女性は、男性は、という言い方を固く自分に禁じてきた私だが、それでもここまで年をとると、その信条に反して感じてしまう、根拠もなしに漠然と強く生じる実感もあるわけで、男性、といって悪ければ男性社会というものは、しばしば女性的と言われてきた、「臆病で、妙に勘がいい」という特徴を持っているような気がしてならない時がある。つまり、腐女子や彼女たちの書く作品や妄想を、男性社会は本能的にすごくおびえて敬遠していて、近づくまい見るまいなかったことにしようと決めていて、そういう事件が起こった時、腐女子の妄想を分析したり攻撃したり弾圧したりする剛の者が果たしているのだろうかと、何となく疑問に思う。
源氏物語があれだけ天皇の不倫話などをばんばん書いていて、何でおとがめがなかったのだと疑問を持つ人が時々いる。国文学者である私たちはそんな時、「あ〜、当時の正式の文章は漢文ですから、女が書くひらがなの文章なんて、公式には存在しないも同然で、だから問題になるわけないんですよ〜」と笑ってかたづける。まあ、基本的にはそうだったんだろうと思う。しかし、これこそ妄想だが、私は今何だか当時の人たちにとって、源氏物語は腐女子の書いている文学のようなもので、なんか恐くてそっとしとこう、というものではなかったのかとさえ思う。まあこれは多分、幻想だ。でも頭からふりはらえない。
そもそも、こんな研究会を作ろうと思い、そのずっと前から、オタク特に腐女子と言われる人たちの文学活動について、きちんと把握も分析もしておかなくてはと私があせっていたのは、次第に社会の表に出てきたこの分野の活動が、突然攻撃され、排斥されて葬られそうになった時に、どう対応するかを考えておいた方がいいのではないかと不安になったのも理由のひとつだった。
その時点で私が予測していたよりは、はるかに深く広く、このような文学活動は浸透していて、これはそう簡単に攻撃できるものではないかもしれないという実感も生まれたが、それでも私の不安は消えたわけではない。
この種の文学活動が、これだけ表面に出てきたということ、これだけ深く広がっているということは、このような文学をまったく理解できない人たちの目に触れる機会も多くなったということであり、また、本来はこのような文学でなければならないという必然的な好みではなく、周囲の影響や流行への順応から、参加してきている人たちも増えてきていることを示している。
誰かが、何かが、意図的に充分に準備して激しい攻撃を加えれば、たとえばこの種の文学の刺激的な描写の部分だけを強調してメディアで流せば、広範な人たちが衝撃を受け、批判する側になる可能性がある。そうやって禁止されれば、特にこのような傾向のものでなくてもよかった作者や読者は去って行く。
そう簡単にいくものではないかもしれない。しかし戦争を体験した私の老母は、くりかえし「世の中はほんとうに、一夜でがらっと全部変わる」と警告する。ひとつの法律、ひとりの人間が事態を決定的に変えてしまうことはある。
東京都の学校で、まじめに行われてきた性教育が、いきなり告発され処罰されたことは記憶に新しい。「ちびくろサンボ」の絵本が批判され、消えてしまったいきさつも、知れば知るほど気持ちが沈む。こういった問題は、いったんとりあげられ、流れが生まれてしまうと、ていねいに冷静に対応するのは実に難しいと痛感する。
ここから先は、いつものことだが、私の危険な発言だ。
「ちびくろサンボ」の件などをこんなところで引き合いに出しては、サンボの方で迷惑かもしれないが、この絵本への攻撃が、誤解も多く、感情的で雑な部分もありながら、それでも、そのいきさつを読んでいてさえ頭が痛くなり吐き気がし、脱力するほどの執拗さと正義感をもってくりかえされたのを知ると、人権とかフェミニズムとかいった感覚、ひいては思想や宗教といった信念すべてを持つことの難しさを痛感するし、最近よく見る、人権やフェミニズムに過激に反応し敵意を抱く人たちの気持ちに納得同調してしまいそうな自分が恐い。
昨今の児童虐待防止に関する種々の法律や規制に対してさえ、私は似た不安を感じている。児童へのよこしまな行為を誘発するような、あらゆるものを規制しようとするのは、その目的にはまったく共感するが、はたしてそんなことが可能なのだろうか。たとえばキューピー人形、小便小僧、天使の彫刻だって、そんなゆがんだ欲望を抱く原因になり得るだろうし、だからといって規制してしまえるのだろうか…って、もうされているのかもしれないが。
