代筆をする前に

学生の皆さんへ

  
 「学生の意見を授業に反映させろ」ということが最近ではよく言われます。そこで出席をとるのをかねて、授業の終わりに小さい紙を配って学生に感想や質問を書いてもらう先生が増えています。私もそうしています。
 何を書いたからいいとか悪いとかいうことはありません。「あれ、こんな風にまちがって理解したのか」「ここはわかりにくかったか」「こんなことも知らなかったのか」など、こちらが次に工夫するところがわかって助かります。私は個人的には、授業がよかったとか悪かったとかいう評価はいりません。質問や要望が書いてあった方がありがたい。  
 ところが時たま、これが出席点として重要と思うらしくて、代返ならぬ代筆をする学生がいます。配布される紙を余分にもらっておいて、友だちの分まで書くのです。  
 私はかなり不親切な先生ですから、こんな人たちにわざわざ注意もしたくないから放っていたのですが、最近他の先生もこれに気づいて怒っておられたし、一応このことについての私の感想を述べておくことにします。
  
 代返と同じく代筆も、特に大人数の授業になれば完全に防ぐことはできません。第一私はそんなことに労力をさきたくありません。感想を書いてもらうのは、授業の改善の参考にしたいからで出席の確認はそのついでです。
 この大学は出席がやかましいのですが、私は自分の授業では何回欠席したら試験は受けられないというような、厳しいチェックはしていません。欠席が多ければ、普通の人ならそれだけ最後の試験なりレポートなりの質は自然に下がります。落ちる可能性も高くなります。それだけのことです。  
 名前を呼んで出席をとったり、紙を配って感想を書かせたりすると、何となく不安になって出席したくなる人がいるなら、それもよいだろうと思っています。しかし、それは不安になって出てくるのがいいので、他人に代返や代筆をしてもらっても、少なくとも私の授業に関しては何の成果もありません。
   
 ついでに言うと出席したからいいってもんでもありません。寝たり他のことをしたりしゃべったりメールしたりしていたら、出席しないも同じです。しかしまあ、とにかく出席しないことには、まじめに授業を聞いて何かを得る可能性は皆無なわけですから、まずは出席しないことにはやっぱり話になりません。
 私はそもそも日常生活でも「顔を出しておかなければ」という発想は大嫌いです。「同じ意見の者どうしが会って、いっしょに話をしていなければ不安になる」という思想集団・宗教集団も苦手です。ちがう意見や趣味の人といっしょにいる方がくつろげるし、親友や家族とは何年会っていなくても別に気まずくありません。「出席率がいい」ということばは、言うのも言われるのも身震いするほど嫌いです。   
 だから、とにかく顔を見せておけば何とかなるだろうという態度は不愉快です。顔を見せないでちゃんとするべきことをしてくれているのが、実は理想です。しかし、そんなことはすべて私の趣味で、世間にはあまり通用しないようだし、大抵の場合顔を見せないでいると、するべきことをしないままになる人が多い。そのくらいなら、とりあえず、授業に顔を出して下さい。
   
 私は名前を呼ぶ出席はほとんどとったことがないので、代返の功罪については知りません。しかし代筆については、特に頼まれて他人の分まで書く人には、相当の被害があると思っています。以下にそれを述べます。
   
 まず、短い時間に自分の意見をまとめたり、感じたことを表現したりするのは大変な作業です。それを人の分までやれる、二人分書けると思うその思い上がりが、よい結果を生みません。何でもそうですが、文章をなめてかかると必ずしっぺがえしが来ます。多分皆さんは高校や塾で、小論文の書き方などを練習して、短時間で読みとったり無難なまとめ方をする技術を身につけて来られたのでしょうが、それは下手に使いつづけると、ろくなことにはなりません。
  
 実は、筆跡を確かめなくても見ただけで、代筆をした文章はわかります。のぺっとしていて書き手の顔がない。レポートを集めて目を通していて、こういう、何だか触るのも手が汚れそうな、ぬめっ、ぬれっとした文章にぶつかると、思わず手から振るい落としたくなります。上手下手の問題ではないし、長い短いでもありません。安易に人に成り代わって、何か書いておきゃいいんだろ、という気持ちで書いた文章はそうなるのです。そこで捨てるわけにも行かないから、持って帰りますが二度と読む気がしません。それほど気持ちが悪い、のっぺらぼうの文章になっています。こういうものを二度三度書くと、頭の中までのっぺらぼうになりますよ。
 
 それは、積り積もって、一番近いところでは卒論の文章にあらわれます。きちんと自分の感じたことをとらえ、考えたことを表現する訓練を毎日しつづけていても、この能力はなまります。それを、何も考えないで、「とりあえず何か書いておく」ということを週に一回するだけでも、脳細胞は退化して崩壊します。一度に少しづつでも重なるとバカにならない。しかももともとまだ多分それほど大きくもなく固まってもいない脳で、そういうことをくりかえすというのは、私に言わせれば大胆にも程がある。   
  
 いや、それなら友だちの分も書いて、人の二倍の量を同じ時間に書く訓練をして、脳をきたえて腕を磨こうと考える人もいるかもしれません。特に文章力や思考力に自信のある人なら。私のこんな文章読んだら刺激されて、ファイトがわいて。
 まあ、のぺっと無気力に書き流しているよりは何か成果があるかもしれませんが、それも相当危険です。
 人に代わって文章を書かなきゃならない場合はさまざまあります。暦屋おさんや、シラノ・ド・ベルジュラックは他人に代わって恋文を書いた。作家は何人分の人間の気持ちになって思いをつづるし、俳優も他人になって演技をする。
  
