えひめと福岡から発信する、視覚障害教育に思いを寄せる人たちの心を伝える情報紙
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■えひめの視覚障害教育情報紙■
■___はろー六ツ星____■
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▲2006年11月16日発行
▲第14号
■連載「目が見えなくても幸せ」
頑固者
松田忠昭(まつだ ただあき)
1 断言
ぼくが小学部1年生(昭和17年)の頃、
盲唖学校の寄宿舎では「断言」という言葉が
流行していた。中等部4年生から小学部1年生に
至るまで、事あるごとに「おまえ断言するか」
という言葉が飛び交っていたのである。
小学部1年生のぼくは、上級生が「断言」という言葉を
使っているのを何度も聞くうちに、それは一度
口にしたことは、絶対に変えない」という意味だと
おぼろげながら理解していた。「今日の勉強時間には、
一言もしゃべらないで勉強しよう」とでも言おうものなら、
周りの人から「おまえ、それ断言するか」と言われるのだ。
ある日曜日の午前10時頃、6年生のSさんから、
「おまえ、昼飯食わずにおれるか」と言われた。
何の気なしに「うん、食わずにおれます。」と答えてしまった。
「おまえそれ断言できるか」と聞き返された。「さあ困ったことに
なったぞ」と思ったのだが、一度口にしたことだから、
いまさら「できません。」とは言えない。仕方なく「断言します。」と
答えてしまった。遊んでいるうちにお昼時になった。
当時、寄宿舎には食堂を出た所に、直径20センチ余りの
釣鐘の形をした鐘が置いてあった。それを上下に振ると、
内側にぶら下がっている小さい鉄の球が鐘にぶつかって
「からん、からん」と少し濁った音がする。その鐘が
昼食の時間を告げた。部屋にいた人達は一斉に
食堂へ行ってしまった。でも、ぼくは食べに行くことが
できない。「食べない」と断言してしまったからである。
座ったまま机にもたれぼんやりしていた。やがて食事を
終えた皆が帰って来た。だんだんお腹がすいてくる。
でも食べに行くことはできない。「断言するか。」と言った
Sさんは、どこかへ行って部屋にはいない。しばらくすると、
舎監をしている日野亀次郎先生が来られた。先生は、
少し早口だが、とても温厚な方で、本をよく読んで下さった。
生徒思いの優しい先生で、卒業生からも随分慕われ、
日野先生のことを悪く言う人は誰一人いない。「松田君ご飯を
食べに行きなさい。」と声を掛けてくれた。「ぼくは食べません。」
「どうして食べないの?」「食べないと断言したからです。」
「断言しても食べていいから食堂へ行こう。」正直なところ
ぼくは食べたくて食べたくてたまらなかった。でも、立ち上がる
ことができない。「どうしたら食べるの」と尋ねられた。
しばらくの間考えた。「Sさんが『食べてええぞ』と言ってくれたら
食べようか。」そんなことを考えるともなく考えていると、
「腹が減ったろう。どうすれば食べてくれるかな。」と日野先生が
ぼくの肩に手を置いて優しく言った。「Sさんが『食べてもええぞ』と
言ってくれたら食べます」と、つい言ってしまった。食べたい
誘惑に負けてしまったのだ。間もなく日野先生がSさんを
連れて来た。「ご飯を食べてくれ。『断言するか』と言った
ぼくが悪かった。」とSさんが謝った。「断言する。」と言ったのは
ぼくの方だ。Sさんが謝ることはない。悪いことを言ってしまったと
後悔した。日野先生に手を取られて立ち上がった。一歩一歩
食堂へ向かって行った。テーブルの前に座った。食べようか
どうしようかと一瞬迷ったが、おいしそうな匂いに誘われて、
ご飯に箸をつけてしまった。
おいしかった。でも、食べ終わって部屋へ帰る時、もしかして
今頃Sさんはぼくのことを怒っているのではないだろうかと
心配になってきた。
その後、Sさんは卒業するまで、ぼくのことを「忠昭さん、忠昭さん。」と
呼んで、大変可愛がってくれた。卒業後Sさんは新居浜市で
治療院を開業し、後輩や地域の人達から頼りにされ、視覚障害者の
リーダーとして活躍されたのである。
生徒の頃から読書好きで、愛読書は宮本武蔵だった。しょっちゅう
音読していたあの声が、今でも耳の底に残っている。
2 絶食
4年生の夏休みのことだった。旧制の中学へ通っていた満叔父が、
「三つの花」という少女小説を読んでくれた。著者は吉屋信子だった
ように思う。ただし、その内容は全く覚えていない。当時少女小説を
次から次へと読んでもらったものだから、それらがごちゃ混ぜになって、
どれがどれだか分らなくなってしまったのかも知れない。とにかく
