「文学概論」第10回
小説の中の小説
−文学を読んだ人々−

1 読書三昧

 少し前のことになるが、スティヴン・キングのホラ−小説で「ミザリー」というのがあった。流行作家の大ヒット小説「ミザリー」を読んで、女主人公ミザリーの熱狂的なファンになった中年女性が、自分の好むような内容の続編を書かせようと作家を監禁して脅迫するという内容で、映画にもなり、キャシー・ベイツの迫力ある演技が評判だった。
 映画好きで、たまに会うと一緒に話題作などを見ることにしている友人が、私との待ち合わせの間に本屋でこの本を立ち読みして、つい全部読んでしまい「すごかった。この映画を見るのは私は絶対いやだからね」と、会ったのっけから私に駄目を押したため、この映画を私は映画館では見ていない。後でビデオで見て、まあ面白かったのだが、少し気になって、いま一つ怖さが迫らなかったのは、こういう狂信的なファンの人というのは、小説の中の人物を愛するか、書いた作者を愛するか、どっちかじゃないのかな、このファンの女性の頭の中で、作者と作品世界との関係はどういう感じになってるのかなということだった。原作を読んでも、この疑問は消えなかった。
 それを除けば私はこのような熱狂的なファン心理は、けっこう現実に近いものがあるだろうと思う。あまり誇張されているとは思わない。たとえば、T・イーグルトン「クラリッサの凌辱」(岩波モダンクラシックス 大橋洋一訳)が分析している、十八世紀のイギリス作家リチャードソンが書いた小説「パメラ」や「クラリッサ」は女性たちに大変な人気を博した。「ミザリー」と同じにヒロインの名がそのまま小説の題名となっている、これらの小説は大衆的な俗悪で退屈な作品といった批判も多く、「クラリッサ」などは「失われた時を求めて」以上という長さのせいもあって、まだ日本では翻訳されたことがないのだそうな。それも何だかすごいと思うが。
 イーグルトンは「クラリッサ」をそれなりに評価している。筑摩書房から出ている「文学論集」所収のディドロ「リチャードソン頌」も、その作品が読者をとらえる魅力について、やや微笑ましいといった調子で紹介しており、ディドロの知り合いで、もともとは仲よしだった二人の夫人が、「クラリッサ」のことで絶交し、仲直りさせようとしたディドロに対して一人がよこした手紙を引用している。

 私は、このクラリッサにすっかりまいってしまっている女性に向かって手紙を書い た。つぎに掲げるのは彼女の返事の若干の個所である。
「……『あの女(ひと)は、父親の呪いに絶望したこの女の子(クラリッサのこと)を見て笑っている』ですって!あの女(ひと)は笑っています。それでいてひとの母 なんです。私はこの女(ひと)はけっして私の友達であることはできないとあなたに 申しあげます。私はあの女がかつて私の友達であったことを恥じています。……
「『あの女(ひと)の意見では、クラリッサの才知は文章を綴ることにあり、彼女が 二、三の文章を作ることができたら、それで彼女は慰められるのだそうです』。打ち わって申しますが、そんなふうに感じ、そんなふうに考えるのは、とんでもない罵言 でございます。そうです、とんでもない罵言で、あの娘(こ)(クラリッサ)がそん な罵言を浴びるくらいなら、私は自分の娘が私の腕の中で即刻死んだ方がましでござ います。自分の娘!……そうです、私はあの娘(こ)のことを考えました。が私はいま申したことを取り消しはいたしません。

 好きな作中人物が悪く言われるぐらいなら現実の自分の娘が腕の中で死んだ方がまだいい、と言ってしまった後で「自分の娘!」と愕然としてあらためて愛している娘のことを考えながら、しかし「今言ったことを取り消す気はない」と、この夫人は言うのである。
         ◇
 たかが架空の世界、たかが作り話の何が、そのように彼女たちをひきつけるのだろう。「更級日記」の作者が十代の幼い少女だった頃の日々を追想して記した次の描写は、今日の読書好きな人が読んでも、まったく何の異和感も感じないだろうほど生き生きと、本を読むということの魅力と魔力とを描きだしている。

 はしるはしる、わづかに見つつ、心も得ず心もとなく思ふ源氏を一の巻よりして、 人もまじらず、几帳の内にうち臥してひき出でつつ見る心地、后のくらひも何にかは せむ。昼は日ぐらし、夜は目のさめたるかぎり、火を近くともして、これを見るより ほかの事なければ、をのづからなどは、空におぼえ浮かぶを、いみじきことに思ふに 夢にいと清げなる僧の、黄なる地の袈裟着たるが来て、「法華経五巻をとくならへ」 といふと見れど、人にも語らず、ならはむとも思ひかけず、物語の事をのみ心にしめ て、われはこのごろわろきぞかし、盛りにならば、容貌(かたち)もかぎりなくよく 髪もいみじく長くなりなむ。光るの源氏の夕顔、宇治の大将の浮舟の女君のやうにこ そあらめと思ひける心、まづいとはかなくあさまし。

