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芥川の短編集八点の内、これ(「戯作三昧」)は、第三番目「傀儡師」の終わりから二番目に収録されていて、最後が「地獄変」である。そこで、この二作品はどちらも芸術至上主義をうたったもので、「戯作三昧」は「地獄変」の先蹤とされることが多い。
「(『地獄変』は)ひと足先に『戯作三昧』で描いた世界と重なる。」(学燈社「国文学」昭和五十二年五月号「芥川龍之介」・関口安義氏)
「一連の『芸術家小説』」(明治書院「芥川龍之介研究」・海老井英次氏)
「『地獄変』とともに最高傑作の一つ」(創元社「芥川龍之介」・和田繁二郎氏)
「(『地獄変』の)モチ−フの発端は『戯作三昧』にまでさかのぼることができる」(筑摩書房「芥川龍之介論」三好行雄氏)
のように。更に浅野洋氏は学燈社「国文学」昭和五十六年五月号「芥川龍之介追跡」において、
「『戯作三昧』を『地獄変』の先蹤とみなす位置づけは、諸家の見解の中にあって、ほぼ定まったかの観がある。」
とされつつ、これに「或日の大石内蔵之助」を重ねて、馬琴は良秀とちがって、まだ何ひとつ喪おうとはしていないから、むしろ大石に近いのだとしている。そして「戯作三昧」をあまり高くかっていない。芥川の作家としての心境をよみとるためでなかったら、むしろ底の浅いひとりよがりの作品ではないかと述べられる。
「例えば馬琴がその『感激』にひたる契機−孫太郎の言葉−の不自然な唐突さについては、多くの指摘がなされている。が、問題は、『天啓』のような唐突さよりも、孫に対してひとしお甘い老人という構図の陳腐さにあるのではないか。純粋な幼少の孫と、孫の何でもない言葉に『涙』する老人と、馬琴はどこにでもいるありきたりの老人になりさがっている。芥川は、いわばこの肝心な場面で、いかにも陳腐な観念の構図にもたれかかってしまった」と。
かつて私は芥川にさして興味もなくこの作品を読んでみて、作者とまったくかかわりなく、ひきつけられたのを覚えている。文学作品のうけとり方というのは非常に微妙な、息をひそめるような作業になる。今、もう一度虚心にこれを見直してみたい。
たとえば、このラストだが、私はこの家族たちによって、馬琴の芸術至上の境地が否定されているという気が少しもしないのだが。あたたかさ、とまでいかずとも、つつましい平凡な生活が静かに馬琴をとりまいている、しんとした落着きを感じて、ほっとする。しらけているとかさめているとかいう気分には少しもなれない。
馬琴は幸せに、夢中で書いている。回りでは、それを理解できない家族が、でも、そっとして、それぞれの仕事に励んでいる。こおろぎが鳴いている。お百のぐちも含めて、馬琴をつつみこんでいるありふれた家族の姿として芥川は書いていると思う。私にはこの三人が馬琴を守っているように見える。こんなかたちでの書き方ってけっこうあるんじゃないのだろうか。芥川の他の作品にも例はありそうに思うし、有名な奥さんへの手紙を例にひいてもいいが、こういう、日常の世界のふつうの人々にとりまかれて至上の境地へ没入していくことを芥川は幸せと思っていたと思う。このラストは、くりかえすけれどお百のせりふも含めて、つつみこむように静かなのである。
内蔵之助と馬琴の心境の類似はあるだろう。けれど前者は、仇討という事業をおえて、そこへ落ちこんでゆくのに対し、馬琴は書くことによってそこからぬけ出る。この設定の相違を無視して、類似をいうことはできない。
馬琴がその悟りを開くきっかけとなる太郎のことばを浅野氏は唐突というけれど、幼児によって神の声がもたらされ、それによって救われるという設定は、芥川にとってかなり必然なものだったろうと思う。私はそこにオスカ−・ワイルド(ひいては三島由紀夫、上田秋成までいったっていい)などとの共通性を見る。秋成はちょっとちがうかどうかしれないが、要するに、精神でしばりあげた、きわめて虚構性のつよいしかも真実にあふれた作品を書き、ときには自分の生き方も同じ精神でしばりあげ、回りに流されるのでなく、何か目的をもつのではなく、生き方自体を目的として築いてしまう生き方である。こういう場合、現世の人に評価されることは少なく、結局、神や、遠くのものにのみ、彼らの目は向く。幼児は無垢であり、世間に汚されていない。それへの期待もまた芥川はワイルドらと共通する。この設定は芥川のそういう哲学に裏うちされており、それを浅野氏が陳腐ととりちがえるほどリアルな祖父と孫の交情にしてしまっているところに逆に芥川のうまさがある。