河野多恵子には文庫本にも入っている「幼児狩り」という名作の短編がある。あれも早晩、発禁処分になるのではないか…って、もう出版されてないのかもしれないが。
幼児ポルノと「幼児狩り」の小説を、盗撮した子どもの写真と「不思議の国のアリス」の挿絵を区別するのは難しいかもしれない。それらをどう扱い、どれを公開するかしないかを判断するのも難しいかしれない。それでも、それを避けてはならない。感情的になることなく、ひとつひとつを話し合って、さまざまな資料や事実を考慮して、ていねいに対処していかなければならない。
実は最初に書いた、腐女子の書く作品などふれたくも見たくもない、ひたすら敬遠するという男性の感覚は、私には何となくわかるのだ。それは、ほとんど生まれてこのかた、ものごころついてからずっと、私が感じつづけていた感覚ではないかと思う。
自分と同じ性が、映像で絵画で文章でもてあそばれ凌辱されていることを、ずっと感じつづけていた。そんな映画が、雑誌が、絵画が、ドラマが、公開され、販売され、放映され、展示されている世の中で過ごし、それを見た人たちが、しばしばその映像や文章と私を、目や頭の中で重ね合わせていることを、ずっと意識しながら生きてきた。
ときどき週刊誌などで、腐女子の告白として、身近な恋人や兄弟が同性の友人と愛し合い性行為をする妄想をしてしまったと反省したり衝撃を受けたりしている文章を読むたびに私は、何て人がいいのだろうと呵々大笑してしまう。女性の裸体をグラビアにした週刊誌がコンビニの棚に堂々とおかれ、そんな画像や映像に夢中で見入る少年たちの姿は、ほほえましい青春のひとこまとして映画でもドラマでも公認されまくっている世の中で、腐女子が男性を対象に何を妄想したからって罪悪感も羞恥心も感じる必要などあるものか。
私は自分と同じ性が、自分を連想させる性が、もてあそばれる描写が身近にあふれる世の中が嫌いだ。
しかし、そういう描写があふれつづけたあげく、人類の文化がもはやそれなくして存在しないほど、その私を傷つけおとしめる描写の数々が豊かな芸術を生んできたのも知っている。
だから私は、もうそれは、あきらめている。そういう要素を持つものをすべて排除したら、世界中の図書館も美術館もがらあきになることがわかっている。だから私は、自分を否定し侮辱する美術や芸術を認める。存在するのも鑑賞するのも。
だからだな、と歯もくいしばらないし、ふるえもしないし、冷ややかな笑いも浮かべないで言ってやる。男性や、幼児や、ある種の人間、ある種の生き物、その他のあらゆる何かを否定し侮辱し傷つける芸術や文学が存在するのも認めろや。鑑賞するのも認めろや。
それはそれで、悪くもないのだ。そうやって否定され、侮辱され、傷つくことの楽しさも、快さも私は知った。その中からも豊かなもののいろいろを得た。それもまた、今は私の一部であり、私はそれを愛している。
腐女子の書く文学を敬遠し嫌悪する男性たちがいるのは当然だ。だが、そのような男性たちは、そのようにして敬遠し嫌悪する対象が、大量に身近に世の中に存在するという点では、これまでになかった新しい時代を初めて生きている。他のことの多くがそうであるように、このことももう元には戻れない。前に進み続ける中で、よい解決法を見いだしていくしかない。
腐女子と言われる人たちは、自分の書く文学をインターネットでも同人誌でも、さまざまな方法で慎重に隔離し、自分たち以外の人の目にふれないようにしている。それは不要な攻撃を受けないための自衛であるとともに、それを見たら不快になるかもしれない他の人々への配慮でもある。女性が陵辱されることを楽しむ作品に、このような配慮はなされたことがなかった。
その一方で、このような隔離がつづく限り、腐女子の人たちが作る作品は、本当はそれを読むことが幸福になるかもしれない男性や、その他の人々から、それを読む機会を奪う。これらの文学の中には、これから更にすぐれた作品が登場してくる可能性がますます高くなるだろうが、それを他の分野とも交流させ、刺激を与えあい、多くの人に公開する機会も奪う。こうしたことの功罪も、私たちは考えてみなければならない。
○現実と空想(2)
私が最初の研究会で聞いたもうひとつの質問は、「本当に男女の間の役割分担がまったくなくなり、同性愛も含めた、あらゆる愛のかたちが自由に認められたとしたら、そんな時代や社会で、今の男性どうしの愛を描いた文学が、どれだけ必要とされ、どれだけ残るのだろう?」ということだった。
