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掲載された結果起こる投稿者周囲のトラブルの責任は持ちません。
本当に真剣にいらいらしていることは投稿しないこと。
 
 
 

(1)いったん気がついてしまうと

 自宅近くの交差点で、いきなりカーラジオに雑音の入りだすところがあります。
 けっこうよく信号待ちをさせられるところで、聞きたいなあと思っていた放送を聞けないこともよくありました。
 そんなもんだとあきらめていたんですが、今年の正月、たまたまそこを走ったら、何の障害もなく、すごくきれいによく聞こえるんですよ!
 何がどうしてどうなって、そうなってるのか知りません。でも、それからというものずっとそこを通りかかってラジオがガーガー聞こえなくなるたびに、なぜかどうしてか、ものすっごく腹が立ちます。
 正月にはいない、消えてる、とまってる、何かのおかげでふだんはそうなってるんだと思っただけで、どうしてそんなに怒れるのか、自分でもふしぎなくらいです。
 何なんでしょうね、この怒り。ふだん人にあれだけ迷惑かけている存在が、いっちょまえに正月には休みやがるとわかったからでしょうか。正月には休みをとるような分際で、ふだんはあれだけ人に迷惑かけて平気でいるということが許せないと思うんでしょうか。おのれ人並みのことしやがって、そんな権利がおまえにあると思ってるのかという気持ちなんでしょうか。
 一年中ずっと不愉快でした。もうすぐ正月、一年ぶりに交差点できれいにラジオが聞こえてきたら、きっとまたぶちきれるような気がします。
  
  

(2)問題なのは・・・

 ご指名ができない、美容院やエステって、実は私はそんなに嫌いじゃありません。毎回ちがう人に担当してもらうのは、それなりの楽しみがあるし、それぞれの人の得意なとこや上手なとこを味わえるのも、それはそれでぜいたく。
 でも、これきっと誰でも経験があるでしょうが、よく、その中にものすごく下手な人がいたりします。下手じゃなくって単に私と合わないだけのこともあるでしょうけど、でもそういう基準をぶっちぎって、すごい、あんたなぜここにいるの?って言いたくなるような人が。
 以前行ってたマッサージのお店では、すごくおしゃべりでパワフルだけど、勉強熱心で上手な人がいて、私がひじが痛みはじめて行ったら、関係ない手首と指をもんでくれて、それで一発全快したこともあったし、反対に、どこか腕の筋をちがえたかなと思って行ったら、見るからに新米のあぶなそうな人が変にいじって、それから半年腕が動かなかったこともあった。ちなみにその人すぐ消えていなくなったので、さもありなんと思ったけど。まあそういうこともあるから、軽く考えられません。
 美容院はそういう危険はないかわり、変な髪型にされたらひと月近くいらいらさせられることになるから、これも被害甚大。しかも安くないしね。
 でも、よっぽどのことがない限り、そういう人にあたるのはしかたがないと思って私はがまんしてます。あの人になるかなどうかなと思ってどきどきしていると、健康にも美容にも悪いし、できるだけこだわらないことにしている。
 ところがですね、問題はですね、こういう下手なやつにあたって、いやな顔をせず、きげんよくしていると、もう、こういう人って、ワラにもすがる思いでいるのか、勝手に私を自分のひいき客と思いこんで、人おしのけて担当してくる。店の方も喜んで、この人を私に回すようになる。
 こうなると対抗策はひとつだけ、この人にあたった時には思いきりいやな顔をし、不愉快そうにしてみせるしかない。
 でもね、それってすごく疲れるんですよ。
 どうせ、死ぬほど不愉快な人にあたって、絶望的な気持になってる時は、せめてにっこりしておきたいわ。その人にもいやな思いをさせないように、あら〜、ありがとうと言っておきたいわ。その代わり、それ以後しばらくはその人以外の人にしてほしいわ。いわば、この店での貧乏くじというかババをひいたというか、そのノルマを果たしたんだから、しばらくはもう、その人にあたらなくてすむようにしてほしいわ。いやなことは、せめて皆で分担しましょ。
 と、このように思うわけです。でも、そう思ってにこにこしてると、「この客はこの下手でもいいんだな」と当の下手からも店からも誤解されて、永遠にその人をおっつけられてしまう。
 それがいやだから、せいぜい思いっきり不快な顔と態度をとりつづけていると、そのことでそれこそ顔も身体もこわしそうでならない。
 結論。だからもうどうか、そういうクズは店におかないでほしい。オーナーの子どもとか諸般の事情でやむをえないなら、せめてそういうできそこないは、均等に客に回して。いやな顔してるお客だけがいやなんじゃないと肝に銘じておいてよね。
  

(3)猫と玄関ドア

 もちろんかわいいから猫飼ってるんだし、ふだんは少々何をしても許せるんですが、これだけはだめだ!と思うのは、仕事の関係で、いろんな荷物を玄関から車につみこむ時のこと。
 ちなみに猫は外から出入りできるひと部屋で飼っていて、玄関とその奥の台所と客間には出入りさせていません。
 猫も特にそれを不満にしているようではないんですが、そこは動物なので、玄関が開いていたら一応入りたがります。
 いつもはそれもそんなに腹立たないのですが、大きな荷物を何度も何度も玄関から車に運び込む時、猫が前庭にいると、ドアをあけっぱなしたまま荷物が運べません。
 毎回、毎回、入りたそうにしている猫を横目で見ながら、重い荷物を両手でかかえてドアを出てはドアをしめる、車にのせて戻ってはまたドアを開け荷物をかかえ、またドアを閉めて車に運び、また戻ってはドアを開け、×5、もしくは×10。もうね、気が狂いそう。ことに雨の日なんかだと。
 私はこれでもこの猫を愛しているつもりなんですが、かりにこの猫が死んでいなくなって、玄関のドアをぱ〜んと開けっ放しにしたまま、ほいほい荷物を運び込めるようになったとき、思い出して一抹の寂しさが胸をよぎることなんて、金輪際ないと言い切れるね。それどころか、猫の死んだ寂しさもいなくなった悲しみもすべてふっとんで、幸福感に満たされるね。何を賭けても、それだけはたしかです。
  

(4)割り箸を棺に

 やっぱり母のことでしょうか・・・。本当に割り箸が好きなのです。昔、古い家に居た時は、三度の食事もずっと割り箸を使っていました。それも一度使った古いものを何度も洗って使うのです。
 母の家に行って食事をする度、その黒ずんでささくれた割り箸が出てくるのが、身の毛がよだつほどいやでした。
 何度か箸を買って行きましたが、「お箸はいくらでもあるのよ」と言うし、実際、古いのも新しいのも上等の箸が引き出しにはぎっしり入っているのです。
 昔はそんなこともなかったのに、何時からどうしてそんなことをするようになったのかわかりません。環境問題の番組でも見て、熱帯雨林の減少の話でもどこかまちがえて捉えてしまったのかもしれません。
 その後新しく家を建てた時、私は母に「この家では割り箸は使わないで」と言いました。それでやっと、食事の時は普通の箸を使うようになりましたが、どうかすると、流しやテーブルにまた洗った割り箸がおいてあって、私はそれを見る度に狂ったような勢いで母の目の前で幾つにも折って、屑籠に叩き込みます。
 この頃では、そんなに逆上する自分の方がむしろ怖くてたまりません。
 このことで、母への愛情も、環境保護への共感も、すっかり冷めてしまったようです。
 友人たちに冗談に「母が死んだら棺には何も入れないで、汚い古い割り箸だけをぎっしり詰め込んでやるつもり。さぞよく燃えることでしょう」と言っていたのですが、こんなことが何年も続いたら、間違いなく私は本当にそれを実行すると思います。割り箸抱えて天国にでも地獄にでもどうぞ勝手に行って下さい、お母さん。
    

