「吉野の雪」(3)

第三章 帰郷

    
《 急ぎ馬より飛んで下り、手をとって、「いかが覚ゆる、三郎兵衛」と宣へば、「今はかうにこそ侯へ」。「この世に思ひ置く事はなきか」と宣へば、「別に何事をか思ひ置き候ふべき。さは侯へども、君の御世に渡らせ給ふを見参らせずして、死に侯ふこそ、心にかゝり侯へ。さ侯はでは、弓矢取りは、敵の矢に当って死ぬる事、元より期する所でこそ侯へ。なかんづく、源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信と言ひけん者、讃岐国屋島の磯にて、主の御命に代りて討たれたりなど、末代までの物語に申されんこそ、今生の面目、冥途の思ひ出にて侯へ」とて、たゞ弱りにぞ弱りける。判官は猛きものゝふなれども、あまりにあはれに思ひ給ひて、鎧の袖を顔に押し当てゝ、さめざめとぞ泣かれける。(平家物語 巻十一 嗣信最期の事) 》
  

    一

 
 冬の陽はまっすぐに山を照らしていた。山のすぐ向こうに雲があって、雲も山も濃いひだの影を、ひとつひとつくっきりとうかびあがらせて、空からうき出ているのだった。
 山を見ながら私は田の中の道を歩いた。古びた水干に、よろいも着ず太刀も持たず、こうして徒歩で歩いていると自分がひどく小さく感じる。
 殿と吉野で別れてから、もう何日になるだろう。あの塔をぬけ出したあと、雪の山道を下って、翌日の昼近く、やっとふもとの村に出た。
 百姓家にでもしのびこんで食物と衣服を盗んでやろうかと思ったが、何だか見たような景色だったので、そのまま川つたいに歩いて行くと、前に一、二度来たことのある街道に行きあたった。
 そこの道すじの小さな堂に、殿のよろいをぬぎすてた。太刀も甲もおいて外に出て、堂の戸をしめると、私は北へ向かって歩きつづけた。
 とにかく、行先がはっきりしているように歩いていることが大切だった。うろうろ迷っていたのでは、かえって人目につくのである。
 足が棒のようになったころ、みちのくからの帰りに何度か立ちよったことのある小さい寺にたどりついた。
 そこで二晩とめてもらった。寺の主の僧は私が何者か察していたのかもしれない。だが、何も聞かなかった。古い水干を貸してくれ、私の着ていた返り血のついた狩衣は風呂のたき口でもやしてしまった。
 好意にいつまでも甘えるわけにいかないことはわかっていたから、三日目の昼、礼をいって、私は寺を出た。裏の野菜畑に、寒そうに菜の玉が丸くなっていた。その間をぬけて私は、田の中のあぜ道を、北へ…都へ向かって歩いた。身をかくすなら、多分、かえって都にいる方が安全だ。漠然とそう思った。
 歩いていると、またさまざまの思い出が、頭の中をよぎって流れた。
 あの、通りすがりの堂の中においてきた殿のよろい…あれととりかえて、殿は私がそれまで着ていた紅裾濃のよろいを着ていかれたのだったが、それももう、どこかにぬぎすてられたろうか。あれは、兄のよろいだった。
  
       ※
  
 私はもともと紅裾渡や緋おどしのよろいがあまり好きでない。夕日や、暗い灯かげの下では、血をあびたように見えるときがあるからだ。だが大柄な兄には、あざやかな紅のよろいはたしかによく似あった。
 一の谷の合戦の時も兄は何か赤いよろいを着ていたし、それから一年ほどたった寿永四年の二月、再び殿に平家追討の命令が下り、私たちが都を出発したときも兄はその紅裾濃のよろいを着ていた。
 一の谷を追いおとされた平家は四国の屋島にいた。
 夜の闇をついて、暴風雨の中を殿はたった五せきの舟で、その屋島めがけて、急襲をかけた。軍目付の梶原景時らは、反対してふみとどまり、ついて来なかった。
 私たちに弓矢でおどされて、命をとられるよりはといやいやながら船を出した船頭たちは、それでも海にのり出すと、あざやかに、必死に、帆をあやつったが、私たち武将や兵士は、なすすべもなく、暗い舟底にころがって、船がかしぐたびに、あちこち、投げとばされていた。酔って吐く者も多かった。