 またギッシング「ヘンリ・ライクロフトの私記」の主人公は書物に対する愛情について長い述懐をおこなっている。

 自分の本よりも図書館から借りだした本でよんだ方が書物はよめるという人がいる のも私は知っている。だがこれは私には理解できないことだ。たとえば、私は香をか いだだけで自分の本の一冊一冊がすぐ分かるのである。ただ鼻先をページの中につっ こんだだけで、私にはすべてのことがぴーんとくるのだ。愛蔵しているギボン、つま り装釘(そうてい)のしっかりした八冊本のミルマン版ギボンなどは三十年以上も読 みつづけてきたものだが、それを開けるとたちまちそのゆかしいページの香が、始め てこれを賞品として貰ったときのあの天にも昇る喜びをまざまざと私の心によみがえ らせてくれるのである。(略)
 私は本の陳列台の前や本屋のショー・ウィンドーの前にたち、知的欲望と生理的欲 求の板ばさみに幾度苦しんだことであろう。胃袋は食物を求めてうなっていようとい う食事時間に、ある一冊の本の姿に私の足はクギ付けにされたこともあったのだ。そ の本は長いこと探し求めていたもので、また実に手頃な値段がついていた。どんなこ とがあっても見のがしておくわけにはゆかなかった。しかし、それを買えばみすみす 飢えに苦しむことは見えすいていた。(略)六ペンスの値段だった。実に六ペンス! (略)それだけあれば、一皿の肉と野菜が食べられるはずであった。(略)ポケット の銅貨を指先で数えながら、店頭を見つめながら、私の内部に争う二つの欲望に苦し みつつ舗道の上をうろうろ歩いた。結局その本は手に入れた。そして家にもって帰っ た。バタつきのパンでどうにか正餐のかっこうをつけながら、私はむさぼるようにペ ージをめくった。

 ウェブスター「あしながおじさん」の主人公ジルーシャ・アボットも、読書三昧の楽しみを次のように表現している。

早く夕方にならないかなあって、一日中首を長くして待っています。夕方になると、 「勉強中」というふだを戸にぶら下げて、とても着心地のいい赤い湯上りを着て、羽 毛でふわふわしたスリッパーをはいて、寝台の背の後に、ありったけのクッションを もたせかけて、肱のわきに真鍮の学生用スタンドをつけてから、読んで読んで、読み まくるの。一冊くらいじゃ物足りなくて、同時に四冊も平行して読んでいます。今の ところ、テニスンの詩集と「虚栄の市」とキプリングの「プレイン・テールズ」と、――どうぞ笑わないで下さい――「若草物語」です。「若草物語」を知らずに大きくなった女の子は、カレジを通じて私ただ一人です。

 ただし、彼女は本好きではあるが、この場合、自分が孤児院育ちで同じ年頃の寄宿舎の女の子たちの読んでいる本をまったく読んでいなかったというので一念発起して読みまくっている事情もある。こういう、周囲の刺激も人を読書に誘う大きな要因となるだろう。ノーマン・メイラー「裸者と死者」は私が高校の頃愛読した戦争文学だが、主人公の一人の回想場面での大学生活で、彼が周囲の学生たちの文学論についていけずに「もっともっと読まなくっちゃならん」と思うのが、妙に印象的だった。

 ラッド、僕あオーデンとイシャウッドに関しちゃ、君に賛成できんな、とだれかが こたえる。
 太い、重々しい声をした、がっしりした身体つきの、黒い頭髪をした学生が発言し ている。われわれはオーデッツのものをやるべきだとおもう。オーデッツは、アメリ カで、とにかく真剣なものを書いている唯一の劇作家だ。すくなくとも、彼は普通一 般の人間の希望に根をおろしている。
 ブウウウウウ、とだれかが喚く。
 オニールやエリオットこそ唯一の劇作家だ。
 エリオットとオニールはおんなじベッドに寝る作家じゃないぞ。(笑声)
 議論は一時間つづけられる。ハーンはだまっていろんな名まえを聞いている。イプ セン、ショー、ゴルズワージーなど、いくつかの名は彼も聞いて知っている。だが、 ストリンドベルク、ハウプトマン、マーロー、ローブ・デ・ヴェガ、ウェブスター、 ピランデロの名は、一ども聞いたことがない。名まえはつぎつぎにあげられていく。 彼はもっともっと読まなくっちゃならん、と絶望的に独語をいう。

 それにしても、ジルーシャやハーンは、周囲に比べて読書量の少ないことをものすごく恥じている。こういう感覚は多分もう今の大学にはあまりあるまい。加藤周一氏は「読書術」の中で、知っている知識をひけらかしあうスノビズムもいただけないが、それに圧倒されたり卑屈になったりした結果、「あー、私そういうの知らない」「どうせ私はそんな本読んでない」と公言してはばからない「ドーセバカイズム」は、もっと何も生み出さないし始末が悪いというようなことを言っておられた。しかし、「ドーセバカイズム」だとまだ「自分は何も知らない」という恥ずかしさや恐怖からの開き直りがあるけれど、今はそもそもそういうものもない気がする。大学にないのだから、他にもあまりないだろう。これを嘆かわしいことと考える人も多いだろう。しかし、また考えて見ると「更級日記」の少女が立派な人間になるための(?)お経の勉強をほったらかして物語に読みふけり、ヘンリ・ライクロフトが身体に悪いとわかりきっていながら食事を抜いて本を買うように文学を愛して読み耽ることは、文学を書くことと同様に、しばしば健全でまっとうな生き方や社会の発展とは相いれないところもある。プラトンは自分の理想国家に詩人すなわち文学者はいらないと言った。たしかに文学は完全に調和のとれた幸福な世界では存在しないものかも知れない。
 昔、看護学校で非常勤講師として「文学」の授業を担当していた時、ときどき考えていて最後は授業で言ってしまったことがある。もし、そこの生徒たちに本当に文学の面白さを教えたら、瀕死の患者さんをほったらかしても本に読みふけってしまう、別にわざとではなくても、「もう一ページ」と思って読んでいて、はっと注射の時間を忘れたり間違えたりしてしまう危険性のある看護婦さんを作り出すことになるだろう。かと言って、どんなに面白い本でも、時間が来るとぴたっとやめて仕事をしに行ける、どんなに本に没頭していても注射の時間は絶対忘れない、という看護婦さんに皆がなってくれたら、それは理想なのだけれど、またそれでは結局文学の魅力を私は完全には教えられなかったことになるだろう。その魔力を。その狂気を。
 本を読むことは、時にははばかられることであり、時にはまた、読んでいないことが恥となる。時代により環境により、それはいろいろ変わっても、変わらないのは個人においても社会においても、文学を愛することはどこか危険な面を持つということだろう。しばしば言われてきたように、やはりそれは、一種の麻薬なのである。しかし、それを巧みに管理し飼い慣らして何らかのかたちで存在させておかなければ、個人も社会もまた別の面でゆがみ、危険になるだろう。何より、どう抑えても禁じても、文学やそれを愛する人々を、この世からなくしてしまうことは今のところ決してできないだろう。

