・第一章 ウル第三王朝と古バビロニア時代・

  本章では、『ギルガメシュ叙事詩』の成立に深く関係しているとされるウル第三王朝と古バビロニア時代について概観し、当時の社会の状況を明らかにする。

 

・第一節 シュメール小史・

 ウル第三王朝を概観する前に、それ以前のメソボタミアの自然環境と歴史について、以下に簡単にまとめる。

 メソポタミアとは、ギリシア語で二つの川の間という意味で、西方のユーフラテス川と東方のチグリス川によって灌漑される地域である。メソポタミアは現バグダードを中心に、北部のアッシリアと南部のバビロニアにわけられる。バビロニアはさらにニップールを中心に、北部のアッカド地方と南部のシュメール地方にわかれる。極端に雨の少ないバビロニアはもちろん、比較的雨に恵まれたアッシリアにさえ、林や森はない。土地は、粘土質の厚い土層からなっており、毎年雪解けの季節の大洪水で両河上流から運ばれる肥沃な土が、メソポタミアで唯一の天然資源であった。特産物は、肥沃な土から取れる麦類と、羊毛、魚介類程度であり、石や鉱石といったものはなく、金属、貴石、木材などは輸入に頼らざるをえなかった。チグリス・ユーフラテス川は、灌漑源であったばかりではなく、この地方の運輸の大動脈でもあったのだ。それゆえに、メソポタミアの特に南部の地域は、様々な民族の標的となり、戦争は絶えなかった。

 メソポタミアで、農耕が始まったのは前6500年頃である。天水農耕がほとんどだったが、ウバイト期(前50003500年)に、シュメール地方で灌漑という新しい生産技術の成功により、従来とは比較にならない生産性を獲得した。そして、ウルク期(前35003100年)にシュメール人の手によって都市文明が開花する。灌漑のための共同労働が契機となり、神殿を中核とする組織として都市国家が誕生したのである。王権も成立しており、都市の王の称号はエンであった。エンは宗教的役割を担っており、おそらく元来は神官だったと思われている。

ウルク期に成立した各々の都市国家は、初期王朝時代(前29002371年)にはいると、覇権や領土問題で激しく争うようになる。この頃になると、支配者の称号はエンだけではなくなり、エンシやルーガルといったものが現れる。彼らは都市国家の支配者、都市の主神の代理者として人民を支配した。はじめ、エンシとルーガルは同等であったが、複数の国家を服従させた国家が多く現れるようになり、エンシはルーガルの下位におかれるという格差が生まれた。一般に、ルーガルは「王」、エンシは「知事」、エンは「神官」と訳されている。ルーガルは「大きい人」を意味する言葉で、戦争が起こったときに軍事指導者が長老会によって選出されたのが起源と言われている。そして、戦争が長引くにつれ、一時的な存在であったルーガルが王としての立場を確立したのだとされている。いずれの称号にしろ、支配者は神の代行者としてのみ権力を行使するという観念はメソポタミア文明の最後まで続く。

シュメール地方の統一に初めて成功したのは、ウンマ市国王ルーガルザッグゲシ(前23712347年)である。しかし、アッカドの王サルゴン(前23712316年)に敗れ、古アッカド時代(前23712230年)がはじまる。セム系アッカド人サルゴンは、シュメールとアッカドをはじめて統一する。しかし、アッカド王朝はメソポタミア東北方から侵入したグティ人に敗れ、一地方政権に衰退する。そして、グティ時代(前22302120年)がはじまる。この時代の前半は、シュメール王名表に「だれが王でだれが王でなかったか」というように、一時的な混乱期であった。そんな中、ウルクとラガシュに独立政権が誕生する。グデア王で有名なラガシュ第二王朝と、グティ人によるメソポタミア支配に留めを刺したウトゥ=ヘガル(前21202114年)の王朝である。

 その後、ウトゥ=ヘガルの下で将軍であったウル=ナンム(前21132096年)がウルに都をおいてウル第三王朝(前21132007年)を創設、新シュメール時代に入る。

