「吉野の雪」(4の3)

第四章 夜あけの川(3)

    
  
       ※
  
 あの男たちも皆死んだ。僧兵たちの強弓にのどを射きられ、その日の朝食べた貧しい食事を、雪の中にまきちらして死んだ若者もいた。私と兄につきしたがって来た郎党たちを、一人のこらず、私は死なせた。彼らの家族は信夫の里から平泉にかけての広い範囲に点在している。いつか私は、彼らのことを、知らせに帰ってやれるだろうか?
 もうすっかり日はくれて、少し雪の残った川のほとりの道を私は歩いていた。ところどころに、松の木があった。ずっと上の方で、枝が風に鳴っていた。
 暗い川面に何か動いている。目をこらしてみると細い一そうの舟がこぎ出そうとしているところだった。私は草をおしわけて川原へかけ下りていった。ここにはもう雪はなく、川風だけが冷たい。
 「どこへゆく舟だ?」
 私は声をかけた。
 舟の上の人かげがこちらをふり向き、さびた声が戻ってきた。
 「都まで、野菜を運ぶ舟だ」
 「のせてってくれ」
 「いいとも」
 さしのべる手につかまって、私は舟にはいあがった。一人がさおで岸をおし、舟は流れ出した。
 私以外に何人か、のせてもらっている者がいるらしく、暗がりの中に低い声で話がかわされていた。三井寺の屋根の一角が風でこわれたという話をしているのは僧侶らしい。今年は霜が早くて作物がいたむということを言っている者もいた。
 私は珍しいものを聞くような気持で聞き耳をたてながら、黙って舟べりにもたれていた。
 都に行けばきっと何かがわかるだろう…殿の行方や、その他のことも。
 わかったらどうするというあてもない。聞けば、そのまま満足して、私は忘れるかもしれなかった。生きているにしろ死んでいるにしろ殿はもう遠い人だった。私の、殿への、あんなにも激しかった憎しみはなぜか消えてしまって、ただ、安らかな、甘い、なつかしさに似たものだけがあった。そして、それと同時に徐々に、私は殿を忘れつつあった。殿とくらした日々の一つ一つに、あれほど身体の奥深くまできざみこまれたと思っていた痛みの記憶が、嘘のように、もうなかった。
 それは私に目まいをおこさせ、長いこと身体を支えていたものがふいになくなってしまったようなたよりなささえ感じさせた。
 私はもう、今は何にもとらわれていなかった。私は初めて私であり、私として生きているような気持がした。人々の話し声も、波の音も、水のにおいも、暗い空に光る星の色も、今まで知らなかったもののように、生き生きと強く、胸に目にしみわたった。
 私は、生きている。ただの、この、私として。
 ぐったりと疲れている一方で、ふしぎに肌がほてってくる。走りつづける舟。私はもう誰でもない。どんなにでも生きられる。
 「積荷によりかからないで下さいよ」
 船頭が後で誰かに言っている。ふり向くと、暗がりになれた目に、かぶせたむしろの間から、はみ出た野菜の細い茎が、夜目にもうっすり、白く見える。
  
       ※
                                         
 あけ方に、舟は都について、いくつも橋の下をぬけた。広い河原に出たときに、朝日が丸い山の端にさして、たちまち光が川の上に流れた。水は灰色と朱色のしまに染まり、川べりで洗いものをしている女たちの姿が小さく黒くうかびあがった。
 僧侶と、人のよさそうな顔の武士が、私のすぐそばで、折りかさなって居眠りをしていた。私は立ち上がり、水干のすそをまくりながら、船頭の方をふり向いた。
 「ここでいいから、下ろしてくれ」
 「深いぞ」
 船頭はそう注意しながら舟をとめ、私は水の中にとび下りた。舟はすぐ、はなれていった。
 水はひざの上まであって、氷のように冷たかった。水の中を大またに、岸へ向かって私は歩いた。すぐ水は、浅くなり、私の足首をひたすほどにかわった。
 洗いものをしている女の一人が首をかしげてじっと私せ見つめていた。
 小石をふみしめて、私が岸に上がろうとしたとき、女はとうとう立ち上がり、両手に菜の束を持ったまま、こちらへ向かって歩いてきた。
 私はふり向いた。朝日の中に、私はそれが、小柴入道の娘と静さまが呼んだ、あの女であるのを見た。私は二、三歩後ずさった。
 女はますます早足に、水の中を、こちらに向かって近づいてきた。歩みを一度もとめないで、近づいてきて、うすみどりの菜をばらばらと水の中におとしながら、まっ赤にかじかんだ手をのばして、私の両手をしっかりつかんだ。
 両手の指をしっかりつかみあったまま、私たちはしばらくそうして向きあっていた。女が落とした菜が私たちの足にぶつかって、小石の上を流れていった。
 見なれた顔なのに、私は初めてこの女を見るような気がした。うつろに明かるい私の心の中に、これまでになくあざやかに、生き生きと、女の姿が流れこんだ。丸い肩、水が洗ってゆく二本の足、腰にしめた色あせた帯、化粧していない、白っぽい顔の色。
 気がつくと女の身体はぴったりと私によせられ、黒い髪がふくらんだ頭が私の胸に押しつけられていた。
 「皆は?」
 小さい声で女は聞いた。
 「皆、いなくなった」
 私は女の耳の方に、吹きおくるように、そうつぶやいた。少し身体をかがめると、女の髪が唇にふれた。
 いっそう低く、女はささやいた。
 「おつかえしていた…あの方も?」
 「ああ。はぐれて、見失った」
 私は吐息をつき、笑った。
 「もう、誰もいない。私は、一人になった」
 岸の方で、柴…、柴…、と呼んで歩く、物売りの声がひびいていた。私たちの腕はいつか互いの身体を抱き、しみいる朝の寒さの中で、水に両足をひたしたまま、私たちはじっとしていた。私が今まで感じたこともないほど、私の心はあたたかだった。
    

