いつも、はっきりした指示がなかった。そして何かをこちらがした後になって必ず批判と叱責がくる。それも直接にではない。殿のなさることの一つ一つに、頼朝さまなり鎌倉なりから、直接、文句が来たことは一度もない。いつもただ、法皇さまを通して殿の役目をとり消させるとか、他の武将や公家たちに対して殿に従うなという指示がくるとか、そういうかたちでしかないのだ。頼朝さまらしい、と私はときどき思った。どこまで責任を与えられているか少しもはっきりしない義経さまの立場というものを、頼朝さまは充分に利用しておられる。
屋島や壇の浦の合戦のとき、殿と何かと意見があわず対立した、軍目付の梶原景時が、頼朝さまに殿の悪口をふきこんで、誤解させようとしている、という噂もあったが、私はあまり本気にしなかった。景時は理屈っぽい、くどい男で、いっしょにいると疲れたが、人がよくて、息子たちの自慢話に熱心に耳をかたむけてやってさえいればきげんがよくなり、もっとも、そのすぐあとでまた、私のかぶとの形が派手すぎる、などと人前で文句をつけたりするような人ではあったが、とにかく、頼朝さまをだませるような、そんな悪がしこさはない。
第一、もしも殿が法皇さまに近づきすぎるとか、人気におぼれているとか、本当にお思いなら、殿を都からひき上げさせて、鎌倉につれ戻せばいいことだ。それをなさらぬ頼朝さまは、殿の人気や、いくさ上手の才能を利用するだけはしようという気でおられるのにちがいなかった。
そのあと殿をどうする気だろう。
そして殿は、どうなさるおつもりだろう。
「とにかく、いけどりにした平宗盛を、鎌倉まで殿が護送していくことになっているのだから、まあ、鎌倉へ入れないというわけにはいかないだろうな」
私と弁慶はそう話しあって一応は気をやすめていた。
しかし、私たちの読みは甘くて、実際には私たちがひそかに恐れていたことが事実となった。宗盛を護送していった殿の一行を、頼朝さまは、何と鎌倉から目と鼻の先の腰越の宿でとめおき、宗盛だけうけとってとりしらべをすませたのである。殿が頼朝さまの側近、大江広元に、とりなしをねがって出した手紙もかいがなく、鎌倉を目の前にして殿は、都にひき返しておいでにならねばならなかった。
都にとどまっていた私は、その話を聞いたとき、とっさに、頼朝さまにとってもう殿は用がなくなったのだな、と感じた。平家がほろびてしまったときに、殿のお役目もおわったのだ。
殿のおともをして腰越まで行った家来たちは、不安そうな顔で戻ってきて、こうなったら、殿はどうするおつもりだろうか、と小声で口々に話しあっていた。
弁慶一人はむっつり黙って、私の目もさけ、何かしきりに、考えこんでいるようだった。
だが都へ帰って来られてからの殿は、落着いていて、静かで、別にふだんとかわったところもおありでなかった。
邸にこのごろ出入りなさる叔父の行家さまと今後のことをいろいろとおうちあわせになったりしていることもあったが、そう真剣に考えておいでの風もなかった。そもそも私たち家来と、あまり話をなさらなくなった。白い、ものしずかな微笑をうかべてじっと見返しなさるので、お気持を聞きただそうとしても気がくじけてしまう、と亀井や鈴木たちがこぼしていた。
館の中にどことなく空虚なものがただよっていた。私も前より館をあけることが多くなり、よくあの女の家に行って泊った。荒々しく求めあって夜をすごせば少くともその間は、自分が今、毎日何もしていないことを忘れていられたからである。私は殿を見まいとしていた。他の家来たちは殿のお心を知ろうとして必死で殿を見つめているときに、私だけはなぜかかえって、殿からそれとなく、目をそらしていたのだ。
殿がお決めになることだ、と私は思っていた。私には何のかかわりもない。殿がえらばれた道を、最後まで私も歩きつづけておともするだろう。あくまで冷たい心のまま、ただ、見とどけるためだけに。それが私の役目だと思った。
