「吉野の雪」(5)

終章 雪がふる

    
  
《 去年まで住み慣れ給ひし跡を帰り来て見れば、今年は何時しか引きかへて、門押立つる者もなし。縁と等しく塵積もり・蔀・達戸皆崩れ破れたり。御簾をば風ぞ捲く。一間の障子の内を分け入りて見ければ、蜘蛛の糸乱してぞ見えし。これを見るにつけても、あはれ日頃はかくなかりしものをと思ひ知られて、猛き心も前後不覚にぞなりにける。(義経記巻六) 》       

       一

  
 新しい年があけた。
 来る日も、来る日も、冷たい風が京の町々に吹きすさんだ。女の家の粗末な壁にはりつけた木の板が風にはがれてばたばた鳴っているのが、夜寝ていてもよく聞こえた。
 ある朝、目をさますと、風の音がしなかった。あたりは明かるくなっていた。物売りの声もしない。
 女はまだ裸の肩を、私にくっつけて、よく眠っていた。その肩に顔をつけて、私も目を閉じたが、しばらくすると、やはりまた、目がさめてしまった。何か奇妙な、いつもとちがう感じがして、寝ていられなかった。以前の生活の名ごりかもしれないが、そういうときには、身体がひとりでに緊張してきてしまうのだった。
 あたりを見回すと、障子の外がほんのりと明かるい。朝の光ではない。私たちは眠りすぎたらしかった。昼すぎか、夕方に近いのかもしれない。
 それにしても静かだ。風の音も、足音も、人声も、何ひとつ聞こえて来ない。だから、寝すごしてしまったのだ。
 明かるくて、静かで、ひどく寒かった。夜着からはみ出た女の肩は氷のように冷えていた。それをおおってやりながら、入れちがいに、床からすべり出て、私は服を着た。
 どうしたわけか知りたかった。外をのぞいて見たかった。漠然と、春がきたのかもしれないと思った。都で迎えたいく度かの春は、いつもあわただしく、戦いのしたくにあけくれていて、ゆっくりと、静かに春の訪れてくるのを待っていたことはなかったのだ。
 障子を開いて、せまい、中庭に向いた縁側に出た。一瞬私は、自分が何を見ているのかわからなかった。
 数かぎりない大きな白い羽が空からまいおりてきていた。雪がふっていたのだ。
 中庭の向こうの細い道にも、家々の間にも人気はなく、風もぴったりやんでいる冷たい明かるい世界の中に、限りなく雪が、ふりつづけていた。
 京に帰ってきてから一度も雪を見ていなかったことに初めて気づいた。その年の冬、京は鋭い風だけだった。私は、その布を裂くような音と、たたきつけてくる冷たさとだけになれていて、それだけが京の冬だと、うっかり思いこんでいたのだ。
 雪をじっと見つめたまま、私はそこから動けなかった。
    

