授業報告「尺には尺を」7時間目

12 とにかく楽しんでやらなきゃなにごとも身につきはしません。
(「じゃじゃ馬ならし」)

 楽しむのもいいが、と言われそうである。これではまるで遊びではないか。いったい授業と言えるのか。学生たちの好き勝手な意見の数々を面白がって見ているだけで、教師のつとめが果たせるのか、などなどなど。
 これについては第10章の終わりに書いたことも一つの答えとなるだろう。だがもう少し説明しておくと、私なりの授業目標は設定している。それは一つには戯曲という慣れない形式から来る制約を可能な限り排除して、学生たちに作品を楽しませ理解させること。もう一つは、イザベラという女性の発言や行動を考えることで、私たちの常識や倫理を検討しなおすということである。
 公爵やアンジェロなど他の人物についても同様に検討するべきだが、半年十五回の授業日数では無理だと今のところは判断している。授業日数は別にしても、これ以上ていねいにやれば、授業のリズムが崩れてだれる恐れもある。
 学生たちの意見の中には私の見解と違うものもあるが、指摘して直させるほどの誤りはない。シェクスピアのすべての戯曲、そして他の多くの文学作品がそうであるように、この劇もまた、主題や登場人物についてさまざまな解釈があり、結論は出ていない。そしてまた、学生たちのとりとめのないほど多様な見解は、決して彼らが作品をいいかげんに読んでいたり理解できないでいたりすることが原因ではなくて、むしろ熱心に考え具体的で豊富なイメ−ジを描く結果であると判断できるのである。そのような状況の中で、学生の意見を私の意見にあわけて規制することは、よほど充分な討論を経た上でなければ、してはならないことだと思う。
 それでは、成績はどうやって評価するのか、という問題が残る。
 試験を行った場合には、いくつかの具体的な問題を設定した。「公爵はなぜ、公爵代理に国をまかせて旅に出ようと考えたのか記せ」「ル−シオは最後はどうなったか答えよ」「公爵と典獄は、クロ−ディオの死刑を命ぜられて、どのような行動をとったか述べよ」など、明確に正解が出る類の問題である。意外なようだが、授業を面白がって熱心に聞いている学生でも、これが結構間違うのである。(註11)
 レポ−トの場合には、他の授業と同じように、以下のような評価の基準を前もって明示した。

 1 私(教官)の意見や他の本を引用する時は、引用部分と自分の意見とを明確に区別して記述している。
 2 全体の構成がよく整っている。
 3 たくさんの資料(友人の意見、自分の心理分析なども含む)をよく集めている。
 4 問題点に執拗にこだわり、徹底的に追求している。
 5 他には見られない独自の見解がある。
 6 文章が面白く表現力にすぐれている。
 7 誤字・脱字が少なく、ていねいに書かれている。

 そして更に、5・6は天性のもの、あるいはこれまでの蓄積がものを言うので急に努力してできるものではないから、今から努力しようと思う者は他の項目で点をかせぐようにした方がいいだろうとアドバイスした。
 以下は、そのようにして提出されたレポ−トの一部で、いずれも福岡教育大学のものである。ここでの授業が一番最初であったため、後半の朗読は省略したり、私の見解もあまりまとまっておらず第8章であげたような資料もほとんど配付しなかったりで、完成度の低い授業だったが、レポ−トには力作が多く、その後の授業の重要な参考となった。本当は全文を紹介したいのだが、紙数の関係で非常に申し訳なく残念に思いつつ省略した部分がある。

