「吉野の雪」(3の2)

第三章 帰郷(2)

      

    四

 見上げると空には、昔と同じ白い雲があった。太陽がそのそばをすれすれにかすめてすぎ、いっとき雲のふちが光った。
 …また、そうやって太陽を見る。
 冬の空から、声がした。
 …目を痛めるから、やめろと言ったろ?
 あれはもう、あまりに遠い昔だった。馬にゆられている私はいく度もの戦いで、生きのこってきた、背も高くなり、腕も強くなった、一人前の男だった。けれど、かつて私と馬をならべてこの同じ草原や丘を走ったもう一人の子供は、いなかった。その陽気な笑い声がこの草原にひびきわたることは二度とない。
 私は弓に矢をつがえ、きりきりとひきしぼって空に向けた。まっ青な空の上にかがやいて泳ぐ、小さい白い、雲の魚をねらって、思いきり射た。
 澄んだ音をたてて弦がはじけかえり、まっすぐにあやまたず、矢はとんで空にすいこまれた。あっけにとられて矢の行方を見送っている郎党たちの方をふり向き、私は鋭く命令した。
 「さあ、行くぞ! 館までもうあと一息だ!」
  
       ※
  
 壇の浦の戦いがおわってすぐ、殿は私を呼びよせて、信夫の里に帰って母に会って来いと半ば命令した。
 「でも…」
 これからがまだ仕事は多いのでしょう、と私が抗議しかけると、殿は強く首をふって、いいから行け、とくり返した。
 兄が死んでからもずっと戦いはつづき、ひと月ほどして壇の浦で平家がついに完全にほろびるまで、私は殿とも、他の誰とも、兄のことを話しあういとまもなかった。
 そのせいか、兄がまだ死んでいないような気がした。殿からしてそうだったらしく、一度、夜の軍議のとき、私に向かって、「兄はまだ来ぬのか?」と聞かれ、私がまたうっかり、「はい、まだ …」と答えて、そこにいた畠山さまや土肥さまもいっしょになって、思わず皆で笑ってしまったことがある。
 兄の荷物を片づけていると信夫の里の布で作った古い着物がいくつか出てきた。郎党たちにわけてやった残りの布のきれはしを、私は晴れた日、海に流した。藍色と白の色あせた布が、ゆるやかな波にもまれて、消えていった。
 何と長い旅をしてきてしまったのだろう、と私は思っていた。岩の重なる浜べから、うずまく波の向こうを見ると、九州の崖がもう白く見えているのである。ねじれた松が風にさからうようにして海の上へと首をのばしていた。
 みちのくから京へ、そして、九州へ…
 しかし、いったい何のためにか。
 私は首をふって、海べをはなれた。
 兄が死んだあとも私は、はた目にはそれほど変わってみえなかったと思う。時々うっかりしていて、えびらに入れる矢をよりわけていて、とっくに必要な数をこえているのに、何十本も目の前につみ上げていて、はっとするようなことはあったが、皆の前ではだいたい私は平静だった。あれはきっと、あとで反動がくるだろう、と弁慶は思っていたそうで、…事実、そのとおりだったかもしれない。
 見る夢だけが、少しかわった。兄に殺されるあの夢は、完全に、もう見なくなり、かわって、いうか京の女と寝た夜に初めて見た、燃えるたいまつの中で私が一人で死のうとして、死ねずに苦しむ夢をよくみた。前の夢ほどはっきりしておらず、それほど恐しくもなく、ただ目がさめてしまったあとで、妙にわびしく悲しかった。誰か大切な、なつかしい人を見失ってしまったような気がした。夢の中ではたしかにその人を、しっかり心に思っていたのに、目ざめるとそれが誰かわからなくなっているのである。