       二

 …雪は
 雪は嘘のように明かるく、軽く、光となり影となって、女の家の、狭い庭いっぱいに、音もなくふり注いでいた。
 いや、黒い粗末な柴垣の向こうにも、さし出た隣家ののきの前にも、細い小路にも、その間から見えるうす灰色のなだらかな遠い山の影の上にも。
 遠い? 何が遠いか近いのかそのとき一瞬私の視界は混乱した。柴垣も隣家のひさしも、山も小路もすべての間に雪はふりつづけ、下りつづけ、それらを押しひろげひきよせ、空気はあちこちでふくらんでゆがんだ。
 世界も、時間も、どこか乱れた。私は見た
 自分がすべてを失って明かるい空間のなかに立ってあたりを見回しているのを
 私は自分が何才か忘れた
 自分が何者で何をしていたか忘れた
 何も見ていたわけではなく、ただそのときに、すべてを見た。
 私はたくさんの人と自分の区別がつかず、母になったような兄になったような、見たことのない父になったようなさまざまな気持がした。
 しみいるような寒さだった。もの音はただの一つもしない。黒い縁側のはしをふみしめた自分の素足がぼんやり見える。小さい笹の葉の上にも、もううっすらと雪があった。
 目をあげると雪はますます激しく多くまるで私をとり囲むようにふりはじめていた。雪、それ自体には何の物音もしないのに、それは今、大きな強い声を出して、私に何かを言いはじめ、私はその音にならない音のひびきをはっきりと耳に聞いていた。
 空白な音の重なりの中に、ただ一つの声が聞こえた。私自身の声だった。私の唇はとざされたままなのに、私はたしかにその声を聞いた。
 …殿
 初めて私は
 甘い、やさしい、あこがれにみちたその声を聞いた。哀しいほどに他には何もなくて、ただひたむきな愛をこめ、一歩でも二歩でもその方へ近づこうとしているその声を。
 初めて私は自分の声をはっきりと、他の人の声を聞くように、自分の耳で聞いた
 雪の中に
 雪の明かるさの中に
 私はそのやさしい うっとりとした声を聞いた
 そして私はそのとき思った
 もう何もなくていい
 ふりつむ雪を見つめながら私のほおに涙が流れた。
   