そうなるとこの作品は何かというとむしろハッピ−・エンドでいいのであって、馬琴と良秀は大きくちがうのだと思う。芥川はそれを意識している。似たものや、発展したものを二つ並べたのではなく、むしろ対照させたのだと思う。同じ芸術至上でもそれが生活の中につつましく息づいている例と、それをふみにじってしまった例と。そして後者には芥川のあこがれと恐れがあるけれど、実際には決して芥川はそれをやれなかった。前者の方がリアルだと私が感じたのもそのせいだろう。芥川は馬琴に近い。馬琴は苦しみつつ人を傷つけてはいない。まがりなりにも芥川は馬琴のように生きている。しかしその一方で良秀の生き方をも夢みて書いた。そして対照させて並べた。「私はこうやってがんばってます」「でもときどきこんな夢も見ます」・・・つつましい現状報告と、ひそかな悪夢。まさに知的な小市民の、二つの顔ではないのかしら。
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| 自分の黄金の表面をはいで、町の貧しい人々に与えつづけていた王子の像が、鉛のかたまりとして処分されてしまうのに、幸福になった町の人々はそれも知らないでいる結末が不満だった。人々が王子の像に感謝する場面があったらいいのにと思った。 |
| アンが校長として赴任した町で、プリングルという有力者の一族と対立してしまう。辞職寸前まで追いこまれたとき、その一族の先祖に関する古い文書を手に入れる。プリングル家にとっては興味ある資料だろうから、送ってやろうかと思いつつ、アンはこんな目にあわされていながら、そんな親切をする必要は絶対ないとも思う。しかし最終的には「心のせまいまねはすまい」と決意して、文書を送ってやる。ところが、アンは気にとめていなかった、文書の中の小さな記事が、先祖の一人の名誉を傷つけるものであったため、プリングル家では大騒ぎとなり、このことを秘密にしてほしいと和解をアンに申しいれたのをきっかけに、一族はアンの強い支持者となって、その町におけるアンの地位は不動のものとなる。 |
| アンが結婚して間もなく、夫ギルバ−トの親族にあたるメアリ・マライア叔母さんという独身女性がやって来て、居ついてしまう。アンの一家は、お手伝いのス−ザンから子どもたちまで、皆、この女性に悩まされ、家の中では不愉快な毎日がつづき、アンの気持も沈んでしまう。ある日、ふとしたことから叔母さんの誕生日が近いと知ったアンは、お祝いのパ−ティ−をしようとス−ザンに話す。ス−ザンは猛反対するがアンにたのまれて、しぶしぶ承知する。ところが、叔母さんを驚かせようと一家でこっそり準備をすすめ、お客を招いて大々的に開いたパ−ティ−に、叔母さんは「他人に年を知られたくなかったのに、ひどいしうちだ」と激怒し、荷物をまとめて家を出ていってしまう。一家には再び楽しい日々が戻る。 |
| アンの友人で、美しい人妻レスリ−は、かつて横暴な夫に苦しめられて、悲惨な毎日を過ごしていた。夫が旅先の事故で記憶を喪失し、廃人となって戻ってからは、その世話に一生を縛られていたが、それでも前よりは不幸でなかった。だが、医者であるギルバ−トは、レスリ−の夫を診察して、手術をすれば元に戻ると知った。アンは激しく反対するが、ギルバ−トは医者の良心に従って、それをレスリ−に告げ、アンが予想した通り、レスリ−は深い絶望に心を閉ざしつつ、迷わず手術に同意する。アンは心を痛めたが、手術が成功すると、夫と思っていたのは、よく似ていた従兄弟で、夫はすでに旅先で死亡していたことがわかる。レスリ−は自由になり、愛しあっていた青年と結婚して、幸福な家庭を作る。 |