 殿から、帰れ、と言われたとき、信夫の里に戻ったら、ふっとそれが誰かわかるような気がした。その人…か、そのものか、その何かは、ふるさととつながりがあるような気が漠然としていたのである。
 郎党たちをひきつれて、私は出発した。
 そして今…母の住む館はもう目の前だった。
  
       ※
  
 思ったより母はやつれていなかった。
 兄の死を喜んでいるのではないかとさえ思うほど、うきうきして陽気に見えた。
 久しぶりに私が帰ってきたせいもあったのだったかしれないが…
 かえって私の気持が沈んだ。館のあちこちを歩き回ると、どこにも兄の面影があるのだ。いきおい私はことば少なになり、母が問いかける質問の一つ一つにもはかばかしく答えられなかった。
 「そなた疲れているの?」
 何度か母がそう言った。
 そう言われると、いいえ、と言ってまた私は話し出してしまう。疲れがとれたところで、もっと話ができるようになるだろうとは思えなかったせいもある。
 母が楽しげに投げてくる問いかけのどれもが、どこか私の心とかみあわなかった。
 平家がほろびたことを有頂天になっで喜び、義経さまや頼朝さまのことをほめたたえ、兄の死もむだではなかったとしんから信じているようで、戦いのようす、兄の死のさま、義経さまとの京でのくらし、そんなことをつぶさに聞きたがる母の、昔と少しもかわらない、生き生きと輝く目を見ていると、私は何か自分がもう、どうしようもなく年とってしまった気がした。
 兄の死は、先に人をつかわして知らせてあったのだが、この分では母はいったい兄のために泣いたのだろうかと私はひそかに疑った。
 泣く理由などない、と母は言うかもしれない。義経さまをかばってみごとに兄は死に、その結果、源氏は勝ち、平家はほろびたのだから。
 それは、母にとってはそのとおりだろう。
 しかし私は、…故郷に帰って、いく分私も心弱くなっていたのか、せめて自分の今かかえている、さまざまなやり場のない気持、義経さまも私も含めて私たちのおかれているいろいろなやりきれないことがらというものを、少しでも母に伝えて、わかってもらいたくなっていた。
 昔、あれほど京のことや義経さまのことを話せば心がぴったり結びついていた母と私なのだから。
 しかし、母にはわからなかった。
 平家の戦いぶりもそれなりに立派だった、とか、平家の若武者たちのけなげな討死について私が語っても母は皮肉に唇をゆがめて、「それはそうでしょう。あの連中はもう自分たちしか味方といってないのだから、それは自分たちどうし固まって、最後までたたかいぬくしかないであろうよ」 と、さげすみ、憎みぬくのだった。
 平家ならまだいいけれど、義仲さまと戦うことになったときはつらかった、と私は言ってみた。
 すると母は切れながの目をきつく見はって「義仲ですか」と呼びすてにした。
 「あれはおまえ、平家とひそかに手を結んでいたのでしょう。法皇さまをおさそい申しあげて、平家に走ろうとしていたというではありませぬか。あの男こそ源氏の名を汚すものです」
 私はぽかんとしてしまった。
 「たしかに義仲さまが平家とつながろうとしたのは事実ですが、それは追いつめられてのことであって…そうさせたのは頼朝さまなのですよ」
 そう言うと、母は強くかぶりをふった。
 「たとえ追いつめられたとしても、そういうことをすべきではない。そういうことをしたというのは頼朝さまが、やはり、よく義仲というものを見ぬいておいでになったことを示しているではありませんか。同じ源氏でもやはり義朝さまのお子だけあって義経さまは京の治安をきちんと守り、頼朝さまともあんなに仲がおよろしい」
