寒かった。さっきから動かず座りつづけている私に、空気は刃のようだった。館の中にはもの音ひとつしなかった。人の肌のぬくもりはどこにもなく、ただ恐しいほどの闇だけがあった。子どものように私は恐くなってきた。みちのくともどこともつかない、まぶしい光と、あたたかい風があふれて、静さまが、義経さまが、兄が、母が、弁慶たちがひしめく世界がちらちらと、闇のどこかにひらめいてはまたどこへともなくたちまち消える。あとには前よりいっそう深い、うつろな闇と、雪だけがある。
…殿。…殿。私は声をひそめて、目の前の闇を見つめて呼んだ。せめてあなただけでも、なぜ何とかして、そこにいて下さらないのです。どうして、そこにいらっしゃらないのです。
もう少し時間がたてば私はきっと声をあげて泣き出していたにちがいない。
はっと私が緊張したのは、門のあたりのざわめきだった。押しころした大勢の、人の声だ。何かかすかに、太刀のふれあうひびきや、馬のあがきも聞こえたようだった。
私は立って、へやを出た。足音をしのばせて廊下を曲がり、捨てられていた古い太刀の一本をひろって、表のへやへ入って行き、すだれのかげから外をうかがった。
前庭と門のあたりに、たいまつが動いていた。くずれかけたへいをぐるりと回って、それが館をとり囲みはじめている。門を入ってきた数人が、私の足あとをたどって中庭の方へ回ろうとしていた。
北条の捕手だ。
女のことばを思い出した。
「あなたはここで死ぬのです。私以上に苦しんで。みちのくなどへ行かせはしない」
そうだったのか、と私は思った。
怒りも驚きも感じなかった。女が六波羅の役所にかけこみ、私が都へいることを告げ、都のあちこちに手配がされて、この堀川へもさしむけられ、そして私の足あとを雪の中に見て、彼らが私のいることを確信したとしても、そんなことのすべてが今はどうでもよかった。
太刀の柄がひさびさに、しっくりと、指の中に快かった。このまま彼らを斬りふせて、どこまででも走って行けそうな気がした。雪の中を、夜の中を、ただひたすらに、殿のあとを追って。
そして私はふといつか、これと同じ夢を見たような気がした。黒い夜の、雪の中に、静かにうごめく、たいまつの列。
死のうとして死ねず、縁先で、人々の前で、血みどろになっている私。
それがいったい何だろう。たくさんの人を殺し、たくさんの人の死を見て来た。おぼろな明かりの下で、兵たちの笑い声とともに、ざばざばと水をかけられて洗われていた、泥まみれの平家の公達たちの首。たちわられた身体の中から食事やはらわたをこぼれ出させて死んだ私の郎党たち。横川覚範。菊王丸。私もいずれは彼らのように死んでいくのだ。それが今すぐとしても、少し先のことだとしても。
私が見た、あの明かるい雪の乱舞。空虚なはてしない明かるさの中に、ただ一人立って、母でも兄でも殿でもあった私。
血みどろの苦しみのはてに、あれが開けるとしたら、あれが来世というものか。あれも一つの極楽だろうか。
そしてその、明かるさの中から私自身の声が聞こえる。あこがれて、なつかしんで、一心に呼びかける声が。
誰を呼ぶ声か、もうそれはわからない。幼い日、みちのくの草原の中で、母や兄や、まだ見ぬ殿に呼びかけたように、ひたむきに安らかに信じきって、私は誰かを、呼んでいる。小さい子どものままの声で。光の中を、歩きつづけて。
涙はもう乾いていた。私はかすかにほおえんでいた。雪はまだ降りつづけているかどうなのか、もう私にはよくわからなかった。
私は太刀をにぎり直し、静かにすだれを押しあけた。
庭にいた捕手の何人かが、目ざとく見つけて何か叫び、たいまつの群が動き出した。
かけよってきて、ひしめきあう、人々の黒い影の中にいくつも刃が光った。大声で、何か叫びかわす声が庭のあちこちでひびいている。また数歩、縁側を、そちらに向かって、私は歩いた。