       三

 したたかに手をつかまれて、振り向かされた。女が私のすぐ前にいた。
 「何を、見ていたの!?」
 女は低い、押しせまった声で聞いた。
 二人で夜をすごしたあと、きつい強い言い方で私に何かを話しかけるのは女のくせで、私もそれにはなれていたが今日の女は、それだけではなかった。いっぱいに見はった目が、さぐるように私を見つめつづけ、その黒い目の中にも、背後の明かるい雪の空が映っているのが小さく見えた。
 女はふるえる手を上げて、両手の指で私のほおの涙を強くぬぐった。その指は冷たく、私は思わず身ぶるいした。
 「何を、見ていたのです?」
 ぐったり両手をたらしながら、女は一人言のように低くまたそう聞いた。
 「雪を」
 私もそれだけを低く言った。
 女は私の肩ごしにちらとふりつづける雪を見たが、すぐに私に目を戻した。
 「入りましょう、もう、中へ」
 その声の一言々々に、女がこめている熱い強さは、重い祈りのようだった。女が自分のあらゆるものを、今、私に向かって流れこませ、雪から、明かるい空白から、私をひきもどし、よみがえらせようとしたのがわかった。
 「ここは、寒い、忠信さま」
 あたたかい寝床と、あたたかい女の身体を私は思い出した。なつかしく、胸いっぱいに思い出した。いとおしさがあふれてきて私は女を抱きよせ、髪をなでおろし、唇をよせた。もはや、何をしようとも、そこに心をひきとめられることはないと、あまりにもよくわかっていたので、いっそう女がいとおしかった。
 私の腕の中で、女の身体が油断なく、私の心を、私の身体の動きからさぐろうとして、動いているのを私は感じた。とまどって…疑って…そして女は気がついた。魚のようにぶるっと激しく身ぶるいして女は私の腕の中から身体をおこし、目を上げた。
 「…ああ、そんなはずがない!」
 低く、荒々しく女は叫んだ。
 「あなたが、行ってしまうなんて! 第一、どこに行くというんです? どこに行くところがあるとおっしゃるのです? あなたはもう…あの人を見失ったのでしょう? あの人は、いはしません。さがしたって見つかるものか。あの人は行ってしまった…多分もう、死んでいる」
 「…あの人は、今も、いて」
 ロを開いてそう言いはじめたとたん、涙が熱く、またひとりでに、ほおを伝って流れおちるのを感じた。
 「どこかへ向かって旅をしている。この同じ雪の中を、皆をつれて。片岡八郎。亀井六郎。常陸房海尊。武蔵房弁慶。駿河次郎。伊勢義盛。鈴木重家。鷲尾三郎。…」
 「やめて。その人たちも、もういない。皆、死んでしまっています」
 「いや、皆、生きている」
 私はほおえんでいた。ほおえまずにいられなかった。
 「あの人が皆をつれて、この、今も、雪の中を歩いていく。どこかへ向かって…そう、みちのくへ …みちのくへ、きっと、向かって」
 「忠信さま!」
 歯をくいしばった女の目にも、今はあふれる涙があった。
 「幻です。それは幻です」
 「あの人は、歩きつづけている。私が追いついて行くのを、待ちながら、私のふるさとへ、兄のふるさとへ、母のいるところへ、あの方が、行かれる。他にあの方の行くところはない。あの方は、知っておられる。私もそこへ行くのを、知っておられる。だから…」
 「そんな声を出さないで! そんな目をなさってはいやです! おっしゃらないで下さい…いけません!」
 「私があの方と会えるところは、あそこしかないから、あの方は行かれた…私も行く」
 「いけません!」
 女の身体にぞんざいに着ていた小袖がぬげおちた。ふりしきる雪の縁先で、女は裸体だった。それに気づいた様子もなく、女はその身体をぶつけるように、私の身体にしがみついた。しびれるほどに冷えきった私の身体のあちこちに、焼けあがるように熱い女の肌がふれてきた。
 「行かないで下さい。行ってしまわないで」
 女の身体はつきあげるように私の胸の中でふるえた。
 「いつか、こうなると思っていた。忠信さま。私はいつも恐かった。あなたはいつか必ずどこかへ行ってしまう。行ってしまう人と思えばこそ、ますますあなたを好きになってゆく私の心を、どうすればよかったのでしょう。こうなることを知っていても、けれど許せない。私にどうしろというのですか? あなたを追えというの?私は行けない…私にはできない」
 「あなたを憎んではいないし…追ってきてくれとも…あなたのことはわからない。私にわかっているのはただ私のことだけなのだ。行かなければならない」
 女の顔があおむいて、私のほおに、涙でぬれきったその顔が何度も激しくすりよせられた。
 「あなたは自分を私に与えておいて、そしてこうしてとりあげなさる。あなたがいたところをどうすればいいのです。もうとりかえしがつきません。あなたには何もおわかりではない」
 「あなたにだってわかっていない」
 私はぼんやりそう言い返した。
 「私は…行かなければならない」
 「みちのくから来て、みちのくへ帰りなさる…それではいったい、私は何です!? 何だったのです、忠信さま!? 生まれたところにあなたが戻る、それをあなたが決めるための、ただの通り道なのでしたか!?」
 私は、答えなかった。
 「行かないで下さい…いて下さい…どうか…私をおいていかないで」
 女の腕は私の首にしっかりとしがみつき、熱い涙と息とが私の首すじをぬらしていた。
 私は女の手首にゆっくり両手をかけ、静かにそれを、ひきおろした。
 「私はただの…男です。田舎者で、戦いにも負けた、ただの、一人の…」
 何を言いたいのか自分でわからず、私はことばを手さぐりした。
 「決してあなたにとって、そんな大切なものではないし、かけがえのないものでもない…私にはわかりません。本当にわからない…どうしてあなたが、そんなに私に、こだわるのかが」
 「あなたは残酷な、冷たい方です」
 雪の中に、女の裸身は怒りにかがやくように見えた。
 「許せないほど心の鈍い、何もわかっていらっしゃらない方です」
 私は女を押しやって、落ちていた着物をひろい、女の肩にかけようとした。
 女はぱっととびすさり、庭の雪の中にとびおりた。もう、そんなにもつもったのかとびっくりするほどくっきりと女の小さい足あとが白い雪の中についた。
 雪の中から私を見上げ、こぶしをにぎって女は叫んだ。
 「忠信さま、私はあなたを許しません。みちのくへなど行かせはしない。あなたはここで死ぬのです。誰よりみじめに、苦しんで…今のこの、私以上に苦しんで」
 「どうやって?」
 私は思わず笑って聞いた。
 雪を散らして女は柴の戸に走りより、それを押しあけ、狭い小路へとび出した。裸のままで雪の中を、女は走り去っていった。
 私はあきれて見送っていた。夢を見ているような気がした。気がつくと女の小袖を私はまだ指につかんで持っていた。ぼんやりはなすと、小袖はふわりとうす青に赤い小菊の紋を散らして雪の上へと落ちていった。すぐその上にも雪が落ちはじめた。空気をこもらせてふくらんだ小袖は、雪の上で雪片をうけながら、軽い生きもののように、かすかに動いた。
 女はいない。
 そう思った。
 雪がまた、大きなうつろな、たくさんの声で私を呼んだ。ひかれるように私もまた、雪の中を歩き出していた。
 女の小さい足あとがしばらく目に入ったが、やがてそれも見えなくなった。ふりつむ雪が消したのか、道がちがってしまったのかわからない。
 どちらでも私にはかまわないことだった。
 少しづつ、日がくれかけているのかもしれない。あたりは次第にぼんやりと、うすい黄ばんだ光の中に、もののかたちをかすませはじめ、雪はますますふりつのった。
   