 「…どうでしょうか。それはそうでもないのですよ。頼朝さまは義経さまに、そう好意をもっていられるというわけではないので」
 言ってもむなしい。そう思いつつ私は、つぶやかずにはいられなかった。
 母は笑ってとりあわなかった。
 「あれほどみごとに平家をほろぼした義経さまと、あんなに立派な鎌倉の都をきずいて、源氏の侍たちをよくまとめている頼朝さまとが、どうしてそんなことがあります? お二人とも義朝さまのお子ですよ。法皇をないがしろにし、京の人を苦しめるような、義仲ふぜいとはちがいます」
 「その法皇さまにしても…」
 私はロをとじてしまった。母は元気よい、輝く目で、うながすように私を見た。
 「法皇さまが?」
 「法皇さまもそれなりに、いろいろとおもわくはおありだし、母上、法皇さまとか、天皇とかそういうものは…守らなくてはならない尊いものというよりは、むしろもっと…」
 「もっと、何?」
 「どういいましょうか、それそのものが、戦いのための、一つの道具で…かけひきで」
 「それは平家が、そうしたのですよ。都から三種の神器をもち出すなど、赤ん坊のような天皇を作りあげてつれ出すなど、勝手気ままなことを平家がするから、そうなってしまったのですよ。これからはもう、そういうことが決してあってはならぬのです」
 私は、母を見つめた。
 疲れて、つらくて、泣きたかった。胸にあふれあがってくることばが数々あるのに、それが口に出せなかった。ぼんやり私が感じたのは、母は、かわっていないということだった。昔、幼い私を抱きしめて、平家への憎しみを、義朝さまへの愛をほとばしるように語ったとき、母の姿に見たと同じ、まぶしい、まっすぐな、どんな時代にもどんな場所でも決して色あせることのない白熱の光の色を再び私は見た。
 それは美しかった。正しいのかもしれなかった。私は母をさげすめず、むしろ自分に不安を感じた。幼い私に母が与えたあの生々しい力強い感動、きっぱりとした思い…たとえ私が母を憎んでいるにしても、あの感動を私に与えた母の力は本物だったということを忘れるわけにはいかなかった。
 長い年月、ひたむきに守りとおし、世の中へそれを向け返していく明かるい光。
 私がそれを失っているのだ。
 母がめし使っている娘が一人入ってきて、私を気にしているらしく小さい声で恥ずかしそうに、母に向かって食事のしたくができたと告げた。
  

       五

 夕ぐれ、私は兄の妻が三つになる男の子と住んでいる、館の中の一棟を、訪れた。
 兄の妻も、もう早くから兄の死は聞いていたし、もともとあまり感情をあらわさない落着いた人だったから、子どもをひざで遊ばせながら、むしろおっとりと私を迎えてくれた。
 兄がこの人を妻にしたのは鎌倉にいるころで、それからもときどき帰ってくると、私は、母のところに行くのがいやで、兄といっしょにこの棟に来て遊んでいることが多かった。そのせいか、こちらの方が今の私には、くつろげたし、落着けた。
 「大変なことでしたのね」
 縁先で、子どもをひざにのせて遊んでいる私を見ながら、兄の妻はそんな風に話しかけてきた。
 「お母さまは、いかがでした?」
 「あいかわらずお元気だな」
 兄の妻は笑った。子供は私にまつわってはしゃいでいる。私と兄の区別がよくついていないのかもしれない。
 私がぽつぽつ兄の最後のさまを話すのを、兄の妻は、灯皿に灯をいれながら、黙って聞いていた。
 むろん私は、兄が最後に私に言った、あのことばについては、語らなかった。
 聞きおわると、兄の妻はちょっと私を見た。
 「あなたにはそれで、何もおっしゃいませんでした?」