2 ページのまわり

 これは前にどこかでエッセイに書いたことだが――誰でもそうかもしれないが、私はある本を読む時、その読んだ状況と本の内容が重なって印象に残ってしまうことがよくある。ロマン・ロランの「魅せられたる魂」は別府の近くの薄汚い暗い中華料理の店で食事を待っている間に冒頭を読んだ。だから今でも主人公の生い立ちや家庭を描いた最初の部分を読むと、暗く温かい空気と油で炒めた肉の香を感じる。中野重治の小説「むらぎも」は田舎道を走るバスの中で読んだ。社会主義運動にまきこまれていく若者たちの群像は、バスの窓の外に光っていた緑の木の葉や陽光と記憶の中で交錯する。大西巨人の「神聖喜劇」のクライマックスは博多から帰る満員の最終バスの中で薄暗い明かりをたよりに、やめられなくて夢中で読んだ。主人公が友人冬木と共に上官たちに反抗を決意する場面を読みながら、しばしば見上げたバスの天井は、走るのにつれて、ゆらゆらゆれていたのを思い出す。カミュの「異邦人」は高校の時、雪のつもった誰も居ない小さい駅のホームで読んだ。主人公が焼けつくような熱い浜辺で犯す殺人の場面は、いつも、まぶしく輝く雪の白さと、痛いほどの寒さと共に私の中によみがえる。(以前、この話を授業でしたら、一人の学生がレポートで「自分は一つの作品を何度でも読むので、その都度の周囲の状況が変わる。だから、『ページのまわり』の感覚はない」と書いてきた。それで気がついたのだが、私のこのような印象は、すべて、初めて読んだ時のみである。私も相当しつこい人間で、気に入った本はひょっとしたら百回越えるかというぐらい読み返し、ずっと後になって再版されたものを読み返す時、訳や内容が変わっていなくても、ページ移りの行が違うだけで、「何か、感じが違う」とぐれるほどだが、読み返す時の『ページのまわり』は存在しない。)
 これは最も単純な「ページのまわり」の状況だ。しかし、もっとさまざまな場合や場面をともなって、忘れられなくなる本が人にはある。本を読むことそれ自体も楽しいし、現実をそれで忘れることも楽しい。だが、現実と重なったり、ある現実の中で内容がよみがえることで、書物が一層強い印象を人に与えることもある。そこではもうその本でしかないというような、ぬきさしならない一冊やひとつの場面が存在するのだ。

突然キーファがたずねた。「ジョゼフ・コンラッドの『ロード・ジム』を読んだこと があるかね?」
 「イエッサー。読みましたが」
 「なかなか面白いじゃないか」
 「彼の作品としては最高じゃありませんか」
 「きょうの出来事に奇妙にあてはまるな」小説家は重々しく頭をめぐらして自分の 副長を見つめやった。ウィリーは礼儀ただしくそ知らぬふりをしていた。「そう思わ んかね?」
 「どんなふうにですか」
 「つまり、飛びこんではならぬときに飛びこんだのだよ。(略)さっきと同じよう に、見境もなく卑怯な真似をしたのだ。(略)そのことが生涯つきまとって離れない (略)」
       (略)
 「ゆっくりしていったらいいじゃないか、ウィリー。大丈夫だよ。おれはただ、一 生『ロード・トム』になるのかとおもうと、やりきれなくなっただけの話さ(略)」

 前にも紹介した「ケイン号の反乱」。第二次大戦中のアメリカ海軍を舞台とした戦争小説である。艦長でありながら、自分の船から逃げ出して、そのことを深く恥じている作家志望の海軍士官トム・キーファが、部下であり友人であるウィリーに自分の心境を告げるのに使うのは古いイギリス小説「ロード・ジム」だ。遭難した船を捨てて逃げたことを一生の心の傷として、二度とはそのような過ちを犯すまいとした青年士官ジムに託して、キーファは自らの思いを語る。彼自身、そのような体験の中からかつてないほど深く「ロード・ジム」の小説を理解したであろうことも推測されて複雑な効果を生んでいる。
 次は同じ第二次大戦中、対馬の日本軍部隊の、規則ずくめの奇妙な日常を描いて軍隊の本質をえぐる、大西巨人「神聖喜劇」。「中国人を生きたまま焼き殺した」と語った上官が、そのことをどう思うかという意見を無理矢理に兵士たちに言わせている時、一人の被差別部落出身の兵士が「自分は死人は随分焼いたが、人を生きたまま焼いたことはない。戦場で日本軍はそんなことをしているのか」と発言し、焼き場で働いていたことを人々の前で公言することによって、事実上、自分の出身を明らかにしたのを見て、主人公東堂太郎が強い衝撃を受ける場面である。