最終レポ−トより。

公爵・ヴィンセンシオについて(教育大・男子)
 私はこのヴィンセンシオと言う男が嫌いである。
 なぜかというのは良く分からないのだが、最後にイザベラに求婚してしまった所で、「あ−あ−」と思ってしまったのだ。いつも日本の時代劇を見て感じるバカバカしさより始末が悪い。
 さんざん人が死んでから桜吹雪と言うのは流石にいただけないが、勧善懲悪の「遠山の金さん」や「水戸黄門」の方がまだ気持ちがいい。だいたい公爵に限らずこの物語のキャラクタ−は偽善者だ。と言うよりも独善的と言うべきかもしれない。少なくとも自分で正しいと思える事を実行はしていると思えるからだが、それにしても自分たちが大勢の内の一人である自覚があるのだろうかと思う。
 そもそも自分が民心を得る為に、さんざん甘やかした国民をアンジェロに任せて居なくなり、それだけならまだしも神父に化けて聖人を気取り、都合のよくなった所でまた公爵に戻ってしまうのは自分勝手な行動以外の何物でもない。可哀相なのは融通の効かないアンジェロで彼は元々政治には向かないタイプなのだと思う。(中略)
 若干話がそれてしまったが、公爵の民衆をより良く治める為に自ら民衆の一人になってみようと言う志は立派だと思うがそれならそれで、お忍びで行って人に迷惑をかけずに今で言う国勢調査ぐらいに止めておくべきだと思う。
 民衆の日常を引っかき回しておいて公私混同した意見を並べたてて、ついでにイザベラに求婚するとは質が悪い、言語道断である。
 一国の主なんて者は豪華絢爛な生活の代償にある程度の楽しみと言える様な物を捨てなくてはいけないと思うのは私の偏見だろうか?しかしどうも権力を振りかざして自分一人いい所ばかりを持って行った気がしてならないのは私一人では無い筈だ。
 行政というのは、とかく無難に事を済まそうとする様だが、国民はそれでは満足しないし自分の良いと思うままの政治を行うのがいい筈がない。自分の考える善が広い意味でもそうであるかをヴィンセンシオという男は考えているのだろうか。
 以上、私が公爵を嫌う理由を色々でっちあげてきたが、ボランティア活動なんてやっていて、偽善スレスレの所に生きている私は、いつも煮え切らない行政に対してイライラしている。その反面、たまに行動力のある人物をみると独善的と思う事がある。本当に良い政治をしようという者は時に思い切った行動にでて、少なからず独善的になるものかもしれないと思ったりもする。また自分のわがままな感情を覆い隠しつつも欲を満たす為に持っている権力を利用したり、もっともらしく理詰めで無理やり相手を納得させようとする男性特有(若しくは私特有?)のものを彼に感じて、いわば同類忌み嫌うと言った心境なのかも知れない。
 それにしても、誰からも好かれようとする態度がやっぱり気に入らない。公爵は法を無効にした責任は自分で取って、即ち自分で法を侵した人間をしょっぴいて、死刑でも何でも宣告し、脅して、法律の効力を取り戻してから公爵の座を退くべきだったのだ。その後で、アンジェロでなくても良いが誰か適任者にその座を譲り渡さなくてはならなかったのだ。
 それが正しい責任の取り方で、そこまでして法の効力を復活させなくても良いと考えるのであれば最初から小細工をしなければ良かったのだ。
 そういう理由でやはり私は、このヴィンセンシオと言う公爵が嫌いである。
  私の考えるヴィンセンシオ像とは
 私が演出家であれば、姿形だけのイメ−ジでは或るが公爵はショ−ン・コネリ−にさせてみたい。
 歳は50後半から60ぐらいで、渋いおじさんタイプである。
 しかしイザベラに求婚してしまったぐらいだから(妙にそこにこだわるが)それに理由付けると若くして妻を無くし女性に対して複雑な思いを持っている男という所でしょうか?武人の気質ではないと思うので、割りと長く続いている国で、国主としては3代目位の人だと思う。おそらく英雄で或る祖父の話を聞かされて育った為に名声を得たいと言う欲求が強い。ちなみに父親は英雄の2世に有りがちの凡人であまり評判は良く無かった。