 この人は兄から何か聞いていたのかもしれないな、と思いながら、私は目を伏せて首をふった。
 「いや、何も。…私や、あなたや、母上のことは、何も言わなかった」
 「そういう人でしたからね」
 おだやかに思い出すように言って、しばらく黙っていてから、兄の妻は、気分をかえるように、私に聞いた。
 「それで、どんなですか、京でのお館のくらしは。お仕事は、大変なのでしょうね?」
 「そうでもないけれど…」
 こんな話ならしやすかった。私は堀川の館のことや、御所のこと、静さまという都で一番といわれる美しい白拍子が、このごろ堀川の館に来て、殿のお世話をしていることなどを話した。
 この静さまは、少しかわっておられた。背の高い、きりりとした表情の、美しい方で、殿とよく楽しそうに何か言い争ったりしておられたが、どうしてか私をあまりお気にめされないようで、他の家来たちに比べて私にはいつも少しつっけんどんな態度をとられるのだった。殿も気づいておられるらしく、時々ちょっとふしぎそうに、私と静さまを見比べておられた。
 その話をすると兄の妻は笑った。
 「京の女の方と忠信さまは、性がおあいでないのかしら」
 兄の子どもはいつの間にか、私の腕に抱かれて、眠ってしまっていた。兄によく似た濃い眉の、きかん気そうな目鼻だちの、ぴったり目を閉じた顔を、私の胸にくっつけて、狩衣の袖のひもを、小さい指でしっかりつかんで。
 もうあたりは暗くなっている。昔と同じようにあちらこちらの棟で、ぽっと灯がともりはじめた。
 「おへやにお帰りなさいませ」
 子どもを抱きとりながら兄の妻は言った。
 「お母さまがお待ちでいらっしゃいますよ」
 「こっちで泊めてもらおうかな」
 私は冗談で言ったのだが、兄の妻が答えた返事は、それこそ冗談どころではなかった。
 「そうもいきませんでしょう。奥方さまがお待ちだから」
 「…誰の!?」
 「あら、あなたの。ご存じなかったの? 娘さんがいらしたでしょう?」
 私はロを開きかけて閉じた。
 「いらしたでしょう?」
 兄嫁はくり返した。
 「娘が一人、食事を知らせに来た。でもあれは、母の使っている娘で…そんな話、何も聞いていないぞ!」
 「館の者は皆聞いていますけれどね。あの娘さんを、あなたの妻になさるのだと、お母さまはいつも言っておいでだし、多分娘さんもその気ですよ」
 「その気といったって…」
 「あなたのお母さまに、とてもあこがれて、尊敬していらっしゃるのですよ、あの娘さん」
 兄の妻は眠った子を軽く抱き直しながら、目もとで笑った。
 「あのね、あなたのお母さまはいちずなお方だから、きっと、それで、人をひきつけてしまう力がおありなのね。継信さまともよく話したことですけれど、お母さまのお力は恐しい。継信さまも、ご自分ではお気づきでなかったようですが、私の見るのでは、とてもひきつけられておいででした、お母さまに。本当にふしぎなお方ですね。私にはない、力でした」
 子どもが寝ぼけて何かいい、兄嫁の首にしがみついた。私はぼんやりそれを見ていた。
 「お行きになった方がよろしいわ」
 目を伏せたまま兄の妻は、なだめるように、そう言った。
 「きっと、お待ちですよ」
  
       ※
  
 私は庭を横ぎって母のいる棟へ戻った。しかし表口からは入らずに、自分のへやの縁から戸をあけて入り、雲の中に入ったり出たりしているおぼろな月あかりをたよりに、灯をつけ、机の前に座った。
 昔のままの小さい机は、きれいにみがきこまれ、ちり一つない。それがかえって腹がたった。誰がこのへやを片づけていたのだろう。あの娘だろうか?
