小説「アカデミアにて」注釈集
― 今、大学はどうなっているのか ―

第一回 書き出したきっかけ

 
  
 第二次大戦の直前に、フランスの劇作家ジロドゥが書いた、「トロイ戦争は起こらない」という戯曲がある。もう多分世界中の誰もが、それが起こったことと、その結果…ギリシャに敗北したトロイの都は焼かれ、男と子どもはすべて虐殺され、女たちは陵辱されて奴隷となったということを、そして勝利したギリシャ方にさえも、幸福な結末は決して待ってはいなかったということを知っている、この紀元前の戦争の、その直前のトロイの町で、起ころうとする戦争を必死でくいとめるために努力する人たちの群像を、機知と笑いと、そして悲しみと苦さをこめて、彼は描いた。
  
 私はこれを高校の頃、テレビの舞台中継で見た。二階にあった暗くて狭い自分の部屋の小さな白黒テレビで、たった一人で、寝そべって。ギリシャ神話が好きだったし、戦争反対は当時も今も私の思想の骨格だったから、この劇に共感し楽しんだ。その後、本もさがして読んだ。ギリシャ喜劇の荒っぽい性的な笑いをとりいれながら、フランス風の小粋な味も前衛的な哲学も加わった、絶妙の味加減を楽しみながら、戦争直前の欧州で、このように洒落のめした反戦劇を書いた作者の心の余裕に感服した。
  
 だが、その当時、日本も世界も第二次世界大戦の傷跡が深く、平和への誓いもまたみずみずしかったから、再びこのような戦争直前の時代と世界の中で、必死に平和を守る戦いをしなければならなくなるかもしれないという実感は、生々しい固い決意であるとともに、それ故にまた、遠くて予想もできないものだった。どのようにして戦争は準備され、どのように否応ないかたちで私たちを屈服させようとしてくるのか、具体的には予想がつかなかった。何かまったく新しいかたちで?それとも皆が忘れた頃に、性懲りもなく芸もなく前と同じかたちで?またはその両者が組み合わさって?そんなことを、その頃でさえ私は時々考えていた。
   
 そんな私に今の日本の状態がどう映るか、どのような感慨を抱くか、そのことについては、今しばらくおくとして、たまたま数年前にはまったハリウッド映画「グラディエーター」のパロディ小説をいくつか書いて遊んでいて、そろそろネタもつきてきた時、ふと主人公が毅然として暗君で暴君の若い皇帝の即位を認めず、剣闘士に身を落とすという映画の筋ではなく、彼が皇帝と妥協して生きていく道を選んだ時、そこにはどのような結末が待ち受けているだろう…という話を書こうとした私の頭のどこかには、たしかにこの「トロイ戦争は起こらない」という戯曲があった。
  
 私はこのパロディ小説で、平和と妥協を選んだ主人公の、映画とはいわばパラレルワールドの運命を、法人化前後の自分の職場の現実と結びつけて、どたばた喜劇で笑いとばした。そうでもしなければやりきれない自分の周囲の、またそれ以上に自分の内部の、やりきれなさがあったからだ。このような設定が原作の映画を冒涜するとは思わなかった。それ以前に書いたパロディ小説のすべてでも、そこには私自身の現実の悩みと迷いがかならず反映されていたからだ。そういう意味ではローマの剣闘士の話でも、すべては現代小説で私小説だった。今回のこれもまた、その一つだった。
  
