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「そう思うのか?では一つ難問を呈しよう。おまえはどちらを選ぶ、厳正な法律によって兄上のいのちを奪われることか、兄上を救うために、兄上に汚された女同様、汚らわしい快楽にそのからだを投げ出すことか?」
「魂を投げ出すよりはからだを投げ出すことを私は選びます。」
「魂の話ではない。強いられた罪は罪であってもとがめられぬということだ。」
「とおっしゃいますと?」
「いや、保証はせぬぞ。自分が言ったことをいつでもとり消すことができるからな。この問いに答えてもらおう。いま国法の代弁者たる私が兄上の死刑を宣告しておいて、そのいのちを救うために罪を犯すとすれば、それは慈悲にもなるまいか?」
「あなた様がそうしてくだされば、魂にかけてそれは罪ではありません。慈悲そのものです。」
「魂にかけておまえがそうしてくれれば、魂と慈悲との重さがあいなかばすることになろう。」(小田島雄志氏訳)
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「兄上のいのちを救う道がほかにないとすれば───どっちみち私には認めるわけにはいかぬのだが、一つだけむだ話として聞いてもらえば───あの男の妹であるおまえに、あるものが思いをかけたとする、そのものは裁判官を動かし、あるいは高い地位により国家の礎石たる法律の束縛から兄上を解き放つことができるとする、そしてそのいのちを救う道はこの世にはたった一つしかないとする、つまりおまえがそのものにたいせつな処女を捧げなければ兄上は死なねばならぬわけだ。そうなればおまえはどうする?」
「たとえ兄のためでも自分のためにすることと変わりはありません。私が死ぬと決まっておれば、鞭の痣もルビ−のように喜んで身につけますし、この身を死にさらすことも待ちこがれた寝床に飛びこむように嬉しく思うでしょう、私のからだを汚すぐらいなら。」 「とすれば死なねばならぬぞ、兄上は。」
「そのほうが犠牲が少なくてすみます、兄が一思いに死ぬほうがまだましでしょう、その妹が兄を救おうとして永遠のいのちを失いますよりは。」
「となると、おまえが残酷だと非難した死刑の宣告と同じように、おまえも残酷ではないか?」
「恥辱と引き換えの助命と心からなる赦免は生まれた根がちがいます。正当な慈悲と不当な救済は似ても似つかぬものです。」
「いままでおまえは法律を暴虐とののしり、兄上の犯したあやまちを罪悪と言うよりも道楽にすぎぬと弁護していたようであったが。」(同上)
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「(不審さうに)わたくしには二種(ふたいろ)には口は利けません。御前さま、どうぞさっきの通りのお言葉でおっしゃって下さいまし。」
「では、はっきり解るやうに・・・わしはお前を恋しているのだ。」
「(じっと相手の顔を見て)兄がヂュリエットと恋をしましたので、それであなたは、兄を死刑にするとおっしゃるのではございませんか?」
「イザベラ、お前がわしの言ふことを聴きさへすれば、死刑にはしない。」
「(信じかねて)あなたはお徳の高いお方ですから、そんな事をおっしゃって、人をお試し遊ばしても、お名の汚れにも何にもなりませんわねえ。」
「いいや、信じてくれ、わしの名誉に掛けて、ほんとの要求を言ってゐるのだ。」
「えっ!(と初めて呆れて)そんな要求をする人に何の名誉があらう!何が信ぜられよう!・・・ああ、外面(うはべ)ばかり、外面ばかり!(と退りながら)・・・わたしは此通りを世間へ言い触らします。待っておいでなさい。・・・さ、兄を直(すぐ)に赦すといふ指令書をお書きなさい、さうでなくば、わたしは、大きな声をして、此事を世間へ吹聴します。」
「(冷然として)だれがそれを事実(ほんと)だと思ふものか?嘗て汚されないわしの名前、厳格なわしの生活、公爵の名代たるわしの職権、それらを楯にお前の言ふことを説破してしまふから、お前は忽ち言句が詰って、讒誣者、中傷者とばかり疑はれることになる。斯う一旦乗りかけた以上は、もう此心の駒の手綱は弛めない。此するどい欲望に対して、諾(うん)と言ひな。おい、内々は望んでゐながらも、何もああのかうのと体裁ぶって、うぢうぢと羞恥んでゐるには及ばん。わしの言ふ通りに身を任すか、否といへば、兄の命がないばかりでなく、その無情(つれな)さへの面当(つらあて)に、わざと長い間苦しませてから殺すことにする。明日までに返辞をしな、返辞をしないと、今の此感じのまま、兄へ酷くあたるぞ。其方(そっち)は其方で、勝手に何なりと言ひ触すがいい、真実(ほんと)の事を言ったって、虚言(うそ)で顛覆(ひっくりかへ)して見せる。」(坪内逍遙訳)
