「吉野の雪」(4の2)

第四章 夜あけの川(2)

       

       四

 私が殿を、ここまで追いつめた…
 そうだったかもしれないし、そうでなかったかもしれない。
 一人の人間が、どんなことで自分の運命を決めてゆくか、それが誰にわかるだろうか。私は今でも自分が、殿に対してそれほどの力を持っていたなどとは思っていない。
 ただ、思い出すことがある。
 堀川の館で、都を落ちる、ほんの少し前に、殿と我々が、かわした会話である。すでに荷物を片づけて、がらんとなったへやの中で、我々主従は向きあっていた。そして、弁慶が言った。
 「九州、四国を与えるという法皇のご命令など、あてにも何もなりませぬ。我々が都を出ればすぐ、法皇は、頼朝さまと手を結び、我らの追討にかかるでしょう。殿にもそれは、わかっておられるはずでございます。どうしてそれをおめおめと、法皇さまのおことばにのって、都を出ようとなさるのですか? ここにふみとどまって、兄上さまと戦う決意さえなされば、やれることはまだいくらでもありましょうに」
 殿は遠くを見つめておられた。郎党たちが庭でもやしているたき火の青い煙が、淡くたちのぼってゆく、空の方を。
 「弁慶、私は…」
 なかば一人言のように、殿は言われた。
 「わかりやすい生き方を、したいのだ」
 「それは前にもうかがいました。しかし弁慶にはわかりませぬ。殿の、その、わかりやすいといわれる今のその生き方が、わかりませぬ。おそらく、ここにおる皆も誰一人、わかってはおらぬにちがいございませぬ」
 弁慶は言いつのった。色の浅黒いほおがまっ赤になっていた。
 「なぜ何もかもおあきらめなさる? なぜ何もかもすてなさる? なぜこうまでなすすべもなく、鎌倉どのの前に頭を下げ、なぜ何もしようとなさらぬ? 生きのこるために…勝つために」
 「私はやるだけのことをした」
 「だが全力をふりしぼってはおられない。法皇さまとのかけひきにしろ、あなたは本気でお兄上とたたかうつもりで法皇さまを味方につけようとなさってはおらぬ」
 「だろうな。本気でたたかうつもりがないからだ。兄も源氏、私も源氏、同じ左馬頭義朝の子だ」
 一瞬、殿がことばを切り、弁慶も黙り、互いが互いの言うべきことばを待ちすまして、身がまえたような感じがした。
 そして、ついに弁慶が、しわがれた、かすれた声で、静かに次の一言を言いきった。
 「…もう、その時代は、おわりました、殿」
 ゆっくりと首をふって、弁慶は続けた。
 「殿が何と言われようと、おわったのです」
 しばらく、あたりがしんとしていた。鷲尾三郎が、かすかに身体を動かして、よく意味はわからないが、何かを肌で感じたような、鋭い目つきを、殿に投げた。
 「弁慶…」
 やがて、うつろな静かな声で、つぶやくように、殿が言った。
 「その時代とは? どんな時代だ? そなたに言えるか? わかっているか?」
 「ここにおる誰もが、それはわかっておりましょう。あなたご自身も、むろん、ふくめて。平家が…平家という一族が、横暴をきわめておった時代です。そのために人々が皆苦しんだ時代です。とりわけて、源氏という一族が。人間扱いされず、さげすまれ、あらゆる土地で権力をうばわれ、平家の下働き扱いされた。ついに平家は、京の貴族たちまで、ふみにじりはじめ、これをほろぼしてほしいというねがいは、上は法皇から下は民百姓、京の町娘にいたるまでの望みとなった。源氏は、それができるものとして、人々に期待され、その役目をはたした。よろしいか、殿。源氏の方々の戦いは、人々の望みの実現であり、法皇さまの御意にかなうものでした。おそらくは、神仏のみ心にも…と申しましょう。しかし、平家はほろびて…もう、それはおわった。これからはもうめいめいは、めいめいのことを考えて、戦ってゆくしかないのです」
 はりつめたような沈黙があたりにたちこめていた。やがて殿が、かすかに笑った。