 これはいっそ、眠った方がいいと思い、竜骨のくぼみに身体をはさみこんで、激しい風と彼の音を聞きながら私はうつらうつらしていた。
  
       ※
  
 …するとまた、あの夢を見たのだ。もうずっと長いこと、見ていなかった夢なのに。
 闇の中に、草がなびいていた。
 遠い、地平のかなたから、次第に近づいてくる風の音がしていた。
 そしてすぐ、もう私には、これがあの夢であるとわかったのだ。
 草の上に押したおされた、私の上に、兄がいた。
 幼いときと同じように、兄のひざが胸にくいこみ、兄の指が私ののどをしめつけてきた。
 兄は目をぎらぎら光らせて笑い、私を見下ろしていた。
 どうして今ごろこんな夢を見るのだろうと私はおどろき、おどろきながらそれでも夢中で、昔と同じように叫び、もがいた。兄上、私です、私です…そして昔と同じようにやっぱり何の反応もなく、兄の指はのどにかかり、もう一方の手が冷たい刃を抜くのが見えた。
 やめて下さい、私です、どうしたのです、兄上…叫びつづける私の胸に、のどもとに、否応なく、冷たい刃がぎりぎりとくいこみ、たまらない痛みと熱い血が、私ののどをつまらせた。死ぬ。殺される。そう思った瞬間に、またあの恐しい逆転がおこり、茫々と風の吹く野で、私が今度は兄をくみしいており、兄の死体に首がなかった。
  
       ※
  
 ゆりおこされて、目を開けると、兄がいた。
 船中がぎしぎしきしんで鳴っていた。どこかで誰かが大声で、帆をどうとかしたとかしろとか、叫んでいる。船底はうすぐらく、ほのかな明かりがちらちらと動く中に、皆が立ったり座ったり、竜骨にもたれたりしている。
 「着くぞ、もうすぐ。…何だ、うなされていたのか?」
 身体中がひや汗でびっしょりだった。私はふるえていた。立ち上がることもできないほど、身体の力がぬけていた。
 「どうしたんだ? 寝ていて、酔ったわけでもあるまい?」
 からからと兄は笑った。それからいつもの、人をバカにしたような荒っぽい調子で、言い出した。
 「何とかいえよ、何とか。え? 何て顔してる? おい、そうしてるとおまえな、母上によく似てるぞ、そっくりだぞ、顔が」
 首をさかさまになるほどかしげて、しばらく私をのぞきこんでいてから、兄は自分の冗談に、さっぱり私が反応しないのに気づいたらしく、まじめな口調で言った。
 「何の夢を見たんだ?」
 「…何でもない」
 私は歯をくいしばって、立ち上がった。人に言えた夢ではなかった。
 とたんに船がまた大きくゆれた。あっちこっちで、ののしりや悲鳴があがった。私と兄はいっしょになって、船の壁へとたたきつけられた。
 「ちぇっ! 沈まなけりゃ、もうけものだ」
 水のしたたる天井を見上げて、兄は低くののしった。
 「郎党たちは?」
 歯の根があわぬほど私はまだふるえていたが、やっと声が出せた。
 「甲板にいる。二、三人、海へ吹きとばされたかしれんぞ。いや、船のりというものもえらいものだ。どうした? ふるえてるのか?」
 赤い光をうけた兄の顔は、血に染まっているように見えた。夢で見たのと同じ顔だ。私はふと、明日、私は戦場で、兄に殺されるのではないかと思った。なぜそうなのかは、わからぬままで。
 風が、すさまじい音をたてて、まっ黒い海の上をわたってくるのが聞こえる。次第に近づき、すっぱり船をのみこんで、おしつつみ、もみしだき、荒々しい音があたりをいっぱいにみたす。身体の奥までつきあげてくるような、水底と虚空から同時におそいかかるかん高い風の絶叫。それと同じように、何かが私たちに近づいてきている。否応なく、次第に足を早めて、何かが私たちにせまってきている。
 兄がいきなり私のほおを力まかせにひっぱたいた。
 「どうしたんだ!? しっかり目をさませ!」
 その手がきつく私の肩をつかんで、船腹に押しつけ、ふるえをとめようとしたのがわかった。
 「大丈夫」
 私は何とかそう返事した。