 母のやりそうなことだ。うきうきしていたわけだ。
 あの人にはいつも、自分自身の計画があるのだ。
 私は気をしずめようとして、棚から本を一冊とってきて、机の上で開いた。母と私が昔せっせと書き写した古い物語の一部だった。母の字と私の字が入りまじっている。どうせどこにいてもこんな風に私は母にからめとられるのだ、と私はいらいらして思った。
 足音が近づいて障子がひらいた。あたたかい、花のような香りが淡くただよって、あの娘だとわかった。
 「灯を持ってまいりましたけれど」
 緊張した明かるい声で娘は言った。
 「それは、暗うございましょう、油が汚れていて」
 私は返事をしないで、本をめくりつづけていた。
 娘は私のそばまで来たが、それ以上近づくのに気がさしたらしく、灯を床においた。
 「あの、ここにおいておきますから」
 きれいな京ことばだった。細い、一生けんめいな声にかすかな不安がこもっていて、それがますます私に腹をたてさせ、何かひどく残酷なことをしたい気持にさせた。
 しばらくしてまた娘が、思いきったように声をかけた。
 「ご本を読んでいらっしゃいますの?」
 私は娘をそれ以上、こちらに近づかせない自信があった。平泉で秀衡さまさえひるませた私のある冷たさは、じっとしているだけで絶対に、私の全身ににじみ出てくるのだ。私は動かず、表情もかえず、まっすぐ本に目をおとしつづけていた。
 娘はいったん立ち上がったものの、はたして私の方へ来るのを中途でやめ、棚の方へと歩いていった。積んである本に手をふれながらせいいっぱいにはしゃいだ声で言っているのが聞こえた。
 「私もときどき、読みますの。よくわかりませんけれど、面白うございます」
 あいかわらず私が返事をしないので、とうとう娘も黙りこんでしまい、そのまま時が流れていった。
 私はますますつのってくる冷たい怒りに燃えながら、それだけにいっそう落着いて、平然と本をめくりつづけ、心のどこかで、そうやってすぎていく一刻々々に、奇妙に痛快な満足を感じていた。
 すると娘が、すすり泣きはじめた。
 ふり向いて見なかったが、じっとへやのすみに座りつづけていたのらしい。袖で顔をおおって床につっぷしたらしく、いったん泣き声はくぐもったが、押しころされたまま、次第に激しくなった。
 私はやりきれなくなってきて、ついと立って、へやを出た。
 ふだん使っていない、小さい仏間に入って、そこの燭台に火をつけて、また本を読んでいると、廊下に軽い足音が急ぎ足で近づいてきて、さらりと障子が開いた。
 母だった。白い衣の姿を目のはしにとらえてそれとはわかったが、私は本を読みつづけていた。
 「忠信」
 母の声は気味わるいほど静かだった。
 「なぜそなた、あの娘に、口をきいてやろうとせぬのです?」
 私は返事をしなかった。しかし、本をめくるのはやめていた。母が激怒していることはわかっていたからだ。たしかに私は今のところまだ少し、こんな母は、恐かった。
 「なぜそんな冷たいことをするのです?」
 母はきつい声でくり返した。
 「自分を、何さまだと思っているの? そなたは、かわりましたね。義経さまにかわいがられて、増長したのであろう」
 母の言うことはいつも的はずれで、しかもなぜこう、ねらいあやまたず、一番人を傷つけるところをついてくるのだろうか。私は思わず手をあげて、本の紙を一枚、めくろうとした。
 目の前を、白い光が走ったと思った。母が手をのばして、私の前から本をさらいとったのだ。たちまち母は両の手で、それをばりばりと二つにひきさいて、へやの両方へ、投げすてた。
 「私をばかにするのではない。そなたは口がないのですか? 言いたいことがあるならお言い。何に不満があるのですか?」
 「あの娘を帰して下さい」
 私は手首をつかみあわせて手をくんだまま、障子の方を見つめていた。
 「私には用はありません。妻でも何でも、ほしければ自分でさがしてきます。あなたの世話にはなりません」
 「あの娘のどこが気に入りませんか。あれはよい子ですよ」
