私の場合、偉い先生や強力な敵を意識して書くと、むしろ緊張がゆるむ。大きな学会や意地悪な聞き手が多い場所での研究発表だと私はあまり緊張も興奮もしない。どんな恥ずかしいまちがいをしても、自分が葬られるだけだし、どんなささいな間違いでもチェックしてもらえると思うと、安心して気がゆるむ。
私が最も緊張して恐れ、手が抜けない間違えられないと思うのは、入学したばかりの新入生とか、ど素人のカルチャーセンターの社会人とか、とにかく私の言ったことが正しいかどうかの判断をする能力や知識がなく、すべてうのみにして信じてくれる可能性が高い人たちを相手にする時である。実際にはそういう人たちも体験や実感や鋭い感覚から私の誤りに気づくことはあると思うが、やはり基本的には嘘を言ってもそのまま信じて伝わって、それがどんどん口づてに周囲に広がることが多く、これが私は一番恐い。絶対にまちがえられないと自戒する。
そのことについての専門的な話など、私の話をその時聞く以外には一生耳にしない人たちにまちがったことを教えたら、責任は重い。その点は小学校の教師も同じで、大学に行かない、その方面の専門分野には進まない人たちに、子どもの時に一度だけ与える知識として何かを教える責任ははかりしれない。
ただ、こういう感覚は人によってちがう。だから、自分が一番いい論文を書くためには、誰を読者として思い描くかは各自で決めるしかないだろう。
それを決めずに書いていると、論文としての体をなさなくなることさえある。私は一度、大学院の面接試験で、けっこうよく調べている力作の論文だったが、冒頭数行でいきなり「片桐氏は」と書いてあるので、「これは誰のこと?片桐洋一氏(著名な中世文学の研究者)のこと?もう、これ見た瞬間にあと読む気が皆失せた」と言ったことがある。もっとも、これは逆に指導教員に読まれると想定して書いたから、「そんな説明はいるまい」という錯覚が生じたのかもしれないが、だとしたら、指導教員を読者として想定するというのは全然そういう意味ではない。
論文はよそ行き顔で書くものだ。公式の場の発言である。誰にともなく漠然と、誰かが読むだろうと思って書いてはいけない。そして、私のように割と素人が読むと思って書くのと、最高の専門家が読むと思って書くのとでは、たとえば比較的常識的なことの説明をどの程度詳しく書くかなどで、少し差が出るかもしれないが、それはどっちでもよく、どっちでもまちがいではない。
ただ、その基準を一貫させて最後まで変えないこと。専門家に語っているのか、初心者に語っているのか、部分によって気分によってばらばらでちぐはぐだったら、それはいけない。
なお私は、しばしばこの点で迷う学生に、「どうせ今調べていることは何年かしたら、ほとんど忘れる。ここまで忘れるかと思うほど忘れる。だから、ひょっと研究を再開したくなった時などに備えて、十年後か二十年後の自分を相手に、備忘録を作るつもりで書いてもいい」と言うことがある。そういうのでもいいのである。読者を明確に意識して、その相手に何を伝えるか目標をはっきりと持つこと。でないと、漠然と「論文らしい論文」を書けばいい、書かなければいけないと思った結果、「何だか論文らしいもの」しか書けずに終わってしまうだろう。
7.私小説は書かなくていい
私は論文の形式については、まったく注文をつけないので、学生はかえって困るらしく、多分いろんなよその研究室や自分たちどうしの相談で、情報を交換していることもあるようだ。
その結果なのではないかと思うが、かなり前の一時期、こういう形式が妙にはやった。
(以下は、よくない例ですよ。まねしないように。)冒頭で、「自分とその対象にした作品とのなれそめや思い出」を長々と語る。続いて、その作品や作者についての基本的な常識をこれまた長々と語る。下手するとここで半分以上の分量をついやする。ついで、その作品や作家についての自分の思いついたことをいろいろとあげて検討し、迷ったり否定したり今後の課題として保留したりする。これがどうやら本論らしい。最後に、私や友人たちへの感謝の思いを述べて終わる。(ここまでが、よくない例です。)
こうして書いていると、つくづく自分の性格が悪いと思うが、どうせだから続けると、もちろん私の指導が不十分だから苦し紛れに努力した学生たちの論文を批判してはいけないが、こういうのを毎年いくつも読まされるとうんざりする。言っておくが、もっとはちゃめちゃな、話にならない論文も多いので、このようなかたちのものは一見整っており、ひょっとしたら書いた本人たちも、それなりに満足しているかもしれない。私自身、こういう論文は厳しく批判はできないし、もちろん落としたりはできない。それなりの努力はしている論文で、これを落としたら裁判で負けるかもしれない。
だが、いっそめちゃくちゃな論文でないだけ、こういうのにはかえっていらいらする。
以下に感情的なぼやきや愚痴に近いことを書くので、よい論文を書く参考にしてほしい。もしかしたら、かなり高級な注文をつけているのかもしれないが。
まず「その作品や作家とのなれそめや、このテーマをとりあげたきっかけや理由」なんか一切書かなくっていい。そんなこと教えてもらったって別に役にたたない。論文には役にたたないことは書いてはいけない。もし、あなたの論文が注目されて学説が評価されて新聞かテレビが取材に来たら、その時話せばいいことである。
「この論文でとりあげるテーマは何か」だけでよい。
従来の説の紹介は必要だが、どっかの文学史や文学辞典の丸写しを延々書かれても困る。自分が論文を書くために調べた勉強に、もう一度読者をつきあわせないでいい。ひょっとしたら誰でも知ってた知識なのかもしれないのだし。