 「大丈夫じゃないな! そんなにめそめそするぐらいなら、最初っから眠らずにおけばいいんだ。だいたいな…」
 がりがりがりっとものすごい音とともに船底がつきあげられて、皆がいっせいにわあっとどよめいて、よろめきあった。がくんとかたむいて、船がとまり、それからまたずるずるっとゆれはじめた。
 「着いたか!?」
 兄は叫んで、私を放し、はしご段の方へ走っていった。
 私は首をふって頭をしっかりさせ、立ち直った。兄のいうとおりだ。たかが夢で、みっともないにも程がある。
 私はゆっくり、はしごを登った。
 外に出ると、すさまじい景色だった。
 夜は、しらじらとあけてきている。しかし、まだ、ものの色は見えない。うす青とも灰色ともつかぬ空の下に、やや濃い灰色の海があれ、まっ白いしぶきとまっ黒い岩とが恐いほどくっきりとうかび上がってきている。目まぐるしく黒い雲がちぎれて空を走ってゆく。わずかに雨がふっていた。空気は水のにおいでみち、へさきをつきあげたようにして岩にひっかかっている船の少し向こうに、灰色の砂浜と黒い岩山が見えた。人家は見えない。人かげもない。
 兄は、殿や、弁慶たちといっしょに、へさきに立って、その浜の方を指さし、何かしきりに、早口で相談していた。その姿もまだ半ば灰色の影だ。
 色のない、黒と白の世界。波と雲とが荒々しく動きながら、どこかこの世のもののようでない世界。地獄に来た、と私は思った。波の荒々しい音にもかかわらず、あたりの景色全体に異様に静かな、おごそかさがあった。生まれる前か、死んだあとの場所に来てしまったような気がした。
 たしかに何かがおこるだろう。
 だが、それが何なのか、私にはまだわからなかった。
  

    二

 
 私が地獄と思ったのは、勝浦という浜だった。そこから屋島まで二日の道のりだった。殿は即座に出発を命じ、夜どおし私たちは、進みつづけた。
 船の酔いがまださめぬのか、こんなことはこれまでないほど私は気分が悪く、ときどき隊列をはなれて、吐いた。戦うことにひどく気がすすまず、今日、私は死ぬのではないかと思った。それでも進みつづけたのは、殿へ対する意地だった。たとえ何があろうとも、殿へ弱味を見せるのだけはいやだった。身体と心が限界に来ても、その意識だけが残って、身体を前に押しやった。
 しかし、屋島に私たちが攻めこんだとき、敵の抵抗はまったくといっていいほどなかった。思いがけない私たちの出現に、おどろきあわてた平家の軍勢は、それこそくもの子をちらすように、浜の船々にのりこんで、あっという間に沖へのがれた。
 「焼きはらえ!」
 殿の鋭い声が命じ、私たちは口々にその命令を全軍に伝達しながら、燃えるたいまつを手から手へ投げわたし、広大な平家の陣屋のあちこちに火を放ち、更に屋根をめがけて、火矢を射た。
 ぱりぱりと黒煙をあげて、まだ新しい赤っぽい木々の建物が次々に火につつまれ、雨もようの空いっぱいに煙がたなびいて、広がった。
 「完全に焼け、戻って来られてはならぬ」
 煙にせきこみながら、弁慶がそう言って走り回っていた。
 「新しい木だからな、なかなか燃えぬ!」
 兄が舌うちして、また新しい火矢を放ったとき、誰かが鋭く叫ぶのが聞こえた。
 「敵だ!」
 私たちはふり向いた。平家の船団はまだ沖にある。しかし、小舟がいくそうも、こちらに向かってこぎよせてくる。馬で泳ぎわたって来る者もいた。
 「こちらの数に、気づかれたぞ!」
 義盛が叫んだ。本隊はまだ来ていない。殿のひきいる私たちは、たかだか百名あまり、平家に比べればひとにぎりだった。
 「岸に上がらせるな、波うちぎわで迎えうて!」
 口々に叫んで私たちは馬にとびのった。
 殿はもうまっすぐに、渚めざして馬を走らせており、私たちもそのあとを追った。
 私たちのほとんどが、走りながら馬上で矢をつがえて、放った。近づいていた舟の上の平家の侍たちが何人か、のけぞって海に落ちるのが見えたが、向こうも舟の上でひざをたて、いっせいに弓をひきしぼったのが見えた。