(5)何のための花なんだか

 うれしいことがあったり、反対にくさくさしたりしたときに、わりとよく花を買います。 
 でも、帰って花瓶に水を入れ、さて優雅に花をさそうと思うと、あれ?包んだ紙がなかなか破れない。セロファン紙なんて、いつだって変な具合にちぎれてしまう。
 やっと紙をはいだら、今度は茎をしばってある輪ゴムが絶対はずれない。
 もー、いらいらして、切ったり折ったり外したりしている間に、うんざりして疲れてしまって、あー、花なんて買うんじゃなかったと後悔する。
 私はすごく不器用なのか、それともせっかちなんでしょう。だけど、きちんと根元に水を吸わせてある花束とかなんかでもなく、そのへんでふいっと買ってきた花でも、あんなに包装解いて水につけるまで、はあはあ息を切らせなきゃならないなんて、どう考えても理不尽な気がする。 
 私が花を買うときって、どっちにしても平常心じゃないときだから、かなりいっぱい買うことが多い。だもんで、いくつも花束をほどいているうち、なんだかもうどーでもよくなってしまう。「花を買った!」っていう、ときめきもはなやぎも安らぎも輪ゴムとセロファン紙の残骸の中で、みんなどっかに消えてしまう。
 もし、茎をしばってあるひもがするっととけて、包んである紙がぱらっと開く花束を売っているお店があるなら教えてほしい。1000円や2000円ぐらい高くても私は絶対、その店で花を買う。
 

(6)ただ恥じ入って黙っとけ

 「そうだったんですかー!」と言われるのにあいた。
 昔から何度か、いろんな面でいろんな人に、「あなたを育ててみたい」というようなことを言われたことがある。一方的に申し出られたこともあれば、こちらからお願いしたことに関してそう言われたこともあった。漫画や小説や音楽やそういうことに携わった人ならば、誰でも覚えがあるだろう。「あなたに素材として興味がある」という風に関心を示される。
 それはありがたいことなのだ。にもかかわらず、私が時には、というよりほとんどいつも、「けっこうです」と剣もほろろの失礼な断り方をしたのは、自分の心の底にある危険で病的ないろいろのものを、この人は決して知らないと思ったからだった。漠然と感じているにしても、その全体像やその巨大さや根強さを見ていない、もし見ていたら、そもそもそういう申し出はしないだろうという確信があった。
 自分の中にある、そういったたくさんの、性的嗜好も含めた大きな異常なかたまりは、自分が一生かかってときほぐして行くしかないと私は思っていたし、事実そうした。
 そのことに満足しているし、後悔はない。我ながらよくやったとさえ自画自賛している。
 けれど、そうやって、自分の中にあったさまざまな感情や欲望や事情を、他人にもわかるように社会にもうけいれられるように、きちんと話せるようになったら、今度はいろんな人から「そうだったの」「あなたが言っていたことの意味がやっとわかった」というようなことをよく言われるようになった。
 そして、これに実はいらいらしている。
 そういう大きな問題だけではなく、日常の小さなことでも、「そんな事情があったんですね」「そういうお考えだったんですね」「気づきませんでした」「知らなかったものですから」と、いけしゃあしゃあとぬけぬけと言う人に対し、時には殺意を抱くほどいらいらする。
 私にしろ誰にしろ、ふだん知っている人がおかしなことをしたり言ったりしたら、「何か事情があるのだろう」と思わないものだろうか。「いくら何でもそれがわからないほど、この人はバカではあるまい」と普通考えないだろうか。
 私は人に怒ってあたりちらす時、あるいは忠告したり提言したりする時、「この人はそんなことはきっとわかった上で何か事情があってやっているのだろう」と一応は考えている。それでも言わざるを得ない時だけ言う。万一まったく気づかずに、そういうことをしてしまったら、恥じて黙るか、きちんと謝る。
 そういうことを言ったことをではない。そういう事情があることを予測しなかったほど、その人を信じられなかったこと、知らないのに知ったつもりになっていたことを謝るのだ。
 あー、そうだったんですかーと、自分のバカぶりをさらけ出してすむ問題ではない。
 もう最近では、何か書いたり言ったりしたりするたびに、どうせ十日後や一年後や十年後には、この相手はこのことについて「そうだったんですかー」と間抜けた声と間延びした顔で言うんだろうなと予測がついてしまうので、もう、いらいらの先払いというか予約販売というか、そういった感じでむしゃくしゃする。そんな「すみません、何も知らなくてー」みたいな、だらけきった謝り方されるぐらいなら、いっそ永遠に誤解されてた方がまだよっぽどましだ。世界の悪人、悪役の中にはそんな気分でいた人も、きっといたんじゃないだろうか。
   

(7)責任とる気はあるんでしょうね

 最近ラジオやテレビでは、健康食品のコマーシャルがやたらと多い。
 私がよく聞くラジオ番組では、司会者たちのトークの中にとりいれられて、商品の宣伝がなされている。
 アナウンサーやキャスターたちも釈然とはしないだろうと思う。局の方針なら逆らえないのだろうが、それでもどうかと思ってしまう。
 数年前、老母が健康食品販売の食い物になった。数百万近い金をむしりとられたと思う。それもだが、それ以上に、くいとめようとする私との仲も険悪になり、母の精神状態も危険な兆候を示した。今思い出しても、悪夢のような地獄の日々だった。
 そのとき、何度も電話でやりとりした健康食品の会社の電話オペレーターの甘ったるいまろやかな声を死んでも忘れない。それとそっくりの声でラジオで健康食品その他を売り込んでいる販売員の声を聞くたび、民間放送とはいえ、ラジオ局はどの程度責任を持って、こういう情報を垂れ流しているのだろうと、いつも疑問に思えてならない。
 母は「テレビでも言ってたもの」「新聞にも載ってたもの」と何度も口にしていた。今もそういう老人が巨額の金をそんな業者に奪われ、いくつもの家族がそのことで崩壊しつつあるだろうと思うと、楽しいはずのトーク番組でも、そのコーナーになるたびに、秋葉原の殺人事件などよりもよっぽど救いようのない、世にも陰惨なやりとりを聞かされた気分になって、私は頭に血が昇る。
 