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大島弓子の漫画に「F(フロイト)式蘭丸」という作品がある。ある少女が空想で作りあげて、いつもいっしょに遊んでいた、まったくプラトニックな愛の対象、やさしくてすべてに有能で、デリケ−トではなやかな美少年蘭丸と別れて(つまり忘れて)現実の少年と恋をし、大人になってゆくというお話で、よくできている。大島弓子論をするつもりではないから、彼女の本心がどこにあるのかはせんさくしない。しかしもし少女のころの私がこの作品を読んだら苦しんだろうと思う。多分、生々しく傷ついたと思う。今でも私は同じように甘く、まぶしい苦しみと痛みを、真剣にこの作品からうける。私が大島弓子を決して好きになれない理由がここにある。この「好きになれない」の中に軽べつはない。むしろ、全力こめて感情的に押しかえしてしまわなければとても押しかえせないから、「好きになれぬ」と我をはるのである。少女のころの私なら、この作品を読んでしばらく、ゆううつで悲しく、何も手につかなかったかもしれない。
幼い日に夢み、恋した幻を、人が忘れ、すてて、思い出せなくなり、過去のものとして、ほおえんでふりかえりながら、大人の生活に歩みいってゆく・・・このパタ−ンを大島弓子はいつも美しく描くし、他にも小説に、映画に、質のいいもの悪いものとりまぜて、この手の話は多い。そして私は、この種の話をよむたびに、いつも激しい絶望と、怒りと、悲しみとにひたされる。
なぜだろう、私はいつも、「おいていかれるもの」の気持を思いやる。「忘れさられ消えさせられてしまうもの」の心を思う。こっけいを承知で、真剣に私は怒ろう。蘭丸がなぜ、消されなければならないか。幻であれ、夢であれ、一度描いたものならば人はそれを守りつづける義務がある。夢だって、幻だって、そうかんたんに殺されてしまってはならないのだ。そうかんたんに忘れられるものなら、初めから描かぬがよい。描いたことがあるなどとは言わぬがよいのだ。
子どもたちが描く幻、抱きつづけていれば成長できず大人になれぬかもしれないさまざまな夢、とりとめもなく、かたちもととのわず、思いつめていけば消えてしまう世界。それをすてさり、忘れさって、大人の世界へふみこむことが、健全な成長であると言うのなら、全力こめて私はたたき返してやる。そういう考え方こそ、最も不健全であると。
大人の世界といえばなるほど聞こえはいい――しかしそれは多くの場合、せいぜいがマスコミと、自分の回りの世界から大ざっぱにつくりあげられた、せまい、上すべりなイメ−ジによる、たかが、「これまであった世界」にすぎぬのだ。その「今ある世界」「これまであった世界」が最高に美しく、すばらしく、ゆるぎがないと、なぜ保障できるか。大島弓子の漫画にしても、他の少女漫画にしても、最後に近く、最高の幸せの象徴のようにあらわれてくる、花嫁のベ−ル、新婚家庭、大家族の家、それらは決して、本当は、物語のおわりではなく、永遠に続く天国ではないのだ。そこにはたくさんの、ゆれうごく戦いがあり、破局も荒廃も存在する。大人の世界は何も絶対的なものではなく、そこに完全にとけこめば幸せになれるというものではないのだ。
たとえば「ピ−タ−・パン」、たとえば「メリ−・ポピンズ」、たとえば「星の王子さま」にも、そういう、失われた子供時代への郷愁はある。しかし、注意深く読めば「F式蘭丸」のそれとは断固としてちがう姿勢がある。成長して大人になった者たちは、すぎた日の思い出として、なつかしく昔をふりかえったりはしていない。今生きている世界への抗議として、戦いの武器として、ピ−タ−・パンを、星の王子さまをメリ−・ポピンズを彼らはたたきつけている。大人の世界を生きるとき、回りに対する怒りと批判、そしてその解答を、子ども時代の夢の中に彼らはさがしている。それは成長しきらない人間の、時に逆行する弱いたわ言であろうか。ちがう。回りに流されず、世界を見つめ、自分自身の態度を、意見を保ちつづけるということこそが一人前の人間としての資格であるならば、彼らこそが本当の大人であるのだ。
本当に大人として、一人前に責任を持って生きようと思うなら、回りのすべてを常にそのままうけいれられるはずがない。一人の人間として怠惰である。ときには回りの無視というかたちをとってでも、自分の生き方をつらぬき、独自の考えをもって、態度に示し、意見をのべ、かくして自分の生きる時代と世界の動きに関与していく、それが生きている上の責任といえば責任である。自分の生き方、自分の考え。それはしょせん、自分の体験(読書、映画、その他も含めて)を常に点検し、かみしめ、見つめ直していくことからしか生まれはしない。だとしたら、子どものころに感じたことの一つ一つは、大人になった今を生きていく上の貴重な資料ではないか。それをさらりと忘れてしまい、今の自分と切りはなして考えられる人間は、大人としても欠陥がある。私は絶対信用できない。