大前田、神山、それに南北両側の全員が計らずも橋本、鉢田の二人を遠巻にしたよう な不時の静寂のうちで、私の心の眼は、小説『破戒』の最高潮情景を追跡していた。 (略)その明治三十年代(一九〇〇年代)某年十二月朔日の午後、信州下水内(みの ち)郡飯山町の小学校高等四年級教室では、担当教師の瀬川丑松が、「皆さんが御家 へ御帰りに成りましたら何卒(どうぞ)父親(おとつ)さんや母親(おつか)さんに 私のことを話して下さい――今迄隠蔽(かく)して居たのは全く済まなかった、と言って、皆さんの前に手を突いて、斯(か)うして告白(うちあ)けたことを話して 下さい――全く、私は穢多です、調里です、不浄な人間です。許して下さい。」と詫び入りながら、並みいる生徒たちの足下、板敷の上にひざまずいている。
 だが、私の肉眼がただに見る、ここの元隠坊橋本庄次は、営庭の地面にひれ伏して いるのでもなく、誰人に許しを乞うているのでもない。直下する白日と下士官兵の環 視との真中に、橋本は、昂然と面を起こして立っている。のみならず、「日本の戦争 はそげなあってあられんごたあるめずらしいことをしよるとでありますか。」と橋本 は、虐殺者大前田とその背後の国家権力とを二つ合わせて田楽刺しにもせんず勢いの 批判的一突きをさえ試みたではないか。
    (略)
 私の魂は、わななくほどに感動していた。「社会外の社会」部落の出身者が「社会 外の社会」軍隊で現今一般にどのような立場に置かれているにもせよ、橋本の行ない は一個の小さからぬ勇気と決断とを必要とする「破戒」でなければならなかったと私 に信ぜられる。そこに至る橋本があわただしく通過したであろう内部葛藤の種種相を 私がいたずらに臆断することはできない。ただ私は、そのとき橋本の面貌から生色が 一挙に消え失せるのを私がまさしく見た、と証言することができるだけである。

 主人公のインテリ青年がここで島崎藤村の名作「破戒」を思い出すのは、きわめて自然である。しかも、現実の部落民橋本の行動は、小説「破戒」が描いたような卑屈なものではなかった。小説の場面と橋本の行動を重ねることで、その行動をとることがいかに重大な恐怖と苦痛の克服であるかを読者に伝えながら、また一方で両者の違いを描くことで、作者は橋本の行動を二重に感動的なものにしている。
         ◇
 あと二つだけ、例をあげよう。
 フランス革命を題材にしたヴィクトル・ユーゴーの長編小説「九十三年」に次のような場面がある。革命後のフランスへ反革命の反乱を起こすため、ひそかに上陸した老貴族ラントナック(私はフランス革命は強く支持するのだが、しかし、反革命だろうと貴族だろうと、最初に読んだ時以来、この冷たくて強いおじいさんが大好きだった)が、身をひそめている村の丘から見る情景を描いている。

 見ていると、この鐘つき場は、ひらいたりとじたりしているようだった。一定の間 をおいて、その高い窓がまるきり白くなるかと思うと、つぎにはまったく黒くなって いる。鐘つき場をすかして向こうの空が見えるかと思うと、すぐまた見えなくなって しまう。(略)
 彼は地平線の上に立っている鐘楼を、つぎつぎにながめていった。左手のクールテ ィ、プレセ、クロロン、ラ・クロワ・ザヴランシャンから、右手のラズ・シュール・ クーエノン、モルドレ、レ・パヘ、そして正面のポントルソンと、すべての鐘楼に目 をこらしてみた。やはり、どの鐘楼も、交互に黒くなったり白くなったりしていた。
 いったい、これはどういうことなのだろう?
 つまり、どの鐘も揺れ動いているということだった。
 しかも、あのように鐘が現われたり隠れたりしているのだから、きっと、ものすご く揺り動かされているにちがいないのだ。
 これはいったいどうしたというのだ?いうまでもなく、警鐘をうちならしているの だった。
 警鐘がうちならされていた。それも狂ったようにはげしくならされていた。いたる ところで、ありとあらゆる鐘楼で、すべての教区で、すべての村でうちならされてい たのだ。しかも、その音は老人の耳には少しもきこえてこなかったのだ。
 あまりに遠いので音がとどかないということもあったが、海の風が音とは逆の方向 から吹いていて、地上のあらゆる物音を地平線のかなたに運び去ってしまうからだっ た。
 狂い立つような鐘の音があちこちから呼びかけてきているのに、老人にはなにもき こえなかった。これほど無気味なものはなかった。
 老人はじっと目をこらし、耳をすましていた。
 警鐘の音はきこえなかったが、鐘を目で見ることはできた。警鐘の音を目で見ると は、まるで奇妙な感じだった。

