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タ−ザンはご承知のとおり、小説から生まれたヒ−ロ−である。エドガ−・ライス・バロ−ズという作家が一九一四年、書き下ろし小説として発表した『タ−ザン・オブ・ザ・エイプス(類猿人タ−ザン)』の主人公だ。
貴族の血を引きながらアフリカのジャングルでゴリラに育てられるという呪われた生い立ちを持つ青年、タ−ザンの物語はたちまちのうちにベストセラ−となり、バロ−ズはその後三十二年間に二十六冊ものタ−ザンものを書き、それらは五十六ケ国語に訳され、三千万部以上の売り上げを記録している。世界じゅうに数え切れないほどの冒険小説のヒ−ロ−がいるが、このタ−ザンほど広く、長く愛された主人公はいない。
それは、われわれ読者が本能的に持っている、野生への回帰願望をこのタ−ザンがかなえてくれるからだろう。バットマンもスパイダ−マンも、未来の科学力によってス−パ−・ヒ−ロ−となった主人公だ。これは仮面ライダ−やウルトラマンという日本のヒ−ロ−も同じことである。ひとりタ−ザンのみが、失われた野生の力、大自然がはぐくんだ力によってス−パ−・ヒ−ロ−となった人物なのである。
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だが、なんとすばらしい少年だろう!
かれは幼児のころから、巨大な母親(育ての親の類猿人カラ)のまねをして枝にぶらさがりながら、枝から枝へ飛び移ることを憶えた。そして成長するにつれて、仲間の子供たちと一緒に毎日何時間も木のてっぺんを飛び回って遊ぶようになった。
かれは木のてっぺんの目まいがするほどの高度で二十フィ−トぐらい空中を飛び、暴風雨が接近して激しくゆれ動く大枝に、軽々と、狙いどおり正確につかまることができた。
また、枝からまっすぐ二十フィ−トも下の枝へ落下して、すばやく地上へ降りることや、空高く屹立(きつりつ)した熱帯の巨木の頂上まで、リスのような速さでらくらくと登ることもできた。
十歳ではあったが、かれは普通の三十歳の男と同じ程度の力があり、もっとも優秀な陸上競技選手よりももっと敏捷だった。しかもかれの力は日ましにまして行った。
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彼女の上にあるその顔は、たとえようもなく美しかった。肉欲的な、あるいは堕落した感情に汚されない、たくましい男性美の典型であった。
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半ば閉じた瞼(まぶた)の間からかれを見ていると、かれは小さな広場を横切って向こう側の樹木の壁の方へ行った。堂々とした足どり、すばらしい体躯(たいく)の完全なシンメトリ−、広い肩の上の形のいい頭の構え方。立派だわ!あんな神のような姿の内面に、残酷なものや卑劣なものがあるはずがない。神がはじめて自分の姿に似せた人間を創ったとき以来、このような男が地球上を闊歩(かっぽ)したことはなかったにちがいないと、彼女は思った。
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この二年間に、マウグリは、すっかり大きくなってしまったのだ。明るい光と、きよらかな空気の中で、自由に力強く、のびのびと生きてきたかれは、ふつうの人間社会の少年よりも、ずっと大きく、たくましい体格になっていた。
かれは、若い雄じかが早がけをしているのを、角をつかんでひきとめることもできた。巨大な青いのししのあと足を、片手でつかんで投げとばすこともできた。すばらしい怪力だった。(略)
かれは、もうりっぱな、密林の巨人だった。そのかれが、岩をきざんだような、がっちりとたくましい肉体に、肩までたれたうるしの黒髪に、色美しい野の花の冠をいただき、大きくあつい胸にきらめく短剣をぶらさげて、小さな土製のランプの光をあびて、すっくと立ったそのすがたは、人間というよりも、森の男神があらわれたように思われて、メスワアは、のばしていた手を、そうっとひっこめてしまった。
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しかし、美しい色や形や、魅惑的な変化の美よりも一そう目立つのは、少女の知的な表情だった。
しかも、水際だった少女の知性美は、ふつう、人間にはまれで、ことにインテリには皆無といっていい、あの野性の動物に特有の、何物をも聞き洩らさず、見のがさない、油断のない敏捷さと、渾然と一つになって備わっていた。
しかし、考えてみれば、彼女は、一人ぼっちの野性の少女で、ぼくが話しかけた土人語さえ理解できなかった。
こんな彼女が、やはり同じような生き方をしている野性の動物どもより、どうして優れた内面生活を持つことが出来るはずがあろう?