 それは、大なり小なり皆危険なことで、狂気です。毒や麻薬に精神をさらすことです。何より強靭な自己がなければ、自分が何者か見失います。そして自意識過剰、誇大妄想、被害妄想、自己憐憫、自己嫌悪、その他もろもろの穴ぼこに落っこちる。
 はっきり落っこちてしまえば、まだわかるからいいけれど、わからないまま、中途半端にゆがんだままで、自分が何者かわからないまま、ずるずる成長して社会人になり人の親になり上司になり、けっこうなエリートにもなるかもしれないから恐い。   
 
 顔も姿も肩書も見えないで文章だけで勝負する世界というと、インターネットが思い浮かびますが、ここでいろんなサイトの掲示板などを見ていると、時々大変非常識な人がいる。これだけインターネットの人口が多い中で、この程度でおさまっているのは立派なことだと逆に感心もしますが、それだけにそういう人の奇妙さは目立ちます。
 こういう人たちの特徴はいくつかあって、その一つは多分自分では文章はうまいと思っているらしいことです。そして、知識も豊富で、魅力もあると自負していることです。だから、なぜ、それにふさわしい評価や賞賛が与えられないのかわからずに、それを得ようと見当違いな努力を重ねる。  
 
 見ていると、この人たちは、絶対に自分と正面から向き合わない。自分が何者か知ろうとしない。文章の技術や知識を重ねあわせていくことで、自分が何者かを見まいとし、見せまいとしている。
 もしも、この人たちに何か特別な能力や美貌やその他の魅力があれば、その不完全さも不安定さも許されるでしょうし、あるいは誰かが手を貸してその人を自分と向き合わせてくれるでしょう。
 けれど、そういう人たちは大抵の場合、基本的には平凡で他人の興味をひくほどの存在ではないから、そこまでかまってくれる人はいません。   
   
 おまえに他人のことが言えるのかと言われれば、それはまことにその通りで、私もこういう人たちの一人かもしれないといつも思っています。   
 ですが、それだけに、このような人たちが、私に自分の存在をアピールし、自分探しの手伝いや、探さなくても幸福でいられる手伝いをしてもらいたそうな態度をとると私は相手をまちがえてるだろと言いたくなるのです。特にその人が立派な大人だったり、たかがネットでのおつきあいであったりしたら。ぶっちゃけた話、その人に私がかまいたくなるような内面であれ外見であれ、何かの魅力がなかったら。
   
 そもそも私に迫るのに、私が関心や興味を持つほどの自分かどうか判断できないこと自体、自分を知らない、見つめていないとしか、もう言いようがないわけで。
 酔っぱらったようなことしゃべってますが、結局そういうことが判断できなかった男や女がストーカーになって愛した相手を殺したりするわけです。そんなことにならないためにも、自分をしっかり見なければならない。誰の手も借りずにたった一人で。それを見きわめるために、文章やことばは使うべきです。それから逃げて、ごまかすために使うもんじゃない。そして、自分をしっかり見つめる勇気すら持てないものが、かりにも他人のふりして文章書いてみようなんて考えるのは、イラクに下駄履きで出かけるより何十倍も危険です。  
 
 たとえば、自分を見つめる勇気がない時に、他人のふりして他人になって文章を書いてみるとか、そういうのは効果があります。そういうように使うのはいい。でもそれは、あくまで一人でやるものです。そんな姿を他人に見せるなんて、これまた危険きわまりない。
 
 他人に文章で何か言おうと思うなら、その数倍の文章を一人で書いておくべきです。他人に何かを話そうと思うなら、その数十倍のことを一人で考えておくべきです。たとえ、どんなにバカなことでも。
    
 文章やことばとは、そういうものです。ファンタジー文学に出てくる、武器や魔術や薬と同じで、使い方を知ればものすごく役に立つけれど、使い方をまちがえると危険だし命とりです。真剣につきあっておかないと、逆に支配されます。なめてると、いいことはありません。   
 たかが代筆、と思うでしょうが、自分の書く文章がどんなに生気がなく心がこもらず上滑りで薄っぺらか、出す前にもう一度見てごらんなさい。そんな文章を書いている精神が、好きな人に気持ちを打ち明けたり、交渉相手を説得したり、敵を論破したり、大切なことを懇願したり、自分の状況を世間に訴えたり、誰かを慰めたり傷つけたりする文章を書けるかどうか、よく考えて見て下さい。
 文章やことばを甘く見るということは、世の中を甘く見るということです。文章やことばを粗末にするということは、自分に誇りを持たないことです。最初に言ったように私は、そういうことをする人たちに、自分が何か言う義務はないと思っています。ただ、自分でまいた種は自分で刈って下さい。世間をなめて自分を粗末にしたからといって、その結果、自分を表現することばをなくしてしまったからと言って、親や教師や友人や、ましてや赤の他人にその後始末を期待するのはおかどちがいというものです。
   
 だから代筆を頼まれたら、断りなさい。先輩や義理ある相手なら、書いたふりして出さずにおきなさい。それか、私の授業に関する限り、そんなことしたら二人とも欠席扱いになるだろうと言いなさい。
 他人に代筆を頼むのはやめなさい。自分の名で誰かが文章を書いているのなど、それが自分の文章としてまかりとおるなど、許しがたいと感じなさい。そういうことを感じられなくなっている自分はすでにどこか、退化しはじめていると自覚しなさい。そういうことには耐えられないという感覚を持った人たちが世間にはかなり多くいて、すぐれたものを生み出すのはわりとそういう人たちで、そういう人たちとあなたは、この先どんどん理解しあえなくなるかもしれないと思って下さい。私も含めてそんな人たちは、そんなことを普通口には出さないし、あなたに話を合わせてくれるかもしれないけれど、だからと言ってそんなことは何の救いにもならないことを知っておきなさい。
   
 多分もうこのことについて、私は二度と話しません。