 「そうなると、弁慶…もしも私が兄上をほろぼして、天下をとったあかつきには、私はおまえと戦うのかな? ここにいる者たちの一人々々がどのように、いくつに別れて、殺しあうことになるのだろう?」
 「ご冗談を!」
 義盛がぞっとしたように、かすれた声でそう叫んだ。
 「そんなことがありえましょうか!? ここにいる、この、こんな我々が…」
 「だが、そうなるではないか。めいめいが、めいめいのことを考えて戦ってゆくしかないのなら」
 「殿、あなたは、むごいことを言われすぎる」
 片岡八郎は怒りで顔色をかえていた。
 「我らを何だとおぼしめす? 皆、あなたをお慕いしてここまでついてまいった…その我らを」
 そのとき殿の唇にうかんだ笑いのやさしい美しさを私は忘れない。誰も恨んでも怒ってもおらず、ただ何か清らかな、ふるえるような淋しさがあった。
 「私を慕って、私のためにつくしてくれたこと、ゆめ、疑いも忘れもしてはおらぬ。だがそれなら聞くがそなたたち、なぜ私を、それほどに慕って、ついてきてくれた?」
 「…なぜ? なぜと申しましても?」
 「私が源氏の、義朝の子でなかったら…こうなったろうか? おまえたちと? 忠誠をつくしてくれたのは、そもそも、互いに知りあえたのでさえ、私が源氏の御曹子だったからに他なるまいに。忠信たちの母にしても、私が父の子だったから、あれほどに思ってくれて、忠信たちにしてもまた、それだからこそ、私につくしてくれたのではなかったか? 他の者にしても皆そうではなかったか? 我々が源氏でなくなり、めいめいがただのめいめいになって、それでもおまえたちにとって、私は今の、私だろうか?」
 全員が黙りこんだ。誰もがなぜか泣きたくなった。何か言いたいことがあった。だが何なのかわからなかった。私はこのとき多分誰よりも、泣きたくなっていたと思う。殿のことばはいつも私の中にある、ぎりぎりの思いのどこかにふれた。私はたしかにあのときに言わねばならない、言えるはずのことが、何か、絶対にあったのだ。だが私は、もう手もとまでつかんでいる思いをしながら、それをしっかりつかみとめて、さし出すことができなかった。私はわけのわからぬおののきに、身体を細かくふるわせながら、ただ、うつむいてしまっていた。
 弁慶が、静かに言った。
 「そのきっかけは、どうであろうと、今ここにいる我らすべては、あなたというお方、その人を、慕い、あがめております。たとえ殿が、朝敵となられましょうとも、平家の残党と手をくまれましょうとも、我々は一人のこらず、お従いいたします」
 「…あるいは、そなたたちは、望んでそうしてくれ るとしても」
 殿はかすかに吐息をついて、目を閉じた。
 私は弁慶が鋭く私をにらんだのを見た。はたして殿は、低くつづけた。
 「死んだ者たちは、どうなる? 彼らにはもう、説明してやることさえも、できぬのだ」
 「死者は、いつでも、そのときそのときある未来に、命をかけて死にまする」
 弁慶はひざをたたいて叫んだ。
 「源氏が平家をほろぼして、よりよいこの世にすることを信じて彼らが死んだのなら、殿が鎌倉どのをほろぼして、よい世の中を作ることが、結局は、彼らののぞみもかなえることです。死者がのぞんで死んでいったことの中で、何が一番肝心か、それをさぐりとめなければ。時は移ってゆきまする。夢のかたちもかわりまする。が、かたちがかわっても同じ夢が実現すれば、死者は満足いたすでしょう」
 「忠信。そなたはそう思うか」
 目を閉じたまま、殿が聞いた。
 「正直に答えてくれ。継信にそなたはそう言えるか。また、信夫の里に帰って、そなた、わかるように、それを、母の尼君に話せると思うか」
 私は黙っていた。
 何を感じ、考えているのか自分で私はわからなかった。ただ心のどこか奥底で、一番そっとしておきたかった部分が、めちゃめちゃにかきむしられているのがわかった。何か言おうとしてものどがつまって一言も私は言えなかった。
 「春に、信夫に帰りましたとき…」
 かなり時間がたってから、ようやくの思いで、私はことばを、しぼり出した。
