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敗者もしくは、それと同等の弱者が、囚人として幽閉され、護送される過程を描いたものが、平家物語中には多い。(略)ここでは、敵側として場面に登場するのは護衛の兵士たちであって、彼らと囚人との関係は、大体において友好的である。保元物語の為朝の様に、護送の武士を馬鹿にする傍若無人な囚人は、「文覚被流」(巻五)の文覚だけで、他にはない。又、太平記で、日野資朝を息子に会わせぬまま斬った本間入道の様な護衛の兵士もいない。実は鹿谷の変の後の、成親父子に関しては、「阿古屋之松」「大納言死去」(ともに巻二)等で無情な番人を登場させる余地が充分ある。現に源平盛衰記では、成親を殺した僧の娘が、その呪いで狂死したという挿話がある。しかし、平家物語の作者は、殊更その様な番人の非情さの強調を避け、例えば「大納言死去」でも、番人の行動を(見方によっては相当冷たい行動だが)次のように描写する。
「信俊これ(成親の妻の手紙)を給はて、はる/\と備前国有木の別所へ尋下る。あづかりの武士難波次郎経遠に案内をいひければ、心ざしの程を感じて、やがて見参にいれたりけり。(略)かくて四五日過ければ、信俊『これに候て、最後の御有様見まいらせん」と申ければ、あづかりの武士難波次郎経遠、かなうまじき由頻に申せば、力及ばで、『さらば上れ』とこその給ひけれ。」
これに類する場面は、「阿古屋之松」(巻二)で、瀬尾兼康が囚人成経の問に偽りを答えて恨まれる場面、「法住寺合戦」(巻八)で、幽閉されている法皇に長教が会うのを、出家後やっと許す武士達を描く場面等であろう。しかし、これらにしても兵士達や兼康の行為を正面きって非難してはいない。そして、次の様な場面になると番人達は、囚人の同情者としての役割を持つ。
「(成親が)『縦重科を蒙て遠国へゆく者も、人一人身にそへぬ者やある』と、車のうちにてかきくどかれければ、守護の武士共も皆鎧の袖をぞぬらしける。」(巻二「大納言流罪」)
「(成親は)『若此辺に我方さまのものやある。舟にのらぬ先にいひをくべき事あり。尋てまいらせよ』との給ひければ、其辺をはしりまはて尋けれ共、我こそ大納言の方と云者一人もなし。『我世なりし時は、したがひついたりし者共、一二千人もありつらん。いまはよそにてだにも、此有さまを見をくる者のなかりけるかなしさよ』とて泣かれければ、たけきものゝふ共もみな袖をぞぬらしける。」(同上)
「(宗盛は)よるになれども装束もくつろげ給はず、袖をかたしゐてふし給ひたりけるが、御子右衛門督に御袖をうちきせ給ふをまもりたてまつる源八兵衛・江田源三・熊井太郎これをみて、『あはれたかきもいやしきも、恩愛の道程かなしかりける事はなし。御袖をきせ奉りたらば、いく程の事あるべきぞ。せめての御心ざしのふかさかな』とて、たけき物のふどももみな涙をぞながしける。」(巻十一「一門大路渡」)
次の様な場面では、囚人が番人を、相手役として語っている。
「大臣殿、若公の御ぐしをかきなで、涙をはら/\とながひて、守護の武士どもにのたまひけるは、『是はをの/\きゝ給へ。母もなき物にてあるぞとよ。此子が母は是をうむとて、産をばたいらかにしたりしかども、やがてうちふしてなやみしが、(略)七日といふにはかなくなりてあるぞとよ。此子を見るたびごとには、その事がわすれがたくおぼゆるなり』とて、涙もせきあへ給はねば、守護の武士共もみな袖をぞしぼりける。」(巻十一「副将被斬」)
次の場面では、番人は囚人の希望を、同情をこめて許可している。
「三位中将守護の武士にの給ひけるは『此程事にふれてなさけふかう芳心おはしつるこそありがたううれしけれ。同くは最後に芳恩かぶりたき事あり。我は一人の子なければ此世におもひをく事なきに、年来あひぐしたりし女房の、日野といふところにありときく。いま一度対面して、後生の事を申をかばやとおもふなり』とて、片時のいとまをこはれけり。武士どもさすが岩木ならねば、おの/\涙をながしつゝ『なにかはくるしう候べき』とて、ゆるしたてまつる。」(巻十一「重衡被斬」)