 ユゴーの『九三年』にこんなところがある。ラントナックが砂丘にすわっている。 そこからはいくつかの鐘楼が一ぺんに見える。どの鐘楼にも人が右往左往し、鐘が全 部警報を鳴らしているのだが、疾風が鐘の音を流してしまい、彼の耳には何もきこえ てこない。
 ネルジンは子供のころから一種異様な聴覚でこの音なき警鐘ともいうべきものを、 ――間断なく吹く執拗な風に流されて人間の耳にはとどかない、死にゆく者たちの呻き、叫び、わめき、嘆きを聞いてきた。(略)
 十二月のある朝、人垣を押しわけて新聞の掲示してあるウィンドーの前に立ち、キ ーロフが殺害されたという記事を読んだのは、ネルジンが九年生のときであった。な ぜか突然キーロフを殺害したのはほかならぬスターリンだという考えが彼の頭にひら めいた。なぜといって、キーロフを殺して得をするのはスターリンだけだからだ!す ると彼は胸をしめつけられるような孤独感に襲われた。そばに群がっている大人たち にはこんな簡単な真理がわかっていないのだ! (略)
 本当に人びとは聞きとれなかったのだろうか?(略)自分たちはプーシキンやトル ストイの伝統を受けついでいる、と豪語していたロシアの作家たちは甘たるいことば で暴君を称揚した。ゲルツェン通りの音楽院で教育されたロシアの作曲家たちも、競 って自作のへつらいの頌歌を彼の足もとに捧げた。
 青年時代を通じてずっとグレープ・ネルジンの耳には音なき警鐘がひびいていたの だった!そして彼の心には、是が非でも知ってやる、是が非でもわかってやる、とい う決意が抜きがたく根をおろしていったのだった。

 こんなことを言っていいか悪いか知らないが、そして何の根拠もないが、私はこの部分はソルジェニーツィンのもちろん色んな体験をもととはしているのだろうし、書きたかったことには違いないが、う〜ん、やっぱりこんな言い方したらいけないのだろうか、でも私は何よりソルジェニーツィンは、この「九十三年」の場面をどこかで使いたいという気持ちが一番強くて書いた部分なのではないかという気がしてならないのだ。この引用は厳密に言うと、そんなにしっくりしていない。むしろ、「音なき警鐘」という、この章の題にもなっている、その情景の無気味さと美しさがソルジェニーツィンを強く捉えていて、それをどうかして、何でもいいから自分の言いたいことと重ねあわせて、読者に紹介してみたいという欲望をおさえきれなかったのではと思う。ユーゴーという人は時代も古いし決して繊細な描写をするのではない、むしろ大味な作家だが、この場面は雄大で幻想的で一度読むとなかなか忘れられない魅力がある。だから、そんな推測もついしたくなる。
         ◇
 それから開高健「輝ける闇」。(こうしてあげてくると戦争関係の話ばかりで恐縮だが私があまり恋愛小説を読まないということがあるにしても、どうもこういうので恋愛小説のいい例がとっさに思い浮かばない。戦争や歴史を扱った作品の方が、先行作をうまく利用している気がする。)特派員としてベトナムの戦場に行った作者は苛酷で混乱した日々の中で、精神的に疲れ、持って行った本をどれも読めない。ただ一つ読みふけったのがマーク・トウェイン「アーサー王宮廷のヤンキー」で、作者はその中に、目の前で行われている戦争と共通するものを見て衝撃をうける。
 実は私もこのトウェインの本は読んでいたけれど、そんなにどうとも思ったことはなかった。「この小屋まできてようやく私はわかったような気がする」と言っておられるように、おそらくベトナムに行って、戦いの中で読んだからこそ、開高氏はそれだけの衝撃をもって、この本をとらえ、普段は気付かぬ本質を読み取ることができたのだろう。氏の梗概の紹介は名文で捨てがたいのだが、長くなるので割愛して、最後の部分だけをあげる。

 私はいがらっぽい兵隊タバコをふかしながら感動していた。爽快な惨敗が体にあっ た。みごとであった。今日までずっと私はトウェインの文章を追いながらアーサー王 朝とこの南ヴェトナムをくらべて、あれがちがう、これがちがうと内心でかぞえつづ けてきたのだが、いま終章を読み終って、抵抗を放棄した。相違点よりも一致点が私 を圧倒した。(略)トウェインは種において完璧な人であった。なぜ彼がアメリカ人 から『真のアメリカ人』と呼ばれ『アメリカ文学のリンカーン』と呼ばれるのか、こ の小屋まできてようやく私はわかったような気がする。

 こういう場合はとてもはっきりしているが、どんな本でも読む時期や環境によって、同じ人が読んでも、まったくうける印象や評価が違うことがある。子どもに本を読むことを強制するのは好きではない(だいたい強制されて本好きになるということは、まず絶対にあり得ない)が、ただ、子どもの頃や若い時に読んでいないと、年取ってから読んで「ああ、二十歳の時に読んでいたらどう感じたか知りたいな」と思っても、それはもう自分のことでも絶対にわからないということはある。私もそういう点で、子どもの時に読んでおくのだった、若い時に読んでおけばよかったと、くやしい気のする本が数冊ある。こういうことは、とりかえしがつかない。本はいつでも読めるのではない。決して待っていてはくれない。落ちそうな試験や、死にそうな病人を放って本に読みふけることは、まったく意味のないことでもないのだ。その時に読まなければ、もうその時には永遠に読めないのだから。(ものすごい言い方ですが、意味わかりますよね?)  それと逆に、昔読んでも全然感動しなかったのに、年をとって読み返すと面白くて面白くて手放せない愛読書になってしまうこともある。チェスタトン「木曜の男」は私にとってそういう本だった。だから、一度読んでつまらないと思った本でも、時に読み返すと、思いがけない拾いものをしたりする。いつも、こういうことがうまく行って、ちょうど、その本に感動できる時期に、めぐりあえるといいのだが、他のことと同様に、本との出会いもなかなかそうはうまく行かず、無駄や失敗や行き違いが何かと多いものである。