これに対する意見や結論はよく覚えていない。私がなぜそんな質問をしたかというと、少なくとも私が、男性同士の深い関係を書いたり空想したりして楽しむ場合、もし女性と男性の社会的地位、精神的肉体的能力がまったく互角でありえるなら、その状況が普通なら、男女の関係でもそれは表現できるのではないか、と思うことがあるからだ。
「エロイカより愛をこめて」の作者青池保子氏は、男性どうしだとそれぞれ自立した一人前の人間どうしとしての対立や愛を描くことができる。女性と男性ではそれは難しい」という意味のことを言っておられたことがあり、これは私の実感でもあった。
もちろん、現実の同性愛においても、架空の創作での同性愛においても、それが男女の愛がもっとちがうかたちで保障されればなくていい、なんらかの意味での代償作用と簡単に言ったり考えたりすることは、とても危険だし失礼だ。
私自身、書いたり空想したり体験したりしていて、男性同士や女性同士の性も含めた愛のかたちから得る快感は、男女のそれではおきかえられない部分が確かに存在すると感じることがある。
だが、その一方で、特に現実ではそれは、同性だからとか異性だからとかいう話ではなく、その相手だから、その人だからという問題にすぎないという気もする。
たとえ私がこれまでに、千人の女と一人の男と性も含めた最高の愛を楽しんだとしても、それは別に私が女を男より千倍好きだということにはちっともならないだろう。
空想の世界のことで言えば、私は幼い時、最初にしていた空想での最高の愛のかたちは、男性どうしではなく女性どうしでもなく、姉と弟だった。
その後、男性どうし、女性どうしの愛のかたちが加わって、のちにはそれが中心になった。兄と妹、男女という空想は、ないわけではないが、ずっと少ない。
そこには、いろいろな理由が入り交じっていたと思うが、一番大きな理由としては、私が空想で愛する男性と密接にかかわり身体的にも心理的にも密着するためには、女性では不可能な場合が多すぎたということがあったと思う。
その空想の相手がファンタジーもので歴史ものであれば、たいていの場合、武器を持って戦っており、女は戦場に行けない。現代もので圧倒的に多いスポーツものであれば、女はグラウンドに入れない。たまさかどうかして入ったとしたら、それは何かとても特別な場合だし、ものすごく特殊な状況であって、逆に周囲の目を気にしないといけないから、相手に接近するどころではない。
そんな状況を不自然でなく設定しようとしたら、それこそものすごい空想がいろいろ必要であり、そんな手間暇かけるよりは、誰だって、自分が愛する相手に誰の目も気にせず自然に接近し接触する方法としては、自分が男である空想をする方を選ぶ。のではないだろうか?
ちなみに、研究会でこのことを(「なぜ男どうしだといいのか、なぜ男どうしでなくてはいけないのか」)皆に尋ねると、最初にあがったのは、背徳性、禁断の恋の魅力だった。昨今では身分違いその他、恋のタブーが減ってきており、障害や垣根のある恋の状況を描きにくく、同性どうしの愛だと、それが手っ取り早く描けるというのだ。
だが、たとえば不倫などは、まだタブーの要素が多いという意見もあって、なお議論の余地はある。
更に、作品の中だけではなく、そういう作品を書いたり読んだりすることに関しても、他人にかくして身内だけで暗号めいたやりとりをする、その楽しさも少なくないという意見もあった。
○自分の位置を自覚したくない
私の場合、前項の「なぜ男同士でなくてはいけないか」ということで、一番大きいのは「いろいろ考えなくて、いっしょにいられる設定ができるのが便利だから」だが、もうひとつあるとすれば、「自分が何者か考えないですむ」ということがあるだろう。
もうこの年になると、そんな感情があったことさえ忘れてしまうが、若いころや子どものころには、小説を読んでいて、時々、胸をかきむしられるような切ないとも苦しいともわからない感情にとらわれることがあった。
自分が実現できそうな、自分の身の回りの世界が舞台の話では、そういう感情は起こらない。また、宇宙とか外国とか、昔とか未来とか、ものすごくかけはなれた世界の場合でも私の精神は動揺しないし、安定していた。
