『天石笛之記』が描く平田篤胤
−ある国学者の資料蒐集−

    1 はじめに

 宮内嘉長・石上鑒道作『天石笛之記』(文化十三)は、国学者平田篤胤(安永五〜天保十四)が彼の屋号「気吹廼家」(「気吹舎」「伊吹舎」などとも)の由来ともなった奇石「天の石笛」を発見した時の事情を、同行した弟子の二人が記したものである。
 この紀行の最大の魅力は、篤胤の人となり、特にその研究者としての一面が実に鮮やかに描き出されることにある。主人公である篤胤が作者ではなく、弟子たちが筆を執っていることが、描かれる対象を描き手から切り離し客観的で詳細な描写を可能とした。

    2 近世紀行の登場人物

 この作品は『国書総目録』をはじめとした諸目録でいずれも紀行と分類され、内容も一応そういってよいものではあるが、厳密に検討するなら、紀行とはやや性格を異にするところもある。
 そのことは後に改めて触れるとして、これを紀行とするならば、その精彩ある人物描写は近世の紀行の中ではかなり珍しい。そのような作品が皆無なわけではない。たとえば、幕末の勤皇家日柳燕石の長崎行きの紀行『旅の恥かき捨ての日記』(弘化元・国立国会図書館蔵)は、従来、彼の作品としては知られておらず、その伝記研究に利用されることもなかったが、漢詩や日記をはじめとした彼のどの著作にもまさって、その闊達な人柄をしのばせるといっても言い過ぎではない(注1)
 しかし、このような例は少ない。もともと紀行は一人称で記されることが大半であり、近世に入って旅人の心情よりは旅先の土地に関する情報がより多く描かれるようになってからは、自照文学である日記類と比較してさえ、そこに作者の人物像が浮かび上がる可能性は薄れがちだった。読者は、作者が見聞した事物を描写する、その姿勢や視点から、作者の人柄を推測するしかない。
 作者自身が描かれないなら、ついで注目される登場人物は同行している人物や、旅先の土地で出会う人物であろう。しかし、この点でも多くの場合、近世の紀行は淡白である。 近世の紀行に、風景描写は一般に人々が予想するよりもずっと稀薄であることを、以前に私は指摘した(注2)。人物描写という点では、近世紀行は風景描写よりは豊かであるが、それでもやはり読んでいてものたりない思いは残る。
 したがって『天石笛之記』のような例は珍しく、その点でも注目すべき作品ではある。だが、題名は「紀行」でも「道の記」でもないにもかかわらず、だいたいの内容から、さしあたり近世紀行という、従来面白くないものとして無視されがちなジャンルに分類された上に、作者が篤胤自身ではなく無名に近い弟子たちであったため、存在はよく知られながらも読まれることの少ない作品となったことを思うと、この作品をいたずらに紀行というジャンルに固執して評価することがためらわれる。平田篤胤という一人の国学者の姿を描き出し、ひいては外国にでも現代にでも通じる、研究対象となる資料を蒐集する際の研究者の情熱や惑乱を記しとどめた文学として、もっと評価されていい作品――むしろそのように定義しておきたい。

    3 伝記研究での扱われ方

 そもそも、篤胤が、はじめ「真菅之屋」であった屋号を「気吹廼家」に変えた由来ともなった「天の石笛」なのであるから、石笛の取得はかなり重要な事件であろうと思われるのだが、篤胤に関する伝記は、いずれもこの事柄そのものにあまり触れていない。

これより先き、常陸に赴きて鹿嶋香取の諸宮に詣し、途にして天の石笛を得「其名をば著く(ママ)いはふゑの音を大空に挙げむとそ思ふ」の詠あり、因て自ら号して伊吹乃屋と曰ふ、蓋し宇宙にする所の大気を吸して、天下に狭霧なす妖気を一掃せんとするにあり、翁が当年の意気卓犖にして天下を挙げて悉く敬神界裏に陶冶せんと試みられたる雄図は左の一篇に於て之を見るべし。
(村井良八『平田篤胤翁伝』 明治二五)

是れより先き、文化十三年の四月、篤胤常総に遊びて、鹿島、香取の諸社を拝するや途にして天然の石笛を得たり。即ち、
 その名をば著くもいはぶゑの
  音を大空にあげむとぞおもふ
と咏じ、『眞菅廼舎』の家号を改めて『気吹廼舎』と号しぬ。今や琅々たる石笛の声は、端なく九重の天にまで響き、同時にまた紛々たる毀誉一身に集まる。
(丸島敬『平田篤胤言行録』 明治四一)