 母は妙に落着いた、ぬけぬけとした顔で言ってのけた。
 「この里の娘ですから、馬にものるし、荒仕事もしますが、私がこの三年間かけて、さまざまなことは一応教えてあります。礼儀作法も、学問も、そこらの武家や、公家の娘とひけをとるものではありません。あの子は素直で、やさしいから、きっとそなたによく仕え…」
 「母上」
 私はさえぎって言った。
 「お年をめされて、もの忘れをなさるようになられたか。それと同じことばを十年前、あなたはおっしゃったのを、もうお忘れか」
 「…十年前?」
 「…私のことを、義経さまに」
 「そうでしたかね」
 母はとろりと目を細くした。
 「なるほど言ったかしれません。そなたの言うとおり、年をとると、もの忘れがひどくなる」
 「私は素直で、おとなしく、きっと心からお仕えするだろうと、あなたは義経さまに言っておられた。死んでも忘れはいたしません。そして今度は、あの娘を、私に…ですか? あなたはどういう方なのです?」
 暗いあかりの下で、静かに目を閉じてほおえんでいる母は、白いかいこのようだった。気味悪さと怒りをこらえて、私はつづけた。
 「いったい、あの娘に私のことを、何と言ってきかせていたのです?」
 思わずうめきに近いため息がこみ上げてきて、私は顔をそむけながら吐きすてるように言った。
 「思うだけでも、汚らわしい!」
 母はゆっくり目を開いた。少女のようにあどけない、無邪気な表情をしていた。
 「何が汚らわしいというの? なぜおまえのことを話してはいけない? それが私の楽しみでした」
 「いつもあなたは、そうやって…」
 私の声はふるえていた。
 「そこにいないものを、愛し、あこがれて、夢みて、勝手に自分のいいように、かざりたてて、人に教える。人にそれを信じさせ、それに命をささげさせるまでにする。それならなぜ、いっそ、ご自分で、おやりにならない!? あなたにはその勇気がないのでしょう。自分の言っていることの、どこかに嘘があると、本当には、そんな夢はないのだと、あなた自身は、知っているのだ。だから自分はしたいけれど、する勇気のないことを、いつも他人にやらせるのです。卑怯とは思われませぬか。木 曽の女兵は、男たちとともに戦っていた。平家の男たちは、都の遊女らと、乱れきったくらしをしていました。あなたもそうなさったらいかがですか。義経さまにお仕えしたかったのも、私の妻になりたいのも、本当はあなたなのではないですか?」
 「忠信。ロがすぎますよ」
 母はうす青い光を帯びた目で、じっと私を見返して笑った。
 「いったい、どうしたのですか。そなたは、義経さまにお仕えしたいわけではなかったのですか? それならばなぜ、あのとき、ついていったのです? 殿に」
 その理由を今言うぐらいなら…こんな母を、愛していて、裏切られたのがくやしくて、それを知られるのがもっとくやしくて、だから何でもないふりをしていた…などと言わなくてはならないぐらいなら、私は舌をかみ切っただろう。私は黙りこみ、母は勝ちほこったように笑った。
 「そなた、疲れているのでしょう」
 母はそうきめつけた。
 「義経さまに、叱られでもしましたか。それですねているのですか。そうとしか思えぬ。まあまあよい。大事ない。何もかもきっとその内、うまくいく。そなたが申していた、義経さまと頼朝さまのことにしても、心配はいらぬ。何といってもお二人ともに、義朝さまのお子なのだから。お二人できっとその内に力をあわせて、よい世の中をお作りになるに決まっています。のう、忠信、義朝さまという方は、それは…」
 「母上」
 私はまっすぐ母の方に向き直って座った。
 「そこまでは言うまいと思っていましたが、申します。兄上を殺したのは、あなたです。あなたのその、虫のいいあこがれが、私たち二人を戦いにむかわせ、兄上を、あんな砂と石ばかりの浜べで死なせたのです。兄上の墓は、荒れる海に面して、汐風に吹かれています。塚が倒れれば、もう花をたむける人もいないでしょう。信夫の里の丘も小川も、紅葉も若葉も、もう兄上は見ることができない。多分、あの浜には雪もふらぬでしょう。ここを思い出させてくれるものは何もない、岩の間に、兄上 はいます。これがあなたの夢の結末です」