 まさか、この話を読むのに、ネタばれや結末ばらしをされて怒る人はいないと思うし、また、この結末や展開も今後は変わるかもしれないので、今のところの予定をばらしておくと、たとえのんきなどたばた劇でも、この話はこれまでの中で一番悲惨なものになるはずだった。
 主人公は、(原作の映画では残酷に殺された)妻と子どもを守るために暴君の皇帝と妥協するのだが、結局のところ彼はその家族を失う。ある意味、殺されるよりひどいかたちで。そして、彼の愛した人々も彼を愛した人々も、皆残酷に殺されて行き、理想は潰え国は荒れ、彼は何一つ救えないまま、自らも陵辱されつづけ、すべてを失う。暴君の皇帝その人もまた悲惨な最期を遂げて、彼の妥協も、それにつづく、あらゆる努力もすべて失敗に終わり不毛に終わる。
 あ、どうしてそうなるか書いてないから、まだネタばれにはなってないのか。しかしとにかく、そうなるのである。
 そしてそれは、「トロイ戦争は起こらない」を書いた時のジロドゥがそうであったろうと私が予測したのと同じ、私自身の今後の予感だった。私があらゆる努力をしても、それはすべて失敗に終わり、大学でも日本でも、良心的な人々は孤立し分断され滅ぼされて行くだろう。大学は政府の意向のままになり、自治も自由も失われ、平和憲法は改正され徴兵令がしかれ、日本は再び戦争に突入し、そうやって世界が苦しみ地球が汚されていくのを、なすすべもなく私は見守るのだろう。私の愛するものはすべて滅ぼされて消え、残ったもののすべてを、何よりも自分自身を私は憎みつづけて命の最期を迎えることになるだろう。
 私はそれを予感し覚悟し、その予測される世界を「アカデミアにて」で書こうと思った。こうして書いてみるとつくづく思うが、まったくいい趣味ではない。
  
 だが、書いていく中で、いやそもそも書き始めたその時から、私はあるとまどいを感じていた。
 そして、あらためてジロドゥは何を考えて「トロイ戦争は起こらない」を書いたのだろうかと思った。
 特に詳しく調べたわけでもないから、彼がこの作品を書き始めたのも書き終えたのも、いつの時点か私は知らない。
 劇のラストは、敵との平和交渉を成功させ、「戦争は起こらない」と安堵したヘクトール夫妻(彼らは周知のようにトロイ戦争の中で夫は戦死し、赤ん坊は殺され、妻は捕虜として敵の愛人にさせられる悲劇の一家である)が、急転直下の逆転の事態によって「戦争は起こる」と覚悟するところで終わる。観客の誰もが知っているが劇の中の彼らはまだ知らない、その後の彼らの運命を前に抱き合う二人の上に幕は下りる。
  
 ジロドゥは、何を訴えたのだろう。その前にそもそも何に動かされて彼は書いたのか。反戦劇なのは明確だが、ではなぜ最後に「結局戦争は起こってしまう」のだろう。実際にもう起こるとわかっていたから、「起こらない」ラストを書くのは耐え難かったのだろうか。それとも、最悪の場合はこうなるが、それでもできるだけの努力はしようと自分に言い聞かせながら書いたのか。上演されたのはいつだろう。見た人たちは何を思ったろう。
  
 なぜこんなことを考えるかというと、「アカデミアにて」を書いている私自身、自分の覚悟し予測している「最悪の結末」をどの時点で完結させるか考えたりするのと、それ以上に、自分も周囲も思ったよりは絶望的な状況にならないという希望が生まれつづけることだ。
 どうせ大学は骨抜きにされ、だめになる。どうせ憲法はあっさり改定され九条は廃止される。
 そう思ってこの小説を書き始めた。実際、そうなりそうでもある。
 だがその一方で、私の職場の同僚たちは驚くほどに聡明で勇敢で献身的に戦いつづけ、事態を最悪のものにしないできている。
 この町にも憲法九条を守ろうという会ができ、細々とだが着実にその活動が続いている。
 マスメディアの無責任さ、選挙の結果、アジア諸国の人たちへむけてあおられる敵意。そのすべてにまつわる軽薄さと残酷さ、それを生み出す憎しみや恐れや疲れ。
 そういったものの巨大さを見るたびに、「アカデミアにて」の救いのない結末をとっとと急いで書いてしまおうと思っては、私はまだそれを書けない。そうすることは、何かに対する冒涜のように思えることもある。
   
  
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