この年(文化十三年)も大いに著述にはげんだ。四月始めて、鹿嶋、香取、息栖の三社に参詣した。この参詣の途次下位浜村の八幡宮で天之岩笛を拾得した。この岩笛は火山活動の作用か何かによって生ずるものらしいのであるが、当時は之を神秘化することが多かったらしい。これによって篤胤は『岩笛の記』を作り(注3)、「真菅乃屋」を改めて気吹廼家とし、自分の名を「大角」と改めたりしたが、この大角の名は、時の人からは、役ノ小角を凌がんとする号であろうなど後言をうけることにもなった。
(伊藤裕『大壑平田篤胤伝』 昭和四八 錦正社刊)

 などは、詳しい方であって、山田孝雄『平田篤胤』(昭和十七)、藤田徳太郎『平田篤胤の国学』(昭和十七)、室田泰一『平田篤胤』(昭和十七)、佐藤政次『平田篤胤の科学精神』(昭和十八)、三木正太郎『平田篤胤の研究』、渡辺金造『平田篤胤と夫人』、田原嗣郎『人物叢書 平田篤胤』(昭和三八)は、いずれも石笛の取得について記していない。一般に新しい伝記ほど、このことに関する記事は見えなくなる。片岡洋二『現代を翔ける篤胤』(平成五 大雅堂刊)でも、この時期については、「開塾以来十年、塾の経営も軌道に乗り始めた文化十年(一八一三)学問の心得とでもいうべき『入学問答』を著した。同十三年には、入門者が八十七人にも達し、家号を眞菅乃屋から伊吹乃屋に改め、自らを『大壑』と号した。これは、すでに述べたが、若い頃、『荘子』の一文を読んでいた時に感じるところがあって、そこから取ったものである」とのみで、家号変更の理由には触れていない。
 この記事を記している書にしても、たとえば、田中義能『平田篤胤之哲学』(昭和十九)の「文化十三年、香取、鹿島、その他の諸社を巡拝し、天之石笛なるものを得たり。是れより家号を伊吹之屋と称す」の記事は、篤胤の養子平田鉄胤の『大壑君御一代略記』中の「(文化十三年)四月始めて鹿島宮香取宮及び息栖神社に参詣給ふ、序に銚子辺を廻り諸社巡拝して天之石笛を得給へり、之に依て家号を、伊吹乃屋と改め、通称を大角と名告給ふ。扨また大壑と申す」の要約に過ぎない。更に言うなら先に紹介した伝記の諸書も、この『御一代略記』の内容以上の記事は少なく、『天石笛之記』そのものが参照されたかどうかの確認ができない。
 石笛そのものは現在でも平田篤胤の展覧会などには出品されており(注4)、この紀行がその際の由来を記したものであることも知られている。にもかかわらず、その内容にはさほど興味が持たれていないかに見えるのである。

    4 作品の背景

    ○書誌

 『天石笛之記』は、『国書総目録』によると九点が現存している(注5)。なお、同書が『猿田神社玉ケ池神社記』(宮内嘉長著 名古屋大学皇学館文庫蔵。「玉ケ池」は「玉ケ崎」の誤りだが、中表紙題はこのようになっており、他に内題等はない)として別項にあげる一点も、内容は『天石笛之記』である。
 私が見たのは、写真等も含めて、この内八点である。いずれも概ね十行書の二十一丁前後で、さほど長編の紀行ではない。
 諸本を比較して何より目につく特色は、きわめて異同が少ないことである。振り仮名の欠落、送り仮名の異同など、指摘する必要もない程度のわずかな表記の違いを除けば、まったく同一といってよく、したがっていくつかの系統を区別することも、書写の前後を決定することも困難である。写本で伝わる紀行に、このような例は珍しい。この書が篤胤門下の人々によって、非常に丁寧に書写されて伝わったことを推測させる。

   ○この時期の篤胤

 田原嗣郎『人物叢書 平田篤胤』は、石笛のことにはふれていないが、それを採取した旅が行われた文化十三年について、

また同じ一三年に家号を「気吹舎(いぶきのや)」(「伊吹之屋」)と改め、自分も大角と改称したこと、この年のうちに八七人という大量の入門者があって門人数が一六六人に達したことなどを考えあわせると、この年が「気吹舎」の発展にとってモニュメンタルな意味をもつ、といってよいであろう。