従来の説でまちがいがない、その上にたって論を展開したいのだったら、代表的な権威ある最新の説を、最低限必要なだけ短く紹介すれば充分。もし、従来の説が入り乱れて諸説あれば、自分が書くテーマと関係がある部分だけを要領よくまとめて、しぼって整理して紹介すること。ここでは原文を長く引用する必要はない。非常にテーマに関わることなら、後にまわして、本論で論じるべきだ。
いよいよ本論だが、ここで、「こう思ったから、こういう資料を集めました。そうしたら、こういう矛盾点が見つかりましたので、そこをこう整理しました。そうするとこういう資料が不足しますので、今度はそれをまたとりよせて検討してみました。そうするとまたこういうことがわかったので、あらためてもう一度、最初から全部の資料を見直してみました」などという、研究の実況中継はしなくてよろしい。最初の「なれそめ」や書き終えてからの「感動やお礼」とこれがセットになると、卒業論文ではなくて、できの悪い私小説を読まされたような気分になる。そんなことはそれこそ別に私小説として書くか、「私はこうやって卒論を書いた」という後輩相手のパンフレットに寄稿を頼まれた時に書けばよい。
論文では、そういう紆余曲折の過程はいらない。結論と、それに至るまでの証明があればよい。そのために必要なことだけを選んで、再構成すること。
だから、最初に結論を書いてもいい。だが、研究発表でも論文でも案外そうする人は少ない。どうも、ああでもないこうでもないと読者をひっぱりまわしたあげく、落ちをつけて「なるほど!」とうならせたい、推理小説もどきの効果を研究者は知らず知らずねらうのらしい。
それがうまく行けばいいのだが、膨大な資料を駆使しても、それに匹敵するだけの、常識をひっくりかえして皆をおお!とのけぞらせるような結論など、そうそう出るものではないから、かなりの論文は「あ?その程度のこと?」というような結論で、でもそれを証明するまでの資料や手続きが膨大で緻密だから、まあいいか、と納得するようなことが多い。まあ、それはそれでしかたがない。
それと、白状するとこれは私も時々使うが、「ああでもなくこうでもなく」と検討の過程をあえて書く論文もある。だがそれは、そのような書き方を部分的にする方が読んでいてわかりやすいという判断のもとになされている手法であって、本来は、
「従来はこれこれと言われてきたが、これこれは何々である。なぜかというと、どれそれの資料をかれそれのように分類してみた結果、どれどれという傾向が明らかになるからである。ただしこれはそれそれという考え方もあるが、それについてはあれそれという方法で資料を再検討した結果、どれどれということが判明したので、この可能性は消え、やっぱりこれこれは何々なのである」
というように書くべきである。その過程で、どのような試行錯誤があったかは、私的な背景にすぎない。読者に見せる必要はない。
書き上げた感動や感謝の言葉は書くなとは言わないが、まあこれも個人的な感覚だが、論文に全力投球した後は、感動どころか不満と虚脱感がいっぱいで、もう何も語りたくないというのが私たちの時代の共通した感覚だったように思う。感動したりふりかえったり誰かに感謝している余力があるぐらいなら、本論でもっと燃え尽きてほしいものだ。
ただし、いろんな論文を読めばわかるが、たとえば資料を見せてもらった図書館や個人、学会で質問をしてくれた人などに関しては感謝の念を一筆記すのが通例となっている。だが、卒論では特にそういった通例はなく、まあ研究室や指導教員の考え方もあるだろうから、それぞれで判断してほしい。
8.巻末参考文献一覧も不要
最後の最後に「参考文献一覧」をつけるのは、今は市販の本などでも普通になってきているようだ。便利なものだし悪くはないが、私はついてなくても気にはしない。
それよりも、本文中で引用した部分を明確にし、その場その場できっちり引用した本を明記しておいてほしい。これがなければ気にする。論文として認めないぐらい気にする。「巻末参考文献」がその代わりになると思っているのなら、思い違いもはなはだしい。
「巻末参考文献一覧」について、もう少し批判しておく。
そもそも、「参考文献」と一括してあげるのは、「見ました、読みました」ってことだろうが、ちらと見たのか熟読したのか、その内容に賛成なのか反対なのかまったくわからないのでは、いくら本の名だけをあげてもらっても、そんなのほとんど意味がない。
そんな風に「とにかく、ただ見た」本だったら、逆に多すぎて書けるわけがない、というのが普通の研究者の感覚である。卒業論文といえば百枚以上五百枚以下といったところかと思うが、その長さの論文を書くのに読んだ「参考文献」がたかが十や二十では、論文そのものの価値が疑われる。学生の中には「日本国語大辞典」まであげてくる者もいるが、そんなものまで書いていたら、参考文献一覧など、どれだけ書いても終わらないはずだ。
だからもう、そんな意味もないみっともないものは書かんどけ、と言いたいのだが、後になって何を見たか忘れないため、改めて本をさがすためのメモとしてはいいかも、と思うのでとめないでいる。
9.黒表紙や綴じ紐は早めに買おう
どうでもいいことほど、最後の段階になると決定的な要因になりやすい。提出直前になっても書き上がらず一刻を争う場合を考えて、表紙だの綴じ紐だのは、もう今からでも買っておいて損はない。パソコンで資料を作ることが普通の今日、データが全部事故でぶっ飛ぶこともあり得る。バックアップはこまめにとり、友人とメールで原稿を送りあって保存しあっておくなど、あらゆる用心を怠りなく。提出期日を一分遅れても、受けとってもらえなかったら文句は言えないと自覚して、できれば期日の前日に提出するぐらいの気持ちでいて下さい。
10.テーマはどうして見つけるの?