3 読者から作者へ

 ところで、少しややこしいことを考えてみたい。
 今まであげた例はすべて、文学作品の中にとりあげられたもの、つまり文学の中に文学が登場している例だった。これを文学として味わう時、引用されている文学を読者が読んでいることは必要だろうか?作者は読者が、引用した文学を読んでいるか知っていることを前提として書いているのかどうか?
 読んでいなくても知らなくても、多分それほど困りはせずに読めるだろうが、もし引用された作品を読んでいたり知っていたりすると、感動や興味はひとしおではあろう。だがそれは作者としては、読んでいない読者に対し、不親切とか不公平とかいうことはないだろうか?
 結論から言えば私はないと思う。それを言い出したら、たとえば、その小説の舞台となった国に行ったことがあるかないかとか、作中に登場するスポーツやゲームのルールを知っているかどうかとか、すべて読者の一人一人の経験や知識によって、作品をどれだけ楽しめるかという差は生まれてくるのである。
 少し前に芥川賞を受賞した郷静子氏の小説「れくいえむ」は第二次大戦中の少女二人の友情を主に、戦争の悲惨さを描いている。審査の過程で問題になったのは、この小説がマルタン・デュ・ガールの長編小説「チボー家の人々」を読んでいなければわからないのではないかということだった。二人の少女はこれを読んでいて、しょっちゅうこの小説の話が出て来るからだ。
 私の感じでは、「チボー家の人々」を知らなくても、「れくいえむ」は読めるしわかるが、もし知っていたらそれこそ感動は非常に深いだろう。審査員の何人かが気にしたのは自分が「チボー家の人々」を読んでいる場合だと特に、読んでいない人に対してどれだけの感動を与えるのかが判断しにくかったからだろう。
         ◇
 パロディとか翻案小説とかは皆そうだが、このように文学の中に文学が登場する場合、作者は読者に対して、架空の話を提供する作者としてだけではなく、読者と自分が同じ文学を読んでいる読者どうしとして、親しげに目くばせしながら向き合っているところがある。作者と読者は、作者が話の下敷きにしたり引用したりしている、別の話の読者どうしでもあるわけだ。
 引用したり読んでいる場面を出すぐらいだから、作者はその、引用する文学の愛読者なのは間違いない。「ミザリー」のヒロイン(つまりファンのおばさん)や「リチャードソン頌」に登場した婦人のように、ただ夢中で読んで満足しているだけでなく、その本や、自分のその本への愛を説明し紹介しようとする点で、一歩進んだ読者とも言える。
 更に、中には、そうやって読んだ作品の後日談や裏話、番外編というかたちで、新しい物語や小説を自分で作ってしまう読者もいるはずである。
 丸谷才一氏は中公文庫「遊び時間」所収の「文学から文学を」の中で六十年代のイギリス文学を論じて「広い藻の海」という作品をとりあげる。これはジーン・リースという女性作家の作品で、あまりにもよく知られた名作「ジェイン・エア」の、「いはば前日譚」(丸谷氏)であって、ジェイン・エアが結婚する男性の前の奥さん(狂気のために幽閉されていた人)の若い頃の話である。もちろん「ジェイン・エア」には、そんな頃の話は書いてない。
 私はこの小説をまだ読んでいない。しかし丸谷氏の説明を見ただけでも、堂々たる内容で決して「ジェイン・エア」の感想文に毛の生えたような程度のものなんかではない。しかし、その基本はやはり「ジェイン・エア」を愛読し熟読するところからはじまったはずである。
 丸谷氏は、文学をもととした文学という、このテーマに興味を持っておられるようで、別のところでも次のように述べておられる。(取ったカードが不備で、何の本に入っていたかわからなくなった。ごめんなさい)なぜかまたソルジェニーツィンが出てきてしまうが、彼の自叙伝についての意見を批判するかたちで、「文学をもととした文学」、二次的文学――でない文学などはないと氏は主張する。