 

・第二節 ウル第三王朝・

ウル第三王朝時代を「シュメール人のルネサンス」という場合があるように、この王朝のもとでシュメールの文学・文化は集大成され、また、統一国家の王権にふさわしいイデオロギーと制度が整えられた。代表的な項目をあげるならば、王の神格化、王讃歌、法典、王= 牧人観、王名表である。それらについて以下に述べる。

まずは、王の神格化について述べる。王が神の代行者として王権を行使するという思想は、王権の成立と同時に始まってはいたが、王を神として崇める思想はまだなかった。ただ、王の死後、その功績の素晴らしさのために、あるいはその王の血統を持つ王権の正当性を強化するために、神格化されることは、初期王朝時代にはじまっていた。本稿で主題となっている『ギルガメシュ叙事詩』の主人公であるウルク王ギルガメシュもこの時期に神格化されたと考えられている。また、自らを神とは言わずとも、自分の両親は神であると主張し、間接的に自らを神格化することは、初期王朝時代に始まっていたと考えられている。初めて生前から自らを神と称したのは、アッカド王朝の王ナラム=シン(前22912255年)で、彼は、「神なるナラム=シン、強者なる者、アッカドの神、四界の王」と名乗っていた。その後、ウル第三王朝の第二代王シュルギ(前20952048年)から再び王は神とされるようになり、この伝統はイシン王朝まで継承される。

 王の偉大さを讃える詩が王讃歌である。ウル第三王朝第一代ウル=ナンムから古バビロニア時代までつくられ、現在のところ、それ以前の時代に作成されたものは発見されていない。内容は、平安と豊穣、社会の公正と正義を希求するもので、ウル第三王朝以降に盛んになる思想が見られる。それは、王を牧人に形容する思想である。

 メソポタミア初の法典とされているウル=ナンム法典にも、それは見られる。法典の前文に「悪業と暴虐と悲嘆を除き、正義を国土に確立した」とあるように、法典は「社会正義の擁護者」としての王の機能を表現したものである。社会に正義をもたらし、人々を正しい道に導く王の姿を表現する形容句として牧人を用いたのである。恒常的に王が牧人と形容されるのは、ウル第三王朝以降である。

 また、ウル第三王朝時代に、裁判文書や契約文書における誓約の言葉として、「王の名において誓う」という誓約の文言が定型化する。アッカド王朝時代から、このような形式は度々見られたが、定型化されたのは、ウル第三王朝時代に入ってからである。このことからも、人間社会における正義・公正の監視が王の職務であったことが推測されている。

 最後に、『シュメール王名表』であるが、編纂時期は確定されていないものの、ウル第三王朝時代に編纂されたと考えられている。その作成意図は、原初の「王権が天から下った」ときまで遡ることで、王権を時間的連続性から正当化するものである。シュメールの王権が社会正義の擁護者としての側面を強調して、イデオロギー的に完成の域に達したことを示す一例である。

 シュメール王権がイデオロギーにおいて完成の域に達したことは、前述の通りであるが、その社会的・経済的側面ではどうだったのであろうか。

メソポタミアの政治体制は、一般に専制支配として特徴づけられている。初期王朝時代に始まった原始王政は、局地的規模からしだいに民族的規模に拡大するにいたったが、権力の安定した基盤である中央集権的な行政体系はまだ準備されていなかった。それは、アッカドの「原始帝政」をへて、ウル第三王朝時代にいたって初めて成立する。

