「吉野の雪」(4)

第四章 夜あけの川

    
《 ただただ厭わしいもので、哀れで理屈に合わぬ例を考えてみると、稲妻や陽炎、水の上に降る雪、それより一層儚いのは女心である事よ。(義経記巻六 日本古典文学全集 梶原正昭氏口語訳) 》    

    一

 京に帰ると私はまっすぐ、いつかの女の家に行った。ごみごみと小さい家のたてこんだ、狭い通りの一角に、前と同じにその家はあって、くしゃくしゃ葉の折れた水仙が垣に咲いていた。
 女は、おどろいたようだった。
 「みちのくに帰っていたのではなかったの? 館の人がそう言っていたと聞いたけれど」
 「泊めてくれ。当分、館に戻らない」
 馬は都近くにある寺に預けて、私は徒歩でやってきていた。それはいいけれど、とつぶやいて、女はわりきれぬ顔をしていた。
 「いつまでいるの?」
 「迷惑なら出て行く」
 「そうは言っていません。いいわよ、言いたくないのなら、別に」
 女はちょっと鼻白んだ、ふきげんそうな声で言って、横目で私をうかがっていた。
 食べて、寝て、夜になると女を抱いて、私はそこで三日をすごした。何でもいい、時がすぎればいい。すべてを押し流して時がすぎ、次々に何かがおわっていけばいい。
  …私は一つ、どこかで、計算ちがいをしていたかもしれない。
 私は、殿との生き方になれてきていた。それほどういう生き方かというと、どれほど親しくなりあっても、絶対に、相手の心になれなれしくふれたり立ち入ったりしない生き方で、二人の間にある、その一種きちんとしたへだたりは、平泉以来ずっとかわっていなかった。どんなに一つ屋根の下で一心同体のようにくらしても、その気になればそうやって、人をつきのけておけるという自信のようなものが、どこかで私に、生まれていたのは否めない。もし、その垣をしつこく越して、せまってきたら、拒絶して、去るだけの決意が自分にあるという自信を抱いていたのも否めない。
 私の一番きらいなことだが、女は少しずつ私になれてきたようだった。よく光る陽気な目で、私をじっと見ていては、冗談を言いかけたり、笑い出したりした。うるさかったが、まだがまんできないほどでもなかったから、私は放って、したいようにさせていた。
 三日目の朝のことである。
 床の中で天井を見たまま、女がいきなり笑い出した。そして、言った。
 「ふつうは、あべこべなのにね」
 「何が?」
 私はまだ半分眠っていた。
 裸の腕を後から私の首にからみつかせて、耳もとで女は笑った。
 「あなたはまるで、おつとめのように、私の相手をして下さっている。それさえすめばまた一日、ここにいられるからという、それだけのためにね。私が相手ではご不満? それとも誰にでも、あなたはそうなの?」
 「知らないな」
 私の生き方そのものがそれだ、とものうく私は思っていた。したいことをした、ということがない。何かをすませて、それでやっと、一日生きているいいわけをしたような気になる。これだけやればいいだろう、これだけつとめれば文句はあるまい…いつも何かにそう言っている。
 私は何かをさがしているのだろうか? していることにいつも満足していない。
 他の人はちがうのだろうか? もっと他の生き方というのがあるのだろうか? ふと心に生まれた暗いすきまを、女につけこまれたようだった。突然、えりに手をさしこまれて、女に向きをかえさせられた。
 「そうじゃないようにしてあげましょうか?」
 「よせ。寒い」
 「そう? 寒さなんか感じなくさせてあげる。何もかも皆忘れさせてあげる。いやいやじゃなくて、夢中で…やめようとしてもやめられない気持になることがこの世にあるって教えてあげるから、ねえ、いいでしょう…? いいじゃないの…」
 私がじっとしていたのは、ものうかったからだ。逆らうのも大人気ないと思ったし、この女をバカにしていた。…だから、気づいたときは、もう遅かった。
 一人の女にあれほどに、もてあそばれた男が他にいるのかどうか、私は知らない。伊勢三郎義盛や、駿河次郎たちは、よく堀川の館や、行軍の途中の夜営で声をひそめて、到底本当と思えないいかがわしい話をいくつも聞かせてくれたものだが、どれがどこまで本当か、たしかめる機会もとうとうないままだった。それにしても、あの女とのことがあったあとでは、私は彼らが話していた、どんなとっぴな、奇妙な話も、信用できるように思う。第一、そのほとんどのことを、…ときにはそれ以上のことを、私と女が、実際にしたのだから。