なぜ人は、かんたんに、自分の過去を、葬るのだろう。一度見た夢を、すてるのだろう。あきらめて他人に托すのだろう。いったい、一度でも考えてみたことはないのだろうか。自分が今住んでいるのとはちがう別の世界を。それが目の前にあらわれたとき、自分はどうするかを。まったくちがった世界に投げ入れられたとき、今、自分が持っているもののどれだけを、たしかにつかんでいられるかを。
「赤毛のアン」は「道の曲がり角」の向こうといういい方で、まだ見ぬ世界を、表現した。似た意味で私はよく、「地平線の向こう」ということばを使った。今いる世界が楽しいときも、つらいときも、私はよく「地平線の向こう」、つまり自分が今いる世界とまったくちがう世界のことを考えた。そして、そこに行っても変わらない自分でありたいと思った。また、そこから人が来たとき、迎えいれてやれる世界にしておきたいと思った・・・こちらの、自分が今いる世界を。また、地平線の向こうに行っても、今いる世界のことは忘れまいと思った。
ここでまた「赤毛のアン」に戻ろう。私はこの作品を、二つの点で、徹底的に高くかう。(註1)というよりも、私の生き方をいつもどこかで支えられてきた。私はこの「アン」シリ−ズの作者モンゴメリ−と、「若草物語」のオルコットを、どちらも同じに好きという人間を、あまり信用できない。(・・・といいつつ、私自身、そのどちらからもある種の快感をうけるし、自分の中に二つの世界があることはたしかに認めるけれど、それにしても――)つまり、モンゴメリ−が描き、主張するのは、一見少女趣味的に見えて、実は、子どもの世界を持ちつづける人の、異常な人の、思想なのだ。ただし「アン」シリ−ズの末尾ではこの傾向はうすらいでゆく。これはしかたがないだろう。
私の母が「赤毛のアン」について述べた感想に、「やっぱりあっちの国は感心だ。アンがギルバ−トと結婚するのに、アンが孤児だったことを誰もちっとも問題にしなかった」という一言がある。異様なことを聞いた気がして、今でも胸に残っている。このごろテレビで放映されるのを見てあらためて感じたが、アンの幼年時代は悲惨で、異常なのだ。彼女はアウトロウの出自といえる。その中で空想の世界だけに逃避していた彼女は、今の常識で考えて、決して健全な女の子ではない。彼女もむしろ異常である。それをひきとるマシュウとマリラは、独身の年老いた兄妹で、マシュウは妹に頭が上がらず、女の人と口がきけない。私は頭が下がる。見ようによっては限りなく病的なこの三人のくらしを、そんなかけらもなく、何と明かるく、ほのぼのと美しく力強く、夢いっぱいにモンゴメリ−は描いたのだろう。何という逆説、何という皮肉だろう。
そして、アンがマリラのしつけをうけて成長して行く過程。よく見るがいい、よく読むがいい、ここに、アンが屈服し、敗北したケ−スは一つもない――レイチェル・リンド夫人にあやまったとき、アンはそれを楽しんでいることに、マリラは気づいて、あきれる。紫水晶のブロ−チは、アンは盗んでいなかった。しかもとったと白状し、こっけいな行きちがいがおこる。アンは成長していくが、しかし、大人にしつけられてではない。むしろこの少女にあるのは、誇りを傷つけられると、男の子をなぐりつけ、学校も退学する、激情である。一方で彼女の魅力、ナイ−ヴなやさしさ、風がわりな美しさが強調されるから読者は忘れてしまうが、アンは大胆で、強情で、異常な子である。ぐさりと鋭い皮肉を言うし、負けずぎらいで、戦う力を持っている。そののびのびとした力強さが逆に回りをかえてゆくのだ。「若草物語」をはじめとするオルコットの少女たちが、常に大人に反抗しては失敗し、おのれを恥じて、くいあらため、そして「リットル・ウィメン」になっていく、あの過程とは何たるちがいか――
