演習をする前に

 大学の演習では、教員が一方的に講義をするのではなく、学生が資料を調べて、前に出て発表をします。
 私の担当する古典文学だと、何か古い本を使って、その一部分を学生が分担して調べ、昔の文字を今の字に直し(翻刻)、難しい言葉に注釈をつけ(語釈)、文章全体を今の言葉に直します(現代語訳)。
   

1 翻刻は、とにかく正確でなければなりません。

 難しくて読めない字はまだしかたがない。しかし、誤字や脱字は致命的です。センスも何も不要だから、ただひたすらに、愚直にていねいであってほしい。これはまた、学問研究の基本でもあります。
  
 翻刻はどこまで原文のままを残すかは、場合によってちがいます。
 専門書でなければ、読みやすいように濁点・半濁点や句読点やかぎかっこをつけるのが普通で、私の演習でもそうしています。
 でもこれは当然、自分の解釈が加わります。その能力も試されているわけです。
 それと、長い資料の場合は特にそうですが、濁点でも句読点でもかぎかっこでも、つけるならつける、つけないならつけないで、終始一貫、統一しなければいけません。途中から気を変えて、つける基準を変化させてはいけません。
  
 原文にあるふりがなは、つけなければいけません。もし、原文にないふりがなをつけようと思ったら、それが原文にはないことを示さなければいけません。簡単な方法としてはかっこをつけることです。
  
 旧字体の漢字、異体字などは、今の字体に直します。中には判断に迷う微妙なものもあります。原則としては、迷ったらもとのままの字を書いておくこと。直したら、あとで戻そうと思ってもわからなくなります。
 また、これも、全体を統一すること。一つの字を直したり直さなかったりしてはいけません。
    
 どう考えても、原文の字がまちがっている時でも、勝手に直してはいけません。そのままに書きましょう。でもそうしたら、あなたが書きまちがったかもしれないと見た人は思うかもしれないから、そういう場合はその字の横に「ママ」という記号をつけることになっています。「まちがいとは思いますが、原文にこうありましたから、そのママ書いておきます」というしるしです。「(ママ)」とも「マヽ」とも書くことがあります。
    
 原文がどうしても読めなかった時は、「□□」のように示します。ただしこれは、虫が食っていたり破れたりする場合のことで、字が見えている限りは、何とかして判断した読みを書くことになっています。
  
 何で卒業して、こんなものを読む機会もないのに、翻刻なんてしなきゃならんかと思うかもしれませんが、これは古典研究の基本です。研究とは、「人のしたことは信じない」が前提です。古い文献を読む時は、読める限りは自分で読まないと、他人が活字にしたものは信頼できない、という気分でいなければいけません。
 活字にし、解釈を加え、要点をまとめる、という作業を加えるたびに、資料は本来のかたちからどんどん遠ざかります。時には原形をとどめないほどに変わってしまいます。そのことを実感して下さい。社会に出て、研究と直接に関係のない分野で生きるようになっても、目にする活字や解説やダイジェストの向こうに、見えない原資料があることを常に意識できるようになって下さい。それだけでも人生ずいぶんちがいます。都合のいい嘘やごまかしを見抜けるようになります。
    

2 辞書を信用してはいけません。

 高校までに教わったことと、これが一番ちがうことと思います。
 辞書はもちろん、ひいてもいいけれど、それはあくまであなたと同じ人間が作ったもので、まちがいもあるし不充分なことが多いと思って下さい。
 あなたたちはむしろ、辞書を作る立場と思って下さい。
    
 演習で使っていい辞書は、基本的には、その資料と同じ時代に使われていた辞書だけです。近世でいうなら、倭名類聚抄、色葉字類抄、雅言集覽、俚言集覽、日葡辞書、嬉遊笑覽、近世風俗志(守貞漫考)など。
 新しい辞書を参考までに引くなら(演習資料にあげるのは好ましくない)、「日本国語大辞典」ですが、その語のところに上がっている「用例」を使うのはかまいません。
 しかし、そのまま引用したのでは、「他の人が引用したのを、また更に引用する」という「孫引き」になって、これはいけません。
 あくまでも、あたれる限りは、もとの文献をさがして、確認すること。他人の引用したものは信用しないのが基本姿勢です。
  
