「同感だ。私もそうである」という意見の人もけっこう多くて、それはまあいいけれど、そういう生き方には、やはりそれなりの守るべきル−ルのようなものがあると思う。参考までに、私の憎み方や愛し方を少し説明しておく。決して私のこれだけが正しいとか最高とか考えているのではないが。
〔その一〕話をややこしくして悪いけれど、私は本当に嫌いというか許せないと思った人には、私の憎しみさえも与えるのはもったいないと思っている。だから、そういう人の前では冷たい態度さえとらない。具体的に言うと、笑いもするし愛想もいい。別に意地悪もしない。その人が幸福になろうが不幸になろうが、いっさい何の関心もない。その人が生きていてもいなくても、私には何の変わりもないし、何の意味もない。何をその人がしようと言おうと、まったく気にならないし腹もたたない。自分がその人をどう思っているかを知らせようとも思わない。これが、私が最も人を見限ったときにする反応である。
〔その二〕そこまでは見限ってない人の場合には、私は貴重な時間とエネルギ−を費やして、ちゃんとその人を憎んであげる。そのことを相手にわからせる。でも、その場合、私が守るル−ルの一つは、周囲や他人にはそれを気づかせないことだ。私は見限っている人や憎んでいる人の悪口は決して他人には言わない。その人について何か意見を求められたら、どちらかというとほめる。ル−ルのもう一つは、その人に対する礼儀作法は守るし、してあげなければならないことは完全に皆してあげるということだ。嫌いな相手に対するほど、私は礼儀正しく親切にきちんとふるまう。迷惑はかけないし、なれなれしくしないし、すきを見せない。つっけんどんな態度や、みえすいた意地悪は子どもっぽいし、いいかえればそれだけ相手に甘えていることにもなる。私に憎まれることによって仕事の上や日常生活でその人が絶対に何も損はしないようにする。だから私を好きでない人の場合には、私から憎まれても痛くもかゆくもないはずである。私が甘えたり弱みを見せたりしなかったら淋しくて悲しくて不幸になるという人が相手の場合にしか、この方法は相手を傷つけない。それでよいというか、それが肝心だと私は思っている。
〔その三〕私がこうして誰かを見限ったり憎んだりするようになるまでは、とても長い年月と深いつきあいが必要である。十年以上つきあっても、いっしょに暮らしても寝ても、家族や親友でさえ、私は相手をまだよく知らないと思うことが多い。そう思っている間は私はその人を嫌ったり憎んだり見限ったりすることはない。いいかえれば、相当深くつきあわない限り、私にしんから嫌われることはない。
〔その四〕私は前回の授業で「嫌いな人の前では笑うのも嫌」と言った。また、『キャッチ22』という小説の中で、卑劣なことばかりした上官が、それに反抗する部下にとうとう負けて、取り引きを申し出た時、部下にすごく有利な条件を出して、「そのかわりには何もいらないから自分に好意を持ってくれ」と言った話を紹介した。私が言いたかったのは多分次のようなことである。
人は皆、どんな人でも絶対に、他人や周囲を幸福にする能力を持っている。それは大変貴重なものだ。だから、それを大切にしなければならない。力づくで奪おうとしたり、粗末に扱ったりする人の手に渡してはならないし、お金とか出世とか誇りとか命とかとひきかえにしてしまってはいけない。どちらが大事とかいう問題ではない。それは何かとひきかえにするようなものではないのである。何かとひきかえに、それをあなたに要求する人がいたら、その人はまちがっているのである。何かとひきかえに与えても、それは本物ではない。うけとった方も与えた方も幸福にはなれない。
〔その五〕その能力は誰でも持てるし、いろんなかたちがあるだろう。人の目を楽しませるような美しい外見とか、皆を楽しませる話し方とか、正しい判断、豊かな知識、手先の器用さ、力の強さ、ありとあらゆるものがある。やさしい言葉や、明るい笑顔。抱き合って性的な喜びを与えることもあるだろう。そして、そういう能力は、やはり自分で努力して作っていかないと弱まって消えてしまう。いつも自分で磨いて育てなければならない。それとひきかえに何かを得て、自分が幸福になるためにではない。自分が幸福にしたい人たちのために、強制もされず、報酬も求めず、ただ、自分がそうしたいからというだけの理由で、その能力を思いっきり使うことができるために、磨くのである。自分では一生懸命そうしたつもりでも、それが相手には迷惑になったりすることがないように、本当に相手を喜ばせることができるように、その能力を本物にしておくのである。
〔その六〕その能力は、そうしたい相手に直接使うのでなければ意味がない。たとえば、私がその能力を使いたくない相手(権力者など)に使って、その相手が、私がその能力を使いたかった人(恋人、親友、家族)を幸福にしてくれたとしても、それは私がその人たちを幸福にしたのではない。私が幸福にしたのは、権力者である。私の恋人や親友や家族を幸福にしたのは、権力者である。どちらの関係にも屈辱がつきまとい、誰もが決して本当には幸福にならない。ある意味では、権力者が一番不幸である。
現実には、どうしようもなくて、力を持っている人の望みのままになって、愛する者を救うという場合はありうると思う。しかし、それはもう、とりひきでありかけひきであって、誰かを幸福にするとか愛するとかいうことばとは、関係のないできごとである。
〔その七〕私は相手が男でも女でも、また自分が男でもホモセクシュアルであったとしても、力づくの愛だけは得たくない。何かで相手を縛ったら、相手が本当に自分を愛しているのかどうかが、わからなくなる。愛や人間関係には、どうしてもそういう束縛やかけひきは完全にはなくせないけれど、できるかぎりは少なくしたい。権力や金や暴力を使わなくても、愛してほしい相手が自分を愛してくれる、という快感は一度知ったら忘れられない。その快感を知らないのは悲劇である。その意味では強姦などは、された方よりした方が被害者である。そういう関係のしかたでしか、性や愛を味わえず理解できなくなることは、とりかえしのつかない損失である。
〔その八〕原則として私は、自分の憎しみがどんなに激しくても、それを相手には見せない。相手が私を嫌っていて、憎しみを見せていてもである。人の気持ちは変わりやすい。どんなに激しい嫌悪や憎しみも何かのはずみに消えることがある。その時、それまでに自分が憎しみをあらわにして相手を傷つけていたら、もうとりかえしがつかなくなってしまうことがある。自分の嫌悪や憎しみはもう消えていても、それが相手に残した傷は決して消えないということがある。今は消せないけれど、いつかはなくなるかもしれないという可能性にかけて、憎しみや嫌悪は自分の中にかくしておきたい。)