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「(絶望して)あ、だれに訴へたらいいだらう?この通りに話したって、だァれも事実(ほんと)には為ないに相違ない!おお、おそろしい口!おなじ一枚の舌で、人を生かしもすれば殺しもする。其舌一枚の力で、法律をも自分の心のままに追ひ使ひ、邪をも非をも上手に釣寄せて、自分の情欲の餌食にする!・・・ 兄さんの許(とこ)へ往かう。一旦の情欲のために心得ちがひをお為だったけれど、気位が高くって、恥を知ってゐる兄さん、二十たび首を切られなくちゃならないたって、妹をそんな汚らはしい目に遭はせるよりか命を棄てるとお言ひに相違ない。・・・ぢゃ、イザベラ、お前は是非とも貞操を守って兄さんを見殺しにお為。貞操といふことの方が、同胞(きゃうだい)よりも大切です。・・・ともかくも兄にアンジェロ−の要求を話して、覚悟をさせることにしよう、安心して死なれるやうに。」(同上)
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「そんな事をする男に人情があるといへるか?まるで法律を泣かせるといふもんだ、いよいよそれを励行するとなりゃア。・・・決して罪悪ぢゃない。罪悪であるにしても、七大罪悪の中では一(いっ)ち軽いんだ。」
「え、何が一ち軽いの?」
「よしんば大罪であるとしたって、神さまは賢明であらせられるから、ほんの一時の心得ちがひを永久にお罰しなさるといふやうなことはなからうぢゃないか?・・・(絶望的に)おお、イザベラ!」
「ま、兄さん、何をいふんです。」
「死ぬのは怖ろしいこった。」
「だって、恥をかいて生きているのは浅ましいことです。」
「だけれど、死んでしまって、何処だか知れない處へ往くのは!冷く動かなくなッちまって、腐ッちまふのは!此、温く生きて動いてる肉体が土団子のやうになッちまって、愉快なことに慣れてゐた此たましひを火の海に浸らせたり、体中が凍え亘る氷の地獄に押込めたり、中(ちゅう)に垂下(ぶらさが)ってゐる地球の周辺を、目に見えない旋風(つむじかぜ)に滅多無性に吹廻されたりするのは!人間の、滅法界な当推量も及ばんやうな苦痛(くるしみ)をするのは!おそろしくて堪らない!老衰や病苦や貧窮や禁錮が人間に課する一等厭はしい、一等辛い現世の生活だって、死んじまってからの怖ろしさに比べりゃァ極楽だ!」
「(呆れて)あら、まァ!あら!」
「妹、どうぞわたしを生かしといてくれ。兄の命を助けるためにしたことなら、どんな罪悪だっても、自然がそれを緩和して美徳にするから」
「(義憤を起して)おお、人非人!卑怯者!なんて情ない、破廉恥な人です、あなたは!あなたはわたしに不正(わる)いことをさせて、男一疋にならうといふのですか!現在の妹を辱しめて生きてようてのは、邪淫も同然ぢゃありませんか?(煩悶して)ああ、どう思ったらよからう!どうぞどうぞ、お母さんがお父さんに対して、夢にも不都合なことをなすったてな事のございませんやうに!かりにもお父さんの血統(かたわれ)に、こんな歪んだ恥知らずが生れる筈はないんだけれど。・・・(クロ−ディオ−に)これが縁切の言葉です。死んでおしまひなさい!わたしの屈辱であなたを運命から救ふことが出来ても、わたしは救ひません。わたしはあなたの死ぬのを千万返も祷ります。あなたを救ふためには、只の一言だって言ひません。」
「まァさ、さういはないで、聴いてくれ。」
「いいえ!いやですいやですいやです。あなたは出来心で悪い事をしたのぢゃない。それが専門(しゃうばい)なんだ。あなたに深切を尽すのは、わるい事の手引をするやうなものです。あなたは早く死んだはうがましです。」(と行きかける。)
「まァさ、聴いてくれ、イザベラ!」(同上)
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