この様な「情ある番人」が最もよく登場するのは、重衡・宗盛・六代御前の虜囚場面においてであり、それも、各々、土肥実平・義経・北条時致という人物に、集中していく傾向がある。「さすが岩木ならねば」「たけきものゝふなれども情あるおのこなれば」「『なじかはくるしかるべき』」「『何事か候べき』」「『子細あるまじ。とうとう』」等の類句が多用される。ここでは重衡対実平の例をあげておく。
「三位中将の年ごろめしつかはれける侍に、木工右馬允知時といふものあり。八条女院に候けるが、土肥次郎がもとにゆきむかて、『これは中将殿に先年めしつかはれ候し某と申物にて候が、西国へも御共仕べきよし存候しかども、八条女院に兼参の物にて候あひだちからおよばでまかりとゝまて候が、けふ大路でみまいらせ候へば、目もあてられず、いとおしうおもひたてまつり候。しかるべう候者、御ゆるされを蒙て、ちかづきまひり候て今一度見参にいり昔がたりをも申て、なぐさめまいらせばやと存候。させる弓矢とる身で候はねば、いくさ合戦の御供を仕たる事も候はず、たゝあさゆふ祇候せしばかりで候き。さりながら、猶おぼつかなうおぼしめし候者、腰の刀をめしおかれて、まげて御ゆるされを蒙候ばや』と申せば、土肥次郎なさけあるおのこにて『御一身ばかりは何事か候べき。さりながらも』とて、腰の刀をこひとていれてげり。(略)中将なのめならず悦て(内裏の女房への、知時にことづける文を)やがてかいてぞたうだりける。守護の武士ども『いかなる御ふみにて候やらん。いだしまいらせじ』と申。中将『みせよ』との給へば、みせてげり。『くるしう候まじ』とてとらせけり。(略)知時(女房からの返事を)もてまいりたり。守護の武士ども、又『見まいらせ候はん』と申せば、みせてげり。『くるしう候まじ』とてたてまつる。三位中将これをみて、いよ/\思ひやまさり給ひけん、土肥次郎にの給ひけるは『年来あひぐしたりし女房に、今一度対面して、申たき事のあるはいかゝすべき』との給へば、実平なさけあるおのこにて『まことに女房などの御事にてわたらせ給候はんは、なじかはくるしう候べき』とてゆるしたてまつる。(略)」(巻十「内裏女房」)
この様に、護衛の兵士達の冷酷さを強調せず、「情あるおのこ」として描き、囚人の孤独を際立たすより、慰める存在にしたのは、弱者や敗者を絶望的な立場に追い込んで、醜い人間性をむき出しにするといった描写を好まない作者の、一貫した傾向によるものであろう。必ずしも、平家の囚人の場合だけに使われる手法ではないから、源氏への好意による描写とは、一概にいえまい。この様な、本来は勝者側の人間でありながら、囚人を理解し、共感を持つという護衛の武士の描写が、最も発達した典型として「千手前」(巻十)の千手の像があると思う。千手像の本質は、例えば内裏女房や牛飼三郎丸の様に、以前囚人と関係があった者というより、本来遠い存在の筈が、身の回りの世話をして行く内に囚人に親しみを感じはじめる護衛の武士達に近い。
しかし、実は、この護衛の武士達の立場は微妙なものの筈である。かつては戦場で戦った相手への気持のこだわりはさておくとしても、護送の役目がある以上、囚人に油断する事は許されないし、又いくら同情しても、囚人の運命を、自分の手でかえ得るものではない。いわば敵でも味方でもなく、相手に関する一切の権利を持ちながら、しかも何一つ権利を持たぬのが彼らなのである。囚人の運命を握っているのは結局は彼らの主君であり、彼らも又、その主君の意志は決して無視できない。仮に場面に登場しなくても、それらの主君の意志は、常に場面を動かす一要素をなしている。虜囚場面でその様な役割を持つのは、主として清盛と頼朝である。