ひとりアンに限らない。モンゴメリ−が描く人々の一人々々は激しい感情をもっておのれの夢の世界を守り、そのために迫害される。少年ポ−ルは、女中からあざ笑われて、「先生、僕、あたまがへんなのかしら」と悩む。変わり者と言われるオ−ルド・ミスのラヴェンダ−は、四十になっても若づくりをし、ままごとをし、小さい少年の友だちを空想で作っていつも遊んでいる。「その子はいなくならないし、決して年をとらないの」と言うと、遊びに来ていたポ−ルが応ずる。「僕、わかる。それが夢の人たちの美しいところね」。昔、読んだとき、私はラベンダ−が別にきらいでもなかったが、特に好きということもなかった。しかし今よみかえして、モンゴメリ−は、何という人間を描いてくれたものかと思う――しかもぬけぬけと、まったく、あきれるほどに美しく、ただ美しく。私は感動する。リアリズムなどたたきつぶして、現実以上に現実の、一つの世界を作りあげたモンゴメリ−の、この心意気に。ラベンダ−は、彼女の蘭丸を捨てなかった。そしてついに彼女は真のそれを得る。これはおとぎ話かもしれぬが、それでもよい。ラベンダ−の生き方の大胆さ、モンゴメリ−の書き方の大胆さが、今にして私にはしみじみわかり、もう一度言うが、頭が下がるのである。
(ヤボなつけたしだが、言っておく。ラベンダ−の生き方が、彼女の描写がリアルでなく美化されていて面白くないという人へ。よくよく考えてみると、私たちが認めている、リアルそうでリアルでないものは、実はものすごく多いのだ。ほとんどの西部劇で出てくるガンマンは、あまりに強すぎる。時代劇の剣士も同様。スパイものや刑事もののスパイや刑事の死ななさかげんも異常。皆が気にいる夢だったら、少々のリアルのなさは気にされない。そのくせ、これまでの常識にさからうものだと突然にリアリティのなさを気にしはじめる。強いガンマン、死なない刑事がいていいのなら、美しいオ−ルド・ミスぐらいいていいでしょう?それが気にくわないなら、気にくわないといえばいいのだ。リアルじゃないとかえらそうな小理屈はつけず。そうしたら気にいっている者は、ああそうですかといって、勝手に楽しむのだから。少年愛ってもっとみにくいものですよ。(註2)こんな強い女がいるわけはない。動物がこんな人間みたいなことしますかね。こういう批判はよっぽど用心して聞かないと危ない。描き方と、描くことそれ自体とを、わざとごっちゃにして攻撃してくるのだ)。
あちこちにまじる挿話にしても、描き方によっては目もおおうばかり悲惨な状況になるだろうものがモンゴメリ−には多い。モンゴメリ−の目は常にそこからそらされない。「アン」シリ−ズのおわりに近い「炉辺荘のアン」においてさえ、たとえば、こんな挿話があった。一人の男が死ぬ。前妻も今の妻もいじめぬいた男だった。教会での葬式のとき、型どおりのくやみことばがのべられるのに対し、前妻の姉がいきなり立って、激しい口調でその男の罪を数えあげ、憎しみをたたきつけて、妹の恨みを述べる。彼女が言うだけ言って泣きながら通路をひきあげていくと、今の妻が立って、静かに「ありがとう」と言う。そこには死んだ男への、更に更に深い憎しみが感じられた。アンは、「この話だけは子どもたちに聞かせまい」と思うのだ。そして、たしか、アンは、村のあるおだやかな男の一人から、前妻の姉が昔は、死んだ男を好きだったのだという話を聞くのだったと思う。「ふしぎなもんですなあ、人間とは」というようなことを、その男は(あれ?女だったかしら?)(註3)のんびりと語って、アンといっしょに夕ぐれの平和な風景の中にたたずんでいる。これがモンゴメリ−の世界だ。人間たちの激情をたたきつけて、いっさい批判は行われない。それらの挿話の一つ一つが今、きざみつけられて私の心には残る。モンゴメリ−は決してこの世を健全で美しいものとは見ていなかった。だからこそ、美しい心をもつ一人々々の人間は、その世の中に、「成長していってあわせる」のではなく、その世の中と対決し、戦い、傷つき、しかもなお、夢を見つづけなければならないのである。アンとダイアナが、改善会の寄付をつのりに村を回り、エリザとキャサリンという二人のオ−ルドミスの家をたずねるくだりがある。悲観主義のエリザは、世の中はわるくなるばかりだといって、むろん募金に応じない。家を出て馬車を走らせるアンとダイアナの後から、キャサリンが、エリザにかくれて走ってきて、自分のお金をわたしてくれる。彼女は息をきらせて言う。「・・・世の中はよくなっています。それはたしかですよ」と。あのことばもなぜかふと、異様な感じで心にのこっていた。回りからういていたからかもしれない。それだけ作者の強い思いがこもっていたからかもしれない。
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