第2章 アボリショニズム

第1節 黒人奴隷

 プランテーションの基盤となったのは黒人奴隷制度であった。黒人奴隷は奴隷所有者の財産、つまり「もの」として扱われ、自由を奪われていたわけだが、そんな黒人奴隷の中にもある種の共同体が存在し、独自の世界観や文化が発達していた。この節では黒人奴隷という存在に焦点を当て、その生活、文化について見ていく。

 一口に黒人奴隷といっても、彼らの役割は様々であった。まず、プランテーションに住む奴隷は大きく2種類に分けられる。それは、家内奴隷と畑奴隷である。一部の家内奴隷を除けば大部分は奴隷居住区に住まわされた。家内奴隷は畑奴隷よりも衣食住の条件がよく、主に肌の色が薄い者や混血で主人と血がつながっている者が多かった。そして彼らは奴隷内の地位が最も高いとされていた。奴隷内で家内奴隷の次に地位が高いとされたのは、奴隷の班長であった。彼らは「ドライバー」、「フォアマン」と呼ばれ、奴隷でありながら同じ仲間の奴隷を監視する奴隷のエリートで、白人の奴隷監督のいわば助手の役割を成すものであった。その次の地位となるのは、奴隷職人たちであった。彼らは靴、馬具、大工、鍛冶屋などの技術を持つ者たちであり、他の奴隷たちに比べると自立した存在であった。そして、一番低い地位とされたのはプランテーションにでて働く奴隷たちであった。 この奴隷たちは、奴隷監督や奴隷の班長の監視のもとで畑で働いたが、その労働形態には大きく分けて2つの形があった。それは、タスク・システムと呼ばれる割当制度と、ギャング・システムと呼ばれる組制度である。割当制度とは、奴隷に対して1日に行なわなければならない仕事の分量を指示し、それを完遂しなければその日の労働から解放しないというものであった。一方、組制度は鞭と監視によるもので、奴隷は何人かずつの「組」に編成され、全奴隷は一団となって働かされた。このシステムのもとでは奴隷は責任を負うことがないため、自発的な活動や個人の能力を生かす機会をほとんど持てなかった。組制度は一般に割当制度よりも広く用いられたが、実際には奴隷労働を効果的にするために、これら2つの労働形態は適当に織りまぜられていた。以上のような白人による地位区分、そして労働システムによって黒人奴隷たちは扱われていたのである。

 さらに、黒人奴隷は他の様々な面で自由を制限されていた。先にあげた地位によって、与えられる自由の度合いは異なっていたはいたが、基本的に黒人奴隷たちは集会の自由を奪われ、武器の使用はもちろん、合図として使われる可能性のあるドラムやラッパ等の使用も禁じられ、許可証無しで主人の土地を離れることも禁じられた。また、読み書きを学ぶことも禁止されていた。

 アメリカの言語や文化を奴隷が学ぶことは、奴隷所有者と奴隷のコミュニケーションを円滑にするためにはある程度必要なことであり、そのため南部でも1830年代までは奴隷に対する教育は肯定的に考えられることもあった。しかし、奴隷反乱が起きるようになると、南部諸州では奴隷に対する教育を禁じる法律が制定され、運用も強化されていった。 このように、黒人奴隷は多くの面で自由を制限されていたわけだが、白人の奴隷所有者たちは奴隷たちが自由を求めることがないように、また従順な奴隷にするために情報を与えると同時に情報を制限した。まず、白人たちは自分たちの絶対的優越を印象づけた。それは例えば、衣服や食料を直接奴隷に渡すことによって奴隷が主人に依存していることを日々実感させたり、鞭などによる処罰などで圧倒的な力を示したりすることなどで行なわれた。また、奴隷たちが奴隷制に対して疑問を抱くことがないように、奴隷主たちはその正当性について説いた。奴隷制は白人が野蛮なアフリカから黒人を救出し、黒人に文化を与えるための制度であり、神が定めた制度で、黒人は現世では奴隷としての義務を果たすように定められており、神の代理人である主人への反抗は神に対する反逆を意味し、従順は天国での救いを約束するとされたのである。さらに、逃亡した奴隷を必ず捜し出すことで、逃亡がすべて失敗に終わることを示し、逃亡奴隷に対する厳しい処罰を行なうことで逃亡への意欲を失わせようとした。それに加えて、もし逃亡に成功してもその後の生活は非常に苦しいものであることを教え込もうとした。奴隷主たちは以上のようなことを行なうことで扱いやすい奴隷を育てようとした。しかし、これだけではまだ不十分であった。自分たちが教え込んでも、それ以外のところから入ってくる情報で奴隷たちが感化されてはどうしようもないからである。そこで、奴隷主たちは奴隷が得る情報を制限しようとした。例えば、自由への願望を抱かせる可能性のある自由黒人や白人すべてが黒人よりも圧倒的に卓越しているわけではないと感じさせる可能性のある貧困白人と奴隷が接触することを禁じた。そして、奴隷同士が情報や意見を交換したり、反抗を計画したりする機会となりうる黒人だけの集会を禁止し、奴隷が自分で知識を獲得する手段としての読み書きの学習を厳しく禁止した。