 辞書を作る時は、一つのことばについて、まず使用されている例をできる限り集めます。 それを検討分析して、いくつかの意味にわけて示します。
 よく注意しておいてほしいのですが、言葉の意味が初めから、いくつかに分かれて存在するのではありません。
 使われて、広がったり変化したりする中で、さまざまな幅を持つようになり、まったくちがった意味を含むようにもなります。
 それをわかりやすく分けて示しているだけで、その区分はあくまで人工的で便宜的なものです。
 たとえば、私はよく、「この三つの語が出てきたら、訳するのはやっかい」と言って、「うたてし」「よしなし」「わりなし」の三つをあげます。どれもいい意味ではないのですが、そうかと言って、まったく否定的とも言えません。
 芭蕉は「おくのほそ道」で旅先の土地の人たちに頼まれて、いっしょに俳句を作ったことを「わりなき一巻を残しぬ」と言っています。「そんなつもりはなかったのに、せがまれてやむなく、どうもなあ」とでもいう感じで、迷惑、当惑、という表現なのですが、またそれだけではなく、ちょっとはうれしがっているかもしれない。
 西鶴「好色五人女」の中で吉三郎は恋人のお七との恋を後悔して「よしなき人のうき情」と嘆きます。あれほど愛した相手を「よしなき」とまで言ってしまうのはけしからんと思うこともできるし、そこに彼のやりきれない思いをかいまみることもできます。
 「うたてし」もうるさがり嫌悪している言葉ですが、かと言って本当にしんから嫌ってだけいるかというと、また微妙です。
  
 「何を言ったらセクハラになるのかならないのか」という悩みと同様、これらの言葉は、その場の雰囲気、互いの立場や関係によって、大きくその意味を変えます。「うたてし」は「死ぬほどいや、真剣にいや」とも訳せるし、「ちょっと迷惑だけどそんなにいやでもない」と訳してもぎりぎり間違いとはいえない場合もある。グラデーションの色合いのように、ひとつの言葉がほぼ反対の意味を端と端では含むのです。辞書はそれを並べて示しているだけです。いくつかの意味が独立して存在するのではなく、どの意味も地続きなのです。
  
 皆さんが演習をする時、ひとつの言葉の意味をつかむには、その時代に、その作者が、どのようなニュアンスでその言葉を使用したかを知らなくてはなりません。
 それには、なるべく近い時代の用例を集め、その言葉の持つ意味をつきとめなくてはなりません。
 ところで、辞書の用例は「初出」つまり一番古いものを上げるのが普通です。ですから近世の用例はなかなか見つからないという弱点があります。
 その場合には、さまざまな作品の索引でさがす方が見つかります。また、「川柳大辞典」など、江戸時代固有のものを使うのもいいです。
  

3 必要なのは作者と同じ知識で、最新の知識ではありません。

 たとえば、「おくのほそ道」の平泉の名場面で、芭蕉は中国の詩人杜甫の詩を引いています。これについて調べる時、必要なのは、「芭蕉が杜甫のその詩をどのように理解していたか」です。「この杜甫の詩はどのように理解すれば正しいか」ではありません。
 もしも芭蕉が、江戸時代の杜甫の詩集や解説書を読み、間違った知識を得たり間違って解釈していたとしたら、その間違った解釈が必要で重要なのです。現代の、最新の、最高の研究の成果は不要です。むしろ、この場合は間違いです。
 そのためには、芭蕉が読んだであろう江戸時代の杜甫の解説書、江戸時代の杜甫のイメージ、江戸時代のその詩の解釈にとことん迫らなければなりません。
 たとえ、今の最新の研究成果から見たら誤りで意味のない解釈でも、芭蕉がそれを知って、信じていた可能性があれば、その解釈こそが大切なのです。
  
 同じように、西鶴が「平家物語」を引用していたら、当時の平家物語の解説や注釈をさがさなくてはいけないし、あるいは、「平家物語」ではなく、平家物語を題材とした謡曲の一部分を西鶴は読んでいたのではないかということを調べなければなりません。
 当時の辞書しか使ってはいけない、当時のその語の用例を見つけなさい、としつこく繰り返すのは、そのような理由からです。
  