 実をいうと私はその日がいつ暮れて、次の日がいつはじまったのか全然覚えていない。女の身体は、白い、汚れた沼のようだった。決してそれが変わるということはないのに、どこまでいっても、はてしがなく、水があり、泥があり、からみつく草があった。もうどうしようもないと思った瞬間に解放され、ほっと息をぬいてただようところを、再びしっかととらえられて、ぬきさしならなく、沈ませられていってしまう。
 どんなことでもやろうと思えばできるものだ。そしてそれは、快感になる。何度もつづくとやめられなくなり、信じられぬほどのしつこさと、激しさと、大胆さとで、私たちはかわるがわる互いの身体をわがものにし、むさぼり、さいなみ、互いの誇りをふみにじった。女は何度も何度も笑い、そして何度も何度も泣いた。息をきらせて、何かわけのわからぬことを、私の耳にささやきつづけた。
 それがどうしておわったかというと…いまだにそれがいったい何日続いたのか私にはわからない、五日以下ということはなく、十日以上ということもないと思うが、はっきりしない…暗い門口に、白い鳥のように、女が一人立っているのを見たのである。
 私たちがあわただしく食べちらかしてはあともかたづけなかった魚や飯ののこりの、くさってすえた匂い、しめきったへやのかびくささ、汗や身体や寝床の匂いがたちこめて、ぬぎすてた着物や、布や紙がちらばって、うすぐらい家の中は生ぐさい蛇の巣のようだったが、そこへ、入口があいて、わずかに光が流れこみ、光を後からあびて、背の高い、白い小袖の、別の女の姿がうかび上がっていたのである。女の身体から顔を上げて、私はそれが、静さまだと気がついた。
 「忠信さま」
 澄んだ、少しものうそうな声がはっきり聞こえた。
 「静です」
 女がおびえたように起き上がり、着物をひきよせながら、毒づいた。
 「人のうちへ…黙って、何さ!」
 「声は何度も、おかけしました」
 静さまはあいかわらず落着いた、めんどうくさそうな調子で言った。
 「お二人とも聞こえなかったのでしょう。戸が開いたので、入ってみたのです」
 「どうかしたんですか?」
 私は聞き返した。私の声も相当冷静だったらしく、女が目を上げて、おどろいたように私を見た。
 「殿がお呼びです。すぐ来いとのこと」
 「今、行きます」
 立つと、ふらっとした。私が着物を着ている間、静さまは冷たい顔で、見るともなく、へやの中を見ていた。女は妙に静さまに気おされてしまったようで、ちぢみあがって、肩をすぼめ、こそこそあたりを片づけていた。世話になってありがとう、と私は女に言い、静さまといっしょに、外に出た。
  
       ※
   
 加茂川の水が洗ってゆく小石の間には、うす緑色の草がいっぱいに生えていた。川のそばにある畑では、もう麦が黄色い。私が足をとめてそれを見ていると、静さまが笑った。
 「桜も散ってしまったわ。春はおわりかけています」
 私が答えないでいると静さまは戻ってきて、私のすぐそばに立った。川を見ながら、ひやかすような軽い口調で、
 「おこもりでいらした間に…あなたがあの女と」
 そして、かすかに私の方に顔を近づけるようにした。
 「あの女の匂いがします。お身体にしみついている」
 女の匂いといわず、夜の寝床の香りが私の身体中にまつわりついていたはずだったが、静さまが顔を近づけてきても私は動かなかった。
 「そのままでお館に帰られては困ります」
 静さまは、いつも私に対して使う、少し意地悪な口調で言った。
 「こちらへいらっしゃい。私についておいでなさい」
 そして私が動かずにいると、涼しい声でまた笑った。
 「別に、とって食べはしません。この近くの川ぞいに、私のもとの家があるのです」
 肩を並べて歩いてゆくと、柳が二人の髪にふれた。静さまは手をのばして、その葉を細い指にまつわらせていた。
 「殿は私があそこにいると、なぜおわかりになったのですか?」