 前述したように、都市国家の意味は地域の灌漑設備の充実にあった。都市国家の成立まもないころは、その中核として神殿が存在していた。しかし、長引く戦争の中で、軍事権、外交権などの世俗的機能を握る王が出現し、それまでの神殿経済に対抗するものとしての王室経済が誕生した。そして、アッカド王朝のサルゴンの時代には、王室経済が優位に立っていた。ウル第三王朝に入り、個々の「灌漑州」つまり基本的な政治単位としての都市国家を制圧したことによって、支配者とその「宮廷」は、地域地域の神官的な君侯に対して強力な影響力を行使できる立場を手に入れた。神殿経済は王室経済に従属することになる。個々の都市のエンシは、権力を委任された長官でしかなくなってしまった。王のこの立場を支えたのは、広範囲にわたる灌漑組織を作ったり、コントロールしたりする上で王が果たす役割であった。ウル第三王朝のどの王も、神殿の建立と灌漑設備の設置に積極的であった。自らを神と讃える神殿を建立するために、以前の神殿を破壊することも厭わなかった。支配者は、専制君主として国内のあらゆる資源を意のままに使い、王室経済に全領域を組織しようと努めた。

 王は、自分の権力を支え、また最高位の領主として自らの主張を貫くために、全土の君主として自分の自由になるあらゆる経済外的手段を利用した。前述したイデオロギーの整備がそれである。それらの手段のおかげで、王は、住民に運河や要塞の建設のような大々的な労働を強いたり、租税を徴収したりできた。また王は、自分の大経営そのものにも、自らが支配する強大な領土の経済的基盤を駆使した。遠隔地貿易においても王は独占権をもっていた。この大経営が機能するように作業を調整・監督するために、また租税の取り立てを強化するために、膨大な官僚機構が必要であった。

イデオロギーと中央集権的官僚制の整備により、ウルの宮廷には王室経済や租税、貿易の利潤からの富が流入した。しかし一方で、専制的な中央権力ができると、住民への搾取と抑圧も強まっていった。こうした中央集権国家は、広域にわたる灌漑体系を作る労働の組織や指揮、農耕の可能な土地の拡大等の、個々の都市国家の力では成し遂げることのできない課題を達成した。

 しかし、王の手中に全権力を厳しく集中したにもかかわらず、ウル第三王朝は長く持ちこたえることができなかった。膨大な官僚、職人、労働者を抱え、絶えず厳しい監督を必要とする王室大経済は、領域国家の内部にあっては、もっと狭い領土に限られていたシュメール都市国家の枠内におけるほど、能率のよいものではなかったのである。そのほか、発展しつつある私的所有は廃止も決定的抑制もされなかった。また、それ以上に、地域による貧富の差が少なからず明白になってくる。そこに加えて、東のエラム人や西のマルトゥ人(アッカド語ではアムル人)といった外部からの圧力がますます強まってきた。とくにアムル人は、バビロニアへの侵入に徐々に成功していった。ウル第三王朝の崩壊に基本的に貢献したのは、この種族の系統を引く人々であり、彼らは、諸所で政治権力を掌握した。バビロンのハンムラピの祖先もそのなかの一人であった。

 強力なウル第三王朝が滅亡した後、シュメール・アッカドの統一国家にかわって、侵入してきたアムル人が、両河地方の南と北に二つの独立王国を建設した。北方のアッカドでは、イシンを首都とするイシン王朝(前20171794年)が、南方では、ラルサを首都とするラルサ王朝(前20251763年)が建設された。

 メソポタミアがバビロンのハンムラピのもとで、改めて武力統一されるまでには、ほぼ 250年が経過するが、その期間の政治的展開は、二つの段階に分けられる。基本的に、イシンとラルサの対抗を軸として紀元前19世紀末に至るまで続いた時代と、一連のメソポタミアの国々の間で勢力が相対的に均衡していたそのあとの50年余りの時期である。そして、バビロンのハンムラピがその長い治世の末ごろに成功した諸征服によってその時代は終わりをむかえた。

 