『尺には尺を』の登場人物に対する考察と偏見(教育大・男子)
 (その1)クロ−ディオ
 死を受けいれる覚悟ができているのかと思ったら、全然ちがう。この手の話には「死は怖くない」などと言い出す奴が出てきたりするものだが、(すみません、私のヘンケンです。)クロ−ディオは、死に対する恐怖を表に出すことができる。イザベラは「弱い男」だと言うだろう。私はこういう、「自分が一番かわいい」と表現できる人間が大好きである。死を明日に迎えることに対する恐怖と混乱が見えるところや、自分の意見をコロコロ変えるところなどは、まるで自分を見ているかのようである。かと思うと後からまた自己嫌悪におちいるところなど笑ってしまう。
・私のクロ−ディオに対するイメ−ジ。
 彼には黒っぽい服を着てもらって、このようなパンツ(?!)をはいてほしい。柄はグレンチェックの濃い茶系と黒のまざった目立たないもの。上着の下には左図のようなフリフリフリルのついたラウンドカラ−のシャツ(ブラウス?)着ているに違いない。髪形は少し長めがgoodである。きっとよく野菜を食べる男だ。たぶん豚肉はきらいなんじゃないかと思う。(くだらないことですが・・・。)身長は少し高くて、175〜180くらい。すこしスマ−ト。毛深そう。日本人でこの役をやらせるとすれば、大鶴義丹なんかいいのではないか。奥田エイジ(金妻!!)なども意外と面白いと思う。うちのクラスから配役すれば、第1候補はもう松田くん、決定です。対抗馬に池崎くん、ダ−クホ−スに私、小川、大穴で氏森くんである。
 (その2)アンジェロ
 私はアンジェロが一番すきである。美しい娘に弱いところが、すばらしすぎる。もう、人間くさくなさそうで、くさすぎるところが美しすぎる。義務感も強いのだろう。この話の中では、どの登場人物も理屈っぽいというか、まどろっこしいというか、直喩が使えないというか、そういう人間ばかりなのであるが、アンジェロも多分にもれず、そういう男である。しかし、彼がイザベラに「兄はたすけてやるから、抱かせろ。」ということを数ペ−ジにわたって、語る場面は「尺には尺を」名場面の一つであるに違いない。
・私のアンジェロに対する偏見。
 紫が似合う男である。高貴さがにおう。かつ、はおりものがよくにあうのだろう。ちなみにこういうはおりものである。色はもちろん紫。生地はサテンかベルベット系。中には白の服(聖職者といわれる人が着ていそうなやつ。)
 身長は、クロ−ディオより低い。体重は60kgくらい。髪質はかたい。毛深くない。(というかふつう。) 何をもってふつうというのか?
 あまり、足の速いほうではない。子供のころはよく勉強のできる子だっただろう。母親が甘やかしすぎである。と私は思う。
 日本人にこの役をやらせるなら、神田正樹。これしかない。うちのクラスで選べば、本命が高橋くんか吉本くん、吉村くんもすてがたい。
 (その3)イザベラ
 自分の意見を誰にでもはっきり言える。賢い娘である。「冷たい」とは思わない。神に対する真摯な態度、法に対する姿勢などは、さすが尼僧になろうとする者であるが、いかんせん、お涙ちょうだい、義理人情の好きな日本人には受け容れ難い部分もある。
 自ら過ちを犯すことが最高の恥だと思っているようだ。死は恐れないが、罪を犯すことを恐れ、兄のために死ぬことはいとわないが、体を投げ出すことはしない。兄を愛していることは確かである。彼女の神や法に対する真面目さが彼女の態度に表れている分、「冷たい女」に見えるのだろう。
・イザベラは私にはこのように見える。
 尼僧だけに白が似合う。顔の前に白のヴェ−ルをかけると完ペキである。アンジェロでなくともまいってしまう。肌の色はぬけるように白いはずである。身長155〜165(私の好みである。)髪は少しウェ−ブ気味。鼻が高い。(少し)
 女優でいえば、黒木瞳(香ではない。)がもっと若かったら、適役だったろう。西田ひかるの感じもいいかもしれない。うちのクラスでいえば、田中恭子さん、安武さんあたりか。(中略)
 以上、偏見が主ではあるが、私の「尺には尺を」に対する思いをつれづれにまとめて(?!)みた。話自体は、きっとおもしろくないであろう。というよりおもしろくない。上演してみてどうかはわからないが、アレンジを加えると意外といいかもしれない。
 私たちバカな大学生には多少難解すぎる。しかし、このようなシェイクスピアのメジャ−でない(シャレではない)作品に触れる機会を持ち得たことはラッキ−だったと思っている。(註12)