手のとどきそうで届かない、行けそうで行けない世界。具体的にはたとえば、日本の上流階級の生活とか、都会の大学生活とか、そのあたりだった。
たとえば、現実の自分がそこに行ったら、場違いだし何もできないということがよくわかってしまう世界とでも言ったらいいのか。少し現実に近いばかりに、そのことが想像してしまえる世界といおうか。
現実に努力する程度では、近づけない。でも、空想であこがれるには近すぎる。そういう距離の話だ。
私は高校時代、太った陽気な女の子で、どんな基準から見ても美人ではなかったが、そのことにまったく不満はなかった。やせたり、きれいになったりしたら、私のイメージがこわれて、貴重な人間関係や周囲で確保している位置が失われるという危機感さえ持っていた。要するに、きわめて自分に満足していた。
だが、そういう姿や性格のままで、空想の世界に入っていけるかというと、それは微妙だった。現実に満足しているのと、それをそのまま空想の世界に持ち込むこととは同じではない。多分、私がものすごく美人であっても同じだったと思うのだが、空想の中では現実の自分とはむしろ、ちがった姿になっていた方が楽だったし、現実を失わないでいられた。
空想の世界に入る時、女性ではいたくないとか、子どもではいたくないとか、日本人ではいたくないとかいうのは、そういうことと関わる気がする。
○少女小説と性描写
私はさまざまな理由から、多分もう小学生のころから、好きな小説の中の男性どうしを愛しあわせる空想をしていたと思う。それがどの程度、当時は特殊なことだったか、それともそうでもなかったか、誰ともまったく話したことはなかったからわからない。
だが、そのこと自体は、それほど特殊なことでもなかったのではないかという気がしている。私は今でもどうしようもなく男性的な思考をすることがあり、それも自分の特性だと思っているが、つまり、そういう感覚でどこか非常に自信を持って断言できるのは、そんな男性どうしの愛の世界を空想していたのは、私の中の男性的な部分だったという気がしてならないのだ。たとえば映画「プリンセス・ブライド・ストーリー」の男の子がおとぎ話をしてくれるお祖父さんに「キスシーンはイヤ」と注文をつけたり、「宝島」を書いたスティーブンソンが、「女の人を登場させないで」という少年の要望にこたえて女性を出さなかったという言い伝えがあったりするように、「女の子が出てくるとつまんない」と思ったり言ったりする多くの少年たちと共通する感覚で、私はそういうことをしていた気がする。だから、私は男性たちにもぜひ聞いてみたいが、ここまでの、つまり性的なものをまじえない、男性どうしの固い絆の空想だったら、女性より男性たちの方が普通に多くやっているのではあるまいか。
いや何もそもそも別に聞いてみなくたって、ヤクザ映画や軍隊映画、スポーツ漫画その他のあらゆる文学作品の中で、強く深い男同士の友情は常に語られていたし、「女にはわからない」「女なんてじゃま」という言い方は、そういう作品の中でも現実でも、けっこう大っぴらに口にされていはしなかったか。
やおいだ腐女子だとこんにち定義される、男性どうしのやさしく深い感情の交流は、絶対に誰よりも男性たち自身が熱心に語ってきた分野だったと思う。空想でも現実でも男性たちはそれをのびのび味わって、楽しんでいたのだし、読んだ男性たちも絶対にそういう人間関係の連想、空想をしていたはずである。
空想でも現実でも、それが性行為をともなうようになってから、事態はさまざまに変化した。とはいえ、実のところ私は、基本的には本当は何も変化などしていないのではないかとさえ考えている。男女であれ男どうしであれ女どうしであれ、あえて言うなら近親であれ動物相手であれ、深く愛し合う関係はいつもあり、それが性行為をともなうかどうかは、結婚という法律上の制度をとるか子どもを生んで育てるかということも含めて、二階建ての家に住むか平屋に住むか、朝食をごはんにするかパンにするかと同程度の、好みの問題にすぎないという気がする。
ちなみに私は昔から「男女の間に友情が成立するか」といったたぐいの青春小説が大好きだったテーマに、まったく関心が持てず、そもそも理解ができなかった。性行為を持つとか結婚するとか、そういったことで一律に愛の種類を定義するということが、どうしようもなく不可能で不毛に思えた。ことのついでに言ってしまうと、教え子の学生たちと親子ごっこをするのも好きではない。そんなひとつの関係にことよせた窮屈な人間関係は持ちたくない。男女を問わず年令を問わず立場を問わず、動物だろうと植物だろうとどんな相手といる時でも私は相手と性行為や結婚をする可能性があると思って、警戒あるいは期待している。言いかえれば誰が相手でも何が相手でも、ほとんど警戒も期待もしていないと言うことでもある。