       四

  どこをどう歩いたのかわからない。
 私は、堀川の館に来ていた。
 雪はやんではいなかった。黒い闇の中にますます激しく、白い数かぎりない雪片が動きつづけていた。
 こわれた築地のへいも、見なれた門のかたちも、その中にはっきり見てとれ、門のとびらが片方くずれて、ななめに倒れかかっているそばをぬけて庭のしき石道の上に立つと、館は大きく、黒々と、私の上にのしかかるように、そこに、そびえたっていた。
 どこかよそよそしく、見知らぬものに見えるその館へ、私は歩みよって行った。
 見なれた手すりの下を通って、中庭にぬけて行くと、太い一本の床柱のそばで、ふと、春の日ざしの中で、兄が馬のひづめをひびかせて、私に近よってきてその同じ場所で声をかけたことがあったのを思い出した。忠信。その声がはっきり聞こえた。忠信。おまえ知らぬか。蒲どのがな。平家追討にたたれるそうだが。
 私は思わず目をつぶり、手をのばして丸く太い柱にふれた。あやまたず柱はそこにあった。冷えきって、つめたかった。はめてあるからかねの輪が、指にへばりつきそうに凍っていた。
 私はまた、歩きはじめた。
 私や弁慶や片岡たちが、よく登り下りした中庭から廊下への広いきざはしがあった。下の方の段にはうっすり雪をつもらせて、しかし、嘘のように昔とかわらず、そのままに、あった。
 雪の上に足あと一つついていない広い庭を見わたしながら私はしばらく、そのきざはしのそばに立ち、手すりや、きざはしの床に手をふれてみていた。
 どこをさわっても皆、つめたかった。あるのはただ、雪にしめっているか、かわいているかのちがいだけだった。
 私の目はもう闇になれてきていて、首をめぐらして見上げると、廊下の向こうに、板戸がくずれてぶらさがり、切れたすだれがあちこちで風にゆれているのも見えた。
 私はきざはしをのばった。はだしのままの足の下で、小さく板がきしんで鳴った。こんなに寒いのに、くもがあちこちに巣をかけていて、風に吹きちぎられたそのかけらがきれぎれになびいて顔をなでた。
 廊下を歩き、角を曲がった。いくつかの渡殿をこえた。どのへやも、どのへやも、皆、灰色の闇をこめて、がらんとして、くもの巣と、すだれだけが狂ったように風に舞っていた。あちこちに、古びた剣や、折れた槍や、こわれた桶などのがらくたが、ひとまとめにして積みあげてあった。殿がいつもよくおいでになったへやの前の廊下で、それもよく私がそうしたように、手すりにひじをついて身体をのり出して庭を見ると、私たちが都を出る日、もやしたたき火のあとがまだ、庭のまん中に黒くのこって、そこにも雪がつもりかけていた。
 私はいつまでも一人そうして、庭にふり散る雪の大きなうずを見ていた。