 私はものうく、たずねてみた。
 「殿はまだ何もご存じではありません。さっきはああ言いましたけれど」
 川の方に目をやりながら静さまはかすかに首をすくめるようにした。
 「でも、あなたが帰って来ないので、どうしたのかと、ひどく心配しておいでです」
 「私はまだ、みちのくにいることになっているはずですが」
 川の光がまぶしくて私は目を閉じた。
 「金売り吉次が数日前にたちよって、あなたがお母さまと争って、信夫の里から戻っていってしまったことを教えていったのですよ」
 「あの、おせっかいやき!」
 私は低くののしった。
 静さまは私を見て、ふっとかすかに唇をゆがめた。
 「そう怒ることはないでしょう。殿は心配しておられましたが、私はどうせ、あの女のところと思いましたから、こうしてやって来たのです。放っておいてよかったのですが、殿にこれ以上、つまらぬことでお気を使わせたくなくて」
 静さまは、「つまらぬこと」にそれとわからぬほど力をこめた。
 その門口にも柳がゆれている、小さい、黒ずんだ家の前に来て、静さまは戸を開けた。奥は広く、黒くみがきこまれた広い廊下が続いていた。
 「お入りなさいまし」
 静さまは私のそばをすりぬけるようにして戸をしめた。さっきから私の身体にさわりそうで決してさわられない。私の方も、静さまがすっとそばによってくるたび、身体をひきたくなるのを、決してひくまいとして、たださりげなく、すれちがっていた。
 「今夜はここでお泊まり下さい」
 奥の一間に私を入れてから、静さまは、軽くひざをついたまま、きっぱり言いわたす口調で、そう言った。
 「今、お湯をわかして、お召しあがりもののしたくもします。明日の朝、堀川の館に帰っていただけますね?」
 「何だってそんなことに、あなたがむきになるのです?」
 静さまは怒ったような目をした。指先で床をつくようにして、そのまま、すっと立って行った。廊下に、切り下げ髪の、きつい顔をした女があらわれて、静さまと何か立ち話をしていたが、私と目が会うと、目礼して去っていった。あれが静さまの母の、磯禅師という舞の名手なのかもしれない。身のくぼりや歩き方に、侍のように、すきがなかった。
 私は自分がどこかいつもとちがう気がしていた。疲れているだけかもしれなかったが、とにかく、以前の私なら、こんな状態で、こんなところに来て、絶対、平気でいるはずがなかった。静さまが、いらいらしたような、当惑したような目で、私をにらみつける理由が、私は半分ぐらいわかっていた。もう少しは恥ずかしい気特になるとか、意地をはってみるとか思ってもよさそうなものなのに、静さまがうちつけてくる皮肉や侮辱に、心が全然反応しない。女の家であれだけのことを、したりされたりしてしまったあとでは、今さら何がもう、どうでもかまわないという気がする。
 女の笑い顔がまだ目の前のどこかにあった。
 それを汚らわしいと思いつつ、それとはまったくちがった、静さまの清々しい、きびしい表情や、みがきあげられて、ちり一つなく、へやの片すみの置棚に、野の花が一つさされただけの、空気までしんと澄みわたったこの家を見ても、私は別に、女の顔や、自分の身体にまつわる匂いを、押しのけたいとは感じなかった。静さまの言われるままに、湯に入り、髪を結い、新しい小袖を着て、完全に女の家にいたときのすべてを洗い流しても、かといって、淋しくはならず、恥ずかしさがよみがえるのでもなかった。白い新しい障子のせいか、ひどく明かるい灯の下で、私は静さまの作った食事を黙って食べた。
 ふと思いついて、聞いてみた。
 「あの女を、知っているのですか?」
 「ええ。小柴入道とかいうものの娘で、白拍子をしていたこともあります」
 私の問を、静さまは待っていたようだった。
 「どんな男とでもつきあうつまらぬ女と、人からは、さげすまれています…何のとりえもない女で」
 灯の方に顔を向けて、、静さまは、ととのった横顔に、ほのかな、冷たい、さげすみの笑いをうかべた。
 「いかがでした? みちのくの女たちはしてくれないようなことを、何か、あの女、いたしましたか?」
 私はちょっと驚いて目をあげた。静さまは何を…わかって言っておいでなのか?
