授業ノート作業室

当面のノート計画

  
「それ行け国文学史」 
 毎年、思っていたのだが、私なりに完璧な、申し分のない「国文学史」を書いてみたい。  
 ○たった15回で、どこまで何が話せるか?
 ○そもそも、何のための国文学史なのか?
 ○ある文学に関する知識?時代背景?評価?内容(梗概)? 
  
  
「どこから見ても国文学概論」
 これも同様。最近あまり新しいこの手の本は出ていないと思う。自分がほしいテキストを、自分で作ってみたい。  
 ○いったい、文学研究なんてものは、いつ、どのようにして、何のためにはじまったのか? 
 ○だいたい「研究」とは何なのか?
 ○外国は知らない。(本当に思い浮かばないなあ。)日本では、「うまい、よい作品を書くため」あたりか。はじまった原因は。さらに、「これはよい作品かどうか、評価のくいちがいから生じるけんか」もあるな。「ある作品をよりよく理解するため」というのもここから派生するのかもしれない。  
 ○演劇の場合は、解釈しなくちゃ演じられないから、ここは絶対「研究」が必要だな。 
 

1 そもそも大学や学者のイメージって、どういうものなんだろう?

    
    
 「わかるかい、このハイデルベルクが。きみはわかっちゃいないんだ。きみはてんでわかっちゃいないんだ、ハイデルベルクとはなんのことか。それはまるで、ドイツ製のシャンパンを飲むようなものだ― それとも、ばかばかしいことだ、ドイツ製のシャンパンじゃない!バーデンのワインと、五月ワインと、おまけに女の子とばかさわぎをする若者をいっしょにしたものだ!」(マイアーフェルスターの戯曲「アルト・ハイデルベルク」・植田敏郎訳より、王子の教育係ドクター・ユットナーの発言)
 「ねえきみ、ハイデルベルクでは、どんなことでもがまんできます。ただいわゆる独居(ひとりい)だけはできません。というのはねえ、歌に、『アルトハイデルベルク、おまえきれいな、光栄の町― ネッカーの岸、ラインの岸で、おまえにおよぶものはない!知識もワインもつめこんだ、楽しい学生のつどう町』― その通りですか?」
 「きみ、ドイツの文学はどこで学ばれるか、知ってるかい?われわれのところでだよ!ドイツの大学でだよ!」(同上、学生の一人デートレフ伯爵の発言)
 「おそらくいつか、きみは、ハイデルベルクのことを、きょうとはちがった気持ちで、ひょっとしたら、けいべつか、それどころか怒りをもって思いだす時がくるだろう。『あのころ、ぼくは、ああいう人たちのところへ下りていくことはなかったんだ、ぼくの体面をちがったふうにたもたなくてはならなかったんだ』、というときが。みんなは、きみに、何もかもをもっともらしくいうだろう、『ほんとに、そうでございますね。そして、このわずかな時期が、殿下の一生のうちのいやな調子はずれでございます』とね。だが、やつらのいうことを信じないでくれたまえ」(同上、ドクター・ユットナ―の発言)
   
 ※「乾杯の歌」や「学生王子」の音楽で知られる、ドイツの大学町、大学生活を描いた有名な戯曲。学生団というサークルの存在が生き生きと描かれている。そして彼らがたむろする酒場の看板娘ケイティーの魅力がこの青春時代の一つの象徴である。
    