 よくもあんなことが言えたと今でも思う。少し狂っていたのかもしれない。母のことばにあの、よく知っている、一種のなまめいた、うきうきしたひびきがにじみはじめたと思ったとたん、頭の中に火花が散って、何ひとつわからなくなってしまったのだ。
 気がつくと、母が、ひきつったような蒼白な顔をして、私をにらみ返していた。
 そんな顔の母をまだ一度も見たことはなかった。人間の顔ではない。何かを力まかせにはぎおとされた、死人のような顔である。しらじらとうつろな、荒れはてた古家のようなその目の中に、突然、何かをやきつくすような、すさまじい炎がもえ上がった。
 「それならおまえはどうなのだえ?」
 しわがれた、老婆のような声で母は叫んだ。
 「おまえはなぜ、義経さまに従った? 私のことばかりせめて! おまえがついていかなければ、継信だって行きはしない。死にもしなかったろうよ。なぜそうしてくれなかったのです? なぜ一人で帰ってくるの? 帰ってきたと思えば、えらそうに、わけのわからぬことをならべたてて、私をさげすみ、私をせめる、そんな子よりも、継信が生きて帰ってきてくれた方がどれほどよかったかしれはしない。なぜおまえが死ななかった? え? なぜ継信が帰って来ないの? あの子はここを愛していた。海のそばの荒地の中でも、そなたなら耐えられるだろうにね。そなたの冷たい心なら…」
 「おやめになって下さいまし!」
 障子の外ですすり泣きのまじる鋭い声がひびいた。反射的に私は障子を開き廊下に出た。あの娘がうずくまって、身も世もなげに泣いていた。
 母も廊下に歩み出てきた。まだ眉をつり上げ、唇をひきつらせて、彼女は私に向かって叫んだ。
 「継信を殺したのは、そなたです!」
 「あなたですよ。ご自分でおわかりのはずだ」
 私も言い返した。
 「やめて下さい。お二人とも、どうかおやめになって下さい」
 娘の声が弱々しくひびいた。
 「聞いていられない。お願いですから、やめて…」
 兄がいたら、と私は思っていた。
 こうなる前にどこからか、きっととびこんで来てくれたろう。
 歯をくいしばりながら私はまん丸くなっている娘の身体をよけて、歩き出した。
 「そなた…どこに行くの?」
 母がとげとげしい声を後からかけた。
 「馬に鞍をつけて、京に戻ります」
 そっけなく、私は答えた。
 「私がいても母上には、もう目ざわりなだけでしょう」
 へやにたちより、まだほどいてもいなかった荷物をつかんで、私は郎党を呼び馬のしたくをさせた。やっとくつろいだばかりだったらしい郎党たちは、あっけにとられ、もうひきかえさねばならぬのかと絶望して、泣きそうな顔をしていた。
 「したくは私の馬だけでいいのだ」
 私は安心させてやった。
 「おまえたちはゆっくりしていろ。初めの予定通りでいい。私は一足先に帰る」
 半分ほっとし、半分気がかりそうな顔をしている彼らをのこし、門を開けさせて、夜の中に、私はかけ出した。
  
       ※
   
 怒りをひづめでたたきつぶすように、私はただ、かけにかけた。まっしぐらに広い草原の中に入った。地平線まで、星が見える。
 と…。
 闇の中に、馬のひずめの音が、もう一つひびきはじめた。やがて、激しく白いあわを吹きながら、目を血走らせた馬の首が、すぐそばにあらわれてきて、私の馬に、ひたと並んだ。乗っているのはあの娘だった。
 「忠信さまっ」
 風の間に声がちぎれる。夢中で馬をとばせているから顔は前に向けたままだ。娘の馬は私を追いぬきかけている。一瞬、ほんのこころもち、私がたずなをゆるめたとき、娘は半身、私をぬいて、どんと斜めに馬を私の馬の首根へうちつけてきた。
 「行かないで。戻って下さい! 私が悪かった。戻って下さいませ!」
 おまえは何も悪くない。私はそう言おうとした。二頭の馬がぶつかりあってぐるぐる回り、私たちは激しくゆれた。娘の髪は風に吹きちり、目はつり上がって細められ、顔は血の気を失っていた。