 しかし、奴隷たちが奴隷主の思うようになるとは限らなかった。実際、奴隷居住区では独自の世界観や文化が発展しており、それらは家族、同年代の仲間集団、居住区共同体、秘密の集会などを通して奴隷に伝えられてきた。奴隷居住区には共同体が存在し、その共同体は血縁を越えた緊密な結束によって結ばれていた。奴隷主は奴隷たちの地位区分を作ったが、共同体の内部では家内奴隷が主人の動向に関する情報を流し、奴隷の班長は鞭打ちを手加減するなど互いの便宜を図っていた。このように、共同体の利害を優先する人物はその評価も高かったが、一方で仲間に対する裏切りは制裁の対象になり、要注意人物には居住区の重要な情報はいっさい流れないようになっていた。共同体内部では信用が何よりも重要視されたのである。また、禁止されていた集会も監視の目を盗んで行なわれていた。秘密の集会を行なうときは歌などを使って場所や時間を伝えた。この集会は宗教的な性格の強いものであったが、特定の宗派と結びつくようなものではなく、宗教的、世俗的に仲間を教化することを目的としていた。具体的には、情報交換の場であり、祈祷や歌、信仰証言を行なう場であり、様々な意見交換の場であった。このような集会は危険と隣り合わせではあるが、危険を共有することによって奴隷同士のさらなる結束につながったのではないかと考えられる。

 奴隷たちが自由を求めて逃亡や反乱を企てたのは当然の結果といえるであろうが、この逃亡や反乱はもちろん単独で成功するものではない。ある程度の組織力があってこそ成功するものである。そういう意味において、上記のような共同体内部の結束は非常に意味のあることであると思われる。逃亡や反乱の増加が北部での奴隷制に対する関心を呼び、奴隷制廃止運動に弾みをつけたという点で、そして実際に奴隷制廃止主義者らが逃亡や反乱に参加していたという点で、筆者は逃亡や反乱が広範な意味での奴隷制廃止運動であると位置づける。次の節ではこの奴隷制廃止運動について見ていく。

 


第2節 奴隷制廃止運動

 奴隷制廃止運動はいくつかのタイプに分けられる。北部では出版物や集会、議会に対する請願運動など、比較的穏健で、制度としての奴隷制に反対する運動が中心であった。一方、南部においては過激で、奴隷主などに対する直接的な抵抗手段がとられることが多かった。それは、反乱や逃亡などといった形をとるものであり、結果的に奴隷制度に支えられていた南部を内部から崩壊させる一因となったのである。

 まず、北部における奴隷制廃止運動について見ていく。北部社会において奴隷制廃止運動が活発化し始めたのは1830年前後からであった。それ以前にも奴隷制反対論者による新聞や出版物はあったわけだが、1830年前後を境にしてそれまでの漸進的奴隷解放論から、革命的で非妥協的な人々による奴隷の即時、無条件、全面解放を唱えるアボリショニズムが運動の基本に据えられるようになった。