 「母に、話そうといたしました。今、都でおこっていること…殿と、兄上さまの間のこと…しかし、どううまく話しても、母にわからせてやることが、できませんでした。母は、くりかえすばかりで…同じ義朝さまのお子たちが争うなどと、いうことは、ないのだと」
 「忠信!」
 顔色をかえた弁慶が、私の腕をむずとつかんだ。
 「この前といい、今といい、そなたはわざと言っているのか、殿を、お苦しめするために!?」
 「そなたに何がわかるか!?」
 激しく私は言い返した。
 「話しても話しても絶対に、母にはわからなかったのだ。私は怒って母と争い、家をとび出して戻った。そなたにはわからぬ。都の噂もまれにしかとどかぬ遠国で、人々が、どれだけ何も知らぬかを。知らぬなりに、何にすがって生きるかを。京で、あけくれ、仲間たちと、世の中の動きを議論ばかりして生きてきたそなたには、さまざまな理屈もあろうが、それは私の母には通じぬ!」
 「通じぬならば、相手にせぬまでよ。遠い、草深い野の中で、かたくなに古い考えをすてぬ人間たちなど、一々相手にしておったのでは…」
 「弁慶」
 鈴木三郎がゆっくり言った。
 「我々の多くが、平家全盛の時代、その草深い田舎に生まれ、育ち…かくまわれて、生きのびてきたのだ」
 弁慶は、さじを投げたような顔をした。
 「では? だからどうだというのか?」
 「私にはわからぬ。さっきから何もかもがごたごたになってきてな、頭の中で。だが、何となく、そうだな、悲しい」
 「悲しい…何が?」
 「つい、この間のことだろう。平家追討の令旨に対し、諸国の源氏が、立ったのは。私は覚えている。おそるおそる、半信半疑で、ささやかれていたことば、村々での、ひそかな相談、行きちがいだらけの、雲をつかむような…それが次第にまとまって、大っぴらにしゃべられて、その内に、川ごしに叫びかわされて、伝えられていった。それまでは、互いに皆、何を考えているかわからなかった。都のことも何もわからず、ただ平家に頭を下げ、ふり回され、自分たちの家柄にも、していることにも誇りをもてず、土にしがみついて、ただ働いていた我ら…。それが次第に同じ望み、同じ不安をいだきつつ、信じあって戦う仲間とかわった。争いあい、功名をきそいあいつつもしかし、関東源氏、近江源氏、それぞれの家の旗をならべて、都へ、都へと攻めのぼる間、我々は皆はじめて、我々の手で、自分自身のために、何かをしていたのだ。戦っていたのだ。その頂点に殿がいて、頼朝さまがいて、鎌倉があった。長い長い時間を費して、たくさんの犠牲をはらって、やっとここまでになった。まだ、ついこの間のことだが…それがおまえにいわせると、もうおわってしまった時代だという。そうなのかもしれんな。だが、おれは悲しい」
 一息ついて、誰の顔も見ず、彼は続けた。
 「あのとき守っていたことのすべてを、おれはなるべく失いたくない。で、殿がもし、平家の残党と手をくまれたら、おれは、こだわるだろう。それは殿にはついていく…だがやはり、こだわるだろうな」
 「鷲尾、そなたは?」
 殿が声をかけた。
 「平家も源氏も別にかまいません。おれは殿や皆が好きだからいっしょにいるので、いやになったら山に戻ります」
 「それでいいのか?」
 「おれが知っている大将といえば義経さまだけですから。ただ…」
 「ただ、何だ?」
 「この、ここにいる皆が、はなればなれになるとか、敵味方になるとかいうことは、おれはないと思うけれど。あったらそれこそ、もうきっと、何が何だかわからなくなると思うけれど」
 「可能性としては、ないわけではないぞ」
 常陸房海尊がぼそっとつぶやく。するとすぐ鷲尾が言った。
 「それだけは絶対おれはないと思う。あるわけないよ」
 「…弁慶」
 殿は笑っていた。
 「わかったか。皆、そなたほど強くはないのだ」
 弁慶は黙っていた。彼の顔がぐっと奇妙にゆがんできて、大きなよく光る目に涙がにじんできたのを私は見た。吐きすてるように彼は言った。