 その指がたずなを振って空にすてた。あっと思ったとたん、馬の背から空をとんで娘は私にとびついてきた。まさかと思っていたものだから、抱きとめるのがやっとだった。たずなが火のような熱さで手のひらの中をすべってはずれていき、私たち二人は馬からころがり落ちた。
 馬の足が数本、すれすれに、私の頭のすぐそばを通った。それにも気づかないように、草の中で娘は私にしがみつき、死にもの狂いで、ただくり返すのだった。
 「帰って下さい。お母さまに会って下さい。私が悪うございました。帰って下さい。私がいけなかった」
 私はどうしようもなく疲れてきた。ばかばかしくなってきて、ぐったり私は身体の力をぬいてしまった。
 「…放して下さい」
 娘をしがみつかせたまま、私はぼんやりした声で言った。
 私の身体から顔を上げて、娘はたしかめるように私を見た。
 「帰って下さいますか?」
 「とにかく、起きて下さい。馬がにげてしまう」
 「お母さまから、言いつかっていました。あなたを、よくお迎えするようにと。…それなのに、私は。愚かな、田舎者で、何もわからなくて、…あなたに何を言ったらいいのか」
 せきこみながら、とぎれとぎれに娘は語った。泣く間も惜しいと言ったように、あわただしく鼻をすすっていた。
 「あなたが悪いのではない。悪いのは母だ」
 「お母さまは、いい方です」
 思いがけないほどきつく、娘はそう言い返し、荒々しく私の胸をゆさぶった。
 「忠信さまには、おわかりじゃないのです。お母さまは、お淋しくて…あなたのことばかり言っておられて、あなたのことを話す相手がほしいばかりに、私のようなものでも、こんなにもかわいがられて…。あなたがそばにいらっしゃらないから、あなたにゆかりのあるものを、この地につくって、手もとにおいておきたいとお思いなのです」
 草が回りで鳴っていた。私の背中の下で土はつめたく、私の心も冷えきって、そのくせ、そのどこか奥では、暗い炎がちらちらと舌を動かしはじめていた。
 「あなたはそれで、満足なのか? あの人の好む世界を、作り出させるためだけに、そうやって生かされていて!」
 「ごめんなさい…許して下さい」
 娘はふるえあがったように、再び私にきつくしがみついた。
 「私の言い方がうまくないので、どうしてもうまくお話できなくて」
 「言わなくてもわかっている。私があなたを抱けばいいのか。あなたを愛すればいいのか。そうすれば満足するのか。あなたも、母も」
 何が私をそれほどに怒らせたのかわからない。娘がどんな顔をし、何を言ったのかも覚えがない。私は娘の腕をつかみ、はねおきざまに逆にその身体を、大地の上にたたきつけて押し倒した。
 「それならばそうしてやる。私の子どもがほしいなら生め。私の種がほしいなら、おまえにくれてやる。みちのくに。母に。だが言っておくが、それでおわりだ。私は二度とここには帰らぬ。母にそう、伝えておけ!」
 娘が悲鳴に近い声で、何かしきりに叫んでいた。だがもはや、そんなことを、私は聞いていなかった。考えてみれば、そのときほどに、私の心も身体も激しく燃えたことはない。それにしてもなぜ私がこうやって、人と愛しあおうとするときに、それはすぐ、憎しみと結びついてしまうのだろう。
 草の中に横たわったままの娘をあとに残して、私はさっさと馬に乗った。鞍にはさんでおいた鞭をとって、馬を勢いよく走り出させながら、本当に、もう帰るものかと私は思いつづけていた。後へ後へと流れ去る草原の色を、山の端のすじを、心にきざみつけながら、同時に次々、ふりすてた。ここでおこったことのすべてを忘れ、会った人のすべてを忘れる。ここはもう私のふるさとでも何でもない。あの娘とあの母が、私について勝手に何を語ろうと、私の子どもがこの地に生まれて育とうと、ここはもう、私のふるさとではない。
 兄も死んだ。私がもうこの国の思い出を、誰と語りあう必要もない。
 冷たい涙がほおに流れた。風のせいだ、と私は思った。