       五

 間もなく手すりから身体をおこしたとき、私は自分でも気づかずに、そのまま後のがらんとした暗いへやの中に入っていって、座った。
 そうしてしまってから気がついたのだが私がそうやって手すりから身体をおこすときというのは、大抵、背後のへやの中から、殿によばれた時だったのだ。
 何か用事を言いつけられるときもあったし、それほどのことではないときもあった。どちらにしても私は笑いながら入っていって、今、私が知らず知らずに座ってしまった廊下近くの床の上のいつもと同じ場所に座り、あれこれ、殿の話し相手をした。
 私は目を上げて、殿がいつも座っておられたあたりの闇を見つめた。
 すると思わず、ほおえんでいた。
 目には涙があふれているのに。
 こうやって、あなたと何度も話していたことを、私は忘れてしまっていました。
 私はそう思った。
 その時ですら、忘れていました。
 今、どこにいらっしゃいますか? 私はここに、おりますが…。
 殿。
 昔、みちのくで、草原の中で、一人で、まだお会いしないあなたと、何度も何度も、話をしましたな。
 やがてあなたが、おいでになった。そのとき以来、初めてまた、こうしてあなたと向きあっています。
 今、どこにいらっしゃるかわからないあなたと。
 「わかりやすいように生きたい。誰もが見てよくわかるような、私の歩いたあとを、はっきりとのこしておきたい…それとも、それも、雪が消すだろうか」
 それとも、それも、雪が消すだろうか。
 私にはわかりません。
 しかし、雪の中に今日私は、私の声を聞きました。
 あなたを愛している…あなたを愛することしか知らなかった人間の声を。
 殿。義経さま。
 私は生まれてこのかた、あなたのことを愛さなかった一瞬など、多分一つもないのです。
 あなたはいつもあなたであり、私はいつも私であり、そして私たちは誰よりも、互いをよく知り、見つめつづけ、互いのために生きたのです。
 私はあなたを追いつめたでしょうか。
 私がいたからあなたは歩きつづけられたのでしょうか。
 私の見つめる視線を、あかたは一度もそらそうとなさらず、うけとめて、うけとめて、生きつづけていかれた。
 決して私を裏切ろうとなさらなかった。
 吉野であなたは言われました。
 「おまえがいなくなってしまったら、私は生きていく力を失う」
 あれも、雪の中でした。殿、私は、いなくなりはしない。ここにおります。ここにこうして。おわかりでしょう、そのことは。
 見ていて下さい。参ります。必ず殿のおそばまで、行ってごらんに入れます。もしかりに、たどりつけなくても、二度とお会いできなくても、私があなたを追いつづけていたことは信じて下さい。私は行こうとしたのです。みちのくへ。もう一度、お会いして、もう一度、本当に、あなたを見、あなたと話をするために。
 何もかももう遠い。こんなにもあなたを愛した私…たくさんのものが入り乱れ、もつれあう、こんな時代と、世界の中で、こんなにも、ただ、あなただけを愛してきた私。今私にはそれだけしかない。
 遠い。遠すぎる。あなたはここにいない。私は歩いて行けますか。本当にあなたと会えるでしょうか。みちのくで。あの、どこか夏でも淡くやさしい光の下で一面にゆれる草の中で、あなたともう一度ことばをかわし、川のそばの道を馬でかけ、雨あがりの水たまりをとびこえてゆくことが、できるでしょうか。私には。
 たとえできなくても信じて下さい。
 私は行こうとしたのです。