(8)「強い女・・・それに疲れたわ」

 というのは、「グラディエーター」という映画の中でルッシラという王女がつぶやくせりふなんですが。
 私の場合は「馬鹿な女・・・それに疲れたわ」です。
 もちろん自分が馬鹿ってことは自覚してます。
 でも、それにしても、これは私の運命で(それも自ら選びとった)、友人たちからは自業自得と言われますけど、壮大な計画をたて細心の注意を払い、歯をくいしばって日夜努力した結果の論文、小説、講演、講座、その他もろもろすべての仕事が、「さらさらっと書いた」「気軽にやってる」と思われるのからはじまって(←それは別にいやじゃないのですが)、「私にもできそう」「私でもやれそう」「私もやってみたくなった」と言われることが実に多い。
 結局、私の仕事の特徴は「誰にでもやれそうなこと」なんですね。
 どんな大変なことでも、誰でもやれそうにやることは私の心がけることの一つだし、こんな感想はほめ言葉とも思っていますが、それでも時々、私が何も考えないで、行き当たりばったり思いつきで生きてるかのように思って、いろいろご指導だのご忠告だのしようとなさる方がおられると、ええいじゃまだそこのけ、あたしのやり方に口をはさもうなんて十億光年早いよと言いたくなってしまう。
 私の周囲の学生は、これまた私を信用しすぎて、一度留守番を頼んだら、台所のカギがあけっぱなしになっていたのを、「きっと先生は何かお考えがあるのだ」とそのままにして帰った人たちもいたし、授業で芭蕉の句集を「続炭俵」(正しくは「続猿蓑」)と教えたら、卒論で芭蕉やってる者までが何も言わなくて、あとで「なぜ訂正しなかった」と聞くと、「先生は何か考えがあるのだと思って」と言ったこともあったし、苦笑するしかなかったのですが、でも、正直言ってその方がまだずっと私としてはありがたい。
  

(9)たかがかんづめ、されどかんづめ!

 うちのネコたちは頑固なので、決まったブランドのかんづめしか食べません。一度そのブランドがなくなったので困りましたが、まもなく復活してほっとしました。
 でも、最近不燃物の回収に出すのに、空き缶を洗っていると、この銘柄の缶はなぜか底のふちに溝があって、そこがなかなかきれいになりません。
 急いでいる時など、ものすごくいらつきます。
 あと、一匹だけ、おやつの「ほしかまスライス」が異様に好きなネコがいて、この子のためにいつも買ってくるのですが、これも一度経営者が代わって、袋のデザインが少しちがうようになってから、とても封が切りにくくなりました。切ったあと、開けにくいといったらいいのかな。忙しい朝など、本当に腹が立ちます。
 自分の社内で使ってみないんでしょうか。モニターとかいないんでしょうか。前はよかったので、そんなに苦労しないでも改善できるはずなのに!と思うと、ますますいらいらしてきます。
  

(10)いったいマンション業者の人って

 市場調査とかしないんですかね。いまどき大学教員がマンション購入したり、それで税金対策したり副業しようと思うほど、時間的にも金銭的にも余裕があると本気で考えているの?
 最近の不況では、マンション業界も必死なんだろうと言うなかれ、こんな不況になるずっと前から、研究室へのマンション買いませんかの電話攻勢は、それはすさまじいものでした。授業中でも会議中でもおかまいなし。どんなに断ってもまたかけてくる。こんな無責任で破廉恥な商法の企業に、たとえマンション購入する気があったとしても関わりを持つ気にはなるわけがない。
 同僚の先生たちが対抗するために用いた、あの手この手を書いていたら一冊の本にもなりそうですが、最近ではあまりに忙しいので、皆さんどうしたかというと・・・多くの先生が学外からの電話(ダイヤル音でわかります)は受話器を取らなくなりました。これはむろん、学外からかける時は仕事の上で支障をきたすことこの上ありませんし、大学の先生はいつかけても研究室にいたためしがない、何と気楽な稼業だろう、社会や地域に貢献する気がないのか、と大学の評判を落とすのにも一役かうことでしょう。
 けれど私は電話に出ないことにした先生方を責める気にはなれません。私自身は老母が田舎にいますので、もしものことがあってはと、一応電話には出ますが、真剣に集中していた仕事を中断されたり、学生の深刻な相談を邪魔されたりした時の怒りは、どこかに賠償金請求の訴訟でもしたくなるほどです。もし今度またかかってきたら、ここに会社と勧誘員の名前を赤文字で公表しようかしら。 
  

(11)どうしても許せないのが

 歌舞伎や演劇その他、劇場での催しで、舞台を見ないでパンフレットを読みふけっている人です。ちらっとのぞくのだって、もったいないなあ、この最高の瞬間を見逃してと思うことがあるけど、それどころじゃない、本当に熟読してる人がいるの。
 信じられない、もったいない。高いお金はらって、いい席とって、その料金は舞台の上で今現在役者が見せている踊りや演技や歌に対してなんでしょうが。
 パンフレットその場で見て突然わかって面白くなることなんか、どんな舞台でも絶対にない。わかってもわからなくても、客席に座ったらもう、全身で舞台の上の芸を味わうべきでしょう。
 詳しいことがわからないと見る気がしないというのなら、前もって下調べをしてくるべき。劇場では観客だって舞台との真剣勝負だよ。パンフレットに目を落とすなんて敵前逃亡みたいなものです。
 居眠りだっておしゃべりだっていやですけれど、パンフレットを熟読しているのは、それとはちがった不快さがある。私個人としては、いらいらするのはこっちの方です。変に「お勉強してるの」って見当違いな言い訳が通用すると思ってるのもいやだし、いまさらそこで何かを勉強しようという潔くない態度も見苦しい。
 まあ、単純に理屈抜きで言ってしまえば、最高のお刺身をマヨネーズつけて食ってるやつを見た時の気分に近いかな。自分が損するわけじゃなし、そいつも不幸になるわけじゃなし、でも本当に殺意を覚える。
   

(12)おれたちは天使じゃない

 こと車に関しては、意外なほど私はイライラすることがありません。渋滞でも割り込みでも平気で我慢しています。
 唯一これはイライラというより、逆上し激怒するケースがあります。
 一車線の道をえらくノロノロ走る車があるとします。おかげで私の車も含めて、ズラ〜ッと後ろに車がつながって並んで長い列になっていても、そんなことはどこ吹く風。ゆうゆうと法定速度以下で走って行く。
 でも、それは私は別にイライラしないんですね。まあなんか事情があるんだろと思って、おとなしくノロノロ運転でついて行きます。
 ところがようやく二車線になって、後ろの車が追いぬきはじめると、今まで先頭をノロクタ走っていた、その車が、つられたようにあわてて自分もスピードを上げることがある。
 この瞬間に私は逆上し激怒します。
 もう自分でも異常だ危険だと思うぐらい、我を忘れます。
 今までこんなに長いこと、これだけ多くの他人に迷惑をかけておきながら、スピードを上げもしなかったくせに、いざその状態が変化して自分が先頭を押さえていられなくなったと思ったら、急いでいっしょに競争に参加しようとしくさりやがる、その根性が最低です。
 私はこういう時、この車を決して許しません。幅寄せとかそんなありふれた犯罪行為はしませんが、その車の前後左右に出没して、私の乏しい運転テクニックの限りをつくして、他の車の動きも利用して、その車を危険で不快な状態にずっと追いこんで遊びます。
 そうやって、私が元凶であると気づかせないようにして、その車をとことんいたぶって、もてあそんで、溜飲を下げます。気持ちいいったらもう。
 時には何キロも何時間もそうやって、その車をいじめることがあります。
 たぶん気づかれてはないと思うけど、どうせ鈍感なやつなんですから。
 でも自分は絶対に天使にはなれないと、つくづく思います。
  