そう思って見直しても、やはり彼女のきわ立った知性を否むことはできず、しかもふつう人間には決して両立しない、動物的敏捷さと、知性との、この相反する二つの特性が、彼女の中では一つに融合していることが、少女の一番大きな魅力で、もっとも強くぼくをうった。
自然は、なぜ、他のものにはこうしなかったのだろう?――なぜ、ほかの人間にあっては、精神的なかがやきが、野性の動物のもつあの美しい肉体的なかがやきを消し、鈍らせているのだろう?
しかし、ぼくにとっては、現にいまここに、かつて人間の誰もが探し得なかった、野性のかがやきの中に、文明人の特長である知性美を燦然(さんぜん)とかがやかせている一人の少女が存在(い)るということが、なんと大きな満足であったことだろう。
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たしかに中世ロマンスにおいても、森はしばしば「場」として用いられた。しかしたとえばア−サ−王と円卓の騎士は、しょせん王城を中心とした宮廷人であり、森は危険をはらんだ無法地帯にすぎなかった。ところが、ロビンにとっては、現実の縮図である宮廷と対照的な「快い場所」(locus amoenus)理想郷(ユ−トピア)が森なのである。ロビンの住む森は、緑したたる常春で陽光がふりそそいでいる。冬もなければ雨も降らず、危険な動物が出没することもなければ、仲間同士の争いもない、まさに理想化された場に想定されている。森の生活につきものの不便さを指摘するのは、森に一晩泊まる羽目になった代官だけである(一九八連)。(略)このように、森と宮廷、自然と人工とを対峙させた『ロビン・フッドの武勲』は、牧歌の構図を内包するといえよう。
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こうした牧歌性こそ、ロビン・フッド伝説の中核を形づくっているのである。中世からルネサンスをへてロマン派の時代にいたるまで、ロビンがヒ−ロ−の地位を保ちえたのも、常春の森に住みたいという、人間に内具する自然憧憬と決して無縁ではない。権力闘争の渦まく宮廷にすむ王侯貴族も、生活のくびきにうちひしがれた民衆も緑の森で波瀾万丈の冒険を繰りひろげるロビンに、かなわぬ夢を仮託したのではなかろうか。二十世紀末の都塵に生きる私たちに『武勲』がなお訴えかけるとすれば、普遍的な人間の希求、つまり失われた自然への憧れや、現実には達成しえない冒険を、みごとに具現しているからにほかならない。バ−ンズデイルの森は、人びとの心の原郷なのである。森に住むアウトロ−で騎士のロビンは、時代や階層の違いをこえて、人びとの心の琴線にふれるものを持ちつづけてきたのである。
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ロビン・フッドに似た義賊は、古今東西を問わず、このようにあまねく見いだされる。こうした義賊の類話のなかで、ロビン伝説に固有の特色がある。ほかでもない、シャ−ウッドの森というトポスである。ロビン伝説の「牧歌性」といってもよい。これこそがロビンを、多くの盗賊のなかで時空をこえたス−パ−ヒ−ロ−に仕立てた要因なのだ。ロビンは、街を徘徊するヤクザや都会のギャングとはちがって、森という自然界に息づくヒ−ロ−なのである。(後略)
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もうひとりは、インディアンとまちがえられそうな、粗末な身なりをしていたが、顔は白かった。もっとも、日に焼けて、長い間に色がくすんでしまっていた。それでも、ヨ−ロッパ人の子孫だということはわかった。(略)
白人のほうは、体が服から出ているところから見ると、ごく若いときから苦労や労働を経験した人のようであった。逞しい体ではあったが、どちらかといえば、痩せぎみだった。しかも、筋や筋肉は、たえず労苦にさらされてきたので、固くひきしまっていた。色あせた黄色の縁飾りのついた、森の緑のような色の狩猟服を着、毛を刈り取った、夏用の皮の帽子をかぶっていた。インディアンは、粗末な服に貝殻じゅずの帯をしめていたが、白人もそれと同じ帯をしめ、そこにナイフをさしていた。しかしトマホ−クは持っていなかった。はいているモカシンは、インディアン流にはなやかな飾りがつけられていた。狩猟服の下から、ほんの一部だけ下につけているものが見えたが、それはシカ皮の脚絆だった。両端にシカの腱(けん)がついていて、膝の上でしめられていた。さらに、弾入れの袋、角(つの)製の火薬入れとを持っていたが身につけているものといえばそれだけだった。