 だから、自叙伝などといふ「二次的文学」を書くのはためらつたのだが、といふのがソルジェニーツィンの考へ方なのだ。
 かういふ意見は間違つてゐるし、滑稽である。この自叙伝は非常にすぐれたものだが、この本の価値自体と、この文学論の錯誤との対立は、むしろ驚くに堪へる。すくなくともわたしにとつてはさうであつた。わたしの考へ方は「文学に関する文学や、文学をめぐる文学、文学によつて生まれた文学」を一次的文学よりも低く見るのがをかしいといふのではない。さうではなくて、あらゆる文学がもともと文学に関してゐるし、文学をめぐるものだし、文学によつて生れた、といふのだ。つまり、ソルジェニーツィンの分類で言へば彼が一次的文学と思つてゐる『イワン・デニソヴィッチの一日』も、わたしに言はせれば、ドストエフスキーの『死の家の記録』がなければあり得なかつたゆゑ、あれは二次的文学といふことになつてしまふのである。
 文学は伝統によつて成立するから、かういふことになる。『古今集』と『長恨歌』がなければ『源氏物語』はあり得ず、その『源氏物語』がなければ『新古今集』はなく、さらにその『新古今』がなければ芭蕉はあり得ない。さういふ、文学によつて文学を作るといふ原理をうんと自覚的・意識的にしたのが、二十世紀の文学、殊にジョイス・プルースト以後の文学者たちであり、それを最も極端にしたのがナポコフであつた。ソルジェニーツィンにとつて、さういふナポコフ的文学観はおそらく対岸の火事みたいなものなのだらう。そのことをわたしは、妙に寂しい気持で考へる。
 そしてさう断つた上で、ソルジェニーツィンふうの考へ方から見れば対岸どころか別世界みたいな話をすることになるのだが、文学から文学を作るといふこの二十世紀的文学観をいはば図式的なくらい露骨に示してゐるのは探偵小説ではないか。これは在来の探偵小説論ではさつぱり指摘されてゐないことだけれど、どうもさう言へるのではないか。
 ポーとシャーロック・ホームズがなければそれ以後の探偵小説はすべてなかつた。これはまつたく当り前の話だが、そのぞろぞろつづく名探偵の系列は、互ひに前の名探偵たちをひどく気にしてゐて、つまり、その分だけ、探偵小説は探偵小説から作られてゐる。いや、たとへばアガサ・クリスティーの小説がドイルの小説から作られてゐるといふ文学史的事情の、いはば縮図のやうなものとして、一人の名探偵のシリーズが、そのシリ−ズの以前の諸編から作られるといふ事情がある。つまり、ドイルで言へば『赤毛組合』や『まだらの紐』から『踊る人形』が作られるといふ具合に。探偵小説の作家たちが同じ名探偵による物語を書くのは、自分自身が前に書いた探偵小説の決定的な影響下に書くのだ、と言ふことができるのである。彼らは、一方では先行する作家たちによつて書き、他方では、自作によつて書く。コナン・ドイルからレイモンド・チャンドラーまで。あるいはさらに、池波正太郎まで。わたしはさういふ彼らの創作法に、いはば文学史が圧縮されてゐるやうな印象を受けることがしばしばなのである。

 この探偵小説についての丸谷氏の指摘は面白い。氏の言っておられることとは少しずれるが、推理小説では、前に使われたトリックをそのまま使えないということからして既に作者も読者も、先行の作品すべてを互いが読んで知っているという前提があり、すべての先行作品を下敷きにしたパロディとしての性質を基本的に持つ。たとえばクリスチアナ・ブランド「緑は危険」で登場人物たちがかわす次のやりとりのような。

 「でも、これが推理小説だとしたら、少佐は間違いなく犯人ですよ」とバーンズが 言った。「推理小説作家は、いつも、おっとりとした年寄りの紳士を犯人に仕立てあ げる――読者はそういう人が犯人だとは夢にも思いませんからね」
 「ところがこの頃では、もっと手がこんでいる。そのトリックを読者が知りつくし ていて、一人の人物が年寄りで人情家であればあるほど、そいつは怪しいということ を承知しているのだからね」
 「それが、ぐるっと一回りして、またもとへ戻っているんじゃないんですか」バー ンズは笑い声で言った――「年寄りの紳士だとか、浴室の椅子に腰かけている中風の患者だとかは、またナンバー・ワンの容疑者になっている――作者がそんなに見えすいた手を使うことはよもやあるまいと読者は考えるものですからね。それはともかく、これは推理小説じゃないんですから、ムーン老人が犯人でないことは間違いありません」
 「そうなると残るはきみとぼくと三人の女の子だけだ」皮肉な笑みを浮かべてイー デンは言った。「なかなか面白い情況じゃないか」