 よろいの袖をかざす間もなく、矢がとんできた。しかし力が弱かったため、ほとんどの矢が私たちのよろいに浅くささっただけだった。
 平家の軍勢の先頭が、もう浜にかけ上がってきており、それと、私たちが、まともにぶつかりあった。
 あちこちで何頭も、馬が倒れてころがった。両方の馬が倒れた敵味方は、たちまち馬から身体をひきぬき、太刀をふるって相手をねらった。たてつづけにあちこちで叫び声がおこり、血けむりが上がった。
 平家の舟が続々と、もうへさきを砂につけている。武者たちがとび下りてくる。だが、こちらのほとんどが騎馬武者で、その点は有利だった。けちらせる、私はわず かに自信を持った。
 びょうっ、と音がして、何かが私のそばを横ぎり、わあっと悲鳴をあげて、すぐ後にいた味方が一人、馬からころがり落ちた。内かぶとを射られたのだ。たたきおとされたような弓勢の強さだった。続いて数人が同じ矢に射られて馬からころがり落ち、乗手のいなくなった馬があがいて、四方へかけ去った。
 「教経だ!」
 誰かが叫ぶ声がした。
 能登守教経…平家方で最も剛勇をうたわれる勇士だ。それが浜ペに来ているのか。私は太刀をふるって馬をよせてきた相手を、ひっぱずしてよけ、それらしい男を目でさがした。
 岸べの、舟のかげに、その男はいた。
 唐綾おどしのよろいを着、かぶとはかぶらず、髪を肩に流していた。わしのような顔だちで、大きな鋭い目をしていた。
 「殿っ!」
 誰かの悲鳴に近い絶叫が聞こえ、はっとふり向くと、義経さまが、教経めがけて、馬をかえしたところだった。とびこんでいってかけちらす気か、だが、危い、と、私はとっさに血が凍った。それより早く教経は矢を射る。
 教経が殿を見た。
 青白いほおのあたりに、笑いがうかんだようだった。目にもとまらぬ速さでしかも恐しいほど正確に、彼の指が矢をつがえ、じわりと速く、ひきしぼった。
 殿もまっすぐ教経に向かって馬を走らせた。馬のひづめが速いか、飛ぶ矢が速いか。どちらもまったくひるまずに、矢の道すじに馬をすすめ、馬の正面に立ちつくしていた。
 矢の方が速かった。私は恐怖に背すじまでつらぬかれて、それが殿に向かって飛ぶのをはっきりと見、そして突然、もう一つの騎馬武者のかげが、殿と、その矢の間にわりこみ、とんできた矢を胸につきたて、ざあっと馬からすべり落ちて行ったのを見た。
 人々の叫び声も、馬のあえぎも、一瞬すべて遠のき、消えた。かぶとのかたちや、よろいの色を見なくても、私にはわかった…義経さまの前に我からとび出していった、その武者が誰か、わかった。いつでもすぐ、どこかへとび出していってしまう、そんな人間が、そうそう他にいるはずはない。
 「…兄上!」
 私は叫んで、そちらへ馬をつっこませた。
 砂浜の方から、教経の使っている少年らしい影が一人、刀をかざして兄をめがけて走って来る。馬を走らせながら矢をつがえ、私はその少年をねらった。
 教経が何か叫んでいるのが見えた。半ば私を、半ば少年を見ていた。たしか菊王丸という名の少年を、教経がかわいがっていると聞いた、その子だろう。
 それを考えている間はなかった。私は少年を、ただ的としてだけ見た。ひきしぼって放った矢は少年の胸にくいこみ、彼ははずみで空にとびあがり、四つんばいに砂にたたきつけられた。教経がとび出して来た。それに向かって源氏の一群が殺到した。
 しかし私はもう弓も矢もすてていた。ころげるように馬からとび下り、兄の落ちたと思った方に走った。少し見当をまちがえていて、見回して走り戻って、砂丘の少し低くなったかげに、別の死体と折りかさなって倒れている兄の身体を、やっと見つけた。
 砂の間に生えた細い緑の草がふみにじられて折れまがり、風にゆれていた。その草の間にひざをついて私は兄をひきずりあげ、汗にぬれて固くなっているかぶとのひもをほどこうとした。結び目がほどけず、切ればいいのに気がつかず、私ば顔をよせて歯でかんでほどこうとし、二人のかぶとのしころがふれあい、兄の胸につっ立った教経の長い矢が、私の顔のすぐわきで、青空を背に、急に大きく見えた。
