そしてそれは、「トロイ戦争は起こらない」を書いた時のジロドゥがそうであったろうと私が予測したのと同じ、私自身の今後の予感だった。私があらゆる努力をしても、それはすべて失敗に終わり、大学でも日本でも、良心的な人々は孤立し分断され滅ぼされて行くだろう。大学は政府の意向のままになり、自治も自由も失われ、平和憲法は改正され徴兵令がしかれ、日本は再び戦争に突入し、そうやって世界が苦しみ地球が汚されていくのを、なすすべもなく私は見守るのだろう。私の愛するものはすべて滅ぼされて消え、残ったもののすべてを、何よりも自分自身を私は憎みつづけて命の最期を迎えることになるだろう。
私はそれを予感し覚悟し、その予測される世界を「アカデミアにて」で書こうと思った。こうして書いてみるとつくづく思うが、まったくいい趣味ではない。
だが、書いていく中で、いやそもそも書き始めたその時から、私はあるとまどいを感じていた。
そして、あらためてジロドゥは何を考えて「トロイ戦争は起こらない」を書いたのだろうかと思った。
特に詳しく調べたわけでもないから、彼がこの作品を書き始めたのも書き終えたのも、いつの時点か私は知らない。
劇のラストは、敵との平和交渉を成功させ、「戦争は起こらない」と安堵したヘクトール夫妻(彼らは周知のようにトロイ戦争の中で夫は戦死し、赤ん坊は殺され、妻は捕虜として敵の愛人にさせられる悲劇の一家である)が、急転直下の逆転の事態によって「戦争は起こる」と覚悟するところで終わる。観客の誰もが知っているが劇の中の彼らはまだ知らない、その後の彼らの運命を前に抱き合う二人の上に幕は下りる。
ジロドゥは、何を訴えたのだろう。その前にそもそも何に動かされて彼は書いたのか。反戦劇なのは明確だが、ではなぜ最後に「結局戦争は起こってしまう」のだろう。実際にもう起こるとわかっていたから、「起こらない」ラストを書くのは耐え難かったのだろうか。それとも、最悪の場合はこうなるが、それでもできるだけの努力はしようと自分に言い聞かせながら書いたのか。上演されたのはいつだろう。見た人たちは何を思ったろう。
なぜこんなことを考えるかというと、「アカデミアにて」を書いている私自身、自分の覚悟し予測している「最悪の結末」をどの時点で完結させるか考えたりするのと、それ以上に、自分も周囲も思ったよりは絶望的な状況にならないという希望が生まれつづけることだ。
どうせ大学は骨抜きにされ、だめになる。どうせ憲法はあっさり改定され九条は廃止される。
そう思ってこの小説を書き始めた。実際、そうなりそうでもある。
だがその一方で、私の職場の同僚たちは驚くほどに聡明で勇敢で献身的に戦いつづけ、事態を最悪のものにしないできている。
この町にも憲法九条を守ろうという会ができ、細々とだが着実にその活動が続いている。
マスメディアの無責任さ、選挙の結果、アジア諸国の人たちへむけてあおられる敵意。そのすべてにまつわる軽薄さと残酷さ、それを生み出す憎しみや恐れや疲れ。
そういったものの巨大さを見るたびに、「アカデミアにて」の救いのない結末をとっとと急いで書いてしまおうと思っては、私はまだそれを書けない。そうすることは、何かに対する冒涜のように思えることもある。