       六

 私は女の家へ行った。
 女は一人で酒をのんでいたらしい。へやの中には銚子や盃がちらばって、重いにおいがこもっていた。私を表に待たせておいて、家の中を片づけようとするので、私はあきれて抗議した。
 「冗談ではない。追われている身なのに」
 「でも、すぐに片づけるから」
 「いったい今さら何をとりつくろっているんだ?」
 私は女を押しやって、家の中へと入ってしまった。
 女は少し気を悪くしたように、悲しそうな顔になって黙ってばたばたあたりを歩き回っていた。
 何か、かくそうとしたのだろうか…私は少し気になって、へやの中を見回し、燭台のかたわらに落ちている手紙に気がつき、ひろって、開けた。
 男文字の手紙だった。恋文で、大げさなことば使いで、またその内きっと会いに行くから待っていろなどと書いてある。
 その文面からしても何かひどく人のよさそうな男で、ふと笑えてきた。
 女が見つけて、寄ってきた。
 「だめよ、読んでは」
 恥ずかしそうに手をのばして、とりかえそうとしながら、私と腕がもつれあうと、びくっとしたように、ぱっとはなれた。
 ふり向いて私は、川で見たとき感じたことが錯覚ではなかったのに気づいた。女は美しくなっていた。しっとりと悲しそうなのに、自信にみちた明かるさが底にある表情だった。
 「いい男に、好かれたらしいな」
 手紙を返してやりながら言うと、女は首をふって、そっと手紙を床に押しやり、私の肩に静かにしがみついた。
 「一人の人に、本当に愛してもらえると、女は心づよくなって、ふしぎに、他の人にまで、愛されるようになります」
 ささやくように、女は言った。
 「私のことを、さげすまず…人に何を言われても、気にしないで、通いつづけて下さったのは、あなたが初めてでした。あれ以来、私は自分にも、人なみのよさがあるのではないかと、やっと思えはじめました。でも、そうなれば、なるほどに…あなたがとても、恋しかった」
 女のいうことは私にはあまりよくわからなかった。ただ何となく、前と比べて女が落着いているような感じはした。その夜も、それから続いた日々も、女はことば少なで静かだった。かみしめるような切なさをこめて私と抱きあい、決して以前のような、荒々しい、狂った愛し方はしなかった。
 手紙の主の男はたずねて来なかった。
 「きっと忙しいのでしょう」
 女はそう言った。
 「六波羅にいるの。北条殿のご家来なのです」
 「北条の?」
 私は少し緊張した。私たちが京を出たあと、鎌倉から来た北条義時が、六波羅に役所をおいて、都を支配しているのだ。つまり、この私をかり出して、とらえる仕事も、その男の役目の一つということになる。
 私がそう言うと、女は当惑した顔になって、しきりと目ばたきした。この女にはどこか少し、こういうまだるいところがあって、たとえば静さまのような才気ばしったところはなかった。以前、ことさら大きな声で笑ったり、荒っぽいことをしてみせていたのも、それをかくそうとする手段だったのかもしれない。皆にバカにされていたというのも、そういうところなのかもしれない。女はしばらくしていった。
 「よさそうな人なのだけれど」
 「人のよさとは関係あるまい。私をとらえるのは、その男にとっては、仕事なのだよ」
 思いつめた顔になって、女は目を上げた。
 「命にかえても、私、あなたを、誰にもひきわたしたりなんかしません」