 「…忠信か?」
 耳もとで兄が驚くほど落着いた、はっきりした声で言った。
 かぶとのひもをほどくのに一心で、私は返事をしなかった。
 「もう、そんなのはいいから」
 兄はかすかに笑っているようなおだやかな声を出した。
 「私の言うことを聞け、弟」
 私はひもをほどいて、兄のかぶとを草の中にころがした。流れおちた兄の髪が砂にまみれるのを見ると、またたまらなくなって、私は兄の頭の下に手をさし入れた。
 「どうしたんです…何です?」
 「いいか。よく聞け。私が死んで、おまえが一人になって…」
 「死にやしません! こんな…嘘だ…」
 ゆうべ見た、いつもの夢を狂ったように私は思い出していた。私が兄を殺す夢。あれはこれとちがうが、これも新しい夢なのだ。もう一つの夢と同じように、さめる、きっとさめる。私は立ち上がろうとした。
 「誰か…誰か呼んでくる、兄上…」
 「むだだ。遅い」
 いつにない、きっぱりした口調で言って、兄は私の手首をつかみ、胸の上へと、ひきすえてしまった。
 「それよりも聞け。聞いておけ。私が死んだらな…殿に、お仕えしろ」
 少しずつ兄の胸の傷口から血がしみ出しはじめている。それを私が見るまいとしつつちらと見たのは、兄が少し意識が乱れはじめたのかと思ったからだ。
 「何のことです? 殿には、お仕えしています…」
 兄はわずかに一呼吸おいた。
 「心からだ」
 「…心から?」
 突然、私の胸が自分でも聞こえるほどに大きく鳴りはじめた。それまでは、とまっているかと思っていたのに。私はどもった。
 「何の…何のこと…心からとは…心から…今も、お仕えしています」
 「ちがう」
 否応言わせぬ強さできっぱり兄は言いきった。
 「そなたは殿を、憎んでいる」
 「何ということをおっしゃいま…」
 「母上のことでな。ちがうか? 忠信」
 私は凍りついたように動けなくなった。次に私がしたことは、手をふりはなそうともがくことだった。だが、だめだった。
 他人が見たら、私は、死にかけている兄にとりすがっているように見えたろう。冗談ではなかった。私の手首を、つけた籠手ごと、しつかりとひっつかんで、血のじわじわとあふれてくる傷のすぐそばの胸の上に、ひきすえているのは、兄の方であり、私はどうあってもその指から自分の手をもぎはなすことができなかった。兄の力はすさまじく、砂につっぱって身体をおこそうとする私のもう一方の手の指の方が、ずるずると砂にめりこんでいった。私は悲鳴をあげた。これは兄ではない。私のよく知っている、ずっと知っていたはずの、あの兄ではない。乱暴者で、単純で、すぐどこへでもとび出してくる、元気のいい声で笑ってばかりいる、あの兄ではない。それは私の見たこともない、恐しい何かだ。
 「忠信」
 その声がまた言った。
 「おまえが殿を憎むのは、わかる。母上を責めるのもわかる。だが、考えてみろ、母上が悪いのではない。母上がまことに愛しておられたのは、義朝さまで…我らの父がそれを承知であえて、力づくに、あの方を…母上を、妻にして…それは、父上は父上なりに、あの方を愛したのだが…母上もまたあの方なりに…義朝さまを愛しつづけ…父上を憎み、父上に似た私を憎んだ。母上を責めるな、忠信。我らに、その資格はない。あの方はあの方なりに…何も、裏切っていはしない」
 兄にはもう私の顔が見えていないのかもしれない。それを忘れて、兄の一言々々に、私は夢中で必死になって、大きく首をふりつづけていた。ちがう。そんなことは聞きたくもない。考えたくもない。兄のことばの一つ一つが耳に入ってくるのが恐かった。私は兄の手をふりもぎり、逃げようともがきつづけ、声を出すまいと必死で歯をくいしばっていた。口を開けば叫びそうだった。やめて下さい。言わないで下さい。早く目をつぶって下さい。早く死んで下さい! 私の方ももう半ば目が見えず、何 も聞こえていなかった。それなのになぜか兄の声だけは、とぎれとぎれに、しっかりと耳に入ってくるのだった。