    
 長い休暇のあいだ、どちらも相手のほうが自分より努力しているものと想定して、苛酷な時間表に従って勉強した。ブレイク、ワーズワース、コールリッジ、シェリー、バイロンなどを徹底的に研究し、キーツにいたってようやくベッドに入った。二年目に入って大学へ戻ってきたとき、相手の顔を見ないあいだに敵意がいっそう強まったことを知った。『ベオウルフ研究』に関する論文で二人ともAプラスの成績をおさめたことも、ライヴァル意識をやわらげる助けにはならなかった。サイモン・ジェイクス(二人の個別指導教官)は、ある晩ニュー・カレッジの教官用食卓で、フィリッパ・ジェイムスンが男に生まれていたら、自分の個人指導授業はきっと何度かなぐりあいに終っていただろうと感想を述べた。(ジェフリー・アーチャ―「ある愛の歴史」 新潮文庫『十二本の毒矢』所収)
 結婚して何年たとうと、たがいに相手の知能の低さをあげつらう二人の態度に変りはなかった。本人が「傑出した作品群」と自讃するフィリッパの著作は、オクスフォード大学出版局から刊行され、一方ウィリアムの自称「記念碑的作品群」はケンブリッジ大学で印刷された。
 二人の教え子で新たに英語の教授に任命された者の数は、間もなく二桁に達した。
 「理工系まで計算に入れるとしたら、こっちはケニアにおけるマガイアの指導性を挙げないわけにいかないよ」
 「でもあなたはナイロビの英語学教授を教えてないわ」と、フィリッパが反論した。「あれはわたしが教えたのよ。あなたが教えたのはケニアの国家元首のほうでしょう。ナイロビ大学は高く評価されているのに、国そのものが乱れに乱れているのはたぶんそのせいよ」(同上)
    
 ※「アルト・ハイデルベルク」では学生たちに愛される店の娘としてしか登場しなかった「女性」という存在が、現代では学生たちの一人となり、男性のライバルともなっていく、ややどころではなく誇張されているが楽しいおとぎ話。舞台はオックスフォード大学で、優秀な男女二人の学生が激しく競争しあい、愛し合って結婚した後もライバルとして競いつづける。このような競争が現実に男女間に公平な条件で保障されるかどうかは別として、男女でなくても学問の場には、たしかにこのような競争という性質は、一つの魅力として存在するのである。これがまちがうと、恐ろしくいやらしいいことにもなるが。そういう例も少なくないが。
    
    
 学生たちはペーラーデニヤの谷で、時の経つのも忘れて読書をしたり、語り合いながら世界情勢を理解しようと努める。キャンパスの周りの自然はそんな彼らを懐に抱き、絶えず安らぎを与える。一年のある時期、大学の周囲は人びとの眼を楽しませ、心を慰めるかのように、すがすがしい明るさに輝く。それは一月に始まり四月に終わる。春の三、四ヶ月の間、午後の空はさながら水晶でできた鍋を逆さにしたようにまるく、一点の雲もなくきらめいている。郭公の声がしだいに高まり、季節の佳境に入ったかと思う間もなく、それは別離の哀しみを告げる。(エディリヴィーラ・サラッチャンドラ「明日はそんなに暗くない」 南雲堂)
 人によっては、研究の名のもとに過去の世界に浸るのは、わずらわしい俗世間から逃避することだと言う人もいる。そんなことを言われると博士はかえって、かつてのスリランカがよく見えるのだった。当時の人たちは困難な状況にぶつかることもなく、豊かで幸福な生活を送っていたように思えるからだった。
 研究者である彼はつねに新しいものを求めていた。そのすべてが彼のイメージをふくらませ次から次へとおもしろい世界を造り上げていった。彼にとってこれらは現実の世界より望ましい世界のように思えたし、愛着さえおぼえた。彼の研究はまず、自分で模索した世界を造り出すことから始まる。そしてそれに時代を加味し、想像しながらアレンジして変えてゆく。ところが時どき、実際に起こったことと、虚構との差がわからなくなってしまうことがあった。彼は従来、生活面においても、自然科学者のようにいろんな事を観察しては、疑問をなげかけていた。そして納得がいくように説明していたのだった。しかし最近の彼は、実証するだけの学問をさけていた。どちらかというと、虚構の世界に身をゆだねるのを好んでいたのだ。(同上)
 考古学の実習旅行の出発日は、四月五日と決まっていた。すでに男女の学生四十人ほどの名がリストアップされていた。そこには考古学専攻の学生ばかりでなく、シンハラ語、古代史、仏教文化の学生の名もあがっていた。
 博士は旅行の前の何日間か、書斎で夜まで仕事をしていた。ここ八ヶ月というもの、石碑にきざまれたブラフミー文字の解読に時間を費やしていた。それは最近イスルムニヤ寺院の近くで発見されたものだった。その文字は考古学博物館の館員が一年ほど前に初めて彼に見せたもので、木版刷の中にも記されていなかった。彼は石碑の拓本をもらうと、壊れたり風化したりして見えなくなった箇所を補修するため、自分の全知識と全精力を注いだ。そしてようやくその作業が終わりに近づいていた。彼は出発前にどうしても、全文の解説を終わらせたかった。学生たちを石碑のある所に連れていき、その前で彼らに刻まれた意味を説明したかったからだ。また気持のどこかに、〈学生の大学に対する不信感をやわらげたい。また学生に自分の仕事の成果を披露したい〉という思いがなかったとは言えない。(同上)
  