ともあれ私に関して言えば、そういった空想の中での男性どうしの関係で、性的なものまでを描いたのは比較的最近で、今から十年近く前、年代でいうと一九九七年ころになると思う。ちなみに、いわゆる同人誌文学での男性どうしの性描写は、それまでに少しは知っていたが、そのことに影響を受けた部分はない。あくまでも自分自身の中での空想の発展として私はそれを開発した。かなり意識的にやった部分もあった。おそらく、男性どうしのプラトニックな友情を空想している男性でも、私と同じことをするのは可能だと思う。
言いかえれば、それまでは、およそ五十代の終わりまでは私のそういった空想に、性的な部分はなかった。性的な空想をする時はあったが、その時にそういう男性どうしの愛についての空想は利用したことがなかった。
おそらく、男性読者の多くが空想していた男性どうしの愛の世界を、私のような女性読者がなぜ夢みなければならなかったかと言うことは、そんなに難しい疑問ではない。それにあたる女性どうしの愛の世界は夢みようにもあまりにも、材料が少なく、空想のもとになる文学も少なかったからだと思う。
ただ、そこに性的な空想は、いつどうやって入りこんだのだろう?
私は大学院生のころ、「小説ジュニア」という雑誌の編集部にときどき原稿を送り、年に何回か掲載してもらっていた。いわゆる学園恋愛ものは書く気がしなくて、それこそ女性が登場しない外国ものや歴史ものを書いていた。
当時、少女を対象としたその雑誌の読者たちに圧倒的な人気があったのは、「おさな妻」をはじめとする富島建夫氏の小説で、露骨といっていいほどの性描写が特色だった。「何べんも読みました」という読者の投書がよく紹介されていた。
当時のこの雑誌の執筆陣は富島氏以外はほとんどが女性だった。実は氏以外の男性作家を私は今、思い出せない。そして、富島氏が毎号どれだけ強烈な性描写をしても、そして読者がそれをどんなに歓迎しても、女性作家たちは決して性的な描写をしなかった。古色蒼然と言いたいほどに清らかでストイックな、ひかえめな恋の描写しかしなかった。
私は正規の執筆陣の一人などでは、もちろんなかった。それでもときどき本当に漠然とだが、富島氏から挑戦されているような気がしていた。もうこれはまったくの、それこそ妄想なのだが、私は抜群の人気を誇る富島氏が満足しているようにも幸福なようにもあまり見えず、むしろ、いらだっておられるのではないかと、どことなく感じていた。ご自分がこれだけ果敢に少女小説での性描写を書きつづけ、読者からも圧倒的な支持を得て、いわば少女小説の新しい未来をきりひらいて、土台を築いているというのに、当の女性作家たちは何をそう臆病に怠惰に、これまでと同じ形式をかたくなに守って、従来の少女小説の殻を破ろうとしないのかと、私が富島氏ならきっと腹立たしいと思った。
その一方で私は、自分自身も含めた女性作家たちは、富島氏の後につづくような作品は決して書かないだろうという気がしたし、もっと深いどこか心の奥で、そのことは多分正しいのではないかと思っていた。
当時のこの雑誌の編集部の意向などは知りようがないが、あれだけ富島氏の作品が読者に評価されていたら、同じような作品を書く作家が現れることを望む編集者もいただろうし、実際、私が自分の作品を自費出版し始めて、次第にこの雑誌に投稿しなくなった後、多分そのような試みも若い女性作家の間ではなされていったのだと思う。そのあたりの時代のことは私はもう知らないのだが、ただ、それでも富島氏のような激しいリアルな描写をする作家は結局出なかったのではないかと思う。
特に私が書いていた時代の女性作家たちが、いや、少なくとも私が、富島氏の描く性描写に続く作品を書こうとしなかったのは、怠惰でもないし意地をはったのでもなかった。
臆病ではあったかもしれない。
私は男女の性をあからさまに描くことは、今の状況では危険だと感じていた。それは私の中の、まだまったく解決できていない男女についての、さまざまな問題に深く関わっていて、それについての考えがまとまらないまま性を描写することは、自分をはじめ誰にとっても、よい結果を招かないと思えたのだ。