 「情けないやつらだ! そろいもそろって…殿をこうして、追いつめる!」
 「彼らのせいではない。私がそうなのだ。私自身が、つじつまのあわない生き方をしたくないのだ」
 殿は考え考え、しゃべっていた。
 「はじめから私が、天下をとろうと思って世にうって出たのなら、それもいい。しかし私はもともと、そんな望みはなかった。私は平家が憎かった。母も自由も奪われて、そもそも、自分が思うように生きるためには、平家がほろびるしかなかった。だから、そのことに少しでも力を貸そうとし…兄上を助けようとしてきた。私がのぞんだのは、平家がほろびること、兄上が天下をとること。苦しんでいた多くの人々が幸せになること。それだけだ。それだけだと言ってきた。自分にも、他人にも。平家はほろびた。兄上は天下をとった。人々は前よりも少しはのびのびと生きている。私にとってすべてはこれで、よいはずなのだ」
 「殺されようとしてもですか!? そんな兄上さまとわかってもですか!?」
 片岡が叫んだ。
 「よく考えてみてほしい」
 どこかきびしい、殿の声だった。
 「生きのびるためだけでよいのなら、そもそも鞍馬山を出はしない。昔も今も、私は命は惜しくない。そしてまた兄上は、私を殺そうとしたからといって…殺したからといって、平家のような支配をなさるとは限らない。私を殺すということと、あの方が、よい支配者になるということとは別だ。私は、たとえ私を追いつめて殺しなさったとしても兄上は…それなりに、よい世の中をお作りになるかもしれないと思う。そうでないといいきれない以上、兄上にさからう理由はない」
 静かな声で、ことばは続いた。
 「命は惜しくないといってきた。ただ兄上のおおせに従い、源氏のために生きるといって、戦い、人を殺してきた。もし今、兄上に弓をひくとすると、私は、実は命が惜しかった、実は自分が大切だった、と言わねばならない。それは、これまでの私が、皆いつわりであったということになり、私のした戦いも、死んだ敵も味方も、皆、いつわりのためのものだったことになる」
 「…我ら、舟のりは」
 駿河次郎のさびた声がひびいた。     
 「風がかわれば、帆をはりかえる。人の気持には、かわるということがあろう。殿も、お気持がかわった、生き方もかえる、と申してなぜいけませぬか」
 「風がまことの風ならば、帆をはらまし、船を走らせる力を持つが、命を惜しみ、自らのために生きるという生き方は、私にとって、まことでない。なぜ、今になってそうせねばならぬのか、私には説明がつかぬ」
 「説明などが、いりましょうか」
 鷲尾三郎が叫んだ。
 「生きたいという思いに、説明など…」
 「私にはいる。命が惜しくないと言いつづけ、そのような戦いもつづけて、他の者にも命を惜しむことを許さなかった私が、今、そうやって、生きたいと言い出すとすれば」
 「なぜ説明がいるのでしょう」
 鷲尾はこだわりつづけた。
 「なぜもっと自由に、かわりたいときにかわって、自分の好きなように生きられぬのですか」
 「殿の言うことをうかがっていると」
 亀井六郎も、おずおずロをはさんできた。
 「まるで、ひとつひとつ理由がつかなくては何ひとつすることもできぬようだ。いつもいつもそんなように、人は生きられるものではございますまい」
 「今度は私も同感です」
 弁慶が大きくうなずいた。
 「殿、わかりやすい生き方といわれましたが、それは、要するに、理屈のつく生き方じゃろう。かえって不自然になることもございますぞ。人が、かわってなぜ悪い。他人にわからぬ生き方をして、なぜ悪いのですか」
 殿の目が一瞬私をかすめたようだ。だが、何も見てはおられなかったと思う。どこか遠い方へ、殿の視線は流れていた。
 「多分、淋しいからだろう」
 つぶやくような答だった。
 「淋しいですと?」
 「忠信の母のような親、重家のような武士、鷲尾のような若者たち…その人たちが、きっと、淋しいからだろう」
 「どうも、よくわかりませぬ」