その本が気にいって、「これをぼくにくれ。」とせがんだのである。
ぼくには墨字の本を手にすると、いつもページをめくりながら、
匂いをかぐというう習性がある。甘い匂いや、ツーンとくる匂いなど、
本によって違った匂いがして、ぼくを楽しませてくれるのだ。インクと
紙の匂いがミックスされ、嗅覚を通して何かが頭に入ってきて、心が豊かに
なってくるような気分になるから実に不思議だ。今でも本屋へ行くと、
思わず本を手に取って匂いをかいでしまう。叔父は、「三つの花」を
やろうとはなかなか言ってくれない。しつこくしつこく頼み込んだ。
根負けした叔父は、「おまえが、三日間飯を食わないでいられたらやろう。」
そう言った。さて、頼んではみたものの、果たして三日間も食わないで
いられるだろうか。2・3日あれこれと考えを巡らした。できるかどうか
やってみなければ分らない。
食わないでいられたら「三つの花」がもらえる。朝食を7時、昼食を12時、
夕食を7時に食べるとして、朝・昼・晩のどこから絶食を始めようか。朝からだと、
前の日の夕食の後からだから、絶食の時間は84時間、昼からだと77時間、
夜からだと79時間になる。そこで、昼から絶食することに決めた。叔父は、
まさかぼくが絶食するとは思ってもみなかったろうし、たとえ始めたとしても、
三日も続くことはあるまいと、たかをくくっていたようだ。まず、昼と晩を
食べない。ここまでは平気だった。翌日の朝になると、かなりお腹が
すいてきた。水はいくら飲んでもいいことになっている。おふくろは、
「そんなばかなことはするな。」と絶食を止めさせようとした。
二日目の昼・晩ともなれば、相当お腹がすいてきて、ふらふらし始める。
三日目の朝食で、6回目の絶食になる。それでも止めようとしない
ぼくの様子を見かねた叔父は、「もう止めてくれ。この本は、わしの本では
ないんじゃ。友達の本だから、おまえにやる訳にはいかんのじゃ。
頼むから絶食を止めて飯を食べてくれ。」と言う。ぼくはがっかりすると共に、
それならそうと最初から言ってくれれば良いのにと腹が立ってきた。
「三つの花」は既に持ち主に返されて、叔父の手元にはなかったのである。
おふくろは柔らかいおかゆを炊いてくれた。それを朝と昼に食べて、
夕食からは普通食に戻った。
結局、本はもらえずじまい。絶 食は、48時間で終わった。
この叔父は、父の末弟で、ぼくより6歳年上だ。英単語のカードがぎっしり
詰っている箱を持っていた。それを声に出して読みながら、一生懸命暗記して
いる。ぼくはそばに居て、叔父の声を聴きながらその真似をしたものだ。
ぼくが東京で勉強するようになった頃、叔父は高松に住んでいて、
上京したり帰省する時には、宇高連絡船の乗り換えに手を貸してくれた。
この二つの思い出は、ぼくの小さい頃の頑固さを象徴するものだと言えよう。
それは、年を重ねて70歳を越した今も健在である。親譲りのこの頑固さも、
大事にしながら、元気で我が人生の終焉を生き抜いてみたいものだ。
■連載 妻として、母として(part forteen)
「歩く 1」
和田佳子(わだ けいこ)
「秋の夕暮れのつるべ落とし」とはよくいったもので、
本当に今の季節の日没はちょっとよそ見をして 振り返ると
もう沈んでいたという信じられない早さです。幼い頃から
弱視で、夜盲だった私にとって、遊びに行って帰る時間が
ほんのわずか違っても帰り道が少し明るいか、真っ暗かでは
行動の速さは格段に劣るのでした。
そんな私は少しずつ視力が下がってきて、いつから視力を
頼りに歩いていて いつから視力以外の感覚 たとえば聴覚・
触覚・圧覚・嗅覚など種々雑多な感覚を利用しながら
歩いていたのか、その線引きは全く分りません。ほとんど
視力の無くなった現在でも、光は分るので、ほんのわずかでも
それも頼りにしているところはあります。
一般的な方たちよりも勘の悪い私ですが、できるだけ一人で
歩く事を常に心掛けています。とろくさくても白杖をついて
歩いていると、その時の状況で歩き方や、速さは違ってきていると
思いますが、それぞれの環境でいつも新しい発見があるのです。
道を歩いていると、一度は声をかけてくださる優しい方は
必ずいらっしゃいます。その声のかけ方やアプローチの仕方は
それぞれ違います。誰に言っているのか分らないような言い方の
方や、親切に抱きかかえるように体を持って下さる方、あるいは
声を掛けておいて、「今声を掛けなければ車にぶつかっていた?」と
逆に聞いてくる方もいらっしゃいます。たまにはきちんと
ガイドヘルプの仕方を正確にご存じの方もいらっしゃって
感動する事もあります。