(13)カートがうざい

 ここしばらく、多分半年ぐらい前からのような気がするが、私の行くスーパーではカートを押して買い物する人がぐっと増えた気がする。カート健康法とかカートダイエットとかがどこかで流行してるのかと思うぐらいだ。それとも買い物する人の足腰が弱ってきたのか、一度にする買物の量が増えたのか、まあ何でもいいのだが、そんなに広くもない店の通路で、これ押して行き来する人が多いと、ものすごく買い物がしにくいのである。
 私は何かの雑誌で、カートは使わず一度に持てる量を買い、かつその重さを実感して無駄な買い物をするなとかいう記事を読んだせいもあって、というより面倒なので、基本的にカートを使わない。でもまあ、必要な時は使うだろうし、お年寄りなどは助かるだろうと思うからいちがいに悪いとは思わない。
 ただ、カートを使うと人は皆ものすごく動きが遅くなる。そして、カートを使うエチケットというものがあるかどうか知らないが、これを押しているとぶつかっても恐くないというような、車を運転している人と共通の意識があるのか、人をよけようとしない。あまつさえ、食品棚の前にカートを横づけにして、人が近づけないようにして長々と商品を選んでいる人が少なくない。
 ひとりひとりのそういう鈍重さは、まあまあぎりぎりがまんできる程度のものだが、最初に書いたように、なぜか最近カート族が多いので、それが束になってつもりつもると、スーパー内が何となく、どよんとした感じになって、いらいら以前のかすかなストレスがじわじわ蓄積されて行く。
 今まで考えたこともなかったが、外国映画で買い物する人はほとんどカートを押しているみたいだけど、ぶつかりそうになったりよけたりする場面がまるでないのはなぜだろう。まさかスーパー内も交通規制していて、一方通行になっているんじゃあるまいな。
  

(14)私がプールに行けないわけ

 近所のスイミングクラブの会員になっていて、少なくない会費も払ってる。血圧のためにも脂肪のためにも、行ったらいいのはわかっている。なのに、行こうと思っては「うーん」と考えておっくうになってやめてしまうのは・・・このプールは指導員や事務員のお姉さんお兄さんが、とてもしつけがよくて、人の顔さえ見ればすれちがいざまに、大声で「こんばんはっ!」とあいさつをする。それがもう、のべつまくなしである。プールにたどりつくまでに疲れてしまう。いや、プールに入っても、周囲から「こんばんはっ、いらっしゃいっ、今日は早いですねっ」などと叫ばれる。
 私は近視で泳ぐときにはメガネをはずしている。だから思いがけない方向から声をかけられると飛び上がりそうになる。水の中だとぶくぶく沈む。一度そうやっておぼれかけ、お兄さんは明るい声で「大丈夫ですかあ!?」と声をかけてくれた。おまえのせいなんだよ。
 ちなみにこのプールは参加者どうしの交流もさかんで、ロッカールームではおしゃべりに花が咲き、手作りのお菓子がやりとりされる。最初行きはじめたとき、お勤めですかとかお子さんは大きいのとか、しきりにいろんなことを聞かれて、ええまあ、はいまあとか言っていたら、いつの間にか独身自由業の私が、子供が二人いるパートづとめということになっていた。別にいいのだが、せっかうそう思ってくれてる人たちを無駄に混乱させたくないし、パートに行ってたのは線路の向こうだっけこっちだっけ、子供は学童保育と言ってたっけなどと、覚えていなくてはならない余分なことがどんどん増えるのがかなわない。
 そういう交流を楽しみに来る人もいるだろうし、別にいやな思いをしたこともない。しかし私は一日中、人としゃべりまくって疲れ、喉も舌もひりひりして、さてようやく一人になって仕事や創作に関することをぼうっと考えていたいと思って水に浮かびに行くのだから、それがまったくかなわないのはつらい。
 そろそろ泳ぎに行きたいなあと思っても、あのあいさつと交流に立ち向かわなくてはならないと思うと、「・・・帰って寝よか」と思ってしまう。私は女に生れてくやしいと思ったことも、貧乏がつらいと思ったことも日本人でいやだと思ったこともそんなにないが、話に聞く英国などの男性専用の、会話がほとんどない、ゴージャスな、静かなクラブとやらだけは、死ぬほどうらやましくてならない。 
    

(15)入試関係

 去年でしたか、毎日新聞が入試を学外の機関に委託しようとした大学の記事をとりあげて、「入試の仕事は大変だから、先生方がしたがらない。自分の研究ができないからと言って」というような記事を書いていたのには、歯ぎしりしました。いまどき研究ばかりして雑務をしたがらない大学教員なんて、まだそんなイメージ頭の中に刷り込みっぱなしでいるんですか。三十年遅れてるんじゃないの。毎日新聞はいい記事が多くて、一番好きな新聞なだけに、あの時は許せなかった。でも、それに抗議しようとしても、どんな膨大な作業をどれだけ過密スケジュールの中で胃に穴のあくような状態でやっているのか、入試に関連することは機密事項で絶対言えない。いらいらなんてものじゃありません。
      

(16)価値観の崩壊

 部屋がちらかるのは、一にも二にもわけのわからん、捨てられない書類がたまるせい。だから水際作戦じゃないけど、玄関に大きなくずかごをおいといて、必死で居間への侵入をくいとめる。
 不要と判断した手紙や通知は即、そのくずかごへほうりこむ。出かける前の数分とか、わずかな時間を利用して、我ながら瞬間移動でもできそうなほどの精神力と集中力を駆使して一気にかたづけてゆく。
 それでも「未決」のものがたまって、ずるずる、ものがふえる。行くかもしれない展覧会の案内や、捨てたらまずそうな電話局からの通知とか。
 その中でもう、イライラなんかじゃなく激怒するのが、ただの宣伝ちらししか入ってないのに「重要」って表に書いてあるやつ!
 いちおう取っておくと、後で開けた時の怒りが並みじゃないし、急ぐものかもしれないから、一分一秒を争うときでも封をひっちゃぶいて中を見る。すると、ただの新製品の紹介。
 おまえの会社などとっととつぶれろと、玄関先で絶叫したくなる。
 もう、なによりも恐いのは、それがたてつづくと、精密機械のような集中力に狂いが生じて、頭の中のコンピュータが「重要」という文字を「馬鹿な会社の馬鹿な宣伝」としか認識しなくなって、本当に重要な書類をくずかごに入れそうになること。
 こんなうそつき誇大広告会社は覚えておいてやろうと思うけど、そんなところの名前なんか、覚えておくのも頭の中が汚れそうでいやだしさ、結局毎回、いらいらすんのよ。
  