結局、それらの問題に自分なりの結論をいくつか出せたのは、ほぼ四十年後の還暦になってのことだった。
富島氏について言うと、その後、何かの記事で、少女小説の性描写についてやや否定的とも見える発言をしておられるのを見たこともあって、やはり当時の他の作家に不満を持っておられたのではないかと感じたことを覚えている。
だが、富島氏を嚆矢として、その後の若い女性作家たちによっても、性行為を大胆に詳しく描写するということに対するタブーがなくなったことは確かだろう。現在の腐女子と言われる人たちの作品や空想における性描写へのまったくの抵抗のなさは、やはりこれらの人々によって作り出された成果だろう。
問題は、少女漫画などの影響もまたあるにもせよ、富島氏たちの活動によって、これだけ自由に描けるようになった性行為の描写を、少女の読者たちが富島氏のように男女間のそれではなく、男性どうしの関係を描くのに使いはじめたことである。
それはいったい、なぜだったか。綿密な分析も広範な調査も必要なのだろうが、唐突といっていいほど、とっさに思い浮かぶのは、女性読者にとってだけでなく、私のような女性読者にとってだけでなく、女性にとってだけでなく、男性読者や男性にとってさえも、本当に対等に激しくぶつかりあい、本当に心を許して計算ぬきで安らぎ、心も身体も解放してまかせきりになれる、そんな性行為が男女間の性描写で描かれたことは、これまでいったいあったのだろうか。
精神的な面に限って言えば、男性たちでさえもが、男性たちこそが、そういう関係は男性どうしの場合が最も実現しやすいと、ごく自然に実感してきたのではないのだろうか。
力の差がある相手への遠慮やいたわり、生活設計や将来の展望と重なり合う現実的判断、そういったものの数々を意識しながら性行為を行う時、それは無心に相手と一体化したり、相手のすべてを認めて受け入れたりすることを微妙に妨げる。その結果、性行為(の描写)は時に機械的になり、時に暴力的になる。
ちなみに私が、性的な空想をする時、女性としての空想では常にどこか被虐的だった。空想の材料にする文学や映像が圧倒的にそういうものが多いということもあったが、それだけではなく、本当に相手とすべてを許しあえない状態では、そういうかたちの刺激しか見つけようがなかった気がする。男性どうしの性行為を空想できるようになってから、私の空想でも現実でも性行為は平和な優しい、あえて言うなら豊かなものになっていったように思う。
腐女子の描く性描写の多くに、レイプめいたものがあるのを見ても、このことはまだ、いちがいには言えない。ただ、私はもしかしたら、男性が夢みていた男性どうしの深い関わりを、空想の中で性行為まで行うことによって、女性との関わりも変化するような気がする。楽天的にすぎるだろうか。
ただ、これと直接の関わりは多分ないが、最近スポーツ新聞や週刊誌のポルノ小説が、以前のようなレイプ一辺倒ではなく、男女双方で楽しむようなものに次第に変化してきているようなのも、意志の疎通のできない存在との暴力的な刺激や機械的な冷淡さではなく、共通のものを多く持った相手と楽しみあう形式のものへと、現実もまた徐々に変化しつつあるのかもしれない。
○ボーイズラブ作品ふたつのタイプ
前項で、「私が男性同士の愛の世界を、性関係や性描写はなしで空想していたのは、むしろ私の中の男性的な部分がそうしていたような気がする」「ということは、多くの男性も性的なことを抜きにしてなら、そういう関係は空想するのではないか」「では最近私が始めたように、そういう関係の空想に性的なものを加えるのは、男性たちにも可能ではないのか」「それは男女の愛にとっても、よい方向に行くのではないか」といったようなことを述べた。それを、研究会の参加者たちに聞いてみたところ、いろいろとまた、参考になる話し合いがあった。
私は予想していたのだが、今のように普通の少女たちにボーイズラブの小説や漫画に早くからふれる機会が多いと、おそらく、昔だったら男女の愛を空想していた人たちまでが、あたりまえのようにそれを男性同士の愛として空想することはあり得る。
たとえば、私の幼い頃だったら、大変大ざっぱに言ってしまうと、男の子は仲間と怪物をやっつけたり、船に乗って南極探検をしたりする空想をするし、女の子はお城に住んで白馬の王子がやってきてくれたり、村で暮らしていて川に落ちたらすばらしい若者が助けてくれたり、そういうように空想がわりと分かれていただろう。
