彼女は修道女の卵という立場で登場するのだが、シェイクスピアがあえてイザベラを花売りとか乳しぼりの娘にせず、修道女にしたのは、やはり、彼女が彼女の意志を最後まで貫くことを見通した上で、最適な立場は修道女という真念を持って神に司える者だと考えたからだと思う。確かにアンジェロが処女を奪うことに一番不利な立場がシスタ−ということからも考えられるのだが、私としては、それ以上に、イザベラという女性が意志を断固として通していく上で、意地悪に思われずに、むしろ、清らかな存在であり続けなければならないために最適な立場として彼は考えたのではないかと思う。ここで話は前後するが、イザベラのこの話の中の立場はヒロインであるべきなのか、いやそれとも公爵を助けるただ一人の女としてあるべきなのかという問題がある。その違いによってイザベラの性格の読みも変わってくるのだが、私は彼女は公爵以上に魅力的なヒロインとして描くべきだと思っている。それはイザベラがヘソ曲がりのガンコ娘としてだけに登場するのなら、それこそ吉本新喜劇と何ら変わりはなくなってしまうのであるからだ。シェイクスピアはこの話の中でアンジェロという弱い人間を描こうとしたと同時に、それを対称とするものとして人間として強い人物、つまりイザベラの誇り高き崇高な人物像をなんとしてでも描き、私たちに人間の性について考えてもらいたかったのだと私は思っている。そうあるためにはイザベラは自然と私たちの心の中に溶け込んでいくような親しみを持てる魅力的な女性であるべきで、それが容姿の美しさといったものでなく、誰もが持っている良心に響き渡り、共感するような美しさでもって私たちにせまることが望ましいと思う。そうしたことで、アンジェロの誰もが持っている一瞬の邪悪な心と、イザベラの誰もが持っている清らかで美しい心とが葛藤しあう、私たち一個人の中にある一つの心が生き生きと表現されて、喜劇の一作品としてもテ−マのあるものとなりうるのではないかと考えられはしないだろうか。したがってイザベラがアンジェロに身を売るということは考えられないような感じがする。彼女が身を売らないことが、この話の要であると考える。どうして彼女は身内の命を捨ててまでも自分の操を守るのか、と普通の人なら不思議やら意外に思うだろう、それをあえて彼女は守り通すということに自分と違う女性の生き方や、本当の気高さに気付かされる。それだけではない、自分も本当は彼女と同じ心を持っていることも発見できるのではないだろうか。だから私はイザベラを嫌いになれなくなってしまった。むしろ愛すべき人物と思うようになった。彼女が冷たいかと問われたら、そうではないと答えるだろう。
イザベラが冷たいのかという問題がある。私は先ほど冷たいとはいえないと言ったが、これはその文体からおわかりの通り、「冷たくない」と言い切っているのではないことに注意して頂きたい。なぜこのようなあいまいな非常にケチでズル賢い言い方をしたかというと、私なりの理由がある。イザベラは彼女の真剣に考えてきた真念を何にぶちあたっても曲げなかった。そのことに私は人間として真の強さを感じ、「冷たいか冷たくないか」といった次元とは異なったところにその価値判断はあると思った。しかしあえて、イザベラの行動を見つめたとしてそれが冷たいかどうかということを言わなければならないのなら、冷たくないと答える。それは、彼女は彼女の真念に従った結果が「操を譲らない」という答に出たそれだけで、操と交換するものが兄の命でなくつまらないものであったりあるいは兄の命以上に普通尊いと言われるものであっても、彼女はためらわず、自分の思うところに従ったと予想されるからである。つまり、彼女は自分の真念と他の価値観をてんびん計りにしない、全く別のところにあると考えるから、私は彼女が断固として意志を貫いたことが冷たいと言わないのである。ところがはっきりと私が冷たくないと言い切らずに「冷たいとはいえない」としたのは、彼女は確かに今述べた通りの理由で冷たくないのだけれど、一人の生身の人間がイザベラと同じように生活してこの社会の中に存在するのならば、やっぱり神がかったヘンなねえちゃんと見て冷たいヤツだと思っただろうと想像されるからである。私もなんだかんだイザベラを絶賛している割には現実にこんな人が身近に現われたら真っ先にあいつは変だと吹聴してまわるタイプなので「冷たいとはいえない」と言った訳なのだ。
最終的に、「尺には尺を」を劇としてのみに考えるならば、イザベラは必ず譲歩することを許してはならない。イザベラは現実にそこらへんにいるようなやさしそうなおねえちゃんとは違う、どちらかというと架空の生物に近いような、それくらい現実ばなれした崇高で清らかな存在であっておかしくないと思う。しかし「冷たい」というイメ−ジになってはならないし、親しめないということになっては困る。そしてこの劇で、アンジェロの人間の持つ弱さだけが目立ってしまいがちにならぬよう、同時にイザベラの人間の持つ強さを感じることのできるものにすることが重要ではないかと思うのです。
なお、文中に引用した学生たちのレポ−トのすべては誤字も文章のまちがいもまったく直さず、すべて原文のまま引用している。ときどき私自身の文体や言い回しと似ている部分があるような気がして落ち着かない気持ちになるが、これが単なる気のせいか、半年も授業をすると教師と学生は似てくるのか、よくわからない。別に私の文体と似たレポ−トを選んだのでは決してないことをお断りしておく。
この授業報告にまとめたのは、一九九一年から一九九四年の間に行った、福岡教育大学「国語科教育研究U」2クラス、東海短期大学「現代社会と文学」1クラス、国立療養所福岡東病院付属リハビリテ−ション学院「文学」1クラス、いずれも半期十五回の四つの授業である。このように何回かにわたって、さまざまな学生を対象に授業をして、いつもそれほど失敗しないですんだ何よりも大きな理由は、この教材と私のウマがあっていたからだろう。しかし、一方でまた、もしかしたら、このとおりの手順で展開すれば、誰でもこの授業はそんなに失敗しないでできるのではないかという、それとはまったく正反対の実感も私には今、強くある。大学の授業の教授法がいろいろと問題にされている現在、そのような、誰にでも通用する授業計画のようなものが存在してもいいのではとも思う。私以外の先生方が、このままの手順でなおかつその人なりの特色を持った「尺には尺を」の授業をしてみて下さったならどんな結果が出るのかを、とても知りたい気がしている。
(1995年1月10日)
- 註11(本文へ)
- どこの大学で授業をしても、最も成績の良い学生にはそれほど差を感じない。しかし、鑑賞や分析とかいう問題以前の、事実がどうであったかという理解が不充分で読み間違えてしまう学生は、どこの大学でも数人はおり、大学によってはその数が増える。たとえば多数の学生がル−シオは死刑になったと理解していた。このような読解力の低さや雑さについてたかをくくっていると危ない。馬鹿馬鹿しいと思っても、正確に駄目押しをして確認しておくことが必要である。
- 註12(本文へ)
- 洒落に対する野暮な解説で申し訳ないが、「尺には尺を」の原題は「Measure for Measure」すなわちメジャ−・フォア・メジャ−である。