(17)これをしもありがたいと言えというのか

 そりゃ、人は私のことを罰あたりと言うんでしょうけどね。
 田舎の老母は帰省するたび、たとえ真夏でも私に、近所の生協から取っている、おいしい栄養価の高い牛乳や、冷凍した牛肉を持って帰れとすすめます。ダイエットのことを考えたら栄養価の高いものなどいらんということは、この際おいておくとして、車で数時間もかかる距離、熱波の中、パックの牛乳や肉なんか持って帰るの、ヤバいって、いくら言ってもあきらめません。
 何度か忘れたふりして持って帰らなかったら、むこうも意地になるんだか、私が帰りそうにすると2時間も前から冷蔵庫から牛乳を出して玄関においている。真夏ですよ。いらいらして帰り支度をするので、いつも何か大事な荷物を忘れてしまいそうになる。
 そして、持って帰るはめになった時は、それを車にのせているばっかりに、どんなに眠くても疲れても、途中でまったく休憩ができない。子どもが死ぬような温度になる室内に、生の牛乳おいてなんか行けませんから。やむをえず降りてお茶でも飲むとか、夕食の買い物でもしようとすれば、牛乳の大きなパックを下げて歩かなくてはならない。猛暑の中、疲れ果てて、途中にたちよったおしゃれな町を、好きな喫茶店に向かって歩くとき、牛乳の入ったスーパーの袋を提げてよろよろ歩きながら、何度もう声をあげて泣きそうになったことか。
 「悪いけど、こんな牛乳もらって帰るより、途中でどこかの店によって、おいしい冷たいコーヒーでも飲んだ方が、どれだけ元気になるかしれないんだから」と、ひどいと承知で何度か言ったら、今度は「クーラーボックスって、そんなに高くないんじゃないの?」と言い出した。それでなくても田舎と町の往復でいつも大きな荷物を運んで、長時間運転して私は腰を痛めてるんですよ。この上クーラーボックスを車に出し入れさせる気なんでしょうか。
 ちなみに冬だと、エアコンの暖房の方が入れられませんから、雪がちらつく中でもぶるぶる震えながら運転しなくてはならず、風邪など確実に悪化します。少々栄養価の高いものをいただくよりは、ぬくぬくとした車内で走らせてもらって、途中のドライブインで暖かいお茶でも飲む方がどうありがたいことか。
 友人にぼやいたら、あきれ顔で、「そんなの年寄りの自己満足なんだから、気持ちよくもらって、ああ、とってもおいしかったって言って、途中で全部捨てればいいのよ。私はいつでもそうしてる」とのたまわった。さすがにそこまではまだしないが、時々山道に車をとめて、橋の上からじっと峡谷のぞきこんで、ここに母から押しつけられた冷凍肉や牛乳を一挙に投げこんだら、どんなにすっとするだろうと考えている自分に気づく。そのうち、自殺志願者と見られて保護されるかもしれない。でも、笑い話に聞こえるでしょうが、そんなとき、本当に少し自殺したくなってるんです、私。
    

(18)さかしら校正

 本や論文の校正刷りがきて、直す時、むしょうに腹が立つのは、こちらの原稿の誤りを、勝手に直したつもりになってるゲラだった。どうせ国文学の専門の論文なんて、変な用語ばっかりだから、めちゃくちゃな間違いをしたゲラはよくあるが、それはそんなに気にならない。まるで不快になんかならない。
 でも、たとえば、江戸時代には「大阪」は「大坂」と表記するのが正しいのだが、これをわざわざ全部、私の原稿の「大坂」を「大阪」と直しているのなんかは、ものすごくいらだった。「この、さかしらなことしやがって!」とののしりながら、力まかせに赤ペンで直して、「江戸時代は大坂と書きます」などと書き加えそうになって、何でそこまでこっちが教えてやらんとならんと思ってやめて、そんな自分がまたいやになった。
 また数が多いのだよ、こういう個所は。こっちは正しく書いているのに、中途半端な知識しかない素人が、ものすごい数の「大坂」を鵜の目鷹の目で全部拾い上げて「大阪」に直して、いい仕事をした気分になっていると思うと、それをまた、いちいち見つけて元に戻しながら、救いようのない脱力感にとらわれた。
 電子媒体で原稿を出すようになってからは、こういうことはなくなった代わり、今度はあらあらの校正を出版社の方でして下さる時に似たことが起こるようになった。今でも覚えているのは、なかなか校正刷りができてこないで、担当の編集者が「校正係の人がとても熱心な方で、力を入れてチェックしてますので」と言うので、じゃ、こちらが手を入れる時間はそんなにかからないなと安心していたら、届いた校正刷りを見て、目の前が真っ暗になった。何とその熱心な校正者は、江戸時代の作品の仮名づかいを、全部、「正しい」仮名づかいに改めていたのだ。江戸時代の人たちの仮名づかいは、いわゆる歴史的仮名づかいではない。それは訂正することは意味のないことである以上に、資料としての価値がない。
 その方がいちいち真っ赤に直している校正刷りを、再びまた赤で書き改める虚しさといらだちと苦労とは、私がこれまで生涯に味わった苦しみの中のベストファイブは怪しくても、ベストテンには確実に入る。
    

(19)同窓会トラウマ

 昔の友人と会うのはなつかしいし、その後電話で話がはずむのも、決していやではない。でも、たしかもう二十年近く前だが、何度か同窓会に出たら、それほど親しいわけではなかった同級生の男性から(覚えてもないが、たぶん複数だったような)何度も電話がかかってきた。それだって特に不愉快な内容でもないが、ただ、けっこうな深夜なのに、とても親しげな様子でかけてくるのが正直、ふしぎだった。
 そのころは仕事も忙しく、深夜でもけっこういろんな人がきていた。一人のときもあれば複数の時もあった。長い時間話しこまれて電話を切ると、「誰から?」なんて聞く人はいないし、こっちも説明はしないけれど、何となく、やはり困った。
 ある人に何気なくそのことを言ったら、三つほど、聞き捨てならない感想をもらした。
 「その年ごろって、『人生こんなはずじゃない、何かもっとあるはずだ』と思う最後の年齢なんだよねえ。あなたみたいに独身で昔とあまり変わってない同級生を見たら、時間がとまって、あの頃からまたやりなおせるかもしれないと思うのかもね」
 「家族のいる人のところだと、電話ってやっぱりかけづらいのよ。あなたはかけても周囲に誰もいないはずだから、それはもう、やっぱり気楽でしょう」
 「ひょっと、あなたの背後に誰かいる、それは男性かもという気配を感じたら、それはそれでまた他の人に話して盛り上がったりする話のタネにもなるだろうし」
 それを聞いてから、そういう電話を受けるたびに、いらいらするようになった。多分、夜に家にいるのもいやになったんだと思う。いつのまにか(覚えてもいないが)電話はかからなくなった。
 しかし、思い出すとまだいらいらする。同窓会なんて多分もう一生出ないんじゃないかと思うぐらいに、いらいらする。
    