義経も部分的にその役割を持つ事もあるが、彼自身の意志か頼朝の意志か明確でなく、義仲がその様な存在として描かれる事は、虜囚場面では、ない。この様な、囚人と、護衛の武士と、主君の意志との三者の関係が強調される虜囚場面には、「法皇被流」(巻三)で、宗盛が清盛を恐れて法皇の伴をしない場面、「厳島御幸」(巻四)で、上皇が宗盛に「法皇に会いたいが清盛の許しをうけなくては駄目か」と尋ね、宗盛が涙を流して「何条事か候べき」と許可する場面、「六代」(巻十二)で、北条が六代に、頼朝の許しがないから、と涙ながらに死刑の宣告をする場面、「戒文」(巻十)で、義経が重衡の出家の願いを、頼朝の許しがないからと拒否する場面等がある。重盛が成親に助命を約す場面(巻二「小教訓」)、義経が宗盛を同様に慰める場面(巻十一「腰越」)等も同様である。最も有名なのは、次の場面であろう。
「入道、猶腹をすへかねて『経遠、兼康』とめせば、瀬尾太郎・難波次郎まいりたり。『あの男とて庭へ引おとせ』との給へば、これらはさうなうもしたてまつらず、畏て『小松殿の御気色いかゝ候はんずらん』と申ければ、入道相国大にいかて『よし/\、をのれらは内府が命をばをもうして、入道が仰をばかろうしけるごさんなれ。其上は力及ばず』との給へば、此事あしかりなんとやおもひけん、二人のもの共立あがり、大納言を庭へ引おとし奉る。其時入道心ちよげにて、『とてふせておめかせよ』とぞの給ひける。二人の者共、大納言の左右の耳に口をあてて、『いかさまにも御声のいづべう候』とさゝやいてひきふせ奉れば、二こゑ三声ぞおめかれける。」(巻二「小教訓」)
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思いがけない協力者を、敵と思っていた人の中に見つけたときはうれしい。大切にしたいと思う。甘えて、その人に迷惑をかけたくはない。自分に同情してくれるだけでうれしいと思うから、不幸にまきこみたくはない。うらぎらなければならないなら、せめて、期待をもたせたくない。好意をうけとってはならぬと思う。
そういった思いの数々が、どんなにひよわで、卑怯だったか、王享立の生き方に、私は思い知らされた。
思えば、クリスチャンやマルキストの人々の中に、そんな生き方は基本的にはいつも見てきた。しかし、どちらかといえば、いつもかすかに、私はそれらに反発してきた。相手を「教育」して、おのれの側にひきつけていく生き方が私はきらいだったし、何よりうっとうしく、それより恐かったのだ。
愛する人、好きな人には、喜びと幸せを与えたかった。不幸な運命以外何も、さし出すことができないのなら、いっそ、かかわりを持ちたくない。
しかも私は妥協できなかった。自分の生き方をかえ、自分の信念を捨てて、相手にあわせることで、相手に喜びや幸せを与えられると、私には信じられなかった。
自分は決してまちがっていないという信念がいつも心のどこかにあって、私は自分の生き方をどうしても変えたり、ゆずりわたしたりできなかった。
けれど、それは、ともすれば、世間の常識とはちがう生き方だったから、他人を自分の仲間にすれば、その人をきっと不幸にすると思った。
妥協しない覚悟だけはいつもあった。だから多分、私が崋山だったら、歯をくいしばって、きっと署名はしなかったろう。
ただ、そのために私は、石のようなかたくなさと、冷やかな怒り、憎しみ、孤独の中にとじこもる心を必要としただろう。
署名をしないで、相手を怒らせ、相手を傷つけ、もしかすると相手を不幸にしながら、それでもなお、相手を愛し、人間すべてに対して、あたたかい心を抱きつづけ、信じつづけていくことは、決してできなかったろう。
自分を、人間らしい人間、正しい人間とは、決して思えなかったろう。心の底ではたしかにそう信じていても口に出す勇気は、なかっただろう。
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