銃身のものすごく長いライフル銃が、横の若木に立てかけてあった。その銃は、かしこい白人が考えだしたもので、あらゆる銃の中でもっとも恐ろしいものであった。 白人は、猟師といっても斥候といってもよかったが、その小さな目は、敏感に鋭くたえず動いていた。話しながらも、あたりに目をくばっていた。まるで獲物を求めているか、隠れている敵が、ふいに襲いかかってくるのではないかと心配しているみたいだった。白人は、たえずそのように注意を払っていたが、その表情には、少しも狡猾なところがなかった。そればかりか、人に紹介されたりすると、一徹なほど正直な表情をたたえた。
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ホ−クアイは、この辺に住んでいるインディアンのように、一種の直感によって、他のものには目に入らない道標を捜しだしては、その荒れはてた道をたどっているようだった。
スピ−ドはほとんど落ちなかったし、立ちどまって考えこむこともなかった。木に生えているコケを横目でちらっと見たり、沈みかけている太陽をときたまじっと見あげたり、無数の川を渡りながら、落ち着いて川がどちらへ流れているのか、ざっとたしかめたりしながら、どちらへ行ったらいいか決めていた。それだけで、いちばんむずかしい問題を解決していたのだ。
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チンガチクックは静かな目で冷ややかに、弾が打ちこまれた場所の方を見やった。それから、前と同じ姿勢に戻った。こんなちょっとした事件ぐらいでは、少しも動揺している様子はなかった。そのとき、アンカスが、焚火のあかりの中へすっと入ってくると、焚火のそばに腰をおろした。父親と同じように、なにごともなかったような態度をしていた。
その間、ヘイワ−ドはひどく興味をそそられ、驚きながら、ふたりのモヒカンを見守っていた。この森の住人たちは、ヘイワ−ドがいくら用心してもつかめないものを人知れずつかんでいるように思われた。もし白人の若者なら、暗い平原の中でなにがあったか、熱心にべらべらしゃべったり、大げさに報告したりするはずだが、アンカスは、そんなことはしなかった。今まで起こったことを、そのまま見てもらうだけで満足しているようだった。したがって、ヘイワ−ドがなにも聞かなかったら、アンカスは、その問題についてはもう、ひとこともしゃべらなかっただろう。
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子どもたちは、それから二度と暗やみをこわがりませんでした。――いつか私たちが九々算(くくざん)やそのほかの原理について論議していたとき、私が先生に申しあげたように、恐れというものは、たいてい無知からくるんでございます。一度、そのことがわかってしまえば、もうこわくはないものです。ふたりの子どもたちも、暗やみがどんなものかわかったのです。――夜は、もう、まるで昼間と同じようなものだということが、わかったのです。(略)
やみの中で見るのは、まったく訓練ひとつです。――ピアノなんかと同じです。
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シ−トンの「動物記」を愛読した人は多いと思う。あの本はまことに不思議な力をもつ本である。読みだすとたちまち、机の前も障子も火鉢もどこかへなくなって、身のまわりには平原を渓谷を岩山を感じる。自分は兎ではないけれど、兎と同じに耳のうらに春日のぬくもりを感じるのだし、鹿とともに追われて懸命な疾走をするのである。狼が月の谷を越えれば、こちらも月に対(むか)って吠えたくなるし、熊が木の実をたべれば私にもほっとする食後感があるのだから、不思議な力をもつのである。そして読み終ったとき、机の前に座布団を敷いている自分のすぐそこに、実に鹿がい兎がい、それらを心底(しんそこ)かわいくなっているのである。シ−トンもえらいけれど、もともと動物もそういう力をもっているのだとおもう。