(20)人の善意

 やっと時間を見つけて買いに行くから、猫の餌を買う時はどうしても大量になる。そうすると、レジで当然時間がかかる。やむをえないとわりきっていても、次の人がたとえばねじまわし一個だけ持って立ってたりすると、気がとがめる。
 でも、基本的にはそういう時は私は順番をゆずらない。ずらっと列が並んでいたら、何人もに次々はゆずれないのはわかっているし、次の人の買い物の量がどの程度だったらゆずるかも微妙だし、そこでもたもたゆずりあっていたら、レジの人が混乱する。理不尽でも、そこは並んだ順番という原則を守った方がいいと思っている。もちろん私も、なるべく何種類のかんづめなら、それぞれ同じ数だけ買うようにするなどして、レジの省エネ化に協力はしているが・・・
 などと、わざわざ書くまでもなく、こういう時に買い物が多い人が「どうぞ」と仮に後ろの人にゆずることがあったとしても、それはあくまで善意であって特別であって、当然と思ってはいけない。それで、「なんだか暖かい気持ちになる」のは勝手だが、だからって、山のような買い物をしている人がゆずってくれないからと言って、暗い気持ちや寒々とした気持ちになられたら、それこそ世間が殺伐とするだろう。それこそ「前に並んだ人が先なのは当然」と思って、のんびり待つ方が、ずっと暖かい気持ちになれるだろう。 
 というのが、大量の買い物をしていると、時々ものすごく敵意のこもった、いらいらした目で見られることがあるからで、「先にゆずるのが当然だろ!」みたいな念波がびんびん飛んできて、こっちはかえって、ゆずるきっかけを見失う。高速道路でびったり後ろにつけられて、あおられると、よけて先に行かせる余裕もなくなる、あれと同じだ。
 で、この前、テレビを見ていたら、スーパーでのマナーについての話だったかで、あるタレントが「私は買い物が多い時は後ろの人にゆずるようにする」と言って、皆が「ははあ」と感心していたので、むかついた。この人、時間がないのにたくさんの買い物しなきゃならない生活や、レジでのいろんな状況をどれだけ知っているんだろうとも思ったが、何より、「それがマナー」みたいな、こういう発言すると、例の念波を送るような人たちは、それを力にますますもって「それがマナーよ!」みたいな気分で圧力かけて、自分も他人もいらいらさせるんだろうと思って、うっとうしかった。
 人の善意は世の中を楽しくするが、それが当然のマナーと混同されると、この上なく不愉快な社会が実現する。
 ずっと昔、赤い羽根か何かの年末の募金活動をした人が新聞に投書していて、「こういう年齢のこういう人が一番よくカンパしてくれて、こういう服装のこういうタイプの人はしてくれなかった」と分析批評しており、私は完全にぶちきれた。その頃はまだくみとりトイレだったので、その記事をずたずたに破ってトイレの中に捨てた。それでもまだ怒りがおさまらなかった。募金だのというものは、してくれなくてあたりまえと思ってするのが当然で、それに不満や怒りを抱くぐらいなら、はじめからそんな活動なんかしない方がよっぽど人間が上等だ。人を評価し差別するための募金活動なんて、おぬしはいったい何を勘違いしている。たかが何時間か募金箱持って街頭に立ったぐらいで、いったい何様になった気色でいるのだ。あらゆる善意の募金活動をしているすべての人の顔にも、泥をなすくりつける行為だとは思わんのか。
 スーパーのレジで順番をゆずるのを「当然だ」という気持ちになっている人にも、私はそれと似たものを感じる。善意は快くほどこし、喜んでうけとるものだ。苦になるなら与えない方がいいし、もらえないからと不幸になっては本末転倒である。
   

(21)そこがすれちがう

 しゃかりきで仕事をしていて、もう絶対に間に合わない仕事をかかえている時は、当然ながら寸暇も惜しい。なので、レストランや喫茶店で食事するにも、優雅に楽しみたい、こんな食べ方は胃に悪いとはわかっていても、万やむを得ず、本やノートをテーブルに広げて仕事をする。もちろん、一刻も早く食べ終わって仕事場に帰りたいのだが、食事が運ばれてくる、その数分も惜しいのである。
 ところが、聞いたわけではないからわからないが、お店の人にはこれがまったく誤解されている可能性が高い。つまり、本を広げて読みふけっていたり、メモやハガキを書きなぐっていると、ゆったりしているように見え、そんなに時間を気にしてはいないのだなと判断するらしい。
 忙しいのはこちらの都合だ。だから決して特別待遇で早く持ってきてくれとは思わない。でも、せめて最低、普通のスピード、普通の順番で食事を出してくれることは期待する。
 でも、気のせいではないと思うが、本など読んでいると、お店の人は急がない。どうかすると他のテーブルよりあとまわしにされたりする。ぼんやりとそれに気づくと、今度はそれが気になっていらいらして、読んでいることの内容がさっぱり頭に入らない。
 私もネズミなみの学習はするから、こんなことが続くと、一分一秒が惜しい、今このカバンの中の本が読めたらとは思っても、ぐっと我慢し、じっと耐えて、宙をにらんでお店の人にさりげなく、おあずけされた犬状態で食事をひたすら待ってますというプレッシャーをかける。そうすると、さすがに一応普通に食事は出るが、ああ、この待っている間にどれだけ仕事ができるだろうと思いながら座っているのも、これまたいらいらしまくってしまう。
 ついでに言うと、これはお店に限ったことではないが、本に読みふけっていて、何か考えがまとまりそうになったり、貴重なアイディアが生まれたり、読んだことに感動したり咀嚼したりしたくなった時、多分誰でもそうだろうが、私は本から目をあげて、しばらくぼんやりしている。ところが、周囲の人は必ず、そんな時をねらって声をかけてくる。熱心に読んでいる間は邪魔したくないと思っていたのだろうから、それも無理はないが、実は本を読むのを中断している時というのは、一番声をかけられたくない。
 まあ、結局は人前で本は読むなということか。
 昔は汽車や電車の中で、隣に座っている人からよく声をかけられることがあった。本を読みふけっていると、私が本から目を離すのを今か今かと待っている気配が横から伝わってきて、これまた読んでいる内容が頭に入らず、叫びだしたくなることがあった。昔は人情があっていい時代だったなどと言うが、電車の座席が向かい合わせではなくなり、乗客同士の会話もなくなった今の方が私はずっと幸せである。
 

(22)がらがらの本棚

 人にもよるのだろうが、ぎっしり本がつまった本棚では勉強ができない。だから、他人の書棚はどうでもいいが、自分の書棚に限っては、すかすかに空いていないと、すごくいらいらしてくる。
 もちろん、これは私の仕事のやり方のせいで、何かの論文を書くとか本を書くとかいう時には、それに必要な本を集めて、並べて、読んだ順からまた並べ直して、という仕事の仕方が私は一番能率が上がる。
 書棚は私にとって、大きなノートかキャンバスのようなものなのだ。読んで、頭の中で整理したままに本を書棚に並べて行って、それが増えて行き、一つの壁画のように、一見何の脈絡もない本が、私にだけわかる、テーマにそった並び方になっていくのをながめている時が一番楽しい。
 でも、こういうやり方をする人は少ないのだろうか。時々、雑誌の取材で仕事場を撮影することがあるが、カメラマンはがらがらの棚を背景にしては写真をとりたがらないで、「え〜」と困った顔をするし、学生は私が必死で空けた本棚を見て、「あ、ここには空きがあるから、今度自分の余った本を持ってきます」などと言う。
 どっちも、まことに無理がないので、苦笑して特に説明はしないのだが・・・いや、本当に、ぎっしり本がつまった書棚を使って研究できる人というのがうらやましいし、どうやったらそうできるのだろうかと思っている。
 