 私は何か言いかけて黙った。女の方が私よりおびえているのに気がついたのだ。命にかえても、などというのは、この女にとっては、なかなか大変な決意のいることばだったにちがいなかった。
 この女は激しいようで、決して激しい気性なのではなかった。それこそ静さまなら、また、みちのくのあの娘でも、どうかしたはずみには、男以上に大胆に、戦うだろうし、命をすてるだろうが、この女は、そうではなかった。冒険や、苦痛は、本能的にさけてしまう女だった。…多分、自分がそれに耐えられないことを、知っているからだろう。
 命にかえても私を守る、と言ってしまったあと、女はそのことばに、自分でひどくこだわってしまった。夜でもあけ方でも人声や足音が戸の近くですると、びくっとはね上がって、とびおきた。あれはちがう、隣の女が水をくむ、いつもの音じゃないか、と私の方が眠り半分で、女に教える始末だった。
 そのくせいざその男があらわれたとき、女は何もせず、声も出せず、門口からとびこんできて、ただ私にしがみついて、ふるえた。何がおこったのかわからなくて、私が戸口の方を見ると、肩はばの広い、紺色の水干の男が立っていて、こちらをのぞきこんでいた。私を見ると肩をゆすって、男はずかずか上がってきた。
 「やっぱり、他の男ができたのか。このごろ手紙も返事がないし、会いたくないとは伝えてくるし、変だと思っていたんだが」
 なつかしいほど徹底した関東なまりの早口だった。今さらかくれようがない。必要ならば斬ろうと思って、私もひざをつき、立ち上がった。
 細いかもいに手をかけて、男はのぞきこみ、うすぐらいへやの中で、二人の目があった。とたんに男が、おやあ? という顔になり、私も思わずロの中で小さくあっと叫んでいた。
 見覚えのある顔だった。陽やけが少しとれてきている広い額と、いかつい目鼻だち…どこで、と記憶を手さぐりするほどもなく、私のまぶたに、あたたかい、青い、鎌倉の海が広がり、暗く狭いへやのどこかに一瞬はるばると、汐の香がしたようだった。それは、あの男だった。名も知らないが、鎌倉の浜でいっしょに、魚をつった…
 なぜか、ここで、こうして会ったことが、そのときはふしぎとも何とも感じず、それより私が強いおどろきを抱いたのは、この男がまだこうして、元気に生きていたということだった。あれからあんなにも数々のいくさがあったのに。木曽との戦い、一の谷、屋島、壇の浦…あんなにもたくさんの、東国の兵士たちが死んでいったというのに…。
 男も私を見つめていた。その日がふっと細くなり、彼もまた、汐の香りをかぐように、鼻をかすかに動かして、深く息を吸いこんだ。にやっと彼の唇が私に向かって笑いかけ、白いよくそろった歯が見えた。
 それからいきなり背を向けて、男はそのまま、出て行った。
 私の名と顔を、彼が知らないはずはない。あのころならともかく、それ以後、戦いのときはいつも、殿のそばにつきそって、ときには代理で全軍に、命令を伝達していた私だから。
 だが、あの男は私をとらえには来ないだろう。なぜか、そう思った。
 女が、隣のへやの奥で、むせびあげるように泣きはじめているのが聞こえた。私がそばに行ってなぐさめ、多分、心配することはない、と言うと、女は私にしがみつき、いつまでも私を放そうとしなかった。
 それ以後二度と、私たちの前に、男は姿をあらわさなかった。
 むろん、北条の捕手も、来なかった。
  