 「私は、彼らにわかるように説明できない…彼らのような者たちが、見ていて、わからなくなって、途方にくれてしまうような…そんな生き方を、したくないと思う」
 一言、一言、かみしめるように殿は言われた。
 「理屈のつく生き方といったが弁慶、それはちがう。どんな生き方にでも理屈はつく。いくらでも私はつけてみせられる。しかし、それでは決して本当に、人にわからせることのできない生き方というものがある。自分の最もみにくいところ、考えつめると苦しい部分を、おおいかくした生き方だ。それをあらわにする苦しみも、かくしとおす苦しみも、どちらもさけようとして、上手な理屈でとりつくろい、自分までだましてしまっている生き方だ。京や鞍馬で幼い日、そんな生き方をしている人をたくさん見た。生き方のつじつまは皆あっている。どこをついてもくずれない。だがどれだけ目をこらして見ても、その人の本当の姿というものが見あたらない。どこを押してもぐなぐなとへこむばかりで、たしかな手ごたえが何ひとつない。見ていると途方にくれ、とりのこされたようにいつも私は淋しくなった。…弁慶。私は死んだあとで、『いったいあの人はどういう人だったのだろう』と思われたくない。『あの人を私は知っていた』と誰もが自信をもって言いきれるような、わかりやすい人間でありたいのだ」
 「殿。それはむりと申すものだ」
 常陸坊海尊が低く言った。
 「噂が人の真実をゆがめる。時が更にそれをかすませる。我らがこうして今日語りあったことの数々さえ、後になれば知るものもなくなるか、まちがって伝えられるか、わかりはせぬ。我々は煙の中に生きておるのじゃ」
 「あるいはな。だが、消えぬものもあるかもしれない」
 殿は皆を見回した。
 「少くとも、私と兄との戦いはなかった。これはたしかだ。あったとは、誰にも言えまい。それから、そなたたちがこうして、私に今日までいつも忠実に従っていてくれたこと。私を裏切った者はなかったこと。これも、かえられない事実だ。はっきりと生きれば、あいまいにしようのない事実が重なる。そうやって、一つまた一つと、消えにくい、動かしがたい事実をつみかさねつつ、私は生きていきたい。それは私の足あとをのこすことだ。それがどうおろかでこっけいなものであろうと、たしかに、くっきりと残しておけば、人は私の足あとをたどれる。ばかにはしても、淋しい思いはしないですむ。わかりやすい、誰にもよみとれる足あとを残して私は歩きたい…それとも、それも、雪が消すだろうか」
 最後は、つぶやきとなって消えた。それから、あらためて殿は、私たちの上に目をやった。
 「だから私は兄上からただ逃げるだけだ…追いつめられて、殺されるだけ、と言った方がいいかもしれぬ」
 皆、黙っていた。
 と、突然誰かが叫ぶような声を出した。
 「殿、お教え下さい。我らは今、何を言えばよいのです? どうすれば殿をお助けできるのです!?」
 あれは、亀井六郎だったろうか。むせび泣きにとぎれる声で、更に言いつのったのは。
 「どうかお教え下さい、我々にはわからない。本当にわからない。何と言ったらいいのですか。何かあるはずです、我々があなたについて、何か、どういう言い方かすれば、あなたはきっとそんな生き方はなさりますまい。しかし…しかし、それが何を、どういう風に言えばいいのか、本当に、我々には、わからないのでございます!」
 そうだ。たしかにそれが何かあった。
 そして、私にとってそれは、他の誰よりも複雑で、答の出しにくいことだった。
 いったい、殿とは、私にとって何だったのか。源氏とは。平家とは。
 いつか、数人が泣き出していた。その中で私と殿の目が何度かたしかに会った。強くきつく見はられた殿の目を見て、私は、殿にもわかっておられない、と思った。私たちのそれぞれが何を言えば、殿が今しばりつけられている何かから、自由になるかということを。
 泣いているときではない、と頭のすみでぼんやり私は思った。
 考えなければ…早く!