(23)動物じゃあるまいし

 昔、テレビかラジオかで、子どものしつけ方を話していました。靴を磨かせるためには、汚れた靴を片方だけきれいに磨いて放っておいたら、子どもは残りの片方を自然と磨くようになるという類で、体罰やお説教よりはスマートな手口だと感心はしたものの、私だったらおそらく、片方が汚れていても気づかず履いて行くだろうし、そのような教育的配慮に気づいたら、きっとわざとでも磨かないだろうなとも思ったことです。
 ある市民団体に参加しているのですが、忙しくてなかなか例会に顔を出せません。私だけではないらしく、出席率を高めようと主催者は努力している風でした。
 ある時から、例会の出欠を知らせる葉書の形式が変わりました。各支部の出席の人数などを書く欄だけが残されて、「欠席」という項目が消えていました。つまり、欠席に丸をつけようと思ってもつけられない形式になっていたのです。
 最初に見た時は漠然と溜息をついただけでしたが、それが次の月からもずっと続いて行く内に、次第に不愉快ないらいらが募りました。なぜ、例会に出席する人が減っているのか、どういう事情があるのか、どういう改善が必要か、そんなことには向き合わないで、「欠席」がつけにくい形式の葉書を送って出席者が増えるかもしれないと思っている、そうした小手先の小細工が、やりきれませんでした。
 私は、直接訴えられたり抗議されたりしたことには、我ながら素直に耳を傾けると思っています。しかし、このような操作をして、人に何かをさせようとする相手は、恋人でも友人でも師でも弟子でも、大切にするべき相手とは思いません。こちらもまた、粗雑で卑劣な対応をしてかまわない人間として、自分の中で分類します。
 夏目漱石の「吾輩は猫である」の中で、苦沙彌先生の姪の雪江さんが、女学校で聞かされた訓話として、馬鹿一とお地蔵様の話をしますね。冗談めかして語られていても、あれは至言だと思いますよ。
 こうやって、人の心を操作したりもてあそんだりして楽しむ人に限って、自分がそうされるとは思っても見ず、そうされたら衝撃を受けるのは私には実に愚かに思えます。私自身、こうしたゲームは好きですし、多分下手でもありませんが、そうしてもかまわないと思った相手にしかしませんし、自分がどんなしっぺがえしを受けても文句は言わないことにしています。
 その市民団体の葉書ですが、私はその形式になって以後、出席できる時でもすべて欠席しました。「出席」の人数に「0」と記入して送っていました。まもなくその形式は廃止されましたから、あまり効果も上がらなかったのでしょう。
 手練手管は、使う以上は成功を目指して最高のものを使うべきです。そうでなければ、自分が相手をどの程度に見ているか、そういう自分がどの程度の人間か、相手に露呈してしまうことになり、それは、甚だ危険な賭けです。
 

(24)正月らしくちょっとは景気のよい話を

 もう何年前のことになりますか。仕事の関係で友人からたいそうな額のお金を預かることになりました。半年近い期間限定で、友人にまた渡しましたので、今私の手元にはまったくそんなお金はありませんので、空き巣や強盗を予定されている方はあきらめて下さい。
 でも、その当時は株券なども含めると実に数億のお金でした。生まれて初めて手にしたし、もう一生お目にかかることはないでしょう。
 自慢ではありませんが貯金が1千万とてない私には、万一紛失したら一生が二度三度あっても払えない金額でした。
 それまで、たまたま親戚にゆずってもらった貸金庫があっても、家の権利書を入れておくぐらいで使ったこともありませんでしたが、さすがにその時は家に置くのも恐ろしく、その貸金庫は遠くの町でしたし、友人の都合では急に何度か出し入れすることも必要だったため、自宅にほど近い、田舎の小さい銀行で、たまたま空いていた貸金庫を契約できて、そこに入れました。
 それまで使っていた貸金庫は、大きな銀行だったこともあり、貸金庫室に入るまでには二重三重のチェックがあり、価値のあるものなど何も入れていない私はくすぐったい思いをするほどでした。でも、新しく契約した田舎の銀行は、旧式なシステムで、仕切りのあるコーナーの奥に、担当の行員がその都度、貸金庫の箱を運んできて、私を一人にし、用事がすんで呼ぶと、また来て、その箱を奥の金庫室に持って行くシステムでした。
 その金庫室もあまり厳重に施錠されている様子もなく、不安ではありましたが、自分の家におくよりは大丈夫だろうと自分に言い聞かせていました。
 でも、何度か貸金庫の出し入れをしている内に、行員の方の、その箱の扱い方が、とても気軽そうなのに、いやでも気がつかないではいられませんでした。
 私はその銀行と取引はそれまでしたことがありませんし、外見は目立たなくさえないおばさんですから、まさかその貸金庫の箱の中にそれだけのお金が入っているという想像はしていないのだろうなと何となく感じて、でも「何億という大金が入っています」というわけにも行かなくて、とても気がもめました。
 そんなことが続いていた何度目かに、用がすんで貸金庫の箱を返し、行員が持っていこうとした時に、別のお客がたまたま窓口に来ました。新しい契約かなじみの顧客かわかりませんが、ともかく大変悪い予感がしたのは、行員が明らかに両手に抱えている私の貸金庫よりも、そのお客に気を取られているのが、ありありと見てとれたからです。
 あまりに不安だったので、ちょっと立ち止まってそれとなく見ていたところ、何と彼は、かたわらの机の、パンフレットや帳簿をたてた本立ての上に、斜めに無造作にひょいと私の貸金庫を置き、それに背を向けて座ったまま、接客を始めました。もちろん、他の行員に声をかけることもなく。数億の資産の入った貸金庫の箱は、誰も気をとめることもなく、置きっぱなしにされていました。
 私は我慢できずに近寄って、「すみませんが、それをしまっていただけますか」と控えめに声をかけました。「あっ?」と行員は驚いたように立ち上がり、貸金庫を奥の部屋に運びましたが、恐縮した様子も慌てた様子もまったく見せませんでした。
 私はそのまま帰りましたが、一晩熟慮した結果、その貸金庫から中身をすべて出して、友人に返すまでの残りの期間は別のところに保管しました。大変な犠牲を払いましたが、そんな事は言っていられないと思いました。
 銀行で自分のものでもない億や兆の桁の資産を扱っていると、あの行員のような感覚になるのでしょうか。それならまだしも救われますが、実際にはそうではなくて、彼はただ、私のような普通の中年女性が貸金庫の中に入れるものなど、どうせそれほどのものではないのだろうと無意識の内に思い込んでしまっていたのだと思います。
 それは私にとって、自分がどう見られたかということとはまったく関係なく、非常に不快なことでした。自分の職業に真剣で誠実でない人間の精神を、たまたま目にしてしまった不愉快さとでも言うのでしょうか。
 家に近いこともあり、老後の年金その他の取引はそこにしてもいいかと思っていたのですが、もちろんやめました。
 今では、その建物に近づくのも不快な思いがしています。
 