・第三節 ハンムラピ王の治世・

 ウル第三王朝滅亡後、バビロニアにはアムル人の建てた小国家が分立し、政治的混乱の時代にはいる。イシン・ラルサ時代である。

イシン・ラルサ時代において、農業・商工業における私的な営業と私的なイニシアチブがはっきりと現れるようになった。ウル第三王朝のメソポタミア中部と南部は国家が貿易を独占し、また、中央集権的支配体制を敷いていたために、この発展が抑制されていた。しかし、メソポタミア史上初の中央集権的な領域国家は、互いに対抗しあう多くの小国家に分裂した。ウル第三王朝が崩壊して、王によるほとんどの独占が衰えたことは、私的所有と私的なイニシアチブが強力に出現する上で好都合であった。そして、そのチャンスをうまく生かす能力のある、自意識のある都市住民が出現したのである。王室経済や神殿経済と並んで、私的な生産者や商人が以前に比べて一段と表面に出てきた。しかし、経済的反映を得るには資金的な支えが必要であるから、零細の経営体は高利貸資本に頼ることになる。結果として、富の偏りが大きくなり、個々の氏族や大家族のあいだで土地所有の不均等が目立ちはじめ、ますます多くの住民が土地の所有から全般的に締め出される社会に向かっていた。生産およびその基礎となる所有関係において「個別化」がいっそう強まり、人間による人間の搾取の個別化された形態として生産手段の私有にまで立ち至った。「個別化」された所有は伸張し、そのことによって村落共同体も次第にその本来の性格を失い、多かれ少なかれ管理機関に変化し、もはやその共同体に属している土地の集団的所有者ではなくなった。そしてこの発展は、様々な生活領域にもイデオロギーにも反映していくこととなる。これについては、詳しくは三章で述べることにして、ここでは、バビロン第一王朝の第六代王ハンムラピの治世について述べる。

 ハンムラピ王は、即位の第七年目にウルク、イシンを占領するなど、その治世のはじめのころから覇権の争奪戦に加わってはいた。しかし、彼はそれほど積極的な姿勢を示したわけではなかった。というよりも、治世の前期、中期のおよそ30年間というものは、自分の支配下にある諸都市の城壁を構築したり補強したり、運河を開設したり、または再整備をするなど、内政的な面に力を注いでいた。こうして彼は、充実した国力を背景にして、即位の第30年のころから、ようやく、都市国家間の覇権争いに本格的に乗り出すのである。

 ハンムラピ王は、イシン・ラルサ時代に個別化された社会を、あらためて王を中核とした中央集権的支配体制に組織しなければならなかった。しかし、一度自由と自らの土地を手にした人々を、再び、ウル第三王朝で敷かれていたような搾取と抑圧の体制に組み入れることは、国家の滅亡を意味した。そこで、ハンムラピ王は、生産の点では分散化・個別化を認めながら、管理と所有を集中させることで中央集権化を図ったのであった。以下に、管理と所有の集中による中央集権化された支配体制について述べる。

 第一に、ハンムラピ王は、土地の王領化を推し進めた。もちろん、私有地がなくなったわけではないが、領土の拡大によって新たに得られた領域の特に農村地域は王領化された。その上で改めて土地を人民に授与し、代わりに賦役などの義務を負わせた。義務を怠った者からは耕地を取り上げ、新たな人民に授与した。授与された土地は依然として宮廷つまり王の所有地ではあるが、しかし、土地と結合している義務を受け継ぐ条件で、それを家族の内で相続することもできた。このように土地を継続して利用できることは、土地利用に刺激を与えるものであった。占有者は土地を熱心に耕作するし、自ら実行しないまでも全ての農作業を自分の責任で管理することになる。それゆえに王の側としても畑仕事の監督として官吏を割り振らなくてもすんだ。また、小作料に関する改革を行い、様々な条件が存在していた小作料について一定の基準を設けたと考えられている。この規定は、賦役の遂行、とりわけ兵役に徴募する住民を経済的に保護する上で重要であった。

