その一。普通にいけば親はあなたより先に死ぬ。自分の希望を殺して親の喜ぶ道に進んだ時、親が死んで喜んでくれる人もなくなった後の長い人生をあなたはそれでやって行けるか。あるいは、親の生きている間に、「あんたの言うことを聞いたから不幸になった」と恨んだり愚痴を言ったりしないですむか。それより、あなたの望む人生を選んで幸福になって、その力で親も幸福にする方をめざした方がいいのではないか。
ただし、親があなたにぐちゃぐちゃ文句を言って足をひっぱる可能性があるから、それと戦う決意はいるだろう。それでも負けずに、腐らずに、その道を進んで行けるほど、そのことを望んでいるのか考えてみるべきだろう。また「なぜあの時もっととめておいてくれなかったのか」と情けないことを言う弱さが少しでも自分にあると感じたらやめなさい。そういうことを言う人間は自分で自分の人生を決める資格はないのです。資格がないのは悪いことではないから無理をすることはありません。
その二。私は子どもがいないけれども、その私でも想像がつくのは、「この金を、この時間を、自分の老後を豊かにするために使おうか。子どもの未来のために使おうか」と逡巡する瞬間が少なからず親にはあったはず。そして大抵の親は結局は子どものためにそれを使ったはず。それだから自分の老後の面倒を見るのは当然、もとをとらなきゃひきあわない、と親は言わないかもしれないし、考えてさえいないかもしれない。しかし、子どものあなたはそのことをよく知っておくべきである。親が何も言わず要求しなくても、それだったらなおのこと、あなたは親にそれだけの借りがあることを充分に実感した上で、あなたの進路を決めるべきである。どうしたら親を幸福にすることができるのか、あなたは考える責任がある。それだけのことを親はあなたにしてくれているはずです。
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時間もなくなってきたので、最後に私が卒業式の時、よく学生に言う話をして終わります。
子どもの頃、私は早春という季節が一番好きでした。でもいつからか苦々しい思いをすることが多い季節にもなってきました。この時期、周囲の人の就職や入学が決まり、それぞれの運命が分かれます。そこで、いろんな人の思いがけない面を見せられました。心が広く公正と評判だった人のエゴイスティックな行動。毅然としていると思っていた人の思いがけない卑屈な表情。穏やかで細やかなはずだった人のそれまで見せなかった残酷な一言。そんなものの数々を見聞きしました。
せっぱつまった時に見せる姿だけが真実と必ずしも思うのではありませんが、三月はしばしば私にとって幻滅の季節でした。
しかしまた、そんな中でも、ふだん語っていた誇り高い生き方をごく自然につらぬいていく人もいました。変わらぬやさしさで、それまでとまったく同じように人と接した人もいました。たとえば八月にカッコいいことはいくらでも言える。五月に思いやりを見せるのは誰でもできる。でも、三月にやさしくていられる人は本当にやさしく、三月に強くていられる人は本当に強い。いつからか、そう思うようになりました。
それは、それだけ、自分の求めるもの、選ぶべきものを知っており、だからこそ結果がどうでも平然として、態度も表情も変えず、動揺しないでいられるということなのでしょう。
これからも私に、三月はまだ何度か訪れます。特に来年は大学の法人化、さまざまな制度の改変の中でたくさんの人たちの思いがけない面を見せられることになるのでしょう。そして皆さんたちにはもっともっとたくさんの三月がこれから訪れます。そのような時に自分を見失いたくないと私は思っていますし、皆さんたちにも、またそうであってほしいと願っています。(2003.12.16.)