 「弟。まちがえるな。怒りや意地で目をくらませるな…心が何を求めるか、本当に愛したいものは何か、求めているのは何か…しっかりと、つかめ。私は母上を愛し、おまえを愛し、母上の望むとおりに生き、そのことを後悔していない…父上にかわって母上を愛し、そのために生きることが、自分のつとめと思ってきた。よいか…屈辱や、恥など、小さいことだ。そんなものに自分をかけるな。そなた自身が不幸になる。…母上を、許せ。殿を愛してお仕えしろ…何より、そなたは、そうしたいのだ。そなた自身がそうしたくている…私にはわかるぞ…そなたが芝居と思ってしていることが…嘘と思って言っていることが…それが何よりも、そなたの本心だと」
 血の気が徐々に兄の顔からひいていった。しかもこの時に及んで兄が、かすかに笑ったのを私は見た。どこか光を失った目で、それでも兄はしっかり私の方を見た。
 「わかったな? 信じていていいのだな? …そなたが殿に…本心からお仕えすると…約束するな、私に今…?」
 返事をしないわけにいかなかった。ここで黙ってしまったまま、兄を死なせてしまったら、もう私は、兄の今のことばを、たのみを、無視できなくなってしまう。この場は黙って安らかに兄を死なせて、などという余裕を持つにはあまりにも、兄のことばは私にとって、重くのしかかってきていすぎた。
 「いやですッ!」
 私は初めて絶叫していた。今まで誰にも決して語ったことのない自分の気持を、そう叫ぶことであらわにしてしまった恐怖にふるえ、一方で、大声で多く叫べばそれだけ自分のその気持の激しさと強さを兄に伝えられて、兄のことばを押しかえせる、納得してもらえる、そんな気がして、声をからして、ほとばしるように、全身で私は叫びつづけた。
 「いやです、絶対にいやですッ! そんなことはいやです! いやです、いやです、誰が何と言ったっていやです! 死んだっていやですッ!」
 「…忠信!」
 澄んだ、鋭い声が耳もとでして、やわらかく、しっかりと、私は兄からひきはなされた。紫裾濃のよろいの草ずりがちらりと見えて、殿だ、と思った瞬間に、私の全身が寒くなった。私と入れかわりに兄のそばにひざまずいて、兄の名を呼び、何か激しい早口で、ことばをかわしている殿のななめ後の横顔を、砂の上にひざをついたまま呆然と見守りながら、私は色を失っていた。兄が手をはなしてくれたのはありがたかったが、どのみち同じことだった。殿に聞かれた…知られてしまった。それがどういうことなのか、どういうことになるのか私はわからず、ただ恐かった。私は兄を憎んだ。こんなことにしてしまった兄を憎んだ。兄の唇からあざやかな血が流れ出し、私が放り出していたかぶとのわきに、首ががくりとのけぞって落ちるのを、私はぼんやり、ただ見ていた。兄の手をつかんだまま、殿がふり向き、私を見たとき、私は思わずふらふらと立ち上がりかけた。自分はもう、この場にいてはならない人間だ、そんな気がして。
 いつの間にか、皆がそこに集まってきていた。弁慶も、義盛も、片岡八郎も、駿河次郎も。皆が兄の死体と、私の顔をちらちら見ながら、何も言えずに立っていた。砂浜を波うちぎわまで、平家の軍を追っていって、今、ひき返してきたらしい。殿が一番早く走り戻って来たのらしい。
 次々に馬をとび下りて私の回りに皆が来た。そのころになって私はようやく、心のどこかでぼんやりと、殿はかんちがいしたかもしれない、と思いはじめていた。私のさっきのあの絶叫が、聞こえなかったはずはないが、それにしても、ふつうに聞けば、あれは、兄の死ぬのを、いやです、と叫んだことばに思われはせぬか、と。
 今、そんなことに気の回る自分が、私はほとほとみにくいと思い、そんなことを気を回さなくてはならない自分が、情なく、みじめだった。何も考えず、気にしないで、今、ただ、兄のために泣けたら。片岡か、亀井かが、肩に手をのせてくれたのをかすかに感じながら、私は一人になりたい…と思った。一人になって、考えて…だが何をだろう? 何を考えるというのだろう?