 と、この年が篤胤の活動が大きく発展した時期であるとしている。秋田藩を脱藩後、江戸で苦労を重ねて平田家の養子となり、享和三年の最初の著作『呵妄書』以後も門人らへの講義録も含めた書を発表しつづけていた彼は、この頃、机の肘にあたる部分に穴をあけて網を張り、つき通しの肘が痛まないようにしたという没頭ぶりで、後年の彼の学問の根底をなす霊魂と幽冥の問題を追求した『霊の真柱』を文化九年に発行、服部中庸の『三大考』について本居大平と論戦して鈴屋門下を刺激し、生涯にわたる著作となる『古史伝』執筆も始めるなど、その学問は急速な成熟期にあった。だが一方で文化九年には愛妻が病死、同十一年には自らが大病にかかり、石笛を拾得した数か月後の文化十三年九月には次男も病死するといった不幸も続く。貧窮に苦しむ家庭の様子は、しばしば引用される伴信友宛の書簡などにも詳しい。
 生涯を通じて、あまり旅をしたことのない篤胤が、この文化十三年に鹿島・香取を訪問したのも、金策のためではなかったかと、渡辺金造『平田篤胤研究』(昭和十七 六甲書房)は、養子鉄胤の文政・天保年間の旅行日記に資金募集の記事があること等を引用しつつ指摘している。      

右の常総地方の二回の旅行の目的は何であつたか。一は観光の為め、一は古道学宣布の為めではあらうが、裏面には出板費用の募集の為めではなかつたらうか。是は余りに推測に過ぐるとも言はれようが、併しどうも眞の目的がそこに有りさうに思はれてならぬ。

 というのである。

    ○作者について

 この書は宮内嘉長、石上鑒通の合作となっている。両人がどのように分担して執筆しているかは明らかでない。
 宮内嘉長については、『平田篤胤全集』別巻所収の「誓詞帳」一に、

下総国海上郡銚子新生町  二十八歳
             清原嘉長
文化十三年丙子五月十七日 湯浅定憲紹介 宮内主水

 とあり、「門人姓名録」一にも、

同(下総)国海上郡銚子新生町 廿八歳
神明宮神主          清原嘉長 〔笛〕〔玉四〕(注6)
五月十七日         湯浅定憲紹介 宮内主水

 とほぼ同様の記事がある。また、石上鑒通も湯浅定憲紹介として、「誓詞帳」一に「下総銚子飯貝根村 源太郎鑒尊二男 鑒通 石上仁兵衛」、「門人姓名録」一に「同所(新生町) 同日(五月十七日) 後飯沼村住 鑒尊二男 鑒通〔笛〕 石上仁兵衛」として登場する。鑒通の年齢が不明、住所もやや曖昧だが、ともに文化十三年に多かった下総の入門者であり、おそらくは両人とも若かったことがわかる。
 なお、嘉長の著書として『国書総目録』には七点が挙がるが、『天石笛之記』と、前出の『猿田神社玉ケ池神社記』以外はいずれも現存しない。鑒通の著書は挙がっていない。    

    5 内容

 冒頭に「師の大人の『天ノ磐笛を得たまへる故よしを、知たるまにくかきしるして見せよ』とのたまへるによりて、かき記し見せ奉るふみ」とあって、作者二人の署名が並んでいる。
 本文は、文化十三年の五月十一日、篤胤が老翁渡辺之望(注7)とともに鹿島香取に参詣の帰途、銚子に立ち寄るとの知らせを受けた、弟子たちの喜びから始まっている。

「いま船より上り給ひつ」と、とも人していひおこせ給ふに、うれしなど云ばかりなく、御をしへ子たちにその由いひふれて、共に御むかひに参り、鑒通が家にと丶め参らせて、わが里なる御をしへ子のかぎり、五十人ばかりつどひ、よるひるといはず御をしへ言うけ給はり、腹ぬちにたくはへたる疑どもをも問まつり、仕へ奉る。

