卒論を書く前に

1.指導教員を選ぶ

 「先達はあらまほしき」と徒然草に吉田兼好は書いた。卒業論文は普通、一人では書けない。その分野の先生を選んで、指導をうけなければならない。そして、論文の審査をして単位を出すのは、大抵はこの先生である。
 大学や分野によっては、学生の希望が全部は通らないこともあるが、多くの場合は望んだ先生を指導教員にすることができる。では、何を基準に自分の指導教員を選ぶか。
  
 私は、「先生の人柄では選ぶな」と言っている。「自分が何の勉強をしたいかで選べ」という。たとえば私なら、江戸文学や紀行文学がやりたいと思って、その分野の専門家だからというので選んでくれるのがいい。ゆめ、優しそうとか楽しそうとか自分と気が合いそうとかその先生の研究室の先輩たちがいい人そうだからとか恋人や親友がその研究室にいるからとか、そういう理由では選ばない方がいい。
  
 学問研究とはとても孤独な作業である。恋人も親友も先輩も指導教員も、肝心なところでは手助けはできない。卒論が完成するまでに、一度か二度は絶対に、この孤独を思い知る。その時に頼りになるのは、対象としている作品や作家への愛情や憎悪だけだ。周囲が和気藹々としていたら、かえって孤独は深まったりする。特に、自分が好きでもない分野の研究室で、周囲が皆その分野を愛している人ばかりだったら悲惨である。
 行き詰まった時の苦しみを乗り越えられるのは、研究対象にかける思いの深さでしかない。だから、指導教員=研究室選びには、人間関係よりは自分の学問的興味を優先させること。
  
 だいたい、気が合いそうとか優しそうとか教員を判断するのは、多分授業で会った時の印象が決め手になっているのだろうが、そんな時の観察だけで教員の人柄まではとても見抜けない。卒論指導の中で、教員たちは本性を現す。
 その中で、関係がこじれてしまうこともある。あるいは教員からいろんな理不尽な要求をされることもある。難しくなりそうだったら、早めに気軽に、学生相談室や保健管理センターに相談し、冷静な第三者をまじえて話し合うのがよい。研究とちがって、こっちは一人で悩まないことだ。いざとなったら、指導教員を変えることだってあり得る。ノイローゼになったり自殺したりするぐらいなら、早めにそういう対処方法を考えること。あたりまえだが卒論は、命を捨ててまで書くものではない。
  

2. どのくらいの時間をかけられる?

 卒論を書かなくても単位をそろえれば卒業できる大学もある。だが、卒論を書くということが卒業条件になっている大学なら、ともかく書かないわけにはいかない。
 むろん、全力投球をするに越したことはない。だが、実際にそうは行かない場合もある。 卒業論文を書くということは、大学で学んだことの総決算で、とても意義があり役に立つことでもある。しかしまた、大学生活は他の要素もたくさんあって、サークル活動とかアルバイトとか友情とか恋愛とか、その他もろもろで大きな過激な体験をし、それが人生において大きな財産になることもある。その場合には、それもその人にとっての卒論であろう。
  
 だったら、恋愛やバイトや部活動に自分の大学生活の最高のものを捧げようと思うのだったら、卒業論文に全力投球はできないと割り切るべきだ。グラウンドに出てもステージに上がっても家業の手伝いでも恋のさや当てでも、最高のことをしようと思っていて、なおかつ卒業論文でも誰にも負けない成果を上げようなどと決意するのは、ただの幻想でしかない。
 一人の人間のできることには限りがある。何を最も大切なこととして選ぶのか、何と何を捨てるのか、捨てないのならどの程度維持するのか、計画をたて決意すべきだ。どういう卒業論文を書くのかは、どういう大学生活を送るのかということでもある。恋にもスポーツにも学問にも燃えたなどというのは、どれもはんぱにしかやらなかったということでもある。そういうもののどれも、そんなに甘いものではない。
  
 卒業論文に全力投球しないというのは、いいかげんにやるということではない。できる範囲を見定めて、その中で全力をつくすということである。それもまた、決して楽なことではなく、いっそ全力投球する方が簡単だと思うくらいに大変なことでもあると覚悟しておく方がいい。
  

3.労使交渉はしたくない

 私はこういう、ど親切なことを言っているが、本来大学教員というものはこんなことを言ってはいけない。学生が卒論に全力投球するということ、恋愛も部活動も二の次ということは、卒論指導の前提である。どの先生も指導するからには、それが当然と思っている。だから、「二の次として、片手間としての卒論の書き方を知りたい」と言っても、私たちは教えられない。そんな方法は知らない。
  