 ※1971年、スリランカで起こった「人民解放戦線の反乱」を題材とする小説。現実の複雑さや深刻さを虚構としてどれだけ再構築できているかはよくわからないし、翻訳か原文かどちらかわからないが、やや生硬な印象もある。だがそれがかえって生々しく、激動する政治や社会の中の大学や知識人のありかたを伝えてくる。地味な話だが誠実だ。世界や時代を超えて共通する問題が描かれている。
         
        
 字(あざな)つくることは、東の院にてしたまふ。東の対をしつらはれたり。上達部、殿上人、めづらしくいぶかしきことにして、我も我もと集ひまいり給へり。博士どもも、中々臆しぬべし。「憚る所なく、例あらむにまかせて、なだむる事なく、きびしうをこなへ」と仰せ給へば、しいてつれなく思ひなして、家よりほかにもとめたるそうぞくどもの、うちあはずかたくなしき姿などをもはぢなく、面もち、こはづかひ、むべむべしくもてなしつつ、座につき並びたるさほうよりはじめ、見も知らぬさまどもなり。若き公達は、え耐へずほう笑まれぬ。(「源氏物語」少女の巻。大学に入学する光源氏の息子夕霧のための儀式に呼ばれた博士たちの姿。「貴族の子弟の大学進学が稀れで、人々の好奇心をそそる。学問が衰退している状況を反映」と岩波新古典の注にある。)
 こと果ててまかづる博士、才人ども召して、またまた文作らせ給。上達部、殿上人も、さるべきかぎりをば、みなとどめさぶらはせ給。博士の人々は四韻、ただの人は、おとどをはじめたてまつりて、絶句作り給。興ある題の文字選りて、文章博士たてまつる。短きころの夜なれば、明けはててぞ講ずる。左中弁、講師仕うまつる。かたちいときよげなる人の、こはづかひものものしく、神さびて読みあげたるほど、おもしろし。おぼえ心ことなる博士なりけり。(同上)
  
 ※光源氏の息子夕霧を源氏は自分の力で出世させるのではなく、まず学問を身につけさせて、という当時としてはやや異色なことをした。このことについて、どのくらい研究が進んで、論文などがあるのか私はまだ調べていない。だが周囲はこのことを「かわいそう」ととらえているし、夕霧自身もややぐれているし、その後夕霧はこの物語の中でもまれな融通のきかない、そのくせ妙にいじましいところもある性格に描かれている(と私には見える)が、これはこの学歴と関係があるのだろうか?
  