 ここでアボリショニズムの基本方針、奴隷制度の即時廃止について触れておきたい。以下はニューイングランド奴隷制反対協会の1833年の年次報告の中での説明である。

  それでは即時廃止によって何を意味するか?第1にそれは、奴隷財産についてのすべ ての権利の即時停止を意味する。…第2にそれは、すべての夫は彼自身の妻をもち、す べての妻は彼女自身の夫をもち、両者はその適切な形態に応じて夫婦として結合され、 法の保護の下におかれることを意味する。…第3にそれは、両親が彼ら自身の子供の支 配と管理の権利をもち、子供は彼ら両親に属することを意味する。…第4にそれは、す べての人間の取引は重罪として見做されるものであり、最高の刑罰が課されることを意 味する。…第5にそれは、証言なしに、そして野蛮な方法で彼の奴隷を懲罰するために 現在すべての奴隷所有者に付与されている恐るべき権力はただちに取りあげられること を意味する。…第6にそれは、現在奴隷に教えることを禁止しているすべての法律を即 時撤回し、彼らの知的向上のための学校と教育をあたえる他の法律が制定されることを 意味する。…第7にそれは、プランターが彼らの奴隷を自由労働者として雇用し、彼ら に正当な賃銀を支払うことを意味する。…第8にそれは、奴隷が残酷なドライヴァーに よって彼らの肉体に対する鞭の使用の下で他者の排他的な利益のために強制的に労働す る代りに彼ら自身及び彼らの雇用者の相互の利益のために働くことを奨励されることを 意味する。…最後に正義が邪悪に対して、人道主義が残酷さに対して、正直が窃盗に対 して、純潔が欲望に対して、名誉が卑賤に対して、愛が憎悪に対して、宗教が異教に対 して優越を保持すべきである。これはわれわれの即時廃止についての意味である。

これはアボリショニスト、ウィリアム・ギャリソンの初期の段階における主張に基づくものであり、それまでの黒人のアフリカ送還ないしは植民を目指すという方法が中心の漸進的奴隷解放論とは明らかに違うものであることが分かる。

 そして、1830年前後に急進的なアボリショニストたちの時代が到来したことを示す3つの事件が起こる。それは、デヴィッド・ウォーカーの『訴え』の刊行、ウィリアム・ギャリソンの『リベレイター』の創刊、そしてヴァージニア州サザンプトンで起きたナット・ターナーの大奴隷暴動であった。自由黒人ウォーカーは、白人の奴隷主に対して黒人が力をもって抵抗するのは当然であるとし、戦闘的行動を呼びかけた。また、ギャリソンは『リベレイター』の創刊号で「漸進的奴隷解放論という一般受けはするが有害な主張」と決別し、「奴隷である人たちの即時解放を目指して断固として戦う」ことを宣言した。そして、1831年に起こったナット・ターナーの大奴隷暴動は、その規模と影響力において最大のものであり、黒人奴隷たちに激しい解放意欲をかきたてた。

 このような状況の中、1832年にはニューイングランド奴隷制反対協会がギャリソンの指導のもとに結成され、その翌年の1833年には全国組織であるアメリカ奴隷制反対協会が設立された。このアメリカ奴隷制反対協会は1840年までに地方支部2000、会員総数20万人を数えるに至った。活動として、多くのパンフレットや定期刊行物を発行し、講演会を開き、議会に対し請願活動を行なったりした。また、ギャリソンは女性の権利拡張にも賛意を示していたため、多くの女性指導者たちもギャリソンの運動に参加した。そして、多くの自由黒人もギャリソンたちの奴隷制廃止運動に参加した。その中から多くの黒人指導者が生まれたわけだが、中でも注目すべき人物としてはフレデリック・ダグラスがあげられる。