  

    三

 屋島の海の暗い沖に、ちらちらと赤くいくつも火が燃えていた。平家の軍船のともしびだった。山の上の寺の、古びたらんかんにひじをついて、私は一人でそれをながめつづけていた。
 らんかんのすぐ下に崖から生えのぼる松の梢があり、その葉むらごしに、砂浜に陣どっている味方の軍勢のかがり火が見え、ざわめきがかすかに風にのって聞こえてくる。波の音はもっと広く寄せてきて、白い波頭が夜目にもはっきり、海を横切ってくるのが見えた。
 心の中の、ふれられたくない重いしこりと熱い痛みとがどうしても私を眠らせない。海から吹いてくる冷たい風がほおをなぶればなぶるほど、額の奥がほてってくる。
 兄が死んだ。
 もう何十ペんも自分に言いきかせたことを、再び私はくり返した。この世のどこにも、もういない。どこまで走っても、どれだけ待っても、決して会えない。
 なぜだろう? それがふしぎだった。
 そんなことがあっていいと思えなかった。世界はこんなに広いのだから、まだ、どこかに、兄が生きているということがあってもよさそうなものだと思った。
 崖の下の暗さ。海の暗さ。その間にもえつづける赤い灯たちの小ささ、たよりなさ。突然、何もかもが心もとなく、誰でもいい、そばにいてくれたら、と、生まれて初めて私は思った。
 生まれて初めて…そう、これまでは、いつも私のそばには、母がいた。兄がいた。義経さまが来てから母を私は失ったが、兄はまだいつも、いてくれた。
 どこにでもすぐ、とび出してくる人。
 だが、よく考えてみると、今日、ああして、義経さまの前にみごとにとび出してみせたように、兄が出てきたときにはいつも、それなりに理由があったのかもしれない。
 私がそれに、気づかなかっただけで。
 そういえば、母のきげんが悪いとき、兄はよく、まいこんできた。もしそうでなかったら、母は私を叱っていたのかもしれない。今日、義経さまをかばったように、兄はさりげなく、私をかばってくれていたのかもしれない。
 単純で、乱暴な人。何もわかっていない人。だが考えてみると、兄に本当に傷つけられたことは幼いころから私は一度もなかった。気にさわることを言われたことすらなかった。荒っぽいからかい方や、さわがしい冗談のかげにかくれた兄の心の細やかさを、私は見のがしていはしなかったろうか。
 そういえば、あの時…
 私はつと顔を上げた。
 あの、義経さまが来た次の日の朝…
 馬に鞍をおいて、私はにげ出そうとしていた。そのとき、兄がとびこんできたのだ。べらべら陽気に何かしゃべって、女のところへ行くからと、馬をとっていってしまった。
 あれは…あれは本当に、そうだったのだろうか?
 兄は私をひきとめて、母と殿のもとに残らせ、そして、自分も私につきそいつづけて、ここまで来たのではないのだろうか?
 見ぬかれていたのだ、あのときから。私の気持のすべてを。
 いや、そんなはずはない。私は首をふった。そんなことのわかる神経があの人にあるとは思えない。私の、こんなゆがんだ気持。母への愛と、絶望と、母の愛する者への羨望と、憎しみ。
 突然わきおこってきた一つの思いに私はらんかんの木を固くつかんだ。
 兄は、わかっていたのではないか。
 たしか、母を愛したといった。母は自分を憎んだが、それでも愛し、そして、弟の私をも愛したといった。
 愛されなくても、愛する。
 愛する者が、愛している者をも愛する。
 そうするまでに、兄は、何を考えたろう。
 私はふるえ出していた。兄は私を憎んだというのか。私が母に愛されていたから。自分は母に憎まれていたから。
 そんなことがあるだろうか。それこそ、絶対に、あってはならないことだった。兄が死んだということ以上に、あってはならないことだった。
 兄が私を憎んでいたはずはない。そんなことがあるものか。あってはならない。そんな恐しいことがあるはずがない。そうではなかったかと疑うことさえ恐しい。兄はそんな人ではないのだ。私はよく知っている。
 冷たい何かが胸の底を吹いた。砂浜で私の手首をつかみつづけて、ひきすえつづけて兄が語っていたときの、あの戦慄を、再び思いおこさせられた。あれは私が初めて見る、兄だった。私は兄を、知っていたか?
 容赦ない何かが、私に告げた。義経さまに対する私の気持が兄にわかったのは、兄が同じ気持を私に対して抱いたことがあったからこそではなかったのか、と。
 私は身ぶるいした。初めて涙がこみあげてきた。あんまりだ。私のこんな気持を、兄が私に対して抱いたことがあるなどと。こんなみにくい気持を。こんな激しい憎しみを。私はふり向き、暗い、広い堂の奥を見つめた。広間の向こうに、兄のなきがらが安置され、かすかな灯が風にゆれている。
 かけよって、ゆすぶって、問いただしたかった。兄がいつもの、ばかにしたような目で私を見て、バカか、おまえは、何をつまらないことを言ってる、と答えてくれさえしたならば、私がその場で、もう死んでもいい。