 源氏の御曹子だから私は、殿を愛したわけではない。ちがった、憎んだわけではない…だめだ、もう混乱している。
 私は殿を憎んでいて…それは殿が義朝さまのお子だったからで…もし、源氏どうしの争いということになれば、源氏の御曹子だから忠誠をちかうという理由はなくなって、殿は一人の義経さまになり、…
 私の生き方は、わかりやすくない。絶望して私はそう思った。だめだ、何かをどうしても、見つめられない。面と向かって考えられない。
 「もう、よい」
 なだめるように、殿が言われた。
 「そなたたちのせいではない…誰のせいでもない」
    

       五

 殿をお助けすることばとは何だったのだろう。静さまと別れて山道を、殿のあとを追って再び上って行きながら、私はまたそれを考えはじめていた。
 そのことばをめいめい見つけられぬくやしさに泣きむせんだ一同は、あのあと、まるでその反動のように必死になって、我がちに、どこまでも殿のおともをいたします、死ぬまでともに戦います、と言いつのったのだったが…。
 そんなことばはないのかもしれない。
 あっても、ひどくむずかしくて、めったにつかめるようなものではないのかもしれない。そんな気がした。
 戻って行くと、皆は木かげで、ひとかたまりになっていた。静さまのことを報告する私のことばを、小さくうなずきながら黙って殿は聞いておられた。
 私も疲れて、眠く、足をひきずってここまで戻ってきたぐらいで、ことばも寒さに、ともすればもつれるていたらくだったから、大きなことは言えないが、それにしても殿はもう、半ば死人のように見えた。どんよりと目に光がなく、寒気に青ざめた顔には何の活気も見えず、小さくちぢんだようだった。私の言うことをときどき聞きおとされるらしく、かすれた声で、問い返された。
 松の根かたにうずくまっている一同も、もうよほど疲れきってしまったのか、そんな殿の様子を気にする風もない。片岡と伊勢が、運ぶ荷物のことで何ごとか低くののしりあっている。鷲尾も亀井も、衰弱がひどい。ほおがそげおちて、別人のようだ。弁慶は雪の中で、うつらうつら眠っている。
 凍りつく寒さの中に、妙にけだるい死の匂いがあった。今まで一度もなかった腐臭にも似たものが、私たちを包んでいた。こうやってじわじわと、一人また一人となすこともなく死んでゆくのが、殿のえらばれた、わかりやすい生き方なのかと思った。
 殿はそれをあきらめて、それに身をまかせようとしておられるようだった。
 崖のはし近い、竹やぶの中から、見はりに出ていたらしい鈴木が、だらしない足どりで戻ってきた。
 「敵が、上ってきます」
 無感動な声で彼は言った。
 皆がよろよろ、立ち上がりはじめた。
 「どのくらい?」
 誰かがもつれた声で言った。私もさっきそうだったが、寒さで舌が回らないのだ。
 「四、五十人かな。ふもとの寺の、衆徒たちらしい」
 「それじゃいよいよ、もうおしまいだ」
 妙にふざけた、投げやりな声で亀井が言った。
 弁慶が、むすっとした顔で立って来て、雪の中につっ立っていた。
 「そう…」
 半ば目を閉じたまま、殿がものうく、ほおえんだ。
 「多分これで、おわりだろう」
 誰もかれもが、みにくかった。疲れきって絶望して、ものうく、互いを憎んでいた。誰が悪いというのではなかった。こんな旅をつづけていれば、誰でもその内、こうなるだろう。堀川の館で皆が手をとりあって、死ぬまでともにと誓っていたときから、いずれ、次第に、こうなることを、私たちの誰もが知っていたかしれない。
 くされはてて、くずれはてて、私たちはとどめをさされる集団なのだった。
 突然、私はふり向いた。私の郎党たち数人が、雪の上から心細そうな目を私に向けていた。平泉からつれてきた最後の生きのこりだ。彼らもここで死ぬことになるだろう。