(25)今さら何を

 かねがね言っているように、私は自分の指導している学生が卒論出せないで留年してもぜんぜんかまわないと思っている。よって、四年生の春がすぎ夏がすぎ秋がきて冬になっても、いっこう卒論の進んでいる風がなくても、本当に痛くもかゆくもないし、いらいらもしない。
 せっぱつまって「何もしてない」とクリスマス前後に相談にかけこまれても、できそうな内容を教えてやるだけのことで、別に腹も立たない。
 だがしかし!
 わりと熱心にとりくんでた者、ほとんど何もしておらずあわてている者の区別なく、なんでどうしてもう君たちは、締切数日前になって、いきなり「あれもやりたい、これもやりたい」「これも調べたい、こんなことも書きたい」と学問研究の情熱に燃えはじめるのだい。
 そういうのは遅くとも半年か一年前に・・・まあ、わかってる。私が悪いのだよ。いやがられても恨まれても、びしばししごいておどかして、そういう境地にもっと早くに目覚めさせるべきだったんだろう。そういうことが果たしてできたかどうかは知らんが。
 それにしてもだ、この期に及んでそういう壮大な計画を語り始める彼らに向かって、「いや、気持ちはわかるよ。でも時間的にもう無理だろうが。どうしてもやりたければ、やってもいいけど、最低のものだけは今の段階でまとめておいた方がいいって」と一人一人に懇願して、そのたびに「まだやりたいのに先生がとめる」みたいな悲しそうな目をされるのって、どう考えても絶対間尺に合わないと思う。
   

(26)カレンダーの金具

 これも年頭ならではのいらいらだが、去年のカレンダーを片づけようとして、いまはやりの分別ごみに出すべく、閉じてある金具にはさまっている、破った残りの紙のはしをはずそうとしたら、これがもう絶対にはずれない、とれない。そのうちにと思って、台所のテーブルのはしにおいたまま、もう正月も10日をすぎた。
 鏡餅も片づけ、今日こそはと思ってペンチや缶切りを駆使しても、なかなかはずせない。絶対にそのうちに指を切るぞと思いつつ、意地になって素手でやっていたら、やっぱりいつのまにか切っていて、あたりが血だらけになっていた。
 どうにかそれでもはずして捨てた。でも、壁を見ると、今年のカレンダーにも皆同じ金具がついている。ひぇ〜。何だかもう一年ずっと、来年の初めを思いやってはいらつきそうだ〜。
 

(27)お休みですか?

 これはもうずっと前から、実はもう何年も前から腹にすえかねているのだが、でもきっと自分の精神状態が普通じゃなくていらいらしてるだけで、本当はそんなにいらつくことじゃないんだと、ずっと自分に言い聞かせてきた。でも、そんな状態が何年も変わらないんじゃ、やっぱり書いておくしかないと思う。
 いや、被害妄想なのかもしれない、多分そうだろうと思う。思うけど、でも、言ってしまう。
 世の中の人って、大学の教員は休みが多くてヒマなんだと、どうでも思いたいわけ?
 顔見知りの店に行くと、必ずと言っていいほど聞かれるのが「あれ、先生、お休みですか?」で、ひどい時には一日に数回聞かれることがある。
 それがもう、どう考えても絶対にお休みなんかじゃあり得ないだろうという、平日の夕方でも言われるし、逆に土曜や日曜でも言われる。休んじゃ悪いのかいと言い返したくなる。
 言う方はただのあいさつなのかもしれない。それと私が土日でも仕事で出なきゃならないのを知っているから、逆に休日でも「今日はお休みなんですか」と聞きたくなるのかもしれない。
 でも、いらっと来るのだ。理不尽かもしれないが。
 正月の半ばでも「まだ大学はお休みなんでしょう?」と言われる。12月の中頃でも「もう大学はお休みなんでしょう?」と言われる。「今は春休みでしょう?」「もう夏休みでしょう?」そしてあげくに、「休みが長くていいですね、先生たちは」である。この最後のを言いたいばかりに、しょっちゅう、人が休みかどうかを確認したいのじゃないかと疑いたくなる。
 今さら大学教員の研究というのは昼夜の区別なく、休日もなく、学生指導もどうかすると夜中もかまわず呼び出されるということは、まあおいておこう。この10年来の大学は、春休みも夏休みも事実上ほとんどない。休日返上の会議も日常化している。言っとくが、12月は24日まで授業があり28日まで会議があり、正月は4日に出勤、5日には授業開始ですよ。覚えとけ、世間。
 こんなことでは、医療につづいて教育も学術研究も日本は危機を迎えるだろうと、一応は警告しておくが、まあそれも別にどうでもいい。
 私がムカムカイライラするのは、これも思い過ごしとはわかっているが、こうやってのべつまくなし、顔を見ると「お休みですか?」と聞く人って、「わあ、いいですね、大学の先生は」と言うか、「まあ、大変ですね、大学の先生も」というか、どっちにしたって、要するに、「それに比べて自分は恵まれてないなあ、不幸だなあ」と自己憐憫に酔うか、「恵まれてるようで、案外この人不幸なんだなあ、私の方がましかも」と自己満足にひたるか、どっちかをめざしてるとしか思えないからだ。そして私は実にしばしば、こういうかたちの「自己発見」「自分探し」の基準の対象に選ばれてきた実感があるからだ。独身だとか、外見だとか、地位だとか、収入だとか。やめてほしい。能力だって、ごめんだね。私を基準に何かをあきらめたり夢見たりなんてしないでくれないか。休みがあろうとなかろうと、金があろうとなかろうと、健康だろうと病気だろうと、人のことなど気にするなよ。
 私がこういう問いかけにいらいらする理由の一つは、私の状況が休みなんだか休みでないのか、一口に言い表せないということもある。それは金でも健康でも同じで、正確に自分の状況を伝えることは実はかなりに難しい。ところが、こういうことを聞く人というのは、休みかどうかいつも何度も聞くことで、私の生活や状況を把握できたつもりになるのが恐ろしい。
 案外それが、この手の質問で私が一番いらだつ原因かもしれない。私のことなど何も知らないのに、知ったつもりになろうとしている人がいるということが。
 思えば私は家族にも同僚にも指導している学生にも地域の隣人にも、親しくしてはいても、個人の予定や生活は何も教えていない。いつが休みか忙しいか熱があるか金がないか、まったく気にしないで学生は私に指導を求めてくる。家族も私の予定などまったく聞かず、必要な時だけ私と予定を調整する。同僚や地域も同様。これこそが私は実に快い。よくぞ周囲をしつけたものだと自分をほめてやりたいぐらいだ。
 結局、私の私生活に口をはさんでくるのは、時々顔を出すお店の人だけというわけか。あれま、かなりぜいたくな悩みかもしれないな、この状況は。
 

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