 このような地方の弟子たちの質問責めは、文化七年の駿河旅行の折にもあったことが、新庄道雄の『古史徴』序文に記されている。
 十三日の早朝、篤胤は鑒通に猿田神社と玉ケ崎神社に参詣したい由を伝え、嘉長と鑒通は、渡辺之望と供の常蔵と四人で篤胤に従った。まず、猿田神社に赴く。参拝を終えてあたりを見めぐっていたところ、神社の後ろに白く晒された獣骨があった。篤胤は非常に興味を示して手に取るが、作者たちは不浄のものに師が触れたことに驚愕と嫌悪を禁じえない。篤胤はこれが古代をしのぶ貴重な品であることを教え、夢のお告げでこの神社に参詣したのに対して神が与えてくれたのだと述べる。師を深く尊敬している弟子たちだが、その日常の感覚は、師の学問上の興味と微妙な齟齬をきたしていることがわかる印象的な場面である。
 その後、篤胤は神主に会って、このあたりの肉食の習慣について聞くが、神主もまた嘉長たちと同様に、肉食についての拒否反応を示し、そのような汚らわしい習慣はないと強く否定した。獣骨のあったことをますます不審に思いながら、一同は神社を後にする。
 申の時過ぎに玉ケ崎神社に着いた。参拝後、門前のかぶらき屋といふ宿に一行は宿泊する。ここで、鑒通の家に昔仕えていた、この土地のことに詳しい源六という男を呼んで、篤胤はさまざまな質問をした。それに対して源六が語った、この神社の由来や、霊木の松のことなどが詳しく記されている。源六は更に、この近くの妙見神社と玉ケ崎神社の関係について述べ、また海岸に多くの石が流れ着く「寄り石」という不思議な現象について語った。興味を感じたのであろう、翌朝一行は妙見神社に参詣し、寄り石を見る。流れ着く石の中に、時々、穴があいていて吹けば音が出る石があって神社に供えてあるという。たしかに拝殿に、そのような石が十五六個あり、吹くとほら貝のような音がした。
 源六と別れて帰途に着く頃から雨が降り出した。雨具の用意もないままにぬれそぼって小浜村に着いた一行は、そこの八幡宮の前の粗末な家で、稲俵(稲で作った俵)を貰って篤胤に着せて雨をしのぐ。八幡宮の鳥居の前で遙拝して、社のかたわらの坂を下ろうとした時、鑒通は神社の背後に近道があったようだと思いつく。

さて社の右なる坂を下らむとする時に、鑒通ふとおもひよりて、「此坂はことに道あしければ、社ノ地にいりて宮のうしろに道ありとおぼゆ。そこをとほりて行む」と云へば、嘉長も「しかおぼえたり。近さもちかし、いざ」といふに、大人ののたまはく「宮のうしろは見はるかすに、藪にして道ありとも思はれず。もし行あたりて道なからむには、いたづがはしければ、益なきわざぞ。わろくとも大道をこそ」とのたまふを、己等はそ丶ろに近道ありきとおもはれければ「こ丶の案内は二人がよく知り侍り。いざく」と、あながちにいざなひて、こ丶ろあての所に至りて見れば、あらぬひがおぼえなりき。大人も之望老翁も「それ見よ、道はなきものを」とにが笑ひして、之望のをぢは鳥居のかたへ帰らる丶。おのれら二人は大人の宮のまへに、をろがみ居たまふもしらで、負をしみの心さへ立チそひて「道ありや」と尋ぬるに、人のから跡(乾跡。からと。動物などの通った跡)だもなし。

 意地になった二人は、木々に笠や着物を引き裂かれながら、しゃにむに坂をすべり下りて大道に出る。まもなく之望が道を下りて来たが篤胤の姿は見えない。聞けば、神社に参拝しておられて、従者の常蔵もついているからと思って、自分は先に下りて来たと言う。しばらく木陰で待っていたが、いつまでたっても篤胤は来ず、とうとう二人が迎えに行くと、着ている俵の中で笑顔を見せながら道を下りて来る篤胤に会った。

大人はひたぬれにぬれて、大きなる石の土まみれなるをわきばさみたまへるが、いなだわらの中よりほころび出て見ゆ。いと嬉しげなる面もちして、あはた丶しく来たまへり。「その、もたまへるものは何にし給ふにか」と声高に問まつれば、「あなかま、しづまりてよ。こはいともたふときものなるよ。そのよしは行々語らむ。おもふ由あり。今半道ばかりはいそぎてよ」とのたまふに何事とは知らず、いぶかしみつ丶、みなくつれ立チていそぐ。