「袖振り合うも多生(他生)の縁」で、可能な範囲でご一緒に歩いて
下さる方もいらっしゃいます。自分が目が見えて、自転車で
どこへでも行ける幸せをかみしめながら走っている時に
私に出会ったと話して下さった方もいらっしゃいましたし、
お母様が目が見えなくなって、辛かったけれど、その気持ちが
よく分るので、できるだけ一緒に歩きましょうと言ってくださったり、
たまにはどこまでも一緒についてきて、家にまで行きましょうと言うので、
これは丁重にお断りしたり、目的地まで歩いてくれて、最後に
「有難う御座いました。」とお礼を言うと、握手を求められたり、
白杖無しに歩いていた時には全く無かったような事を経験する事に
沢山巡り会えます。
又、自分自身のとらえ方の変化も面白い発見があります。それは、
余り広くない道幅の道路を歩くとき、意外に車が沢山通る道などは
弱視の時は大変怖くて歩きにくい道でした。ところが、ほとんど視力の
無くなった今ではかえって道の端にピッタリとくっついて壁などを
白杖で確かめながら歩くと、いくら傍を車が通っても全く怖くなくなって
いるのが不思議なくらいです。かえって、歩道なのに、沢山の
物(自転車や、看板 箱など)が置かれていたり、点字ブロックの上を
歩いていても、容赦なく自転車が当たってくる方がよほど恐怖を感じます。
楽しい出会いや、ハプニングや意外な出来事に沢山遭遇するとは
想いますが、これからもできるだけ一人で歩き、新しい発見を
していきたいと想います。デートに出かけるのに、誰かについてきて
頂くなんて、そんな事はいやですからね。「まあ、私は絶対に
それはないとは思いますけれど・・・。」
■連載 情報処理と私(14)
電卓と電話のキー配列の疑問
和田 浩一(わだ こういち)
前回はパソコンのキーボードがタイプライターから
引き継がれているというお話をしましたが、今回は
数字キーについて考えてみましょう。デスクトップ
パソコンのキーボードには右側に数値を入力するための
10キー(テンキー)があります。このキーは[0]が
一番下の段にあり、下から[123]、[456]、[789]と上に
向かって並んでいます。数値計算をする電卓の配列ですね。
これに対して、同じ数字を入力する電話のプッシュ配列は
どうでしょうか。[0]のキーは一番下の段にありますが、
電卓のキー配列と逆に上から[123]、[456]、[789]と
下に向かって並んでいます。同じ数字を入力するのに
どうしてこのように異なったキー配列となったのか
不思議と思うとともに不便さを感じています。
パソコンの10キーを使って数字を入力するのは
抵抗なく自然に指が動きますが、住所録の入力で
電話番号を入力しようとすると、とたんに入力速度が
遅くなったり、ミスタッチをしてしまいます。電話番号を
入力しようとすると脳のスイッチが切り替わって電話の
プッシュ配列で入力してしまうようです。また、携帯電話で
電卓機能を利用する場合もミスタッチしてしまいます。
これまた脳は電卓モードに切り替わってしまい
プッシュ配列では数値計算の入力が難しくなります。
数字を入力するキーの配列が統一されていれば、
能率よく操作できるのに、どうして統一されなかったのか
不思議に思います。
電卓のキー配列は、1914年にサンドストランドが発明した
機械式卓上加算器に採用されたのが最初だったようです。
機械的な構造上0と1が近くに位置する必要があったために
現在の電卓のキー配列となったようです。この電卓の配列は
ISO(国際標準化機構)で定められています。
一方、電話のキー配列は、1963年にAT&Tとウエスタン・
エレクトリックが共同開発した卓上電話機が最初だったようです。
この配列にした理由は、上から123とした方が押し間違いが
少なかったという研究からだそうです。このプッシュホンの
配列はITU(国際電気通信連合)で定められています。
このように計算機と電話機という業界の異なった開発と標準化に
よって統一できないで現在に至っています。使用者は操作に
戸惑いや不便さを感じながらも、脳の柔軟さでカバーしているのです。
■雑記帳
「核になる科学的概念って?」
氏間和仁(うじま かずひと)
2006年某日の会話
子ども:「先生、この部屋には天井があるんですか?」
私:「あるよ。」
子ども:「へぇ、床はあるのは分かるけど、天井があることには
気づかなかった!?」
これは、最近あるところに出向いたときに交わした会話です。
視覚障害児が発達過程で抱える問題の1つに
バーバリズムという現象があります。バーバリズムは
「直接経験に根ざさない語の利用」と解され、
視覚情報の制限下で実体験が少ないとか、全くない状況で