いや・・・それを最後に書くかいと言われそうだが。
「テーマが見つかれば、もう半分書けたも同じ」と言った先生もいる。「せっかくの卒論だから、それなりの大きなテーマを選べ」と言ったのもこの先生だったかな。ともあれ、そのようにテーマは大事なものである。
ではあるが、私はこのことについて、あまりアドバイスができない。
時々、趣味で小説を書くことがある。それは結局、いろんな小説を読んで楽しんでいて、どうしても自分が読みたいような内容を誰も書いてくれないから、ちっと思ってしぶしぶふしょうぶしょう書き出すので、誰かが書いてくれるものなら書きはしない。
論文も基本的には私はそれで、他人の論文を読んで感心したり納得したり何かがわかって喜んでいたりするうちに、知りたいことや言ってほしいことを誰も書いていないから、しょうがないから自分が書くというのが、これまでのパターンだった。
とはいえ、学生は卒業するために、教員は就職や出世のために、とにかくある時期までに何かを書かなくてはならないとしたら、これはそうも言ってられなくて、テーマを探さなければならない。
基本的に「新しいことの発見」だから「人のやっていないこと」を見つけなければならない。
そういう時にさしあたり誰でもできるのは、「誰かがやらなくてはいけないが、大変なので誰もやっていないこと」である。膨大な資料の翻刻とか、地道な年譜作りとか、克明な注釈とか、努力さえすれば役に立つ仕事というのは、どこにでも割とある。
ところが、そういう仕事をいざ先生から紹介してもらって始めると、ちゃんとがんばってやりとげる人もいるが、やはり退屈で大変で音を上げる人もいる。単純作業や地道な仕事は私は好きだし、いったんそういうことをやると決めたら、自分のセンスや好みはもう捨てると覚悟しなければいけないと思うが、中途半端な決意で始めると、それはやはり苦痛でしかないだろう。そして、この種の仕事は完成させなかったり手を抜いたりしたら、もう何の価値もないことも初めに知っておくべきだろう。
次に割りとやりやすいのは、とにかく好きな作品や作家についてあらゆる論文を読みまくって、それらを片っぱしから批判しまくる方法だ。まあ普通、自分の考えと他人の考えは同じであるはずはないから、読んでいれば絶対どこかに違和感は生じる。そこに目をつけ、自分とちがうところを攻撃し、なぜちがうかを考えていけば、それはおのずと新しい独自の論を生むだろう。
だが、これをやるためには、一見同じに見える様々な説の、どこがちがうかを見てとらねばならず、更に自分の感じていることが、それらの説とどこがちがうかもさぐりあてねばならない。最初に作品や作家に触れた時に感じたことをよく記憶して、何らかのたしかな印象を持っていなければ、読むたびにその論にひきずられてしまうだろう。
「誰もやっていないこと」を探したあげく、ときどき苦し紛れに学生や若い研究者がやることは、「あまりにつまらないから誰も注目もしなかった」作家や作品を選ぶことだ。あるいは、思いつきのような小さなテーマを選ぶことだ。
たとえば、本学の文芸部の古い号に一つだけ作品を発表している人の一生を研究し、その作品の分析をしたら、これはもちろん、誰もやっていないテーマではある。「なぜ『源氏物語』にはうさぎが登場しないのか」という論文を書いても書けないことはない。「どうして『平家物語』の人物はゴルフをしないのか」という論文も書こうと思えば書けるだろう。だが、そういうのをこれまで誰も研究しなかったのは、そんなことを考えても何にもならないからである。そんなことを山ほど検討分析しても誰も多分、相手にはしてくれない。
しかしながら、そこはまた微妙である。名もない作家のつまらない小説をとことん調査分析することによって、すべての文学の根底にひそむ問題が解明されるかもしれない。なぜ「源氏物語」にうさぎではなく猫が登場するのかとか、宇治十帖の背景となる風景の中に現実のうさぎがいた可能性はないかとか考えていけば、作品の本質につながる議論を生むかもしれない。深く考える力や広い知識があれば、どんなくだらないテーマも立派な論文となる可能性は常にある。(2005.11.4.)