 二十町ばかりも来た頃に我慢できなくなって、また聞くと篤胤は「こは古き伝への書に天磐笛といへる物」と、詳しく石の由来を説明した。篤胤は更に語る。

さきに、そこたちの宮のうしろにいりて道をたづぬるほど、おのれまた神の御前をおろがみ奉り、御戸のまへを見るに、彼ノほら貝石の三つ四つありしが、みなかの妙見ノ宮にある石のたぐひにて、めづらしげもなかりしを、宮のわきなる礎のかたはらに、土にまみれ草におほはれうづもれたる此笛に、一ト目めと丶まるとはや、むねうちと丶ろきて、「此ぞ天磐笛なる」と人の告知らするやうにおぼえければ、まづ取上ゲて吹ならし試ミたるに、その音のいともめでたく、かのほら貝石の音の似るべくもあらねば、「神に賜はりて持かへらばや」と思ふ心いで来て、かにかくに思ひめぐらせど、「神の社に納めたる物を、みだりにもちゆくべきにあらず」と思ひわづらへるを、(略)

 悩んでいる篤胤の中で、また何者かが、「昨日得た鹿の肩骨で占って見ればよい、火がなければ水を使うとよい」と語りかけてきたようだった。それに従って篤胤は肩骨を取り出し、「もしこれが雨に濡れなければ、石を賜るということだ」と拝んで目をあけると、骨はまったく濡れていない。

「かたじけなし」など云フばかりなく、よろこびを白してたまはらむとせしが、また思へるやう、「神の賜へることはうたがふべくも無れど、現世の人の『盗とりたり』と思ふべければ心よからず。神主にことわりてこそ」と思ひ、「その家はいづこならむ。もの云ひてこそゆかめ」と笛はもとの所にさしおきて、そこら見わたすに、右リの方のやぶごしに草屋ひとつありて人ありげに見ゆれば、「此なめり」と思へど、まことの道を行むにはいと遠ければ、うばらかきわけ真直にとほりて其家に至れば、戸をさしてあり。外より声高く「こ丶の八幡宮をもり奉る神主どの丶家はいづこにある」と問ふに、しはがれたる女の声にて「神主はなし。宮の左リに見ゆる寺なむ、御別当なり」と云にぞ、よろこび(謝辞)云ひすて丶、そこもまことの道は遠ければ半町ばかりも草かきわけて、その寺にいたり、あないして戸を明ケたるに、た丶みだに見えぬやれ寺に、ふる仏ひとつすゑて、六十ばかりの法師ひとりいろりのわきに、わらぐつ造りてあり。

 神の許しは得たものの、人間にも了解を得ようとする篤胤は、しかし、これに続く別当の僧とのやりとりでは必ずしもすべてを正直に語って石を得るのではない。奉納されている他の石とは比較にならぬ名石であることを明確に告げないまま、信心のために石を一つ持ち帰らせてくれと頼み、けげんな顔をして渋る僧を、明白な嘘はつかないようにしながらも慎重に熱心に説得する。

「和尚さまは」と問へば「我こそ此ノ寺の住持にはあれ」と云ふに、語をねもごろにして「守し給ふ宮のまへに、穴あきたる石のこ丶ら(多数)あるが中を、一つ得させ給ひね。深く信心する事のあれば」といふに、少しまめ立チたるかほつきして「おまへがたはいづこの人ならむ。神のものを持ゆくといふことの有らむや。殊にあの大きなる石をいかにして持ゆかるべき」といふに「おらは江戸のものなれど銚子より船に乗りて帰れば、たとへ重くとも銚子までのことなり。初穂を奉らむ。あとにて御酒をそなへて、よく申て祭りしたまひてよ」といへば、「彼ノ石どもは村人の玉ケ崎の石を買ヒたる中にまじりたるを、むかしよりつぎくにをさめたるなれば、持ゆくを見たらむには、腹を立ツべし」といふ。「然もあらば着たるこもの下に引いれて行クべし。後に村の人にはよく申し給へ」といひて、常蔵にもたせたる七百文余りの銭をあるだけさし出し「此をもて御酒をそなへ、その石を納メたる人にも酒のませ給へ」と云へば、和尚すこしゑがほになりて、かしらをなでく「さあらば、ともかくも信心にまかせ給へ」と云ふを聞くと、直によろこび云ヒて寺をいで、もと来し藪に立チ入れば、戸口まで立出て「その藪には、ばらがあるぞ、心し給へ。さてもあの大きなる石を何せむとて江戸まで持帰るやらむ。けしからぬ人ぞ」など、いひつ丶あるを、き丶すて、もとの所にまゐり、またよろこびを白して笛を賜はり、常蔵がきたるいなだわらの下にもたせて、坂を下るほど、この男ひぢ(泥)にすべりて、しりつきたるとき、下なる石にうちあたりて、笛の口のかたはらにひ丶きめ付キたり。「あなかなし。またもや然ることの有ラむか」と、こ丶ろもとなくて、みづからに(自分で)もち来つるなり。すなはち常蔵がよく見聞たることなり。