 そして私は、同じ動作の続きのように、さっとまた、殿の方へと向き直っていた。何を自分が考えたのかわからない。考えおわらぬ先に、もう声が出ていた。
 「殿…」
 殿は、ふり返らなかった。ぼんやり竹を見つめていた。もう一度私は声をかけた。
 「殿!」
 ゆっくり、殿がふり向いた。何の表情もない、死んだ魚のような目だった。私は言った。
 「防ぎ矢つかまつります。お行き下さい」
 しばらく、何の反応もなかった。それから皆が、それぞれに、顔を私に向けてきたが、その前に、殿の目が、次第に大きく、見開かれていった。
 「…ならぬ!」
 激しく目ばたきして殿は、唇だけでつぶやいた。
 「お落ち下さい、皆をつれて。私と、郎党たちだけで、ここは防いでごらんにいれます」
 「そなたを…そなたをおいてゆけぬ」
 殿の目に表情がよみがえりはじめた。子どものようにおぼつかない口調で殿はようやくそれだけを言った。私は叫んだ。
 「逃げて下さい、皆をつれて! 早く!」
 「ならぬ!」
 ほとばしるような一声に、瞬間私がびくっとした。殿の目が輝きはじめた。宇治川で、屋島で、壇の浦で、いくたびとなく聞いた、鋭い、よくとおる早口が、つづいて私にあびせかけられた。
 「そなたをおいてゆけると思うか!? 継信が死んでこのかた、そなたを継信とも思ってきた。この上、そなたまでなくしたら、私はどうやって生きたらいいか考える力も失う! みちのくへ行って、そなたたちの母へでも会ったら、何と言えというのだ! 血まような!」
 「母も、兄も、私に教えましたのは、命をささげて殿におつかえしろということでございました」
 殿の唇が動いた。ふと、殿のその目に、問いかけるよぅな色がうかび、殿は私をじっと見つめた。疑いともいえぬほど、かすかな心のたゆたいをこめて、殿は言いかけた。
 「けれど、そなたは…」
 ためらって、迷って、殿は口を閉じ、ふりきるように私は強くうなずいた。
 「ですから、私は、その言いつけを守ってまいりました。心から、喜んで」
 殿はまだじっと私を見つめつづけていた。
 「お逃げ下さい。お行きになって下さい。みちのくへでも。西国へでも。そして、どうか…もう、ただ、お幸せに。何も考えずに、何もかも忘れて」
 今度は私がためらった。
 「私は、もう充分に、殿にはよくしていただきました」
 殿は私を見つめたまま、小さく首をふった。また雪がふりはじめて、私たちの間に激しく舞った。皆が回りに近よってきた。どの顔も緊張し、いつものひたむきさをとり戻していた。
 「私も残る」
 「おれもだ」
 数人が口々に叫んだ。私は首をふった。
 「一人でいい。それより殿をお守りしろ」
 「だが、そなた一人をおいて…」
 「それはもう、言ったろう!? 言い争っているひまなどない。殿、お許しを下さいませ!」
 雪がまぶたに唇に下りてくる。雪の上にひざまずこうとした私の腕を、思いがけぬほど強い指が、つかんでひきたてるように立たせた。殿だった。
 「そなたを死なせるわけにはいかぬ。わからぬのか、忠信! なぜ、そなた…なぜそなたがこんなことを!」
 「行って下さい。お許し下さい」
 私は低く、くり返した。
 「私以上に殿が今、こんなところで、こんな死に方を、なさることはございません。殿がそんなことまでなさることはございません。もうよいのです…もう。どうか残れと、おっしゃって下さい」
 殿の目は苦痛にあふれ、それ以外の感情はいっさいまじっていなかった。初めて、何の怒りも憎しみもなく、私は殿の顔を見ていた。その青ざめた唇と、老人のようにおちくぼんだ目、土色にかわった顔の色を。
 …もうこれ以上、私が何を、殿に要求できるだろうか。奇妙に疲れて、あきらめて、胸いっぱいに広がってくる悲しみの中で、私はただ、そう思った。私の恨みも、憎しみも、どこへも行き場のないままに、空にとけ去り、消えさるだろう。恨みとか、憎しみとかいうものは、しょせん、そうするしかないのだということが、私にはそのとき、突然わかったのだった。人間がどんなに泣こうと、悲しもうと、怒りに燃えようと、それは、人間にはしょせん、決して、うけとめることのできないものなのかもしれない。人間にも、…他の誰にも。人間の、そんな悲しみや怒りをうけとめる場所など、どこにもありはしないのだ。