第二に、ハンムラピ王は租税の徴収に力を入れていた。バビロン第一王朝治下の自由民・奴隷はすべて王室にたいする貢租と賦役の義務を負っていた。高級官僚、書記、軍人、裁判官、王室に付属する農民・漁師・手工業者、商管はその職務によって王に奉仕した。王と官吏たちのきわめて数多い手紙は、租税問題を取り扱ったものである。とくに王領地の割り当てと王領地の耕作者に対する賃金についての業務が圧倒的に多く扱われている。こうした業務こそが支配者のもっとも重要な経済的支えであった。

第三に、王は、灌漑網の維持と拡大に力を注いだ。水路は、王のもとにある「灌漑施設局」によって絶えず管理されていた。また、王は、船による輸送にも船の建造にも気を配っていた。船は、宮廷や大都市の住民の生活に重要な食料や徴収された租税を運搬したし、家畜、木材その他の物資も運んだ。兵員輸送船として投入されたことは言うまでもない。それゆえに、バビロニアの水路は、幾重もの観点から見て国土の生命線であり、それを制するものが重要な権力の手段を手に入れたのである。

第四に、神殿の権力の縮小が上げられる。神殿は、あるていどの勢力を保ってはいたが、以前のような経済と行政の中心的な位置には、いまやもういなかった。神殿は、エンシと呼ばれる支配者によって、都市国家を統合するための媒体とされ、もはや王権の中に組み敷かれ、個人の信仰の場、裁判の場、教育の場、さらには金融業を営む場に変わった。

 第五に、地方総督の権限の縮小が上げられる。アッカド王朝のサルゴン王の場合、王朝の地方都市の総督は、もともとその都市のエンシで、以前から引き続き、あるていどの独立的権限を持つ副王のような存在であった。しかし、ハンムラピ王の場合、地方総督には、司法、財政の権限はなく、純粋に行政上の問題のみの処理を担当させた。とくに司法権は、全ての終審権を王自ら握り、地方には王の代理の裁判官が任命された。そうした裁判のよりどころとなったものが、ハンムラピ法典なのである。

 法典としての内容の充実という、法制史上の意味もさることながら、この法典についてより重要なことは、ハンムラピ王が統治するメソポタミア世界の全地域を通じて一貫して行われた、ひとつの法体系だった点である。

 以上のように中央集権化された支配体制が、ハンムラピ王の権力の基盤であった。

 ウル第三王朝において、王権の基盤は、社会・経済的側面では、広大な耕作地と巨大な労働集団、整備された管理組織からなる王室経済であり、その広大な領土を支配するには限界があった。それゆえに、王権を維持する手段として、イデオロギーの整備に頼る姿勢が強くなり、遂に王自らを神格化するに至った。王の神格化にともない、その思想を世に普及させるために、王を神とした神殿が建立された。王室経済は神殿を従属させながら、一方で、神殿に依存している。そのようなウル第三王朝に対し、ハンムラピ王は自らを神格化しなかった。もちろん王は、神殿の建立に力を注ぎ、伝統に則って、王権の正当性を主張している。

  国土に正義をもたらし、

  邪悪な者、悪しき者を滅ぼすため、

  強き者が弱き者の権利を剥奪せぬために。

  (中略)

  マルドゥクが、民を導き

  国土を統治すべく、余を任じ給うた時、

  余は、民に福祉をもたらすべく、

  この国の言葉で、法と正義を制定したり。   (『ハンムラピ法典』序文)

 しかし、ハンムラピ王は自らを神格化せず、牧人に形容している。それは、王の権力の基盤が、ウル第三王朝時代におけるような神の名によっての正当化される搾取ではなく、所有と管理を王のもとに集中させるという、巧みに中央集権化された支配体制とその管理された経済にあったからである。また、王の神格化は神殿に必要以上の権力を与えてしまう結果にも成りえ、中央集権化を進めるには不都合であったであろう。さらに、王を牧人に形容する思想はウル第三王朝に始まったものであるが、その中央集権化された支配体制そのものが、牧人の行為に重なる点から、ハンムラピ王にとってこの思想は利用すべきものであったと推測する。


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