朝もやの中を馬にのって、女の家から堀川の館に帰ってくると、よく前庭で鷲尾三郎経春が、太刀のけいこをしているのに会った。まだほんの子供で、一の谷の山に住んでいて私たちの道案内をしてくれたのがきっかけで、そのまま殿におつかえするようになった、元気のいい少年である。馬も弓も巧みだったが、武家のしきたりを早く覚えたいといって、その、朝のけいこでも、時々、一人で、まじめくさって馬の上で姿勢をまっすぐにする練習や、砂にひざまずいて礼をする練習などをやっていることがあり、私を見てもちょっと目礼するだけで、また熱心につづけていた。
鷲尾は気づいていたかどうか知らないが、ときどき、それを、回廊のらんかんによりかかって、殿がながめておられることがあった。白い寝間着姿のまま、明かるい楽しげな表情で、朝の風に吹かれておいでだった。私を見ると、そなたか、というように笑われ、何のくったくもないお顔だった。
結局、殿が初めて私たちにご自分の心をあらわにされたのは、それから半年近くすぎて、…ちょうどひと月ほど前になる…鎌倉から、殿の討手としてやってきた土佐房昌俊が百騎近くで堀川の館をおそい、それをあべこべに私たちが皆うちはたしてしまったあとの…あのときが初めてだったことになる。
そしてなぜかまた私は、あのとき、我にもあらず兄について、あんなとんでもないことを口走り、板戸の前で弁慶たちに問いただされるはめになったのだった。
三
いつかまた、夕日がまっ赤なかたまりになって、紫色の雲の中を、沈もうとしていた。
私は歩きつづけていた。
荷車のわだちのあとが深いみぞになって、道の上にのこっている。少し短かすぎる水干の袖に、風が寒い。
殿や皆は、どこを歩いておられるだろう。
静さまは、どうなられただろう。
あの、清潔な小さい家で、静さまに泊めてもらった一夜のことを私は思い出していた。
私の枕もとで何度か聞こえた低いため息…あれは、静さまのため息だったのだろうか? だとしたら、何のため息だったのだろう。あの方は、私にはよくわからなかった。わからなかったが、別に恐くはなかった。むしろどこか子供っぽい人だと私は思っていた。ほお骨が少し高く、色が白い、目の大きな顔は、鮎という魚を思わせた。どこか殿にも似た顔だった。
そういえば、最後の別れのとき、静さまが言ったことばもよくわからないところがあった。
私たちの一行と別れることになった静さまを、わずかな郎党たちと、山腹の地蔵堂まで、送って行ったときのことだ。従者の数人とともに静さまをそこに残して、私がひきかえそうとしたとき、
「忠信さま」
静さまが低く呼びかけた。乾いて、かすれた声だった。私がふり向くと、地蔵堂の中は暗くて、静さまの小さな顔が白くうかびあがり、二つの黒い目がその中で、何の表情もうかべずに、くりぬいた穴のようだった。
「何か?」
「わかっておいでなのでしょうね」
静さまの声は疲れていた。長い夢からさめた人のように力がなくて、少し、怒っているようでもある。
郎党たちの方をふり返りながら、私は少し静さまの方へ戻った。すると静さまも近づいてきて、私たちは地蔵堂の、ちょうど入口のところで会った。
近づいてみると静さまの目には、私に向けるときにはいつもきらめいてあらわれる、あの意地悪な光がまだ少し残っていたが、それも急速に消えつつあった。といって、そのかわりに何があらわれてくるというのでもなく、黒い豆のように、ひとみにつやがなかった。
「何がですか?」
私は聞いた。
一瞬静さまの唇が苦々しく、ひきつるようにゆがんだ。
「あなたという人は! ここまで来ても、まだそんな! いえ、もう、言いあいはよしましょう。時もない」
まっすぐ静さまは私を見つめ、初めて私にほおえんだ。
「忠信さま。私はいつもあなたが憎かった」
「存じております」
「でも、なぜ憎んだかはおわかりではありますまい。…そら、そのお顔なら」