国語科教育研究レポ−ト(教育大・女子)
 「尺には尺を」を初めて読んだ時、はっきり言って吉本新喜劇の台本じゃないかしらと疑うほど白々しくて話のすべてが盛り上がっているように感じ、シェイクスピアって悲劇はうまいけど喜劇は今一つねと偉そうなことを言ってた私なのですが、何回か読むうちに(とは言っても4回くらいだが)その思いは消えていきそうになった。というのも、私が思っていた以上にシェイクスピアは登場人物のキャラクタ−に強烈な味を付けていたのだということに徐々に気付きはじめたからである。中でも意外にアンジェロの性格は読むほどに愛着がわいてきて、その原因は、アンジェロは冷血人間ではなく、むしろ登場人物の中で最も熱く赤き血の流れる人間の本性を存分に秘めた人間だということを私には感じることができたからなのだ。だがもう一つの関心事に、イザベラの行ったことが、この小説の中でどのような役割を果たすものなのかということがある。そのことについて、私なりに思ったことを以下に述べていきたいと思う。
イザベラが断固として自分の考えをまげなかったということ───これは非情なことだと一見思われがちであるが、果たしてそうと言いきれるだろうか。
 まず私たちがイザベラのとった行動を判断するのならば、考慮に入れておかなければならないことがいくつかあるが、その一つに、私たち日本人とシェイクスピアらヨ−ロッパ人の重視する所の国民的相異がある。つまり、イザベラのように意志を曲げないでいることが美徳なのか、そうでないかということである。私たち日本人は、Youness社会の中に生きていると言われている。「あなたのことを尊重した上での私」が日本人の一般的な立場なのである。(中略)しかしヨ−ロッパでもこの考えが通用するだろうか。日本人が欧米からひんしゅくを買っていることに、「Noと言えない」ことがある。(中略)つまり、欧米では、相手に遠慮する心より、自分の考えをしっかりと持ち、それを貫く心を日本よりずっと肯定しているのである。それを考えれば、イザベラがとった行動は非難するに値しないことがわかってくる。
 イザベラの行動を日本人の感情を持った上から解釈することは間違いとは言い切れないが日本人の感情を疑ってみることにも価値があると思う。
 次に、イザベラの貫き通そうとした考えの内容から彼女の性格を探したい。
 彼女は修道女の卵という立場で登場するのだが、シェイクスピアがあえてイザベラを花売りとか乳しぼりの娘にせず、修道女にしたのは、やはり、彼女が彼女の意志を最後まで貫くことを見通した上で、最適な立場は修道女という真念を持って神に司える者だと考えたからだと思う。確かにアンジェロが処女を奪うことに一番不利な立場がシスタ−ということからも考えられるのだが、私としては、それ以上に、イザベラという女性が意志を断固として通していく上で、意地悪に思われずに、むしろ、清らかな存在であり続けなければならないために最適な立場として彼は考えたのではないかと思う。ここで話は前後するが、イザベラのこの話の中の立場はヒロインであるべきなのか、いやそれとも公爵を助けるただ一人の女としてあるべきなのかという問題がある。その違いによってイザベラの性格の読みも変わってくるのだが、私は彼女は公爵以上に魅力的なヒロインとして描くべきだと思っている。それはイザベラがヘソ曲がりのガンコ娘としてだけに登場するのなら、それこそ吉本新喜劇と何ら変わりはなくなってしまうのであるからだ。シェイクスピアはこの話の中でアンジェロという弱い人間を描こうとしたと同時に、それを対称とするものとして人間として強い人物、つまりイザベラの誇り高き崇高な人物像をなんとしてでも描き、私たちに人間の性について考えてもらいたかったのだと私は思っている。そうあるためにはイザベラは自然と私たちの心の中に溶け込んでいくような親しみを持てる魅力的な女性であるべきで、それが容姿の美しさといったものでなく、誰もが持っている良心に響き渡り、共感するような美しさでもって私たちにせまることが望ましいと思う。そうしたことで、アンジェロの誰もが持っている一瞬の邪悪な心と、イザベラの誰もが持っている清らかで美しい心とが葛藤しあう、私たち一個人の中にある一つの心が生き生きと表現されて、喜劇の一作品としてもテ−マのあるものとなりうるのではないかと考えられはしないだろうか。したがってイザベラがアンジェロに身を売るということは考えられないような感じがする。彼女が身を売らないことが、この話の要であると考える。どうして彼女は身内の命を捨ててまでも自分の操を守るのか、と普通の人なら不思議やら意外に思うだろう、それをあえて彼女は守り通すということに自分と違う女性の生き方や、本当の気高さに気付かされる。それだけではない、自分も本当は彼女と同じ心を持っていることも発見できるのではないだろうか。だから私はイザベラを嫌いになれなくなってしまった。むしろ愛すべき人物と思うようになった。彼女が冷たいかと問われたら、そうではないと答えるだろう。
 イザベラが冷たいのかという問題がある。私は先ほど冷たいとはいえないと言ったが、これはその文体からおわかりの通り、「冷たくない」と言い切っているのではないことに注意して頂きたい。なぜこのようなあいまいな非常にケチでズル賢い言い方をしたかというと、私なりの理由がある。イザベラは彼女の真剣に考えてきた真念を何にぶちあたっても曲げなかった。そのことに私は人間として真の強さを感じ、「冷たいか冷たくないか」といった次元とは異なったところにその価値判断はあると思った。しかしあえて、イザベラの行動を見つめたとしてそれが冷たいかどうかということを言わなければならないのなら、冷たくないと答える。それは、彼女は彼女の真念に従った結果が「操を譲らない」という答に出たそれだけで、操と交換するものが兄の命でなくつまらないものであったりあるいは兄の命以上に普通尊いと言われるものであっても、彼女はためらわず、自分の思うところに従ったと予想されるからである。つまり、彼女は自分の真念と他の価値観をてんびん計りにしない、全く別のところにあると考えるから、私は彼女が断固として意志を貫いたことが冷たいと言わないのである。ところがはっきりと私が冷たくないと言い切らずに「冷たいとはいえない」としたのは、彼女は確かに今述べた通りの理由で冷たくないのだけれど、一人の生身の人間がイザベラと同じように生活してこの社会の中に存在するのならば、やっぱり神がかったヘンなねえちゃんと見て冷たいヤツだと思っただろうと想像されるからである。私もなんだかんだイザベラを絶賛している割には現実にこんな人が身近に現われたら真っ先にあいつは変だと吹聴してまわるタイプなので「冷たいとはいえない」と言った訳なのだ。
 最終的に、「尺には尺を」を劇としてのみに考えるならば、イザベラは必ず譲歩することを許してはならない。イザベラは現実にそこらへんにいるようなやさしそうなおねえちゃんとは違う、どちらかというと架空の生物に近いような、それくらい現実ばなれした崇高で清らかな存在であっておかしくないと思う。しかし「冷たい」というイメ−ジになってはならないし、親しめないということになっては困る。そしてこの劇で、アンジェロの人間の持つ弱さだけが目立ってしまいがちにならぬよう、同時にイザベラの人間の持つ強さを感じることのできるものにすることが重要ではないかと思うのです。