 だから、どれだけの時間をさけるか、金をさけるか、力をさけるかということを、計算し判断するのは学生ひとり一人のする仕事である。「時間がこれだけしかないんですが、どういった勉強をしたらいいでしょうか」とか「金がなくて本が買えないんですが、買わなくてはならない本はどれとどれですか」とか、ましてや「ぎりぎり単位がもらえるには、どの程度のものを書けばいいですか」などと聞かれても答えようがない。
  
 おそらく私だけではないと思うが、「どれだけ読んだらいいですか」だの「これはしなくてもいいですか」だのと言った質問をされると、教員は途方に暮れる。学問というのは、「最低これだけはしてほしい」という世界ではない。「最高の理想はこれである」と教えて、それをどこまでやれるかは学生の力次第という世界だ。
 もっと本質的なことを言うなら、学生が「こういうことをしたい、ああいうこともしたい」と望むのを、「それはちょっと無理」「もっとしぼった方がいい」と忠告して制限するのが教員の本来の役割である。
  
 つまり、その対象となる研究テーマに関する勉強をやりたくて知りたくて、とめようとしてもとまらなくて、関係のある本なら皆ひとつ残らず読みたくて、あいまいなことは少しも残しておきたくなくて、寝る間も食べる間も惜しくて、教員の知っていることは皆聞いておきたくて、がつがつめらめらしているのが卒論を書くということである。
 教員がやめろとか無理だとか言ってもやりたがり、教員がうるさがって逃げてもつきまとって質問攻めにするというのが、卒論指導の本来の姿である。
  
 私はよく、「学生が卒論を書けなくて卒業できなくても、私はちっとも困らない」と言う。事実困らない。最近はそういう姿勢は指導者として失格とか言われがちだが、こちらが頼んで学生に卒論を書いていただき卒業していただかなければならないような卒業論文、大学では、それこそ学生に気の毒だし失礼だろう。私が邪魔しても書かずにはいられない卒論、私がひきとめても社会に飛び出して自分の力をためしたくなるような学問を見つけてほしいし知ってほしいし身につけてほしい。それが何かは私には教えられない。ひとり一人が見つけるしかなく、その力は誰にでもある。
  

4.おたくの精神

 あることについて、あらゆる情報を集めなければ満足できない。朝から晩までそのことばかり考えていても苦にならない。そのことについて、わからないこと、あいまいなことを残していては不安で不満で夜も眠れない。それが卒業論文を書く基本だと言えば、まるでオタクじゃないかと言う人もいるだろう。それは正解である。学問研究とはオタクになることに他ならない。
 しかし、なぜか知らないが、オタクというのは最近の人の間では評判がよくないようで、その意識を変えている暇はないから、ここではただ、学問研究や卒業論文を書く上で身につけることの数々がオタクと似ていると感じても、あまり動揺しないように、とだけ言っておいて次に進もう。
  
 とは言っても、オタク的なものを嫌悪して敬遠する傾向が学生の中にあるとすれば、卒業論文を書くために必要なことからは、自然に遠ざかることになりかねない。これは困ったことである。当面、卒論をちゃんと書きたかったら、オタク的なものへの嫌悪だけは消しておく方がいい。その方がきっと、卒論を書く能力を身につける進歩が早い。
  
 好きなこと、はまりこめること、飽きないことを持っていると、その趣味が卒論の時間を食って邪魔になる危険はある。だが、そういう興味を何か持っていないと、卒論を書くのは難しい。
 卒論は、今まで誰も言ってないことを、思いつきでも推測でもなく、きちんと証明して断言する作業である。到達すべき目標は用意されていない。ゴール地点に誰も待っていない。そこまで行った者はこれまで誰もいないのだから。誰かが正解を示してくれて、よくできましたと言ってもらえる世界ではない。
  
 これは、初めてやる時は相当にしんどい。一歩踏み出すごとに決断が必要になる。好きで、はまりこんでいるから正しい判断ができるわけではない。逆の場合もむしろ多い。しかし、たとえ間違いでも、踏み出す勇気は持てる。思いこみでも錯覚でも、進まなければ話にならない。
 そういう時に、えいやっと書く勇気を養うためには、ほとんど一種の狂気が必要で、それは好きでたまらないものなら、まあいくらかは持ちやすい。
  