 「あの女のするぐらいのこと、どんな女だってできましてよ」
 静さまは冷たく言った。
 「あの女は、何をやらせても下手で、知られていますもの。どうせ、がさつで、無器用で、何の趣もないことばかりいたしましたのでしょう。それで満足して、そうやって、あの女に夢中になってしまっていらっしゃるのだからお気の毒なことです。京の女なら、この私でも、もっとずっと細やかに、そして荒々しく、男の方を愛するのですけれど、それをご存じないのだからしかたありませんわね。あの女をすばらしくお思いなのも…」
 静さまの声が、細い、きれいな笑い声ごと、次第に遠ざかっていった。私は眠りかけていたのだ。湯に入ったのと食事をしたのとで、身体が快くしびれはじめていた。あたりがだんだんぼんやりしてきて、灯や、静さまの横顔が入りまじり、私の中で時間が消えた。静さまの声が突然、強くした。
 「聞いていらっしゃいませんの、忠信さま?」
 「…すみません。眠くて」
 私は白状した。
 「もしよかったら、寝させて下さい。ずっと眠っていないんです」
 「…あきれた」
 静さまが笑ったようだった。
 「よくそんなこと、図々しくおっしゃれますね。ずっと眠らず、何をなさっていたのです?」
 立ち上がって静さまが、私のそばに釆た気配がした。やわらかく、私の腕をつかんで、静さまは、ささやいた。
 「お床はとなりにとってございます。けれども一つ、お約束して下さい。…明日、堀川へ、お帰りになって下さいますね」
 私は目を閉じたまま、うなずいた。
 「ええ。帰ります」
 「本当ですね?」
 「きっと帰ります」
 静さまが手をはなさないので、私はねぼけ声でつぶやいた。
 「…もう、いいのでしょう?」
 「…ええ!」
 静さまは妙にきっぱり、何かをふりきるように答えて、急に私の手をはなした。
 どうやって寝床に行ったか覚えていないほど私はそれから、がっくり眠ってしまったが、あけ方近く、何度かぼんやり、目をさました。半分夢の中のように、誰かが私の枕もとを、静かに歩いて、灯をつけたり、消したり、何かそのあたりを片づけたりしている気配がした。私が完全に起きなかったのは、それが危険なものではないらしいと、おぼろにわかっていたからと思う。その動き回っているものは、何度か私の枕もとに、じっと座っていたようで、小さな、深いため息をいく度か聞いたような気もした。
  
       ※
  
 堀川の館でも桜は若葉になって、馬たちの毛の色もかわっていた。戻ってきた私をとりまいて、皆がいろいろなことを言い、伊勢三郎と片岡八郎は、そんなにやせて、目の下にくまを作って、いったいみちのくで何をやってきたんだ、とにやにや笑ってひやかした。
 殿は、私があいさつに行くと、ほっとした様子で、みちのくのことは何も聞かれず、すぐ新しい仕事を言いつけた。静さまはおそばにおいでになったが、丸っきり知らん顔をしておられて、あの夜のことはなかったようなご様子だった。
 考えてみると、あのとき、みちのくに行っておいてやっぱりよかったのかもしれない。というのは、それからまもなく、法皇さまかち、私を兵衛尉に任官するご命令が下り、他にも源氏の武将二十何名かが官位をうけたが、これが鎌倉の頼朝さまのお怒りにふれたらしく、任官された全員に、尾張から東へは来ることはならぬという言いわたしがあったのである。
 別にもうみちのくに行く気はなかったし、その気になればいくらでもぬけ道はあるから、私は平気だったが、それより気にかかることがあった。
 「鎌倉の許しをうけなくて、任官されたのがいけないから、尾張から東に来るな、鎌倉に近づくなと言うんだったら、それは殿にもあてはまりはしないか?」
 私は弁慶にそう聞いてみた。
 「殿も去年、鎌倉の許しを得ないまま、左衛門尉になっておられるだろう?」
 弁慶は面くらったような顔をして、しばらく私を見つめていた。
 「まさか。おまえと殿とはちがうぞ」
 「そうならいいが…」
 私は言いよどんだ。どうとも表現しようのない、わけのわからぬ不安があった。