 歩きつづけるしかないのだ、我々は、ただ。殿のように。疲れはてて、苦しんで、そして誰も恨まず。ひたむきに嘆き、愛されぬことを悲しみ、そして誰も恨まず。定められた道を、歩きつづけられるところまで。
 「…お許し下さいませ」
 私はもう一度つぶやいた。何の許しを願っているのか、もう自分でも、わからなくなって。
 「許してやって下さい、殿」
 静かな、弁慶の声が聞こえた。
 「一度言い出したこと、忠信も、今さらあとへはひきますまい。今は、彼の望むままに…いっときも早く、落ちのびて」
 殿は私を見つめたまま、静かによろいに手をかけた。ひもをほどいて、それをはずし、緋おどしのそのよろいを次々雪の上に落とした。
 「私のよろいを着ろ、忠信」
 静かな、うつろな声だった。回りが皆よろいをつけている中で、うす茶色の直垂だけになった殿の姿が妙にいたいたしく、無防備に見えた。
 「待って下さい」
 私はあわてた。
 「殿はどうなさるのです?」
 「そなたのを着る。早くとりかえろ」
 「これは…」
 一瞬、私は口ごもった。
 「継信のだろう。知っている。だからかえろと言っているのだ。教経の矢が通ったものでは、危いぞ。僧兵たちは強弓を射る」
 私は黙ってよろいを脱いだ。ふしぎに寒さを感じなかった。弁慶が黙ってやってきて、殿のよろいのひもをしめて結んでくれた。
 「もし…みちのくへ行くことがあったら」
 殿がかすかに、また口ごもった。
 「信夫の里に、伝えることは?」
 「母と、母に仕えている者たちを力づけてやって頂けますか? 母はもう、多分、ずいぶん…弱っていると思います。気丈なことを言ってはいても」
 つぶやくように、私はつづけた。
 「いつも私と、兄のことを、たよりにしておりましたから」
 殿が小さくうなずいた。殿のよろいに残っていたかすかなぬくもりと、私の身体の暖かさがようやくとけあってきた。私を見つめたまま、殿は二、三歩後ずさり、それから、目に見えない手に向きをかえられでもするかのように、ゆっくりと、雪の中で、身体を回し、私に背を向けた。
 兄のよろいは殿には少し大きかった。草ずりが長く見えた。一歩、一歩、そうして殿が、私から遠ざかっていった。馬を走らせ、舟にゆられ、いつも肩を並べるようにしてそばにいた殿が。ふと押しよせてきた心細さに私はとまどい、殿もおそらく、同じ気持でいられるにちがいないと思って、ようやく心を落着けた。
 皆が私にかけよってきた。おそいかかってくる寒さに歯を鳴らしながら、あわただしい別れを私たちは告げた。鷲尾、片岡、鈴木、駿河、亀井、伊勢、常陸房、足軽たち、そして、最後に弁慶。彼はもう、雪の中を立ち去りかけている皆をちらとふりかえりながら、痛いほど強く私の手をにぎった。
 「うまくやれよ」
 「そっちこそ、な」
 そうして彼も、かけ去っていった。雪をかぶった松の木だちのはしを、一列になった彼らが少しずつ曲がって見えなくなった。私は郎党たちの方をふり向いた。
 「とんだことになったな」
 みちのくのことばでよびかけると、いっせいににぎやかな笑い声が返った。少し年とった一人が言った。
 「こうして元気よく別れてしまうと、いっそ気分がいいというもので」
 「そうよ。このくらいの人数の方が身軽に動けて、ちょうどいい、忠信さま」
 「軽口たたいてないで木を切れ。雪とくみあわせて、早く陣地を作るんだ」
 「なかなか登ってきませんな」
 「雪が深いから、手間どってるんだろう。それに、さがしさがし来るからだ」
 しゃべりながら私たちは林の中へ入っていった。雪がまた強く降りはじめていた。