 フレデリック・ダグラスはメリーランド州で奴隷の母親とその所有者との間に生まれた黒人奴隷であったが、1838年に北部に逃亡し、そこでギャリソンの『リベレイター』と出会うことになる。そしてダグラスは1839年3月29日付の『リベレイター』に初めて取り上げられた。それは黒人をアフリカに送還することに反対する集会での彼の演説についての記事であり、ギャリソンはこの演説を称讃した。こうして、ダグラスは奴隷制廃止主義者としての道に踏み込んだわけだが、1841年のマサチューセッツ州ナンタケットにおける奴隷制反対大会での演説は彼の評価を一気に高めるものとなり、その後ダグラスはいくつかの反奴隷制協会に雇われ、またたくまにアメリカにおける最も著名な雄弁家の一人となり、北部、東部、さらにイギリスでも講演した。彼は1845年に自伝を出版した後、1847年までイギリスに滞在した。そして、アメリカに戻ると同年12月3日に『北極星』を創刊した。彼は白人に向かって黒人のことを知らせる従来のやり方の代わりに、黒人の言葉で黒人自身に向かって話しかける必要を痛感していたため、その後、黒人の大会、「地下鉄道」及びその他黒人の状態を改善するための仕事に活躍した。南北戦争前の約30年間に、ダグラスほど奴隷問題をアメリカ国内やヨーロッパに伝えることで大きな仕事をした反奴隷指導者はいなかった。

 以上、北部における白人や自由黒人による奴隷制廃止運動について述べてきたが、南部においても黒人奴隷たちが、時には奴隷制廃止主義者の協力を得て抵抗を行なっていた。黒人奴隷たちの奴隷主への抵抗は、大きく個人的抵抗と集団的抵抗に分類できる。個人的抵抗は無許可で主人の土地を離れることや盗み、破壊、放火、労働への非協力、一時的または永久的な逃亡といった形をとる。一方、集団的な抵抗は、上記の個人的な抵抗への協力に加えて、集団的なサボタージュ、盗み、秘密の集会、反乱、逃亡、逃亡幇助などの形をとる。この中でも、特に白人たちの恐怖の対象となったのは奴隷たちによる反乱であった。

 古くは植民地時代から各地で大小様々の反乱が起こっていたが、中でも先に少し触れた1831年のナット・ターナーの反乱は南部に大きな衝撃を与えた。この反乱はターナーの主人とその家族を殺害することから開始され、それに続き他の家族も襲撃し、24時間以内に60人の白人が殺された。結局、連邦軍が出動し、100人以上の奴隷が殺され、最後は16人の奴隷と3人の自由黒人、そして指導者であるターナーの処刑をもって鎮圧された。この反乱の影響で南部でスレイヴ・コードが強化された。それと同時に、1859年10月にヴァージニアのハーパーズフェリーの連邦武器庫を襲撃し、アメリカ全土に衝撃を与えた白人の奴隷制廃止主義者ジョン・ブラウンをはじめ、多くの奴隷制廃止主義者や黒人たちに大きな影響を与えることになったのだった。

 また、逃亡によって自由を得ようとする黒人奴隷たちも数多く存在した。逃亡は個人で行なわれることも集団で行なわれることもあった。逃亡に成功した奴隷は、北部自由州やカナダ、マルーンの集落を目指した。やがて、奴隷たちの逃亡を援助するための非合法組織が奴隷制廃止主義者などによって作られていったが、それが「地下鉄道」であった。

 地下鉄道の活動は、逃亡者やその援助者が少しでも安全であるように夜間に行なわれ、奴隷は主人の品物で準備をし、そして必要ならば変装をした。色白のものは黒人の主人などの白人を、色の黒いものは主人のもとへ行く途中の召使を装った。地下鉄道の初期には、逃亡奴隷の大部分は男で、たいてい徒歩で旅行したが、後に交通量が増え、女や子供が逃げるようになると、護衛がつけられ、馬車が提供された。そして、各地に宿泊所として提供された場所があり、それらを起点として北部へ向かったのだった。また、地下鉄道による逃亡奴隷数は1830年から南北戦争にいたる30年間におよそ6万人にのぼったといわれている。そして、逃亡奴隷によって南部が受ける損失は大きなものであり、毎年の損失は20万ドルであったともいわれている。

 以上述べてきたように、北部では奴隷制廃止主義者たちが制度としての奴隷制に戦いを挑み、南部では黒人奴隷たちが奴隷主に対して様々な形態で戦いを挑んだ。そして、より激しさを増したこれらの運動は、北部では世論を喚起し、奴隷制反対勢力を結集させ、共和党という奴隷制反対政党を生み出すきっかけを作った。また、南部では奴隷の抵抗は奴隷主たちに物理的損害を与えると同時に、それまで利益を生み出す道具であった奴隷という存在が危険なものであることを知らしめることになり、南部の経済を支える奴隷制度は内部から崩壊することとなったのである。