 篤胤の話に一同は驚き、篤胤の見た夢も、二人が道をまちがったことも、鹿の肩骨を得たことも、すべてはこの石を得させようという八幡神の配慮であったことを、あらためて思いやる。村から離れてもう大丈夫だろうと、篤胤に頼んで吹いてもらった笛の音はすばらしいものであった。

一里ばかり行キたるに雨もや丶ふりやみたり。「こ丶は彼ノ村に遠ければ、いざ一ふき吹てきかしめ給へ」と申せば、「今少し行クさきに見ゆる山峡にて吹キたらむには、殊に音よかるべし」とて、そこに至りてふろしきもて土をぬぐひ、穴の中なる土をもとりて、吹ならし給ふに、いとなり高く神々しくうるはしくも遠音に響き渡れる事、ほら貝の耳の底つき通す如きには又似もつかず。山彦にこたへと丶ろくおとは、はた丶神(雷神)に似たれど、うるはしくきこゆ。その音はらぬちにうるはしくひ丶きこたへて、心のむすぼ丶れたらむも、とみに解べきやうにおぼゆ。なほたへなる音色におぼゆることは詞にのべ難し。さて笛はふろしきにつ丶みて常蔵にせたりもたせて、たそがれの頃鑒通が家に帰りつき給ひぬ。

 一行の小旅行はこうして終わったが、紀行はまだ続いている。その夜、集まった弟子たちの前で篤胤は石笛を吹いて見せ、以後も朝の神拝のたびごとに吹き鳴らした。篤胤が吹き慣れるにしたがって、音色はますます美しく神々しくなっていった。
 そして五月十八日、篤胤は弟子たちに別れを惜しまれながら銚子を出立して江戸へと帰って行く。
 石笛は丁寧に荷造りして篤胤より先に江戸へ着くように送ってあったのだが、その年の十月に嘉長が江戸に篤胤を訪ねると、石笛を見せられた。常蔵が転んだ時についた傷を何とか直してほしいと、毎朝、八幡神社にお参りしていたところ、深いひびがいつか浅くなって、ほとんど目にとまらなくなったということで、見るとその通りだった。翌年の二月に鑒通が訪れた時には、傷は更にめだたなくなっていた。そして、篤胤から「このふえを得つることの趣は、そこと嘉長がいとよく知れ丶ば、国に帰りてのちいとまあらむとき、二人してそのあらましをかき記しおきてよ」との依頼を受けたという。
 末尾には、玉ケ崎神社の霊木の松の由来と絵図が付される。もとは一枚摺の縁起であったものを写したとの注記がある。

    6 物語の構築

 谷省吾『平田篤胤の著述目録 研究と覆刻』(昭和五一 皇学館大学出版部)は、篤胤の著述目録について、詳細に検討して三種類に分類した後、「以上考察した三種類の書目のほかにいまひとつ併せて見ておくべきものがある。それは『門人著書類』と題する書目である。それは『入学問答』刊本に『伊吹能舎先生著撰書目』と共に、それに続けて附録せられてゐるが、ほかに異本はない」と述べて、「有力な門人たちの著書」を掲載した、この『門人著書類』に注目する。そして、「こ丶に見える書物は、門人の誰かの著作ではあるものの、実は篤胤の著述と言ってよいもの、はじめ篤胤の筆を下したものを門人がうけついで完成したもの、篤胤の特別の命によつて書かれたもの、篤胤が特に推薦してゐるもの」が収録されており、「題目の下に『稿成りて師の閲覧を経たる書のみ挙たり』と注記してゐるのは、決して軽い意味ではない」と指摘する。
 同書が収録する『門人著書類』の翻刻に、『天石笛之記』は次のように記されている。