 他に、このような勇気を養う方法としては、実は誰にも見せない日記をつけるのもよい。日記でなくても、とにかく自分の死んでも認めたくない気持ち…友人がねたましいとか弟を殺したいとか父親と寝たいとか、もうこれを人に知られたらそれどころか自分ではっきり認めたら死んだ方がましだというような決定的なことを紙に書いてみる。あるいは、なぜあの人が嫌いなのか、なぜこの人が好きなのか、徹底的に分析してみる。
  
 そんなことは特に異常なことではない。十年二十年前の青少年はけっこうそういうことをしていた。自分を見つめ周囲をながめ、延々と鬱々と悩んではそれを書きつけていた。そして救いを求めては哲学書を読み古典文学を読んだ。そうやって自分の悩みは何千年も前から人類が悩んできたものだということを知って、ひとまず生きていくことにしていた。
  
 こういうことは、今のオタクと呼ばれる人たちは、あまりしないのかもしれない。オタクに限らず、今の若い人たちが、そのへんをどうやって解決しているのかよく知らないが、そういうことに目をつぶって何となくごまかしていても生きていけないことはない。しかし、これだけはたしかだが、論文は書けない。一つの文学を分析するのも自分の心情を分析するのも、基本的には同じ力が必要で、前者がなければ後者も持てず、後者がなければ前者も持てない。
  
 言いかえれば、前者が持てれば後者も持てるし、後者が持てれば前者も持てる。だから、あの人が憎いの殺したいの、愛したいの犯したいの、そんな恐ろしいこと今の時点では絶対書けないという人は、何も無理をしなくてもいい。多分、大学四年間でせっせとレポートを書き論文を書いていたら、卒業する頃には世間の他の人たちよりは、少なくとも四年前の自分よりは絶対に、そういう自分の心の中の暗黒や深淵と向き合う力が備わってきている。だから、勉強をしていれば最後はどっちみち、そういう人間にはいくらかはなれる。
  
 ただ、手っ取り早く力をつける方法としては、それもあると言っておきたい。赤裸々な自分の姿を、心の奥を直視すること、それを文章にして書いてみること。それは大変なエネルギーがいるが、時には狂気と紙一重の心境になる危険もあるが、同じ危険を冒すならシンナーやマリファナよりはずっと身体にいいし、確実に心を強くする。
  
 論文を書くための訓練としてそれをするか、論文を書く訓練をした結果としてそうなるか、どちらにせよ、そのような人間や世界の恐怖や醜さと直面し観察し、その底に希望や美しさを見いだすことを学ぶことは、非常に大切なことである。あえて言うなら、知的になるというのは、そういうことに他ならない。そして教師になろうという人間には、この能力は不可欠である。そもそも、自分の心の奥のどろどろや、ごたごたをのぞきこんで直視して少しぐらいは分析もできる覚悟や勇気がない人間が、カウンセリングだのプロファイリングだのといった技術を小手先だけの知識として身につけて、他人や子どもの精神を分析したり何らかのアドバイスをしたりしなければならない職場に身を置くなどと、無責任すぎ危険すぎて、正気の沙汰とは思えない。
  
 まあ念のために言っておくと、そういうことを訓練のために紙に書いていて、親や友人に読まれたらどんな騒ぎになるかまでは、こう言っている私も責任は持てない。だから、書いてみて、読んでみたら、すぐに破って捨てるのもよい。私は昔、そうしていた。
  
 ちなみに、オタクの話も出たことだし、もしかしたら昨今はやりの2ちゃんねる(巨大匿名掲示板)などで、自分はたいがい思いきったことを書いてうさばらしをしているから、それでいいのではないかと思う人もいるかもしれない。
 私はインターネットにも2ちゃんねるにも、さほど詳しいわけではないから、そういうものが果たす役割はまだ充分に分析も考察もしていない。しかし、今私が言った、「一人で部屋の中で自分と向き合い、絶対に認めたくないことを紙に書いてみる」ということは、2ちゃんねるの書き込みでは代用できないと思う。
  