       
「吾輩は猫である」から寒月君の描写     
「黒の過程」のゼノン  
 ※これ、実在の人物をモデルにしたっていう十六世紀の錬金術師の話なんだけどね〜。痛感するのは、この人、哲学も科学も医学も全部つながってるんだわ、自分の中で。この人に限らず当時は全部そうだったんでしょうけど。そして、政治や宗教との生々しいからみあい。そういう、どろどろしたものの中にこの人の学問はあって、その根底には澄んだ知性と平衡感覚がある…というように作者は描いているような気がする。この(私の、そして作者の)イメージが正確かどうかはわからないが、でもやはりこの時代、自然科学と人文科学と実学がかなり重なっていたってことは事実なのじゃないのかなあ。そこが今と少しちがうような。
  
「マスター・アンド・コマンダー」のマチュリン先生(笑)
「失われた世界」のチャレンジャー教授  
「インディ・ジョーンズ」の父親
「ドラゴンランス戦記」のレイストリン     
「桃尻娘シリーズ」の大学像
アペル「アカデミー論争」  
竹内洋「大学という病」
ロイ・ポーター「大科学者たちの肖像」
竹田篤司「物語『京都学派』」
J・パーヴィス「ヴィクトリア時代の女性と教育」
藤井貞和「国文学の誕生」
阿部謹也「大学論」
 ※そうか、理系と文系を区別するのはやっぱりまちがいなんだ、とか、聖性と俗性の問題で大学が果たしてた役割や、その変化とかすごく勉強になって面白かった。その上で言うんだけど、著者が学生の時、近所に住んでてバスの列無視しまくってた教授を結局尊敬できなかった話とか、卒業式・入学式の挨拶(この方、一橋大学の学長)の内容の濃さと長さを読んで、そりゃうちの学長の式辞のようなのもどうかとは思うけど、これだけ長い話だと、保護者も学生も死ぬわなあと思ったりとか、そういうくだらん感想もわいてしまった。  
  
 しっかし、こんなもの読んでほんとにわかるのかあ、大学や学者のイメージ。まっ、いいけどね〜。
  
  
  

2 フレッシュマンセミナー(何ちゅう科目名なんだか)の補充説明として

  
 前回の資料がわかりにくかった(時間不足の説明不足だった)ので、説明しなおします。
  
 私の話はよく矛盾する。今回もそうで、今から言う二つのことは、多分矛盾する。少なくとも両立は難しい。しかし大切なことなので、皆で考えて、適当にバランスをとって自分なりのやり方を考えてほしい。
 
 その1 知識人・教養人としての社会への責任ということについて
  
 私は文学に関わっているので、その方面から話をする。
 国文学概論とか文学概論とかいうと、まずはじめに「文学とは何か」という問題提起があったりする。そういうことに関していろんな学説があるし、私も「これでも文学?」という授業ノートを作っている。
 でも、その中でもちらと言ったことで、最近ますます確信が深まっているのは、「何が文学か」「これは文学で、あれは文学ではない」とかいうことを決めるのは、政府でも学者でもマスメディアでもなくて、そこで今私の話を聞いている皆さんたちだということだ。
 なんかもう、その確信がこのところ、日増しに強くなっている。
  
 超超大ざっぱに言うと、「文学かそうでないか」を決める基準は、形式と質である。つまり、新聞やDVDや時刻表や電話帳は文学かどうかというような基準と、いくられっきとした小説でもつまらなくて価値がなければ文学かどうかというような基準である。このどっちの基準か区別がつけにくいものもあるが、だいたいの学説では、そのへんが基準となる。
 しかし私は、どっちにしても、それぞれの時代の人が、さしあたり今の時代のあなたがたが、何かを楽しんでこれは文学だという扱いをしていれば、漫画だってケータイ小説だっていずれは文学として認められるだろうし、どんな偉大な作品が登場しても、あなたがたがつまらんと思って無視したら、その作品は消えてしまって残らないだろうと思うのである。
  