 


第3節 奴隷制廃止運動の意義

 ここでは、前節で述べてきた奴隷制廃止運動が南北戦争、そして奴隷解放に与えた影響について考える。奴隷制廃止運動は当時のアメリカの社会の何かを変えうる力を持っていたのか、持っていたとしたら一体何をどのように変えたのか。それを見ることで奴隷制廃止運動の意義を見い出していく。

 まず、政治に与えた影響について見ていく。1840年にアメリカ奴隷制反対協会が分裂すると、その中から奴隷制廃止運動を政治運動と結びつけようとした人々が出てきた。彼らはギャリソンの非政治主義、非妥協主義、道徳的説得主義と訣別してジェームズ・バーニーを中心に自由党を結成した。この党は合衆国政治史上初めて奴隷制の廃止を綱領に掲げた。短命に終わった政党であったが、自由党結成以降の政治変化は、奴隷制廃止運動がより戦略的な政治運動に変化したことにより、北部で奴隷制を南部との妥協の中ですでに片づいた問題ととらえる気運が確実に崩れていった点において重要であった。また、1859年のジョン・ブラウンによるハーパーズフェリーの襲撃は国内に大きな衝撃を与えたが、ブラウンの処刑直後始まった国会でもブラウンと奴隷問題をめぐって論争が行われたのである。このように奴隷制廃止運動が発展するとともに、奴隷問題は政治レベルでも扱われる重要問題となったのである。南北戦争中にもアボリショニスト急進派が奴隷制反対勢力の支持を背景に、戦争に対するより断固とした態度と政策を要求し、急速に政治的進出を果たした。これにより、リンカーンらが極力触れるのを避けていた奴隷解放の問題をいやおうなしに政府と国民の前に突きつけることとなった。その後行われた北部の一連の積極政策、そして奴隷解放令の公布がアボリショニストらによる活動と無関係だとは決していえないだろう。奴隷制廃止運動は政治面から南北戦争、そして奴隷解放に影響を及ぼしたのである。

 また、南北戦争への影響として黒人たちによる動きも見逃すことはできない。内戦勃発と同時にプランテーションから逃亡する奴隷は急速に増加した。戦争を通じて、約50万人すなわち当時の黒人奴隷の8分の1にのぼる奴隷が逃亡したといわれる。こうして、奴隷たちは食糧生産をはじめ南部の生産力を減退させ、彼らを監視するために軍隊の一部をさかせることによって南軍の軍事力を削減させた。また、この時期奴隷たちの間に暴動の気運が高まり、戦争中多くの南部人を恐れさせた。特に奴隷解放宣言の後は暴動の噂が珍しくなく、南部を内部から大きな精神的動揺に巻き込んだ。

 そして、戦争初期には黒人の軍隊参加は認めれていなかったが、奴隷たちの中には連邦の軍隊に情報を流したり、手引きをしたり、軍隊が到着したときに主人の財産を押さえ、その破壊を助けるといった行動をとった者もいた。また、黒人たちが連邦の軍隊に入隊を認められるようになると、北部ではフレデリック・ダグラスら黒人指導者たちは徴兵係として働き、多くの黒人たちが連邦の軍隊に入隊した。その数は18万6000人にものぼった。そのうち13万4000人が奴隷諸州の出であった。黒人兵士たちは自らの自由を得るために果敢に戦ったが、その結果大きな犠牲が伴い、南北戦争で戦死した黒人兵士の数は4万人にのぼり、彼らの死亡率は白人兵士と比べると35%高かった。黒人たちによる動きが、南北戦争において連邦軍の勝利に大きく貢献したことは疑いようがない事実である。

 以上述べてきたように、奴隷制廃止運動は南北戦争、そして奴隷解放に大きな影響を与えていた。奴隷制廃止運動は奴隷制度を廃止し、黒人奴隷たちを解放することに確実に作用していたのである。ここに最も重要な奴隷制廃止運動の意義を見出すことができると思われる。