       ※
  
 次第々々に私と女のくらしは、落着きはじめた。
 北条の家来のあの男が、訪れてきて、私に気づいて帰っていって、それでも何ごともおこらなかったというのは、逆にいえば、私が別に追われている身ではないことを、回りに住む人々に教えたようなものだった。家の近くの人々は、私に会っても、珍しいものを見るような顔はしなくなり、女もようやく気をゆるめたのか、隣の家の女たちと、垣根のそばで、私のことを、何か言っては笑ったりしていた。
 出入りする物売りや、裏手に住むおしゃべりの法師などから、いろんな噂が入ってきたが、義経さまとその一行の行方については知れなかった。さまざますぎる情報があって、どれが本当かわからないのだ。
 もう、おなくなりになったのかもしれない。だからこんなにいろいろと、噂だけが走るのではあるまいか。
 私がそう言うと、女はおびえたような、きつい目で私を見つめ、本当にそうでしょうか、と低く言った。
 「それは、本当のことは誰にもわからないさ」
 「あなたは本当に平気なのですか。皆で噂話をしているとき、あの方のお名が出ても…それで何を言われても、あなたはちっとも顔色をかえられないから、私の方がびくびくしてしまいます」
 夕ぐれどきなど、あまり寒くない日には、門口で落葉の小さいたき火をして、人々がより集まっておしゃべりをすることがある。したり顔の公卿くずれらしい男や、うすよごれた衣の法師などが中心となって、宮中や、その他の噂話に花が咲く。
 殿の名はよく話題にのぼった。三十人からの女を囲っていたとか、それは見せかけで、鞍馬山の僧の一人が恋人だったとか、いくさは強いが単純な人で、法皇さまにだまされたのだとか、家来は素性のしれない者ばかりで、ろくなものがいなかったとか…。そんな話になるたびに、女は落葉の煙のかげから、気がかりそうに、うすやみをすかしてそっと私を見る。
 私は何を聞いても平気な顔をしていた。事実、心はさわがなかった。まあ、そういえばそうかもしれない、と思うことも、ときどきあった。
 しょせんは強い力を持った者どうしの権力のとりあいに、どんな必死な戦いも、どんな細心な人々への心くばりも、すべてはかけひきであり、武器であると思えば、それはそう考えられないことはないし、殿はただ、それに負けたのにすぎぬとすれば、それも、そう言えぬことはない。
 ひたむきに、何かを見つめて、守りぬいて生きていく生き方だけが尊いのではない。このごろ私は何となく、そう思いはじめていた。
 それは、ひとつの生き方にすぎない。
 そして、世の中は、もっと複雑な歯車が回る。わりきろうとするのではなく、わりきれぬままに、それをうけいれ、身をまかせ、それでもせいいっぱいに、やさしく、ゆらぎつづけて生きている人たちの方がずっと多いということを、私は知った。
 平家にしろ、源氏にしろ、一つのものをほろぼしたところで、世の中がよくなるわけでも、人が幸せになるわけでもなく、そもそも、世の中がよくなるとか、人が幸せになるとかいうことは、どういうことをめやすにいうのか、わかりはしない。
 もっと細かいまなざしと、しなやかな心が自分には必要だと思った。
 そんな私に、殿はもう、一つの過去だった。
 女とのくらしの何もかもが、そう思ってみると珍しかった。何もかわったことがあるわけではないのに、一日々々が私には、細かいまばゆい、驚きとふしぎさの連続だった。なぜ暗い台所で女がのせる石の下で、白とうす緑の菜は、ああもやわらかくしなってつぶれていくのだろうか。なぜ、閉めていたはずの板戸のこちらに、朝になると、隣家のもみじの黒ずんで、丸くなった赤い葉が、二枚だけまいこんでいたのだろうか。なぜ女は私のひざで、何でもない時、泣くのだろうか。
 それは、冬に珍しいあたたかな日で、私は縁側に座っていた。女は私のひざに頭をのせてよりかかっており、私は女の長い髪の毛を、手ですくい上げては女の肩におとして遊んでいた。
 突然熱いものをひざに感じて私はおどろいた。女が泣いていて、その涙がほおを伝って私の水干にしみこんできたのだ。
 「どうした?」
 私がのぞきこみ、抱きおこそうとすると、女は頭と両手とで、私のひざをきつくおさえた。
 「動かないで下さい」
 彼女はそうつぶやいた。
 「うれしいのです…とても、うれしいのです」
 多分、こんな日々の一つ一つの小さいことのために、本当は、人というものは、生きてゆくのかもしれなかった。
 だとしたら、私は、二十七年間生きてきて初めて今、本当に、生きはじめたのかもしれなかった。
 伝わってくる噂話の中には私が死んだという話もいくつかあった。
 それは本当かもしれない、と私は思った。
 殿が、その一行とともに、おなくなりになってしまっているとしたら、これまでの私も、多分、いっしょに死んでいるのだ。
 これまでの私が死んだから、殿もなくなられたのかもしれない…義経さまという源氏の御曹子は。
 案外、殿も私のように、どこかの村で百姓になって、昔、弁慶といった男や、義盛といった男たちとともに、畑仕事でもなさっていられるかしれない。
 そうなった殿と私は、もう完全に他人だろう。道で会っても気づかぬだろう。
 いや、そもそももう二度と、お会いすることはあるまい。
 淋しくはなかった。
 ある力強さが私をみたしていた。