役割を果たした商人層であった。そしてこのような都市共同体の成立はドイツ都市全体についても妥当することであった、というのがプラーニッツの見解である。

 ヨーロッパ中世都市における1世紀半余の研究の業績を通して言えることは、その研究の多くが中世都市そのものを全面的に考察しようとするものではなく、中世都市の備える様々な側面を、それぞれ異なる立場から把握しようとするものであったということである。そのそれぞれの立場を大きく分けると、経済史的研究と法制史的研究の二つの立場を挙げることができるであろう。

 この二つの立場に端を発したそれぞれの研究が、中世都市の解明に与えた影響力の大きさは言うまでもないが、これら二つの立場からの見解は、両立しない相異点を持っている。その相異点とは中世都市のどのような性格が、都市と農村とを区別するかという点である。経済史的な立場からみた中世都市とは、商業と工業に従事する者を主要な人口構成の要素とする商品流通の市場であり、ある場合には消費の中心地である。一方、法制史的に見た中世都市とは、都市法を有し、自治権を行使し、都市自身の裁判所を持つものを指す。

 この二つの立場による見解が激しく対立するのは、ドイツ中世都市成立年代の認識の相異においてである。経済史的に見ればドイツ中世都市の成立は、経済的に発展の早いライン河岸を中心とする西部ドイツにおいては9・10世紀に遡り、経済発展の遅い東ドイツにおいては12・3世紀とする。法制史的立場からすれば西部ドイツでは11・2世紀、東部ドイツでは13世紀以後とみる。このように両者の間には1〜2世紀の食い違いがある。中世都市成立の問題は長い論争を経てもなお、解決に到達していない。

 さて中世都市研究にあたり二つの立場があることを述べたが、この異なる立場において一つの共通点を挙げることができる。それは両者の研究がどちらも理論の一般化を求めたあまり、それぞれの都市またはそれぞれの地方を単位とする、諸都市の個別的な研究には重きを置かれていなかったということである。これらの研究は地方性の考察を欠いていたという点で、史的事実に沿わないということがないわけではなかった。ところが近年、ドイツにおいて地方誌研究が盛んになるにつれて、中世都市を個別にあるいは地域別に研究しようとする傾向が強まってきた。この傾向に基づくものが、中世都市研究の第3の立場としての、地方誌的研究である。

 地方誌的研究の特徴とは、つまりそれぞれの地方の特殊性―地方性を詳細に研究することである。この場合の地方性とは、それぞれの地方の自然地理的条件を通して考察されることが可能であると考える。地方性を重んじる地方誌的研究は、歴史性と共に地理性を考えるという点で、歴史的カテゴリーとしての中世都市に地理的な考察をも加えるものである。このため地方誌的研究は、同時に歴史地理学的研究ということができるであろう。

 そこで本稿では地方誌的あるいは歴史地理学的研究において、中世都市をどう捉えるか、何をもって都市の成立と唱えるのかを明らかにすることを目的とするものとする。

 まず本稿で使用する用語について述べておく。第一に「都市」とは、地域的には都市法の効力の及ぶ市領域までを含む地域であり、稲元格氏によって提示された諸標識を備えた都市共同体であるとする。8第二に「農村」とは、市境域を取り巻く周辺地域を指し、法的にはラント法9・荘園法などのいわゆる伝統的法秩序の支配する地域をいう。さらに「境域」とは他地域との境・境界を言い、加えて「領域」とは国家の主権に属する一定の地域であり、国家が排他的にその管理権を行使することのできる地域のこととし、12世紀〜14世紀のそれらを念頭に置きたいと考える。

 本稿においては、「バルト海の女王」と呼ばれ、ハンザ同盟の盟主として栄えた古都リューベックを研究の対象として、都市の成立過程を明らかにする。リューベックは、ハンブルクの60キロ余り東北に位置し、トラーフェ河がバルト海に注ぐ河口に近い町で、かつてはバルト海岸最大の港市でありドイツ・ハンザの盟主として重要な役割を演じたことはよく知られており、北ドイツ第一の歴史都市と言えるであろう。リューベックがハインリヒ獅子公10によって建設され、市の境域を確定してから、経済的繁栄と政治的自立により周辺地域に対して領域政策を行うようになるまでの一連の流れを追うことによって、都市の成立を解明する。

 論述の仕方は以下の通りである。まず第1章においてリューベックの史実を概観し、前史からハンザ同盟での活躍までを紹介する。次に第2章において、都市建設時における境域の設定から市当局の領域政策の過程を把握し、最後に第3章において、領域政策の意義について考えることで、都市成立の完成段階を結論づけるものとする。


 

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