 「今度のことはむちろん、鎌倉の命令をあおごうとせず官位をうけた私たちへの見せしめだろうが、ひょっとしたら、殿のことを頭において出された言いわたしではないかという気がするんだ」
 「殿を鎌倉へ入れぬ、というのか」
 弁慶は眉をひそめて考えていた。
 「そこまでやられる気かな、頼朝さまは」
 私たちにはわからなかった。鎌倉の腹はいつだってよめない。
 いつも、はっきりした指示がなかった。そして何かをこちらがした後になって必ず批判と叱責がくる。それも直接にではない。殿のなさることの一つ一つに、頼朝さまなり鎌倉なりから、直接、文句が来たことは一度もない。いつもただ、法皇さまを通して殿の役目をとり消させるとか、他の武将や公家たちに対して殿に従うなという指示がくるとか、そういうかたちでしかないのだ。頼朝さまらしい、と私はときどき思った。どこまで責任を与えられているか少しもはっきりしない義経さまの立場というものを、頼朝さまは充分に利用しておられる。
 屋島や壇の浦の合戦のとき、殿と何かと意見があわず対立した、軍目付の梶原景時が、頼朝さまに殿の悪口をふきこんで、誤解させようとしている、という噂もあったが、私はあまり本気にしなかった。景時は理屈っぽい、くどい男で、いっしょにいると疲れたが、人がよくて、息子たちの自慢話に熱心に耳をかたむけてやってさえいればきげんがよくなり、もっとも、そのすぐあとでまた、私のかぶとの形が派手すぎる、などと人前で文句をつけたりするような人ではあったが、とにかく、頼朝さまをだませるような、そんな悪がしこさはない。
 第一、もしも殿が法皇さまに近づきすぎるとか、人気におぼれているとか、本当にお思いなら、殿を都からひき上げさせて、鎌倉につれ戻せばいいことだ。それをなさらぬ頼朝さまは、殿の人気や、いくさ上手の才能を利用するだけはしようという気でおられるのにちがいなかった。
 そのあと殿をどうする気だろう。
 そして殿は、どうなさるおつもりだろう。
 「とにかく、いけどりにした平宗盛を、鎌倉まで殿が護送していくことになっているのだから、まあ、鎌倉へ入れないというわけにはいかないだろうな」
 私と弁慶はそう話しあって一応は気をやすめていた。
 しかし、私たちの読みは甘くて、実際には私たちがひそかに恐れていたことが事実となった。宗盛を護送していった殿の一行を、頼朝さまは、何と鎌倉から目と鼻の先の腰越の宿でとめおき、宗盛だけうけとってとりしらべをすませたのである。殿が頼朝さまの側近、大江広元に、とりなしをねがって出した手紙もかいがなく、鎌倉を目の前にして殿は、都にひき返しておいでにならねばならなかった。
 都にとどまっていた私は、その話を聞いたとき、とっさに、頼朝さまにとってもう殿は用がなくなったのだな、と感じた。平家がほろびてしまったときに、殿のお役目もおわったのだ。
 殿のおともをして腰越まで行った家来たちは、不安そうな顔で戻ってきて、こうなったら、殿はどうするおつもりだろうか、と小声で口々に話しあっていた。
 弁慶一人はむっつり黙って、私の目もさけ、何かしきりに、考えこんでいるようだった。
 だが都へ帰って来られてからの殿は、落着いていて、静かで、別にふだんとかわったところもおありでなかった。
 邸にこのごろ出入りなさる叔父の行家さまと今後のことをいろいろとおうちあわせになったりしていることもあったが、そう真剣に考えておいでの風もなかった。そもそも私たち家来と、あまり話をなさらなくなった。白い、ものしずかな微笑をうかべてじっと見返しなさるので、お気持を聞きただそうとしても気がくじけてしまう、と亀井や鈴木たちがこぼしていた。
 館の中にどことなく空虚なものがただよっていた。私も前より館をあけることが多くなり、よくあの女の家に行って泊った。荒々しく求めあって夜をすごせば少くともその間は、自分が今、毎日何もしていないことを忘れていられたからである。私は殿を見まいとしていた。他の家来たちは殿のお心を知ろうとして必死で殿を見つめているときに、私だけはなぜかかえって、殿からそれとなく、目をそらしていたのだ。