言葉のみが飛び込んでくることが度重なることが
その主な原因とされています。
この質問は建物を構成する属性である床や天井、
あるいは床や天井そのものを構成する属性が
適切さを欠くために発せられたと理解することができます。
この質問は、視覚の制限(普段から天井を触って生活する
ことはないでしょう)が影響していると考えられます。
一方、asahi.comなどを見ていますと、「死んで動かなく
なったカブトムシに、子どもが新しい電池を入れようとした」なんて
いう都会っ子の伝説的物語に遭遇します。
都会という環境で成長していく中で、不適切な属性で
定義されたカブトムシという概念を身に付けた結果、
彼らがとった行動と考えることができるでしょう。
どちらも情報障害というくくりで考えると共通性があると
思います。彼らの生活経験の中で概念化された結果であると
思われます。こういう概念をロシアのある心理学者は「生活的概念」と
よびました。対して学校で系統的に教えられ様々な学習の
根本となる概念を「科学的概念」とよんでいます。
つまり、科学的概念を獲得するまでの間は、
生活的概念を用いて生きていてもなんら不思議はない
ことかもしれません。ということは、科学的概念を教え、それを
自分の力で自在に操作できるようにする能力の育成を行う
学校の役割はとても重大であるということになります。
特に視覚からの情報を制限されて育った子どもにとって、
それを育む行為はとても大変なことだと想像できます。
さらに付け加えるなら、決して手で触れることのできない、
景色、星、海底、色などを概念化するためには、教える側に
相応のノウハウが必要であることは容易に想像できます。
ここに盲学校と盲学校教員の、存在意義があるといえるでしょう。
何週間か前に、NHKアーカイブスで津軽三味線のプロを
目指す視覚障害の少年のドキュメント番組が放映されていました。
父親が津軽三味線の大会にその息子を青森に連れて行ったときに
訪れた地の1つにリンゴ畑がありました。「本当は奥羽山脈や津軽
大地の広大な風景を見せたい。少しでも津軽を、津軽三味線が
生まれた風土を感じて演奏してもらいたい。」という父親の思いから
でした(セリフはかなり曖昧です)。その少年をリンゴ畑に
立たせた父親の思いは、私たちが目指す視覚障害教育の原点に
通じているという感想を持ちながらその番組を見ていました。
生活するうえで経験することの中から様々なものに興味を持ち
概念化することは大切なことだと思いますが、学校で行われる
教育という行為では、それを裏打ちする科学的概念を
系統的に指導していく使命があるのだと考えられます。
香川邦生氏は「核になる経験」という言葉を用いています。つまり、
スーパーマーケットで100の野菜を触る学習に先だって、1つの野菜を
種まきから収穫、料理まで一貫して学習することの大切さを説いている
言葉です。つまり、1つの野菜を、自らが育てる過程で得た様々な概念が
スーパーマーケットでの野菜の触察学習をより豊かなものに
するという考え方だと解釈できます。もちろん、野菜の栽培の過程では
科学的概念の獲得を促す支援がなされる必要が前提です。
ロシアのその心理学者は科学的概念を教えることは
それを教え込むことが目的ではなく、そこで育まれた科学的概念を
用いて更なる思考が起こるところに本質があるとも指摘しています。
1つの核になる経験で、“核になる科学的概念”を獲得すると
スーパーマーケットで触る野菜の畑での姿や、ビニールに包まれ
陳列された姿になるまでの過程を想像することができるでしょう。
今まで、何気なく触っていた陳列された野菜に、今、触れたとき、
その何気ない野菜は、この“核になる科学的概念”の門を通って
1つの“れっきとした野菜”として自覚されるようになるのではないかと
考えられます。
この“核になる科学的概念”の獲得とは何かということを、
津軽三味線の少年のお父さんのような情熱と
私たちが持つ教師としての知識を併せて考えると、
先に挙げた存在意義に少しは応えることができるようにも
思われます。
こんな風に考えると、なんだか、ワクワクしてきました。
その天井の話をした子どもとは、近くにあった長机に潜り込んで
お家ごっこをして楽しみました。
■情報
○はろー六ツ星がホームページ(web page)でも
読めるようになりました。
http://www.fukuoka-edu.ac.jp/~k-ujima/hello/index.htm
をご覧下さい。
もちろん、バックナンバーも読めます。
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