4 語釈は結局、現代語訳を完璧にするためのものです。

 ひとつひとつの語の意味や、内容や背景を詳しく調べるのは、それを用いて原文を正しく理解するためです。演習の場合、具体的には、それを用いて現代語訳を完成させるためです。
 この因果関係がのみこめないままで演習に取り組む人がよくいます。
 大変ていねいに、一つの言葉を、昔の辞書や文献を用いて調べて、その意味を追求している。そして、ほぼ正しい意味をつかんでいる。ところが、全体の現代語訳では、それが全然生かされていません。むしろ、語釈では否定した、誤った意味の方を使って現代語訳をしています。
 これは困ります。せっかく大変な手間暇かけて、その語の意味をある程度正しくつかんだのですから、それは充分に活用していただかないと。

5 間違いがはっきりわかる現代語訳をして下さい。

 たとえば、次のような文章を現代語訳するとします。
  
 長崎にては蕃椒を称してとう胡椒といふこの意はかの地には唐船多く入津するを以豊年とすれば唐をからすのひびきを忌にて斯は申とぞ
  
Aさんの訳
 長崎では蕃椒を称してとう胡椒と言う。この意は、かの地には唐船が多く入津するをもって豊年とするので、唐をからすのひびきをいやがってこう言うということだよ。  
  
Bさんの訳
 長崎では「蕃椒」のことを「とうこしょう」という名前で呼んでいる。それはどういう気持ちがこもっているかというと、長崎という土地では、中国の船(唐船)がたくさん入港する年は豊年であるということになっているので、「唐がらし」というと、唐船を枯らす、つまり唐の船を来なくしてしまって豊年でなくなるような言い方に聞こえるのが縁起がよくないといって嫌って、「からし」の語をさけて、このように「唐こしょう」というのだそうだよ。
  
Cさんの訳
 長崎では蕃椒のことを、とっくの昔から胡椒と呼んでいた。その意味は長崎のかのという土地には唐の船が多く、これらが港にいる間はずっと豊年になるので、唐に親近感があって、唐人が嫌うカラスが鳴くのをさけるため昔から胡椒を植えていたので、蕃椒という日本の名が定着しなかったからだよ。
  
 もちろんBさんがほぼ正解です。Cさんは大間違いです。問題なのはAさんの訳で、これでは間違って解釈しているのか、わかっているのかいないのか、見てもわからないので点がひけません。だからここ一番の試験の時などには有利かもしれません。予備校の先生ならこういう解答を教えるし、予備校ならそれが正しいでしょう。
 しかし、演習でこれはやめて下さい。まちがいがわからないから、質問も指摘も訂正もできません。結局本人も周囲も成長できません。教える方も、どこがまちがいやすいかとかがわからないままなので成長できません。これほど皆の時間を無駄にし、自分の能力もなまらせるものはありません。
    
 Cさんの解答はめちゃくちゃです。多分笑われるし、多分いい点をもらえない。でも演習としてはAさんの解答よりずっと正しい。「いったいこの文章は何を言っているのか」「結局どういう意味なのか」と考えつめて選択しているからです。この姿勢がなかったら、いくらたくさん文章を読んでも本を読んでもちっとも力はつきません。それどころか、「ああか、こうか」と考えつめる力を忘れ、何でもあいまいに無難な解答で間に合わせ、適当にごまかしてその場しのぎをする癖がついてしまいます。これが積もり積もったら、どんどん頭も心も退化してしまいます。
 Bさんになれないなら、せめてCさんになって下さい。Aさんにだけはならないように。それが演習の基本です。
    
 ある授業でこう言ったら学生のレポートで、「入学試験はAさんのような人でないと合格できない。入ってからそれがいけないと言われても」みたいに嘆いていました(この通りではありません)。まったくその通りで、これは世の中のよくないところです。何とかしないといけません。
 ただ、とりあえず言えることは、そういう世の中を生きる自衛手段としてでも、よほどせっぱつまった時でなければAさんにはならないように。それは「指輪物語」の指輪をはめるようなもので、楽で、姿をかくして逃げられるかもしれませんが、それがやがて指からはずせなくなり、ゴクリだかゴムリだか知りませんが何ともみじめな生き物になってしまいます。
  
      
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