 だいたい最近、本は売れず、図書館では本が燃やされ、大学からは文学部という名称が消えつつある。こうなったのは文学に携わってきた私たちに、きっとかなり責任がある。そうやって世の中から文学がすたれてなくなった時、人類や地球や宇宙がどうなるのか私は知らない。マンモス狩って石包丁で稲を刈ってた時代には文学なんてなかったろうから、ないでもやっていけるのかもしれない。あ、待て、その頃も雨乞いの祈りとか呪術とかあったなら、それはまあ文学みたいなものだわな。じゃ、思いきってギリシャの哲学者プラトンの「国家論」で行くと、彼は理想社会には文学(詩人)はいらないと言っているから、世界が本当に幸福になったら文学はなくていいのかもしれない。まあしかし、今のところ人類は文学を必要としていないことはないはずで、現にケータイ小説やライトノベルやアニメやネット小説は読まれてるんだから、だったらこの、書店や図書館や大学での文学の衰退ぶりはいろいろやはりちょっと、まずいと思う。
  
 何がまずいのかというと、説明がむずかしい。それは「何で大学に行くのか」「何で勉強しなくてはならないのか」という質問に答えるのと同じかもしれない。知識があること、歴史を知ることは、個人でいうと体験を積み重ねると同じ効果がある。人の知らないことを知っている、人の知っていることを知らないというのは、別にいばったり恥じたりすることでもないと私は思うが、ものを知っていると便利だし、無駄を省くとは思う。
  
 知識や教養をひけらかす人は、いやがられるし嫌われることも多い。それは当然の場合もあれば、そうでないこともある。反発されてしかたがない知識のひけらかし方をする人もいて、そういう時に相手や周囲が「知識なんかあってもしかたがない。そんなものなくても映画やアニメや小説の面白さはわかる」と言ったりするのは、それは正しい。
  
 だが、「何の知識もなくても、面白さはわかる」と言っている人たちも実はやはり、それなりの知識をもとに面白さをわかっているのだ。そこを理解、というより、むしろ感得しておいてほしいと思う。
 昔、ある医学博士が「性教育などしなくても子どもは自然にそんなことは学ぶ」という意見に反対して、「自然に学ぶなどということはあり得ない。自然なように見えても、それは、そのへんで手に入った本や耳にした話から学んでいるのです。ちゃんとした食事を与えなければ、拾い食いをするだけの話です」というようなことを言っていたのをテレビで見た。そのとおりだと思う。
  
 どんな人間でも、アニメや映画やケータイ小説を読んで、感動や共感をすることはできる。だがそれは、知識がなくても、学歴がなくても、できるということではない。その人なりの体験や見聞から得た知識をもとに感動し共感し理解しているのだ。それは家族の会話だったり、職場や近所でのおしゃべりだったり、学校の先生の話だったり、ワイドショーだったり週刊誌だったり、目にした風景だったり、仕事で身につけた勘だったりする。そういうものが総合融合されて鑑賞眼となり批判精神となり判断基準となっている。
 そういう材料でできた、そういう鑑賞眼や批評力が、たとえば古典を何千冊も読んだとか、外国語を何十カ国語もマスターしているとか、あるテーマを数十年も研究しているとかいうことを材料とした鑑賞眼や批評力に比べて、劣っているかというと、そうだとも限らない。いくらたくさん本を読んで勉強しても、わからないことはある。その逆(というのはつまり、何も勉強していなくて、裏の川でナマズだけ釣って年とったという人でも、ある小説をものすごく理解できるような…別にナマズの小説でなくても)もある。だから、大学で学ぶような知識や教養を過大評価したり、畏怖したり劣等感を抱く必要はまったくない。しかしである、だがである、だからといって、過小評価したり、敬遠したり敵意を抱いたりする必要もまったくない。
  