 殿がお決めになることだ、と私は思っていた。私には何のかかわりもない。殿がえらばれた道を、最後まで私も歩きつづけておともするだろう。あくまで冷たい心のまま、ただ、見とどけるためだけに。それが私の役目だと思った。
 朝もやの中を馬にのって、女の家から堀川の館に帰ってくると、よく前庭で鷲尾三郎経春が、太刀のけいこをしているのに会った。まだほんの子供で、一の谷の山に住んでいて私たちの道案内をしてくれたのがきっかけで、そのまま殿におつかえするようになった、元気のいい少年である。馬も弓も巧みだったが、武家のしきたりを早く覚えたいといって、その、朝のけいこでも、時々、一人で、まじめくさって馬の上で姿勢をまっすぐにする練習や、砂にひざまずいて礼をする練習などをやっていることがあり、私を見てもちょっと目礼するだけで、また熱心につづけていた。
 鷲尾は気づいていたかどうか知らないが、ときどき、それを、回廊のらんかんによりかかって、殿がながめておられることがあった。白い寝間着姿のまま、明かるい楽しげな表情で、朝の風に吹かれておいでだった。私を見ると、そなたか、というように笑われ、何のくったくもないお顔だった。
 結局、殿が初めて私たちにご自分の心をあらわにされたのは、それから半年近くすぎて、…ちょうどひと月ほど前になる…鎌倉から、殿の討手としてやってきた土佐房昌俊が百騎近くで堀川の館をおそい、それをあべこべに私たちが皆うちはたしてしまったあとの…あのときが初めてだったことになる。
 そしてなぜかまた私は、あのとき、我にもあらず兄について、あんなとんでもないことを口走り、板戸の前で弁慶たちに問いただされるはめになったのだった。 
   

       三

 いつかまた、夕日がまっ赤なかたまりになって、紫色の雲の中を、沈もうとしていた。
 私は歩きつづけていた。
 荷車のわだちのあとが深いみぞになって、道の上にのこっている。少し短かすぎる水干の袖に、風が寒い。
 殿や皆は、どこを歩いておられるだろう。
 静さまは、どうなられただろう。
 あの、清潔な小さい家で、静さまに泊めてもらった一夜のことを私は思い出していた。
 私の枕もとで何度か聞こえた低いため息…あれは、静さまのため息だったのだろうか? だとしたら、何のため息だったのだろう。あの方は、私にはよくわからなかった。わからなかったが、別に恐くはなかった。むしろどこか子供っぽい人だと私は思っていた。ほお骨が少し高く、色が白い、目の大きな顔は、鮎という魚を思わせた。どこか殿にも似た顔だった。
 そういえば、最後の別れのとき、静さまが言ったことばもよくわからないところがあった。
 私たちの一行と別れることになった静さまを、わずかな郎党たちと、山腹の地蔵堂まで、送って行ったときのことだ。従者の数人とともに静さまをそこに残して、私がひきかえそうとしたとき、
 「忠信さま」
 静さまが低く呼びかけた。乾いて、かすれた声だった。私がふり向くと、地蔵堂の中は暗くて、静さまの小さな顔が白くうかびあがり、二つの黒い目がその中で、何の表情もうかべずに、くりぬいた穴のようだった。
 「何か?」
 「わかっておいでなのでしょうね」
 静さまの声は疲れていた。長い夢からさめた人のように力がなくて、少し、怒っているようでもある。
 郎党たちの方をふり返りながら、私は少し静さまの方へ戻った。すると静さまも近づいてきて、私たちは地蔵堂の、ちょうど入口のところで会った。
 近づいてみると静さまの目には、私に向けるときにはいつもきらめいてあらわれる、あの意地悪な光がまだ少し残っていたが、それも急速に消えつつあった。といって、そのかわりに何があらわれてくるというのでもなく、黒い豆のように、ひとみにつやがなかった。
 「何がですか?」
 私は聞いた。
 一瞬静さまの唇が苦々しく、ひきつるようにゆがんだ。
 「あなたという人は! ここまで来ても、まだそんな! いえ、もう、言いあいはよしましょう。時もない」
 まっすぐ静さまは私を見つめ、初めて私にほおえんだ。