で、私のような女の子は、男の子といっしょに戦いや冒険に出かける、男の子バージョンの空想をするのだが、それだと、皆で美しいお姫様を助けようとしたりした時、あれ、私はどうしようととまどったりすることもあるわけだ。
それで、今の腐女子と言われる人たちがやっている、男性どうしがいっしょに仲よく行動し、時には性行為も行う、という空想は、私のような傾向の人だったら、そういう、男の子バージョンの冒険物に性生活といって悪けりゃ恋愛生活がプラスされたものになるわけだが、もしかしたら、今なら、女の子バージョンの空想をしてた人たちでも「お城で王子様を待つ」だの「バラを抱えた騎士が窓の下に来てくれる」だの「川に落ちたらすてきな青年が助けてくれる」みたいな話を、かたっぽをつまり女性を男性に変えて空想している場合が、けっこうあるような気がしてならない。
つまり、(A)女性がいない戦隊もの、冒険ものに性行為や恋愛行為が加わったものと、(B)男女の恋愛ものの女性の方が男性に変わっているものと。「少年漫画的ボーイズラブ」と「少女漫画的ボーイズラブ」とでも言ったらいいのだろうか。
私は参考のためと思って、手当たり次第にボーイズラブ小説をいくつか読んだことがあるのだが、実はあまり夢中になれなかった。稚拙とかうまいとかそういうこととは関係ない。何となく退屈で、面白くなかった。それは、もしかしたら、それらが「少女漫画的ボーイズラブ」だったからではないかと思ったりする。
ただ、実際問題として魅力的な男性二人が登場し、職場や学園でさまざまな恋愛劇をくりひろげる話で、それがいったいどちらのタイプなのかは、判断しがたい。それでも私は何となく区別がつくような気がするし、いわゆる「少年漫画的ボーイズラブ」だったら、とても楽しめそうな気がするのだが、いざ、その区別がどこでつくかというと、わからない。これは、今後の宿題である。
また、「少女漫画的ボーイズラブ」にしても、自分が男性になって男性を愛したいと望むからそういう空想をする女性もいれば、自分が男性になって男性から愛されたいと望んでそうする女性もいるだろうと思うので、そこもまた、一概には言えない。
もちろん、男性にだって、お城で待っていたらすてきな人がやってくる、川に落ちたらすてきな人が助けてくれるといった空想をする人もいるだろうし。
最近ではボーイズラブ小説や漫画が、明らかに若い男性を読者とした雑誌に載ることもあるらしくて、そういう傾向とも、これらの話は一致している。
○少女漫画と同性愛
どんなものにも、始まりはある。私の記憶する限りでは、日本で漫画を初めてきちんとまともに評論した文章は、開高健が「週刊朝日」に連載していた「ずばり東京」というルポルタージュだった。彼はその中で、手塚治虫を高く評価した。そんなの今ではあたりまえすぎるが、当時は私の知る限りでは、そんなことを口にする人さえ誰もおらず、漫画すべてがひとくくりでバカにされていた。開高氏は、この回の記事を書くため、屋台でせっせと漫画本に読みふけっていたら、店主から狂気の人間を見るような不安そうな目で見られたので、金を先払いしたと書いている。まさに、そういう時代だった。
のちに、この記事が読みたくて開高健の全集を買ったら、「ずばり東京」は抜粋されて収録してあり、この回は省かれていた。私はしかたなく、より豪華な高い全集のその巻を買って、今も大切にとっている。小説をはじめとした各方面の仕事で開高氏の業績は大きい。しかし、多分、日本で最初にちゃんと漫画をとりあげて手塚治虫を評価したという業績は、その中でも特筆すべきものなのに、誰も気づかないのかなあと、その時もけげんに思ったし、今も気になっている。
いわゆる腐女子と呼ばれる人たちが書く(描く)、男性どうしの愛情を題材にした漫画の最初は、萩尾望都「ポーの一族」「トーマの心臓」や竹宮恵子「風と木の詩」や、その前後の作品と思われているようだ。私もこれらの作品は連載時に愛読した。それらの作品の中には性的な描写を含むものも、そうでないものもあったが、少年を主とした男性どうしの深い愛情や、それにまつわるさまざまな心情は特にタブーでもなく、自然に描かれていた。