私はこの本が好きなので、戦後にも読んだが、若いとき読んだのと年をとって読むのとは、おのずから感じるところがちがった。若いときは、鹿なり兎なりがあわれにも勇ましく、身にふりかかる困難をしのいで行くその事柄に感動したが、老いては物語の筋に感動するよりも、動物の姿態に感動が起きる。追われる鹿は根かぎり精かぎり跳躍するが、何メ−トルも跳ぶその肢(あし)のほそさ、その腰の筋肉のしまりかた。みごとである。そして敵を逃れた鹿は安堵してゆっくりと、清澄な空気のなかに頸(くび)をのべている。襲われた恐ろしさは、危険を脱して今もまだ心に影をおとしていよう。短い毛の密生した頸に午後の陽がさしている。私は鹿といっしょにほっとしないわけには行かないのである。兎がいる、大きな逞しい兎である。飽かず新鮮な草をたべて、もくもく口を動かしているが、彼の耳は片方がぎざぎざに形が崩れている。子供のときおかあさん兎のそばを離れたすきに襲われて、母はそのために闘って死に、彼は耳を食いちぎられたのである。だが、彼は賢く強く大きく成長した。彼は人のしかけたわなにかかることがない。人は彼に、「ぎざ耳坊主」という名をつけた。私は、彼がそのぎざぎざになった片耳を立てたりねかしたりしながら、決して迂闊に流れることなく、しかし楽しんで若草に口髭を動かしている恰好を思うと、草原の深沈とした寂寞を身に感じて彼をいとおしく思わないわけには行かないのである。シ−トンのなかの動物は、けわしい峰から広い野原から野生のままで、都会の人間である私の、貧しい茶の間へ来てくれるのである。
(幸田文『動物のぞき』 新潮社刊)
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あらゆる野蛮な習俗のうちでも、恐らくわれわれに最も恐怖と嫌悪を感じさせる食人を例にとってみよう。まずそこから、純粋に食物摂取としての形態、つまり人肉を食うという欲求がポリネシアの或る島々におけるように、他の動物性食料の欠乏によって説明される場合を除外すべきであろう。この種の渇望に対しては、どんな社会も道義的に保証されてはいない。飢餓は、人間に何でも構わず食べることを余儀なくさせる。最近の皆殺し収容所の例が、それを証拠立てている。
そこで残るのは、「積極的」と形容することのできる神秘的、呪術的あるいは宗教的な理由に基づく食人の諸形態である。例えば、死者の徳を身に着け、またさらには死者の力を無力にするための、親や祖先の体の一部や敵の死体の一片の嚥下(えんか)。(略)食人に対する非難が含んでいるのは、物としての死体の毀損(きそん)によって危うくされる肉体の甦りへの信仰か、あるいは、霊魂と肉体の結び付きの肯定とそれに対応する二元論である。つまり、非難が立脚しているこれらの信念は、儀礼的な食人を行う名目となる信念と同じ性質のものなのであるから、われわれが食人よりもこちらを選ぶ理由はないということを人は認めるであろう。(後略)
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次に目につくのは、首が前に突きだし、背骨が人間ばなれした形に曲がっている点である。猿男の背中でさえ、人間の姿を優美に見せる背中の内むきのそりとは無縁だった。たいていの者は、肩を不格好にまるめ、短い腕をだらりと脇にたらしていた。目立って毛深い者はほとんどいなかった。――すくなくとも、わたしが島を出るまではそうだった。
次に顕著な奇形は顔面に見られる。ほぼ全員の顎(あご)が突きだし、耳のあたりがいびつな形になっている。大きな鼻は飛びだしており、頭には剛毛(ごうもう)が密生している。目は色がおかしかったり、ついている位置がおかしかったりした。猿男がキキキと笑うのを例外として、獣人たちは笑うことができなかった。以上は一般的な特徴だが、それをのぞけば彼らの頭部に共通点はほとんどなかった。それぞれが個々の種の特徴を色濃く残していた。人間らしく変形されていても、豹、牛、豚といった元の動物らしさは隠せないのである。声も多種多様だった。手は決まって奇形だった。驚くほど人間そっくりの外見をしている者もいたが、満足に五本の指を持つ者は皆無に等しく、爪もまた不格好で、触覚も備わっていなかった。
動物人間のなかでもっとも身の毛がよだつのは、豹人間と、ハイエナと豚をあわせた生きものだった。このふたりより大柄なのがボ−トを引きあげた三人の牡牛人間。ついで銀髪の「掟を唱える者」、ム・リン、猿と山羊をあわせたサチュロスのような生きもの。このほかに、三人の豚男とひとりの豚女、馬犀(うまさい)人間、元がわからない数人の女。さらに数名の狼人間、熊牛、セントバ−ナ−ド人間がいた。猿男のことはすでに書いた。とりわけいやらしい(しかも鼻が曲がりそうなほど臭い)のが、雌狐と熊をあわせた老女で、わたしははなから毛嫌いしていた。彼女は「掟」の熱心な信奉者だといわれていた。もっと小柄なのは、斑模様の若いやつらや、例のナマケモノ人間などだった。(後略)
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