 私が2ちゃんねるや過激といわれる雑誌などを見て、一番感じるのは気遣い、常識、感じやすさ、品の良さである。言葉遣いや表現は過激で乱暴でも、周囲にどう思われるかという配慮があふれており、既存の道徳や昔ながらの習慣を一歩も出ない。
 匿名という行為自体が、周囲への気遣いから生まれている。結局はその共同体の中で痛々しいほどの配慮がなされている。私は自殺サイトやその種の過激と言われるサイトを見たことはないが、おそらくそこでも同じだろう。自殺をしようと他殺をしようと動物虐待をしようと援助交際をしようと、そういうことは過激とは言わない。他者の反応を慮り、受け入れられる仲間を探し、注目されることを望み、自分の居場所を求めることは、大胆でもなく過激でもない。それはそれでもいいけれど、論文を書く力にはならない。教育者や研究者としてとしての能力も磨かない。
  
 何が正常か異常か、真実か偽りか、自分の中にある感情は何なのか、どんな他人ともちがっていても自分は生きていけるのか、そんなことをたった一人で考えぬき、見つめつづけ、「それでも自分はこうしか考えられない」「誰が何と言っても、これだけはまちがいない」と言い切れるものを見つけるのは、徹底的に孤独な作業だ。論文を書く時に必要なのは、その孤独に耐える力である。
  
 もっともインターネットについては、従来と異なる、あまりにも多くの不特定多数に書いたものがさらされるという条件は考えておく必要がある。匿名は使うほど力を弱める危険さがあるにしても、やはりネットの世界では、自他に関する情報を不用心に知らせることは避け、慎重な配慮をして自衛しておくべきであろう。
  

5.敵を想定せよ

 前にも書いたが、論文には結論がいる。
 小説なら「あの鳥はどこへ飛んで行くのだろう、と彼女は思った。」で終わってもかまわない。エッセイなら「この犯罪の本当の犯人は、果たして誰なのだろう。」で終わってもいい。 だが、論文なら「この鳥はガラパゴス諸島へ飛んで行った」とか「犯人は人間ではなく地殻変動だ」とか明言しなくてはいけない。
  
 そして、その結論は誰が読んでも納得できるように、冷静に論理的に説明しなければいけない。
 「私を信じて下さい」ではだめだ。あなたの人格とは何も関係がない。
 「こんなに真剣に考えています」「どうしてもそうとしか考えられない」でもだめ。感情論は通用しない。一人で信じていればいい、と言われておしまいだ。
 「こんなに努力しました」「夜も寝ないで調査しました」もまったく意味がない。命をかけて調べても、結論がまちがっていれば論文としての価値はない。
   
 資料を集める段階では、情熱も愛も必要だし、分析や調査では熱意も勇気もものを言う。けれど、最後の段階でそれをまとめて文章にする時は、徹底的に冷ややかに慎重になる方がいい。
 論文は、敵を想定して書かなくてはいけない。誤解や曲解をされて攻撃される要素はないか、徹底的にチェックしなければならない。
 厳しい先生や意地悪な先生というのは、そういう、目の前には見えなくて想像するしかない「敵」を具体的な姿として現してくれる存在なのだ。論文を発表してもう後戻りができなくなった段階で、世間の人が言うかもしれない指摘や批判を、まだ間に合う段階ですべて前もって予測してくれるのが、そういう先生たちである。
  
 私はそういう点ではあまり厳しくない。つまり親切な方ではない。それでも、これまで卒論指導で指摘してきたことは、次のようなことだった。
 (1)これだけのことを結論として言うには、資料が足りない。
「故郷の家で赤い月を見ました。旅先でも見ました。どちらも田舎でした。赤い月は田舎によく出ます」とか言ったって、誰も相手にしない。
 (2)すでにもう誰かが同じことや似たことを言っていないかのチェックが足りない。
    知らないで、人がすでに言っていることを発表しても、それはもう盗作である。   知っていてやったら、なお悪い。
  
※そんなこと言っても、どうして調べたらいいのかという人には、「とにかく図書館に行って、そのことについて書かれた最新の論文や本を探せ」と言う。その中に引用されている論文、末尾にあげられている参考文献をすべて探して読む。そうやってチェックして行けば、だいたい主要な文献は目を通せるはず。ただしこれはあくまで基本的な礼儀にすぎない。誰も気づかず埋もれている文献がどこかにある可能性は常にある。このことに限らないが、論文を書く時は「もう大丈夫」「まあこのへんで」などという、思いこみやたかをくくることをしないこと。ちょっとした手抜きが命取りになる。完璧主義は論文では前提であり常識である。
  