 くりかえすが、大学に行こうと行くまいと、本を読もうと読むまいと、知識のない人などいないのだ。先の性教育についての話じゃないが、たかがそのへんのテレビや週刊誌で聞きかじって拾い読みした「知識」を、「人間として自然にそなえた感情」などと勘違いしないでほしい。人間は自然に成長などしない、とまで言い切る自信は私にはないが、そう簡単に無色透明に育てはしないとぐらいだったら言い切れる。生まれた時からあなた方は、親から家族から友人から学校から社会から国家からマスメディアから知識を与えられまくり、影響を与えられまくっている。特定の宗教や思想にくみしなくても、あなたの属する共同体と育った時代から、あなたは絶対自由ではなく、どんな時代ともどんな他国とも、洗脳の程度においては五十歩百歩と思ってほしい。この私だって、第二次大戦後に生まれ、田舎で育ち、強烈な性格の母に育てられ、キリスト教とマルクス主義とに親しんだという環境と経歴から自分がどれだけ影響を受けているのか、いまだによくつかめていない。
  
自分で本を読み、知識を得るということは、そういう、知らず知らずに与えられてきた知識、受けてきた影響を補充し修正していくことだ。そういう自分の環境や境遇によって得たものを否定する部分もあるだろうし、確認して強化する場合もあるだろう。あなたが仮に、男であり父に愛され母にうとまれ兄弟と仲が悪く一浪し背が低く喧嘩が強いとしたら、それはあなただけの特質で、その立場からしかわからないもの見えないものがあるだろうから、それを大切にしてほしい。それぞれに、そういう取り合わせがあるはずで、そこから得たものは大切にしてほしい。だが同時に、そういう自分の立場からは得られなかったものは、自分で身につけなければいけない。
  
 中卒で社会に出て、家を建てたりものを売ったり野菜を育てたり料理をしたり、いろんな仕事をする中で、体験として「これだけはたしかで、まちがいない」という実感を積み上げていく人もいるだろう。だが、その中であなた方は、貴重な四年間を「学ぶ」ことについやすることを選んだ。それは、知識を武器にして自分を成長させ、世の中に役立つことをめざすということでもある。バイトもサークル活動も恋愛ももちろん貴重な体験だが、大学という環境を最もよく利用するには、何よりもまず本を読み、それについて考える訓練を欠かしてはならない。自由な時間と身分を利用して体験を積むのなら、それは現実の社会で活動している同年代の人たちほどの切実さや鮮烈さはないことを、充分に知っておくべきだろう。
  
 言いたいのはつまり、いわゆる教養や知識を持たない人などいないので、自分がそんなキザなものなんか持っていないと思っていばったり開き直ったりしても無駄だということ。私もたいがい攻撃的だが、こういう「無垢なふり」「無垢なつもり」って、何となく趣味が悪いと思うのよ。まだ未完成、まだ未熟、自分はからっぽ、まだ白紙などと平気で言うのもやめたがいいよ。本当にからっぽで白紙でいるのは、そう簡単なことじゃない。箱も器も井戸も溝も、手入れして整理してなきゃほこりとごみでいっぱいになる。紙は黄ばむし、しみがつくし、落書きされる。何も読まずに考えずにぼんやりしてたら、きれいなままでいられるなんて思っていたらとんでもない。まちがってもいいから、何か書け、何か入れろ。それがいやで、本当に無垢で空白で未熟でいたかったら、死にものぐるいでそうなるように努力しろ。周囲から適当につめこまれる刺激や印象のごみや紙くずで、ぼやっと汚れてる状態を空白だの無知だのと言われたら、空白や無知が泣くわいな。
  