ほつれて、よじれた髪のはしを、静さまは指にからめて、ひきちぎるように、切った。
「私も都の白拍子。恋の手くだでひとに遅れをとった覚えはありませぬ。いいえ、手くだ以上に、心から、義経さまを私は愛し、見つめられたい、愛されたい、あの方のすべてになりたい、そう願いつづけてきました。けれど、あの方は決して本当に、私を愛して下さったことはない。見つめていたのは、いつも他の、ある方のほうばかりでした」
「川越どのの、御息女のことですか?」
「どこまであなたは間がぬけていらっしゃるのやら。あなたですよ」
「…は?」
「あなたです。そう申し上げているのです。殿がいつでも、誰よりも、見つめていらしたのは、あなただったと、忠信さま」
静さまは笑った。小さい声で、本当におかしそうに。手にしておられる竹の杖が小きざみにぶるぶるふるえて、堂のとびらにぶつかって、かたかた小さい音をたてた。私はぼんやり静さまを見返していた。何を言われているのか、本当に私はわからなかった。
「言ってしまえば存外何でもないことなものですね。心の中ですら、認めるのが苦しくて、見まい考えまいとしてきたことでしたのに。本当に、お気づきではなかったのですか? 知らぬことだと言わせたくない。あまりに、私がみじめです」
朝日が雪をきらめかせていた。このあたりには桜がない。とがった松の葉の上にたまった雪がすべり落ちると、松葉のはしに、いっせいに水玉が鋭く光った。
「あなたがあの方を、ここまでつれて来たのです、忠信さま」
逆だ、と言い返したかったが、私は黙っていた。
「法皇さまでも頼朝さまでもありません。あの方を、あなたがここまで追いつめた。他の人たち相手なら、義経さまはどんなにでも戦える人です。あなたにはおわかりにはなりますまいけれど、あの方も京そだちで、敵の中に生きぬいてこられて、頼朝さまに負けぬほど、ずるさもおありだし、ぬけめのなさも、冷たさもおありです。私にはわかります…私とて、同じですから。それなのに、なぜか、殿は、そういう強さやずるがしこさを、一番大事なときになって、皆、次々、失ってしまわれた。…あなたです。あなたを見つめて、あなたに気に入られようとなさって、あの方は、すべてをすてた。いつも、そうでした。あなたを見て、ご自分のとるべき道をさがし、自らの運命を決めておられた。そして、とうとう、ここまで来られた。私まで、すてなさった……」
静さまの両の目に、急にきらきらと涙がもり上がってきた。白い衣の肩までが細かくふるえているのが見える。私は何かひどく、不当なことを言われているような気がして、ぼんやり腹がたってきた。つれて来られたのは私なのだ。見つめていたのも私のはずだ。この女は何を言っているのか。今になって。
「不愉快そうなお顔ですこと」
静さまは泣き笑いした。
「あなたはいつでもそうなのです。いったい何がお望みですの? あんなに殿につくしながら、いつでも殿にどこか冷たい。あんな女にうつつをぬかしておしまいかと思うと、この私を無視なさる…あなたはどういう方ですの!? そしてなぜ、そんなあなたに、あんなにまで殿が、ひきつけられておしまいになるの!?」
「私が知りとうございます」
がまんできずにとうとう私は言い返した。
「おっしゃることが、もし本当なら。私には何ひとつ、心あたりがありません。殿がこうなられたのは、殿自身のお気持です。…私が、何で!?」
私はくるりとふり向いて、静さまに背を向け、郎党たちのところへかけ戻った。
「出発だ。急がなければ、遅れるぞ」
堂の入口に立っている静さまにこちらから一礼すると、そのまま、私は歩き出した。
静さまは礼を返さず、黙って私を見つめていた。背の高い、まっすぐ立ったその姿は暗い堂の中を背にして、白く、はっきりと、遠くなってもよく見えていた。雪のつもった木々の葉ごしにちらちらと、それでもそれは、次第に遠くなっていった。