 なお、文中に引用した学生たちのレポ−トのすべては誤字も文章のまちがいもまったく直さず、すべて原文のまま引用している。ときどき私自身の文体や言い回しと似ている部分があるような気がして落ち着かない気持ちになるが、これが単なる気のせいか、半年も授業をすると教師と学生は似てくるのか、よくわからない。別に私の文体と似たレポ−トを選んだのでは決してないことをお断りしておく。
 この授業報告にまとめたのは、一九九一年から一九九四年の間に行った、福岡教育大学「国語科教育研究U」2クラス、東海短期大学「現代社会と文学」1クラス、国立療養所福岡東病院付属リハビリテ−ション学院「文学」1クラス、いずれも半期十五回の四つの授業である。このように何回かにわたって、さまざまな学生を対象に授業をして、いつもそれほど失敗しないですんだ何よりも大きな理由は、この教材と私のウマがあっていたからだろう。しかし、一方でまた、もしかしたら、このとおりの手順で展開すれば、誰でもこの授業はそんなに失敗しないでできるのではないかという、それとはまったく正反対の実感も私には今、強くある。大学の授業の教授法がいろいろと問題にされている現在、そのような、誰にでも通用する授業計画のようなものが存在してもいいのではとも思う。私以外の先生方が、このままの手順でなおかつその人なりの特色を持った「尺には尺を」の授業をしてみて下さったならどんな結果が出るのかを、とても知りたい気がしている。
(1995年1月10日)
註11(本文へ)
どこの大学で授業をしても、最も成績の良い学生にはそれほど差を感じない。しかし、鑑賞や分析とかいう問題以前の、事実がどうであったかという理解が不充分で読み間違えてしまう学生は、どこの大学でも数人はおり、大学によってはその数が増える。たとえば多数の学生がル−シオは死刑になったと理解していた。このような読解力の低さや雑さについてたかをくくっていると危ない。馬鹿馬鹿しいと思っても、正確に駄目押しをして確認しておくことが必要である。
註12(本文へ)
洒落に対する野暮な解説で申し訳ないが、「尺には尺を」の原題は「Measure for Measure」すなわちメジャ−・フォア・メジャ−である。

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