 (3)「こうだからこうなる」のつなぎが弱い。納得できない。
「このように橋は腐っていました。だから歩いて川を渡るしかなかった」と言っても、「舟はなかったのか」「回り道はできなかったか」と反論されたらおしまい。あらゆる他の可能性を予測して、消さなければいけない
 (4)資料や調査や分析の正確さが信用できない。
    理科の実験などでもそうだが、文学関係でも、その資料をどこで見つけたのか、   正確に引用しているのかなどが疑わしいと結論も怪しまれる。さしあたり誤字・脱   字などが多ければ、そういう疑いを持たれてもしかたがない。
  
などなど。まだまだあるが、このへんにしておく。
  

6.誰に読んでもらうのか

 自分の先輩や指導教員から、私は時々「あてがき」という言葉を聞いた。その意味はずっと後までわからなかった。何かのきっかけでわかったのだが、それは、「誰にもわかってもらえなくても、○○先生(大抵は尊敬する、その方面の大先生とか指導教員とか)にだけわかってもらえればいい」という気持ちで論文を書くということだった。読ませる相手をかなり具体的に想像して、論文を書いていくことである。
  
 それを知って、あらためて思ったのだが、私はこのような論文の書き方をしたことがまったくなかった。私はいつも、不特定多数の読者を予想し、かつその読者は私が書こうとしている専門分野にあまり詳しくない人、更に言えばさほど興味もない人だった。そういう相手に興味を持ってもらおう、知ってもらおう、納得してもらおうとして、私は自分の説を展開していた。これは今でも変わらない。
  
 これは、どちらがいいということはない。どちらでもいい。大切なのは、どんな相手に読ませようとしているのか、明確に意識して書くということである。更に言うなら、そうすることによって、最も誠実に、綿密に、正確に、果敢に、良心的に、書くことができるようになる相手を想定するということである。
  
 「自分の尊敬する先生だけにわかってもらえればいい」と思う私の先輩たちの心境は、多分そう思うと緊張し、手抜きをせず、最高のものを心をこめて書けるということなのではないかと思う。
 私の場合、偉い先生や強力な敵を意識して書くと、むしろ緊張がゆるむ。大きな学会や意地悪な聞き手が多い場所での研究発表だと私はあまり緊張も興奮もしない。どんな恥ずかしいまちがいをしても、自分が葬られるだけだし、どんなささいな間違いでもチェックしてもらえると思うと、安心して気がゆるむ。
 私が最も緊張して恐れ、手が抜けない間違えられないと思うのは、入学したばかりの新入生とか、ど素人のカルチャーセンターの社会人とか、とにかく私の言ったことが正しいかどうかの判断をする能力や知識がなく、すべてうのみにして信じてくれる可能性が高い人たちを相手にする時である。実際にはそういう人たちも体験や実感や鋭い感覚から私の誤りに気づくことはあると思うが、やはり基本的には嘘を言ってもそのまま信じて伝わって、それがどんどん口づてに周囲に広がることが多く、これが私は一番恐い。絶対にまちがえられないと自戒する。
 そのことについての専門的な話など、私の話をその時聞く以外には一生耳にしない人たちにまちがったことを教えたら、責任は重い。その点は小学校の教師も同じで、大学に行かない、その方面の専門分野には進まない人たちに、子どもの時に一度だけ与える知識として何かを教える責任ははかりしれない。
  
 ただ、こういう感覚は人によってちがう。だから、自分が一番いい論文を書くためには、誰を読者として思い描くかは各自で決めるしかないだろう。
 それを決めずに書いていると、論文としての体をなさなくなることさえある。私は一度、大学院の面接試験で、けっこうよく調べている力作の論文だったが、冒頭数行でいきなり「片桐氏は」と書いてあるので、「これは誰のこと?片桐洋一氏(著名な中世文学の研究者)のこと?もう、これ見た瞬間にあと読む気が皆失せた」と言ったことがある。もっとも、これは逆に指導教員に読まれると想定して書いたから、「そんな説明はいるまい」という錯覚が生じたのかもしれないが、だとしたら、指導教員を読者として想定するというのは全然そういう意味ではない。
  
 論文はよそ行き顔で書くものだ。公式の場の発言である。誰にともなく漠然と、誰かが読むだろうと思って書いてはいけない。そして、私のように割と素人が読むと思って書くのと、最高の専門家が読むと思って書くのとでは、たとえば比較的常識的なことの説明をどの程度詳しく書くかなどで、少し差が出るかもしれないが、それはどっちでもよく、どっちでもまちがいではない。
 ただ、その基準を一貫させて最後まで変えないこと。専門家に語っているのか、初心者に語っているのか、部分によって気分によってばらばらでちぐはぐだったら、それはいけない。
  