 「忠信さま。私はいつもあなたが憎かった」
 「存じております」
 「でも、なぜ憎んだかはおわかりではありますまい。…そら、そのお顔なら」
 ほつれて、よじれた髪のはしを、静さまは指にからめて、ひきちぎるように、切った。
 「私も都の白拍子。恋の手くだでひとに遅れをとった覚えはありませぬ。いいえ、手くだ以上に、心から、義経さまを私は愛し、見つめられたい、愛されたい、あの方のすべてになりたい、そう願いつづけてきました。けれど、あの方は決して本当に、私を愛して下さったことはない。見つめていたのは、いつも他の、ある方のほうばかりでした」
 「川越どのの、御息女のことですか?」
 「どこまであなたは間がぬけていらっしゃるのやら。あなたですよ」
 「…は?」
 「あなたです。そう申し上げているのです。殿がいつでも、誰よりも、見つめていらしたのは、あなただったと、忠信さま」
 静さまは笑った。小さい声で、本当におかしそうに。手にしておられる竹の杖が小きざみにぶるぶるふるえて、堂のとびらにぶつかって、かたかた小さい音をたてた。私はぼんやり静さまを見返していた。何を言われているのか、本当に私はわからなかった。
 「言ってしまえば存外何でもないことなものですね。心の中ですら、認めるのが苦しくて、見まい考えまいとしてきたことでしたのに。本当に、お気づきではなかったのですか? 知らぬことだと言わせたくない。あまりに、私がみじめです」
 朝日が雪をきらめかせていた。このあたりには桜がない。とがった松の葉の上にたまった雪がすべり落ちると、松葉のはしに、いっせいに水玉が鋭く光った。
 「あなたがあの方を、ここまでつれて来たのです、忠信さま」
 逆だ、と言い返したかったが、私は黙っていた。
 「法皇さまでも頼朝さまでもありません。あの方を、あなたがここまで追いつめた。他の人たち相手なら、義経さまはどんなにでも戦える人です。あなたにはおわかりにはなりますまいけれど、あの方も京そだちで、敵の中に生きぬいてこられて、頼朝さまに負けぬほど、ずるさもおありだし、ぬけめのなさも、冷たさもおありです。私にはわかります…私とて、同じですから。それなのに、なぜか、殿は、そういう強さやずるがしこさを、一番大事なときになって、皆、次々、失ってしまわれた。…あなたです。あなたを見つめて、あなたに気に入られようとなさって、あの方は、すべてをすてた。いつも、そうでした。あなたを見て、ご自分のとるべき道をさがし、自らの運命を決めておられた。そして、とうとう、ここまで来られた。私まで、すてなさった……」
 静さまの両の目に、急にきらきらと涙がもり上がってきた。白い衣の肩までが細かくふるえているのが見える。私は何かひどく、不当なことを言われているような気がして、ぼんやり腹がたってきた。つれて来られたのは私なのだ。見つめていたのも私のはずだ。この女は何を言っているのか。今になって。
 「不愉快そうなお顔ですこと」
 静さまは泣き笑いした。
 「あなたはいつでもそうなのです。いったい何がお望みですの? あんなに殿につくしながら、いつでも殿にどこか冷たい。あんな女にうつつをぬかしておしまいかと思うと、この私を無視なさる…あなたはどういう方ですの!? そしてなぜ、そんなあなたに、あんなにまで殿が、ひきつけられておしまいになるの!?」
 「私が知りとうございます」
 がまんできずにとうとう私は言い返した。
 「おっしゃることが、もし本当なら。私には何ひとつ、心あたりがありません。殿がこうなられたのは、殿自身のお気持です。…私が、何で!?」
 私はくるりとふり向いて、静さまに背を向け、郎党たちのところへかけ戻った。
 「出発だ。急がなければ、遅れるぞ」
 堂の入口に立っている静さまにこちらから一礼すると、そのまま、私は歩き出した。
 静さまは礼を返さず、黙って私を見つめていた。背の高い、まっすぐ立ったその姿は暗い堂の中を背にして、白く、はっきりと、遠くなってもよく見えていた。雪のつもった木々の葉ごしにちらちらと、それでもそれは、次第に遠くなっていった。