私もまた、それを自然にうけいれた。古典文学の名作に、そういう話はよくあったし、少年漫画が描き出す強い友情や同志愛の世界と、それほど異質なものは感じなかった。その当時はすでにもう、社会がかなり「この人は別格」という感じで認めていた、手塚治虫の作品にさえ、隠微で病的なエロチックさはしばしばあり、文学ならばそんなことは、すべて普通と思っていた。
そうは言っても、それまでの少女と少年の愛を描いてきた少女漫画とは、やはりそれは一線を画した。どんなに強い友情を描く少年漫画でも、「君を愛している」といったたぐいの、明確に同性の相手を恋愛対象として意識した発言や行動は書かれることがなかったし、もちろん少女漫画の世界には、従来そういう設定は登場しなかった。
それが最初に登場した作品は何だったのか。開高健氏のルポルタージュもそうだが、私は普通の学生か大学院生だった頃で、そういう状況を精査していたわけではない。私が記憶しているよりも、もっと古い例があるのかもしれない。
ただ私は、そういうことを、かなり意識して生きてきたつもりである。他に目にしていたら、見逃しはしなかっただろう。だから、またしても私の見る限りでは、と言うが、最初にそのような作品を目にしたのは、当時住んでいた福岡市の名島にあるアパートへの帰り道、家の近くの小さな本屋で立ち読みした、多分漫画雑誌の中の作品の一つである。
私は、その雑誌を買わなかった。多分何かに疲れているか、他の仕事に熱中していて、そういった方面へのアンテナが休止状態になっていたのだと思う。その作品も、特に嫌いではなかったが、ものすごく好きで本が手放せなくなるほどではなかったのだろう。
それでも、はっきり自覚した。これは、男性が男性に明確に愛を告白した、私が見る初めての漫画だと。多分、年下の少年が年上の男性に、ふれることはしないで言葉だけで、「あなたを愛している」と静かに口にしていた。彼は髪が長く、正面を向いていて、コマは少し斜めになってはいなかっただろうか。そのひとこまは目に浮かぶが、彼の顔は思い出せない。前後の話も思い出せない。ものすごい衝撃などはなかった。ひっそりと、普通に、その漫画はそこにあった。特に問題作というような風でもなかった。何か確実に新しいものが生まれているのを、誰にも知られずに見たという気がした。感じたのは、おだやかな満足と、静かな安心で、その気持ちをそっとそのまま残すようにして、そのまま店を出た。
その店ももう、とっくになくなった。私の記憶もただそれだけで、本当にかすかで小さい。時期さえもはっきりしない。だが、多分、萩尾望都や竹宮恵子が登場する、かなり以前だったと思う。でなければ、それ以後ずっと、今にいたるまで私の中で、「あれが同性愛の漫画を普通の雑誌で、普通の店で見た最初だった」という、個人的な歴史的記憶として保存されているはずはないから。
作者の名前は覚えている。水野英子という作家だった。当時としては珍しく外国を舞台にして、黒人問題をとりあげた作品などをよく描いていた。かわいい少女漫画そのものの絵だったが、きちんと安定し、しかも躍動感のある描き方だった。
アメリカのロックグループを主人公にした「ファイアー!」という長編は彼女の代表作で、連載時から私は読んでいた。分厚い単行本も買って、今も持っている。少女漫画風の恋愛話もきちんととりいれながら、芸術家や反体制の若者の苦悩も書き込み、主人公のアランという少年が、リーダーの背の高い青年に、君の目の色が海のようだと言ったり、先住民の血をひく彼に「君が馬に乗って野牛を狩るところを見たいな」と言ったりする場面があって、男女にこだわらない深い心のつながりが随所で印象的だった。ハッピーエンドではないラストの、暗く救いのない力強さも忘れられない。
その人の描いた作品だった。そのことにも私はある信頼と幸福を感じたと思う。
今これを書くにあたって、初めて彼女の公式ホームページを見たが、この作品が何だったのかはわからなかった。「同性愛をきちんと表明した漫画を日本で初めて描いた人」というような説明も、むろんなかった。古典的で健康で正統な漫画家として著名な人に、そのような業績は不要なのかもしれない。
開高健氏の場合もそうだが、誰もそれまで書かなかったことを、こうやって最初に書いた人の名前も作品も、こうして消えていくのかと思う。自分自身の記憶さえもが、薄れて失われない前に、せめてこうして書きとめておこう。(つづく)
○男女のオタク
○ファン心理
○名作を読みたくないか?
○著作権協会はどう考える?