 なお私は、しばしばこの点で迷う学生に、「どうせ今調べていることは何年かしたら、ほとんど忘れる。ここまで忘れるかと思うほど忘れる。だから、ひょっと研究を再開したくなった時などに備えて、十年後か二十年後の自分を相手に、備忘録を作るつもりで書いてもいい」と言うことがある。そういうのでもいいのである。読者を明確に意識して、その相手に何を伝えるか目標をはっきりと持つこと。でないと、漠然と「論文らしい論文」を書けばいい、書かなければいけないと思った結果、「何だか論文らしいもの」しか書けずに終わってしまうだろう。
  

7.私小説は書かなくていい

 私は論文の形式については、まったく注文をつけないので、学生はかえって困るらしく、多分いろんなよその研究室や自分たちどうしの相談で、情報を交換していることもあるようだ。
 その結果なのではないかと思うが、かなり前の一時期、こういう形式が妙にはやった。
 (以下は、よくない例ですよ。まねしないように。)冒頭で、「自分とその対象にした作品とのなれそめや思い出」を長々と語る。続いて、その作品や作者についての基本的な常識をこれまた長々と語る。下手するとここで半分以上の分量をついやする。ついで、その作品や作家についての自分の思いついたことをいろいろとあげて検討し、迷ったり否定したり今後の課題として保留したりする。これがどうやら本論らしい。最後に、私や友人たちへの感謝の思いを述べて終わる。(ここまでが、よくない例です。)
  
 こうして書いていると、つくづく自分の性格が悪いと思うが、どうせだから続けると、もちろん私の指導が不十分だから苦し紛れに努力した学生たちの論文を批判してはいけないが、こういうのを毎年いくつも読まされるとうんざりする。言っておくが、もっとはちゃめちゃな、話にならない論文も多いので、このようなかたちのものは一見整っており、ひょっとしたら書いた本人たちも、それなりに満足しているかもしれない。私自身、こういう論文は厳しく批判はできないし、もちろん落としたりはできない。それなりの努力はしている論文で、これを落としたら裁判で負けるかもしれない。
 だが、いっそめちゃくちゃな論文でないだけ、こういうのにはかえっていらいらする。
  
 以下に感情的なぼやきや愚痴に近いことを書くので、よい論文を書く参考にしてほしい。もしかしたら、かなり高級な注文をつけているのかもしれないが。
  
 まず「その作品や作家とのなれそめや、このテーマをとりあげたきっかけや理由」なんか一切書かなくっていい。そんなこと教えてもらったって別に役にたたない。論文には役にたたないことは書いてはいけない。もし、あなたの論文が注目されて学説が評価されて新聞かテレビが取材に来たら、その時話せばいいことである。
 「この論文でとりあげるテーマは何か」だけでよい。
  
 従来の説の紹介は必要だが、どっかの文学史や文学辞典の丸写しを延々書かれても困る。自分が論文を書くために調べた勉強に、もう一度読者をつきあわせないでいい。ひょっとしたら誰でも知ってた知識なのかもしれないのだし。
 従来の説でまちがいがない、その上にたって論を展開したいのだったら、代表的な権威ある最新の説を、最低限必要なだけ短く紹介すれば充分。もし、従来の説が入り乱れて諸説あれば、自分が書くテーマと関係がある部分だけを要領よくまとめて、しぼって整理して紹介すること。ここでは原文を長く引用する必要はない。非常にテーマに関わることなら、後にまわして、本論で論じるべきだ。
  
 いよいよ本論だが、ここで、「こう思ったから、こういう資料を集めました。そうしたら、こういう矛盾点が見つかりましたので、そこをこう整理しました。そうするとこういう資料が不足しますので、今度はそれをまたとりよせて検討してみました。そうするとまたこういうことがわかったので、あらためてもう一度、最初から全部の資料を見直してみました」などという、研究の実況中継はしなくてよろしい。最初の「なれそめ」や書き終えてからの「感動やお礼」とこれがセットになると、卒業論文ではなくて、できの悪い私小説を読まされたような気分になる。そんなことはそれこそ別に私小説として書くか、「私はこうやって卒論を書いた」という後輩相手のパンフレットに寄稿を頼まれた時に書けばよい。
  