 だから、「教養や知識がなくても、文学は楽しめる」とかいう人も、結局は自分の教養や知識で文学を楽しんでいるというだけのことだ。それは、政治に無関心とか宗教は信じていないとか特定の思想は持たないとか言っていたら、自分は世の中の動きに関わらないでいられるし、時代の進む方向にどんな力も与えないでいられる、要するに自分はゼロの存在でいられると思いこんでいる人と似ている。時間がないから話を先に進めると、こういう感覚は誤解である。わが大学の教授会でしばしば問題にされるように、白紙の投票は反対票とまったく同じ効果を持つことが多い。
 たとえば、自分は文学には無関心だ、本を読むのは嫌いだということは、もちろん、別に悪いことではない。だが、それが文学や本が、この世から消えて行ったり衰退したりすることと、何の関わりも生まないと思っていたらまちがいだ。文学に興味がない人、本を読まない人がふえれば、文学も本もいつかはなくなる。空気や水だってなくなるかもしれないご時世に、放っていてもそういうものが永遠に滅びないわけはない。文学や本の運命は、それが好きな人の手にだけ握られているのではなく、嫌いな人の手に握られているということを、知っていてほしい。
 余談もいいところだが、私はさしあたり神は信じないし、政治に無関心になった時期もあった。だが、それは「神はいない」ということを信じているということであり、私が政治に無関心であることによって、日本や世界が最悪の方向に進んで結果として私や私の愛するものが滅びてもしかたがないと覚悟したということだった。てっとりばやく脅迫めいたことをいうと、政治についても法律についても文化についても、こんにちのありがたい民主主義の近代社会では、皆が一票を持っている。どんな政治や社会や文化を選ぶか、どんな文学を評価して残すか、ホームレスにも小学生にも、ちゃんと一人分の責任がある。そこで棄権や白票があれば、それは何かを否定して葬る一票として、ちゃんとしっかり機能するのだ。
  
 私がこんなアホらしいことを声を枯らして言わなくたって、実は「知識や教養など不要」と言ってるような人に限って、自分の知っていることをたまに他人が知らないと、ものすごく怒ったりバカにしたりする。一方で、自分の知らないことを他人が知っていると、やっぱりバカにするか、やけに感心したりする。要するに「自分が普通」と思いこんでいる。
 だが、この「普通」だの「常識」だのの基準は、時代により地域によりその他により、ものすごく流動する。さきの「無色透明」「無垢」の感覚と同様に、この「普通」という感覚も実際には錯覚にすぎない。そこに安住し拘泥しようとしていると、広い世界を見失うし、自分たちの世界の中では異端を排除し束縛を強めてしまうだろう。
  
 知識や教養、読書は、そういう、ごく狭い周囲だけの「普通」から、あなたたちを解放してくれるものである。私自身、子どものころから、今自分の回りにある習慣や常識とはちがった世界が、遠くや昔に存在したと知っていることで、人と違っていることに平気でいられた。それがなかったら、きっと生きてさえいられなかっただろう。
 そう思うと、できれば同じように、遠くの、または未来の、見ることも会うこともない人たちのために、私がそうして救われたように、そういったものの数々を私は守って、残して、伝えたい。私は身近な人も好きだが、時にはそれ以上に、会ったこともないし会うこともないだろう、遠くや未来の人が好きだ。
  
 今、私たちの周囲には、たったひと月の間にでも、数えきれない本が映画がアニメが新しく売り出される。その全部に目を通すことはとてもできないが、もし、それなりに評価できる、魅力を感じた作品があれば、楽しみたいし、人にも教えたい。そういうことがくりかえされれば、その作品は多分、後の時代に残り、広い世界に広がって、たくさんの人をいろんなかたちで、きっと救う。そういうことを、どれだけたくさんの人がしてくれるかで、世界や未来は大きく変わる。
 また、もうひとつの役割は、そういった作品が生まれて、読者や観客の目にふれるまでは、実に多くの人の意志や嗜好が加わっているということだ。ひとつの小説や映画が私たちの手元に届くまでは、数えきれない人々のさまざまな作業がある。編集、印刷、装丁、宣伝、翻訳、その他いろいろ。その過程で、原作を理解できないし愛してもいない人ならもちろん、そうでない人が善意で冒した数々のあやまちが、原作の精神をまるっきりそこねてしまうかもしれないということだ。