       六

 寒かった。さっきから動かず座りつづけている私に、空気は刃のようだった。館の中にはもの音ひとつしなかった。人の肌のぬくもりはどこにもなく、ただ恐しいほどの闇だけがあった。子どものように私は恐くなってきた。みちのくともどこともつかない、まぶしい光と、あたたかい風があふれて、静さまが、義経さまが、兄が、母が、弁慶たちがひしめく世界がちらちらと、闇のどこかにひらめいてはまたどこへともなくたちまち消える。あとには前よりいっそう深い、うつろな闇と、雪だけがある。
 …殿。…殿。私は声をひそめて、目の前の闇を見つめて呼んだ。せめてあなただけでも、なぜ何とかして、そこにいて下さらないのです。どうして、そこにいらっしゃらないのです。
 もう少し時間がたてば私はきっと声をあげて泣き出していたにちがいない。
 はっと私が緊張したのは、門のあたりのざわめきだった。押しころした大勢の、人の声だ。何かかすかに、太刀のふれあうひびきや、馬のあがきも聞こえたようだった。
 私は立って、へやを出た。足音をしのばせて廊下を曲がり、捨てられていた古い太刀の一本をひろって、表のへやへ入って行き、すだれのかげから外をうかがった。
 前庭と門のあたりに、たいまつが動いていた。くずれかけたへいをぐるりと回って、それが館をとり囲みはじめている。門を入ってきた数人が、私の足あとをたどって中庭の方へ回ろうとしていた。
 北条の捕手だ。
 女のことばを思い出した。
 「あなたはここで死ぬのです。私以上に苦しんで。みちのくなどへ行かせはしない」
 そうだったのか、と私は思った。
 怒りも驚きも感じなかった。女が六波羅の役所にかけこみ、私が都へいることを告げ、都のあちこちに手配がされて、この堀川へもさしむけられ、そして私の足あとを雪の中に見て、彼らが私のいることを確信したとしても、そんなことのすべてが今はどうでもよかった。
 太刀の柄がひさびさに、しっくりと、指の中に快かった。このまま彼らを斬りふせて、どこまででも走って行けそうな気がした。雪の中を、夜の中を、ただひたすらに、殿のあとを追って。
 そして私はふといつか、これと同じ夢を見たような気がした。黒い夜の、雪の中に、静かにうごめく、たいまつの列。
 死のうとして死ねず、縁先で、人々の前で、血みどろになっている私。
 それがいったい何だろう。たくさんの人を殺し、たくさんの人の死を見て来た。おぼろな明かりの下で、兵たちの笑い声とともに、ざばざばと水をかけられて洗われていた、泥まみれの平家の公達たちの首。たちわられた身体の中から食事やはらわたをこぼれ出させて死んだ私の郎党たち。横川覚範。菊王丸。私もいずれは彼らのように死んでいくのだ。それが今すぐとしても、少し先のことだとしても。
 私が見た、あの明かるい雪の乱舞。空虚なはてしない明かるさの中に、ただ一人立って、母でも兄でも殿でもあった私。
 血みどろの苦しみのはてに、あれが開けるとしたら、あれが来世というものか。あれも一つの極楽だろうか。
 そしてその、明かるさの中から私自身の声が聞こえる。あこがれて、なつかしんで、一心に呼びかける声が。
 誰を呼ぶ声か、もうそれはわからない。幼い日、みちのくの草原の中で、母や兄や、まだ見ぬ殿に呼びかけたように、ひたむきに安らかに信じきって、私は誰かを、呼んでいる。小さい子どものままの声で。光の中を、歩きつづけて。
 涙はもう乾いていた。私はかすかにほおえんでいた。雪はまだ降りつづけているかどうなのか、もう私にはよくわからなかった。
 私は太刀をにぎり直し、静かにすだれを押しあけた。
 庭にいた捕手の何人かが、目ざとく見つけて何か叫び、たいまつの群が動き出した。
 かけよってきて、ひしめきあう、人々の黒い影の中にいくつも刃が光った。大声で、何か叫びかわす声が庭のあちこちでひびいている。また数歩、縁側を、そちらに向かって、私は歩いた。
  
  
  
  吉野の雪 (終)