 論文では、そういう紆余曲折の過程はいらない。結論と、それに至るまでの証明があればよい。そのために必要なことだけを選んで、再構成すること。
 だから、最初に結論を書いてもいい。だが、研究発表でも論文でも案外そうする人は少ない。どうも、ああでもないこうでもないと読者をひっぱりまわしたあげく、落ちをつけて「なるほど!」とうならせたい、推理小説もどきの効果を研究者は知らず知らずねらうのらしい。
 それがうまく行けばいいのだが、膨大な資料を駆使しても、それに匹敵するだけの、常識をひっくりかえして皆をおお!とのけぞらせるような結論など、そうそう出るものではないから、かなりの論文は「あ?その程度のこと?」というような結論で、でもそれを証明するまでの資料や手続きが膨大で緻密だから、まあいいか、と納得するようなことが多い。まあ、それはそれでしかたがない。
  
 それと、白状するとこれは私も時々使うが、「ああでもなくこうでもなく」と検討の過程をあえて書く論文もある。だがそれは、そのような書き方を部分的にする方が読んでいてわかりやすいという判断のもとになされている手法であって、本来は、
 「従来はこれこれと言われてきたが、これこれは何々である。なぜかというと、どれそれの資料をかれそれのように分類してみた結果、どれどれという傾向が明らかになるからである。ただしこれはそれそれという考え方もあるが、それについてはあれそれという方法で資料を再検討した結果、どれどれということが判明したので、この可能性は消え、やっぱりこれこれは何々なのである」
 というように書くべきである。その過程で、どのような試行錯誤があったかは、私的な背景にすぎない。読者に見せる必要はない。
  
 書き上げた感動や感謝の言葉は書くなとは言わないが、まあこれも個人的な感覚だが、論文に全力投球した後は、感動どころか不満と虚脱感がいっぱいで、もう何も語りたくないというのが私たちの時代の共通した感覚だったように思う。感動したりふりかえったり誰かに感謝している余力があるぐらいなら、本論でもっと燃え尽きてほしいものだ。
 ただし、いろんな論文を読めばわかるが、たとえば資料を見せてもらった図書館や個人、学会で質問をしてくれた人などに関しては感謝の念を一筆記すのが通例となっている。だが、卒論では特にそういった通例はなく、まあ研究室や指導教員の考え方もあるだろうから、それぞれで判断してほしい。
  

8.巻末参考文献一覧も不要

 最後の最後に「参考文献一覧」をつけるのは、今は市販の本などでも普通になってきているようだ。便利なものだし悪くはないが、私はついてなくても気にはしない。
 それよりも、本文中で引用した部分を明確にし、その場その場できっちり引用した本を明記しておいてほしい。これがなければ気にする。論文として認めないぐらい気にする。「巻末参考文献」がその代わりになると思っているのなら、思い違いもはなはだしい。
  
 「巻末参考文献一覧」について、もう少し批判しておく。
 そもそも、「参考文献」と一括してあげるのは、「見ました、読みました」ってことだろうが、ちらと見たのか熟読したのか、その内容に賛成なのか反対なのかまったくわからないのでは、いくら本の名だけをあげてもらっても、そんなのほとんど意味がない。
 そんな風に「とにかく、ただ見た」本だったら、逆に多すぎて書けるわけがない、というのが普通の研究者の感覚である。卒業論文といえば百枚以上五百枚以下といったところかと思うが、その長さの論文を書くのに読んだ「参考文献」がたかが十や二十では、論文そのものの価値が疑われる。学生の中には「日本国語大辞典」まであげてくる者もいるが、そんなものまで書いていたら、参考文献一覧など、どれだけ書いても終わらないはずだ。
 だからもう、そんな意味もないみっともないものは書かんどけ、と言いたいのだが、後になって何を見たか忘れないため、改めて本をさがすためのメモとしてはいいかも、と思うのでとめないでいる。
  

9.黒表紙や綴じ紐は早めに買おう

 どうでもいいことほど、最後の段階になると決定的な要因になりやすい。提出直前になっても書き上がらず一刻を争う場合を考えて、表紙だの綴じ紐だのは、もう今からでも買っておいて損はない。パソコンで資料を作ることが普通の今日、データが全部事故でぶっ飛ぶこともあり得る。バックアップはこまめにとり、友人とメールで原稿を送りあって保存しあっておくなど、あらゆる用心を怠りなく。提出期日を一分遅れても、受けとってもらえなかったら文句は言えないと自覚して、できれば期日の前日に提出するぐらいの気持ちでいて下さい。
  

10.テーマはどうして見つけるの?