 石笛記 一巻 宮内嘉長
        石上鑒通
こは去し文化十三年に、師ノ大人の、鹿島香取の二宮に参詣たまひし序に、銚子にも のし給ふ時しも、石笛を得給へる事を記し、且此ノ物の由来をも、師説に依て記せり。 気吹ノ舎と号けられしは、この故なり。

 また、谷氏は「『石笛記』は『気吹舎』といふ号の由来を明らかにしたもの」と紹介しておられる。その通りであるが、更に前出の谷氏の分類を使用するならば『天石笛之記』は「篤胤の特別の命によつて書かれたもの」ということになろう。また、この目録の性格に関しての氏の指摘は首肯できるものであるが、そうだとすれば、『天石笛之記』には篤胤自身の嗜好や見解も相当に反映していることになる。
 それは、どのようなものだろうか。最初に書いたように私がこの書を紀行としてはやや異色なものという印象を抱くのは、多くの紀行にありがちな雑多な記事の混入や、必ずしも全体の統一にこだわらない形式のゆるやかさがなく、全体が一つの読み物として緊密な構成を有している点である。
 引用した部分からも明らかなように、用語などは擬古文調だが、めりはりがあって起伏に富んだ文体はむしろ俗文に近いものを持つ。更に印象的なのは、拾った獣の骨も、地元の案内者として登場する源六も、いずれも欠かせない役割を負わされていて、すべてが篤胤が石笛を得るという一点に向かって収斂して行き、その伏線とならないような無駄な記事は皆無であることである。石笛についた傷についても、最後にそれが消えるという結末までを書かなければ、この作品は終わらない。いいかえれば、転んで石笛を傷つける常蔵もまた、その傷が後にひとりでに修復するという奇跡を実現させる原因を作るという大きな役割を担う。荷物持ちの従者に過ぎないこのような人物までが、これだけ有効に活躍する紀行を他に私は知らない。
 「気吹舎」と改号する重要なきっかけとなった石笛の拾得の記録であるとは言え、石笛を拾得したという事実をもっと現実的に雑然と記す方法もあったことは確かであり、ここにはやはり篤胤の一つの選択があり、嗜好があると言ってもいいだろう。
 田原嗣郎『人物叢書 平田篤胤』は『霊の真柱』中の篤胤自身の「篤胤は何事も、神代の伝へと、事実とに徴考(あかしかむが)へて理の灼然(しるき)ことは、えしも黙止(もだ)さず、考へ及ばむかぎりは、いはむとするなり」を引用して、

ここで注意しなくてはならないのは、理という言葉である。村岡(典嗣)は平田学の方法は「すべてあるべきものといふ理が先行して、しひて古典にその証拠を求めるといふたぐひ」だというが(『宣長と篤胤』)、この理も同様で、それは例えば白昼、犬が白壁にむかって吠える場合、その壁の前に不可視の妖怪がいると考えるのが「理」にかなう、というときの「理」であって、著しく主観的・恣意的な性格をもつ。

 と篤胤の古典学の方法を規定し、「平田学における道=現実的規範が、天地初発以来の古代の事実を支柱として、はじめて成立つという構造的特質」(田原氏、同書)をも指摘する。それらとも共通する、ともすれば混沌としてまとまりのない現実を、時には空想も交えつつ、鮮やかにわかりやすい物語として再構成しようとする意識を、この紀行には強く感じる。十月に嘉長が訪れて、石笛が修復されたのを見せられた際、ひと月前に亡くなった次男のことがまったく登場していないのも、同様の意識に基づくものであり、この紀行の世界をそれ独自の統一したものにしようとする配慮によるのであろう。