 ちなみに、これは一九四三年の作品なので、その頃の犯人像の傾向が反映している。今の推理小説が同様の場面を書けば、また違ってくるだろう。
         ◇
 丸谷氏が主張されるように、すべての文学は先行作品を下敷きとするということなら、文学から生まれた文学の例は数限りもないわけだが、ここでは思いついたものを二つだけあげよう。一つはルー・ウォーレスの「ベン・ハー」。キリストの時代を舞台にした壮大な小説で映画化されて一層有名になったため、映画のイメージが強すぎて原作が少しかすんでいるが、小説にはまた映画にはない面白さがある。たとえば、映画にはそういう場面がないのでわからないが、原作をよく読むと、ベン・ハーは本物の新約聖書に登場しているのがわかるだろう。キリストがとらえられた夜、近寄って話しかけようとして回りの人からとがめられ、衣をひきちぎられながら逃げて行った青年がいたと新約聖書の福音書にあって、これがベン・ハーだったということにウォーレスはしている。同じ時代に題材をとったとかキリストが登場するとかいう以上に、これはれっきとした聖書の裏話なのだ。
 日本で、その手の裏話や後日談を多く生んだのでは「平家物語」と「忠臣蔵」が最高だろう。謡曲「藤戸」も「平家物語」の後日談の一つだ。四国の合戦の時、源氏の武将佐々木盛綱は土地の漁師に海の浅瀬を聞くが、他人にもらされてはと、その場で漁師を斬ってしまい、翌日、その浅瀬を突っ切って敵陣へ先陣し、功績をあげる。初めて読んだ時(私はこの佐々木兄弟はわりと好きなのだが)、ひどいことをするなあと思いながら読んでいた。「平家物語」は多くの人の趣味をとりいれつつ成立していったせいか、あまりこういう救いようのない残酷な記述はないのである。大抵どこかでフォローしているのだが、これにはそれはなかった。
 ところが、後にこの謡曲を読むと、戦いの恩賞として、先陣をした藤戸を領地として貰った盛綱が土地の民を集めて領主として訴えを聞いてやっていたら、「昔、息子が殺されて――」と言って漁師のお母さんの老婆が出てきたという展開には、思わず笑ってしまった。やっぱり皆、あのままでは気持ちがおさまらなかったんだなあと、つくづく思ったのである。もし「平家物語」が書かれた物語として一応の固定をする前に、この謡曲の伝説が広まっていたら、これは「平家物語」の中に組み入れられた話かも知れないとも思った。気の済まないところ、ものたりないところ、納得いかないところを、ひとつひとつそうやって、聞き手や読者は新しい物語や伝説を築いて埋めていくのだ。そうやって物語はふくらみ、また別の物語も生まれていくのだ。
         ◇
 これもまた、丸谷氏もふれておられるが、近代から現代にかけて、そういう翻案や裏話を多く生み出している古典の一つにシェイクスピアの「ハムレット」がある。最近の上演のしかたや映画の撮り方にしても、実にさまざまな解釈にもとづいて、いろいろな演出がなされており、それだけ読者に多様な空想をさせ、登場人物の心理に好奇心を抱かせる内容なのだろう。ちょっと思い出すだけでも、ヒロインのオフィーリアの心境をつづった小林秀雄「おふえりあ遺文」、敵役のクローディアスの立場に立って書いた志賀直哉「クローディアスの日記」、太宰治の「新ハムレット」、大岡昇平「ハムレット日記」、イギリスの現代劇では端役の二人を主人公にした「ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ」など。しかも、どれもが面白い。
 志賀直哉が作品を書くきっかけとなったのは、舞台で演じられるのを見た時、ハムレットの役者よりクローディアス役の方が堂々として立派に見えたので、それから思いついて書いたと言っているように、これらの作品を書いた人々もまた、「ハムレット」の劇を何らかの意味で好きで、熱心に見たり読んだりして自分なりの解釈と分析をしている内に、別の一つの新しい作品にまでなってしまったということだろう。それらの作品は皆それぞれに、創作というかたちをとった「ハムレット」の感想文であり、批評でもあるのだ。
 小説を書いたり、その手前の段階での空想をはばたかせたりする時、自分の現実生活を題材にする人も多いだろう。たとえば通学途中の電車の中で、突然素敵な人と会って恋愛するとか、近くのスーパーが火事になって品物を何でも持ち出していいと言われて、ほしかったものがどっさり手に入るとか、家に入った泥棒をつかまえてテレビに出るとか、きらいな同僚に毒を盛って殺すとか。しかし、そういう自分の回りの現実とは関係なく、読んだ文学という架空の世界をもととして、更にまた架空の空想を積み上げていく人、それをもとにして小説を書く人も、けっこういるのではないだろうか。もちろんその両方をやる人も、それを混ぜ合わせている人も。
 作品というかたちで完成しなくても、映画を見たり小説を読んだりした時、そういう空想をちらちらと頭の中でしている人の数となったら、これはそれこそ予想もつかない。そういう点では、文学を読むということは、書かれている文字をもとにひとつの場面や情景を想像するということからして既に、それ自体が常に一つの創作でもあるのだろう。
         ◇
 (ここで終わっておけばいいものを、つまらないことを最後に思い出し、そのついでに危ないことに思いいたってしまった。前に一度紹介した少年愛をテーマに編集している雑誌の「JUNE」に、いつだったか、どこかのアパートに住んでいる少年が隣室の孤独でクールな殺し屋風の青年の生活を覗き見するという短編がのっていた。この雑誌にしてはあっさりした描写の、けっこう雰囲気ある洒落た作品だった。もっとも、間違ってたら悪いが、多分プロの人ではなくて、素人の人が趣味で書いたら案外さらっと成功したかな、という感じのものだった。次の号かその次の号かに、とてもよかったという読者の投書もあったと思う。その読者はその作品だけで好きになっていたようだが、隣室の青年の名は「キャット」となっていて、要するにフォーサイス「戦争の犬たち」の主人公の傭兵キャット・シャノンがモデルというかイメージされたものだった。アニメファンの学生に聞いても私自身が読む限りでも、いわゆる「やおい」物とも言われる(ヤマなし、オチなし、イミなしのこと。もっと過激な語源説もある)こういう作品を作る遊びは少女たちの間ではよく行われているし、もっときわどい内容のものもある。読んで、登場人物を愛し、その人の日常を思い描き、それをスケッチして見るという、甘くて淡い、危険な霧の中に、彼女たちはそうやってさまようのだろう。それは、もちろん、ある意味で猥褻だ。でも、それはやはり文学を味わうことであり、同時に文学を作ることだ。ここまで言ったら、私が最後に思いいたった危ないことの内容もだいたいわかると思うが、ポルノ小説を読んで自慰行為にふけるのも、あれは、それなりに空想の世界を構築するということでは、一つの創作活動なのかも知れない。)
(1999.10.26)

「文学概論」目次へ