 いや・・・それを最後に書くかいと言われそうだが。
 「テーマが見つかれば、もう半分書けたも同じ」と言った先生もいる。「せっかくの卒論だから、それなりの大きなテーマを選べ」と言ったのもこの先生だったかな。ともあれ、そのようにテーマは大事なものである。
  
 ではあるが、私はこのことについて、あまりアドバイスができない。
 時々、趣味で小説を書くことがある。それは結局、いろんな小説を読んで楽しんでいて、どうしても自分が読みたいような内容を誰も書いてくれないから、ちっと思ってしぶしぶふしょうぶしょう書き出すので、誰かが書いてくれるものなら書きはしない。
 論文も基本的には私はそれで、他人の論文を読んで感心したり納得したり何かがわかって喜んでいたりするうちに、知りたいことや言ってほしいことを誰も書いていないから、しょうがないから自分が書くというのが、これまでのパターンだった。
  
 とはいえ、学生は卒業するために、教員は就職や出世のために、とにかくある時期までに何かを書かなくてはならないとしたら、これはそうも言ってられなくて、テーマを探さなければならない。
 基本的に「新しいことの発見」だから「人のやっていないこと」を見つけなければならない。
 そういう時にさしあたり誰でもできるのは、「誰かがやらなくてはいけないが、大変なので誰もやっていないこと」である。膨大な資料の翻刻とか、地道な年譜作りとか、克明な注釈とか、努力さえすれば役に立つ仕事というのは、どこにでも割とある。
  
 ところが、そういう仕事をいざ先生から紹介してもらって始めると、ちゃんとがんばってやりとげる人もいるが、やはり退屈で大変で音を上げる人もいる。単純作業や地道な仕事は私は好きだし、いったんそういうことをやると決めたら、自分のセンスや好みはもう捨てると覚悟しなければいけないと思うが、中途半端な決意で始めると、それはやはり苦痛でしかないだろう。そして、この種の仕事は完成させなかったり手を抜いたりしたら、もう何の価値もないことも初めに知っておくべきだろう。
  
 次に割りとやりやすいのは、とにかく好きな作品や作家についてあらゆる論文を読みまくって、それらを片っぱしから批判しまくる方法だ。まあ普通、自分の考えと他人の考えは同じであるはずはないから、読んでいれば絶対どこかに違和感は生じる。そこに目をつけ、自分とちがうところを攻撃し、なぜちがうかを考えていけば、それはおのずと新しい独自の論を生むだろう。
 だが、これをやるためには、一見同じに見える様々な説の、どこがちがうかを見てとらねばならず、更に自分の感じていることが、それらの説とどこがちがうかもさぐりあてねばならない。最初に作品や作家に触れた時に感じたことをよく記憶して、何らかのたしかな印象を持っていなければ、読むたびにその論にひきずられてしまうだろう。
  
 「誰もやっていないこと」を探したあげく、ときどき苦し紛れに学生や若い研究者がやることは、「あまりにつまらないから誰も注目もしなかった」作家や作品を選ぶことだ。あるいは、思いつきのような小さなテーマを選ぶことだ。
 たとえば、本学の文芸部の古い号に一つだけ作品を発表している人の一生を研究し、その作品の分析をしたら、これはもちろん、誰もやっていないテーマではある。「なぜ『源氏物語』にはうさぎが登場しないのか」という論文を書いても書けないことはない。「どうして『平家物語』の人物はゴルフをしないのか」という論文も書こうと思えば書けるだろう。だが、そういうのをこれまで誰も研究しなかったのは、そんなことを考えても何にもならないからである。そんなことを山ほど検討分析しても誰も多分、相手にはしてくれない。
  
 しかしながら、そこはまた微妙である。名もない作家のつまらない小説をとことん調査分析することによって、すべての文学の根底にひそむ問題が解明されるかもしれない。なぜ「源氏物語」にうさぎではなく猫が登場するのかとか、宇治十帖の背景となる風景の中に現実のうさぎがいた可能性はないかとか考えていけば、作品の本質につながる議論を生むかもしれない。深く考える力や広い知識があれば、どんなくだらないテーマも立派な論文となる可能性は常にある。(2005.11.4.)