    7 リアルな人物像

 だが、そうやって構築された物語が、この紀行の場合、必ずしも荒唐無稽で奇矯な幻想や無味乾燥で生硬な教義めいたものになっていないのは、たとえば、引用した部分の篤胤と僧とのやりとりに見るようなリアルさだろう。
 先にも述べたが、この場面での篤胤の発言や行動は必ずしも理想的なものではない。神の許しを得たとは言え、村を遠ざかるまでは師弟ともども話もできないような緊張の中で石を隠して足を早めなくてはならなかったであろう状況で、この石が得られたという事実が、当時の人に、また後代に、どのようにうけとめられるものであったか、私はまだ充分に判断する資料を持たない。だが、想像を逞しくすれば、篤胤の伝記研究においてこの紀行が黙殺されがちだったのは、あるいはここに描かれた篤胤の姿が、彼に心酔した研究者の人々にとっては、やや胡乱な部分を感じさせるものだったことも一因だったのではあるまいか。
 ただ、文学作品として見るならば、明らかにこの紀行の最大の魅力は、この部分の篤胤像である。読者は、石笛の傷がひとりでに修復したという奇跡や、その霊妙な音色の説明よりは、雨に濡れ泥に汚れて巨大な石を抱えながら稲俵の中からおさえきれない笑いをもらして歩いて来る篤胤や、神が許したからと黙って石を拾って来るだけの度胸はなく、かと言って拒絶されるのを覚悟で正直にすべてを話すほどの誠実さもなく、石の管理者の僧と微妙な交渉をするくだりに、最も鮮烈な印象をうけるに違いない。ここには作られた聖人像ではない、生々しい一人の研究者の姿が躍動している。
 綿密に配慮された構成とは共存するのが困難なはずの、このような既成の概念に束縛されない人物像は、どのようにして生まれ得たのか。これもあくまで推測の域を出ないが、この件の一部始終を記せと言われた二人の若い弟子にとって、最も記憶に刻みつけられていたのは、そのような師の姿であり、その時に師が夢中になって熱っぽく話したに違いない石笛獲得に至るまでの僧とのやりとりだったのではないか。彼らはいわば深い配慮などはなく、記憶に残るその感動を素直に記した。篤胤もまた、読めばその記事に抵抗できない魅力を感じて、さして手を加えずにそのままにするだけの文学的な感覚、あるいは現実を受容する余裕は有していたのではなかったろうか。
 とは言うものの、実際にどの程度篤胤がこれらの部分に筆を加えたのか、現存する資料からは判断のしようはない。また、この紀行は結局出板されることがなかったようであるが、それは、ここに描かれた篤胤像と何か関係があるのだろうか。『天石笛之記』はそのような点でもなお多くの疑問を残し、興味を抱かせる作品である。
注1(本文へ)
拙稿「日柳燕石の『旅の恥かき捨ての日記』について」(「福岡教育大学紀要」第四六号)参照。
注2(本文へ) 
拙稿「花の紀行」(ぺりかん社刊『江戸の旅と文学』所収)参照。
注3(本文へ)
篤胤作の『磐笛之記』なる書はない。『天石笛記』のことであるなら、宮内らの作であり、この記述は誤りである。ただし、これが篤胤の校閲をうけたものであり、自著と等しいとの判断も可能ではある。
注4(本文へ)
渡辺金造『平田篤胤研究』の冒頭口絵には石笛二個の写真があり、「天の磐笛(平田家蔵)」として詳しい解説が付せられる。また同書は篤胤宅に来た天狗小僧の寅吉が石笛を吹いて喜んだ話を紹介している。なお、『平田篤胤大人展図録』(秋田市立赤れんが郷土館編 一九八九年十二月)にも、千葉県熊野神社蔵の「岩笛」と千葉県玉崎神社蔵の『磐笛能記』の写本一冊の写真があるが、実物は私は見ていない。
注5(本文へ)
静嘉堂文庫二一五〇六「石笛乃記」(青色表紙、二六.七×一八.五cm)・同二一五〇七「天磐笛記」(青色表紙、二六.五×一九.〇cm)・同二一五〇八「磐笛の記」(青色表紙、二七.五×一八.九cm)・無窮会図書館神習文庫六八五五「天石笛之記」(紺色表紙、二六.八×一九.一cm)・国会図書館YD−A−二九六九「天石笛之記」・慶応大学斯道文庫「天磐笛記」・東北大学狩野文庫二−一四二四「石笛乃記」・東洋大学「天の磐笛の記」。他に豊橋市立図書館の一本があがる。また注7の図録には玉崎神社の一本の写真が紹介される。
注6(本文へ)
「門人姓名録」の〔笛〕等の書き入れは出板助成をしたことを示すという。〔笛〕は『天石笛之記』であろうが、現存する板本はなく、すべて写本で伝わっている。渡辺金造『平田篤胤研究』が紹介する文化十四年九月二十一日の夏目甕麿宛書簡には「石笛記入御覧候。相済次第早々御返可被下候。何卒御詠歌願度候。さて複本なきものに御座候」とあって、この時点でも出板されてはいない。
注7(本文へ)
渡辺玄禄。文化十一年に入門。この旅の時は六十五歳。

作品紹介