 だが、らんかんに背を押しつけたまま、私はわけのわからない恐れにかられて、広間の方に入っていくことさえもうできなかった。崖の暗さより、海の暗さより暗い闇にとりまかれて、兄は横たわっていた。恐しい沈黙が、その回りをひたしていて、兄は私の手も心も届かぬ遠くにいた。
 立ちすくみながら私は夢中で、最後に聞いた兄のことばを思いうかべた。今まではそれを思い出すのが恐かったのだが、もう、今は少しでも、兄のもとへ再び近づける手がかりがほしかった。
 だが、なぜか、思い出すのは一番思い出したくない、一言だけだった。
 「殿に、おつかえしろ、心をこめて」
 激しく首をふりながら、私は海の方に顔をそむけた。いやです。それだけはいやです。闇にむかって私はつぶやいた。あの人を愛するぐらいなら私は死ぬ。あの人を許すぐらいなら、どんなみじめなみにくい生き方をしても、どんなに不幸になっても、その方がまだいい。
 …だが、忠信。と、兄とも誰ともよくわからない恐しい声が虚空でひびいたようだった。…私はおまえを許したし、愛したのだぞ。
 兄にどこかたしかに似ている、だが魔のようなその声は、ありありと私の耳もとにひびき、けもののように熱い息を首すじに吐きかけてきた。
 …そなたがそれだけ心のままに殿を憎むなら、私もまた心のままにおまえを憎み、呪うが、それでもよいか。私がおまえをどうしたいと思っているか、今どうできるか、知りたいか。
 剣をぬこうとしたが、手が動かなかった。私の身体はその何ものかにらんかんに押しつけられて、崖の方へ落ちかけているようだった。
 私は黙っていた。わなないて、絶望しながら、私は心の中で、けれど、あなたは兄ではない、と言いつづけていた。兄がそんなことを言うはずはない。
 …おまえにそれがわかるのか。その声が笑った。私はおまえの兄だ。おまえが知らなかっただけだ。おまえが殿を憎むように、私がおまえを憎んでいたのだ。
 …許してほしいか。それなら殿も、お許しするのだ。愛して、おつかえするがいい。そうすれば、幸せになれる。
 私はまた、首をふった。
 いやです、と低くきっぱり私はつぶやいた。
 心の底からふるえる思いが次々わきおこってきて、一つ一つ、恐れを消していった。
 あなたはそれでいいのですか、と、ひどく静かに、私は問いかけた。こんな戦いのために、こんな死に方をして、母上のために、殿のために、私のために死んで、それであなたは満足ですか。
 私は許せません。許したいとも思いません。こんなことのすべてを。
 沖にちらつく平家の軍船の灯を私はじっと見つめた。
 あれは敵ですか。私にとっても、あなたにとっても。
 こんな戦いに私たちが何のかかわりがあるというのですか。私たちは源氏でも平家でもない。みちのくの、佐藤庄司の息子たちです。
 こんな、たかが二つの家柄のどちらが都を支配するかの戦いに、なぜ私たちがまきこまれ、死ぬ必要があるのでしょう。
 母上の、若い日の恋のためですか。私たちを愛してもくれなかった母上の恋のために?
 父上にかわって、とあなたは言う。母上を力づくでわがものにした父上にかわって、我々が母上につくし、そののぞむままに生きるのだと。なぜですか。なぜ我々がそんなことをしなくてはなりませぬか。父上も母上も、したいことをしたのです。そのつぐないのために我々が、なぜ、自分の心を押しころし、憎むものを愛しようなどと、無理な努力をするのです。
 そうすれば幸せに生きられるからですか。だったら、私はいやだ。
 私だってできれば殿を愛したい。母上を許したい。心から殿におつかえし、かげひなたなく心をささげたい。そうできたらどんなに今より幸せか、私にはよくわかっています。
 しかし、心のどこかで、何かが、そうしてはいけないと言います。
 …兄上。私は力をこめて、闇の中へと思いを送りこんだ。
 殿におつかえするということ、殿そのものが、幼い私にとっては、初めての夢であり、かけがえのない思いでした。
 みちのくの草原の中で、殿とともに戦い、平家をほろぼすことを空想してうっとりしていたあの頃の私の心は、幼くはあったかもしれないが、そこには何の嘘もありませんでした。
 信じきって、ひたむきに、私は、殿へ、源氏へ、母上の過去の思い出へ、この身をささげていたのです。
 それを汚したのは、母上ではありませんでしたか。
 愛とみせかけたものを通して、私の中へ自分の夢を注ぎこみながら、あの人は、私をただ、自分の夢をつぎこむ器としてしか見てはおらず、決して私を、私として、愛して下さったことはなかった。
 私には許せません。あなたには、許せるのですか。
 理由もなく、ただ父に似ているというだけで、母上からうとまれる、そんな理不尽な人の心の動きを、あなたは許すのですか。
 あなたが許そうと、愛そうと、母上の心のみにくさは、かわりはしません。
 いつわりの愛をとおして、注ぎこまれた夢を、どうして私が愛せますか。愛さなくてはならぬのですか。
 たった、自分が幸せになるということだけのために、それを愛してしまったら、私までどこか、いつわりの人間になるでしょう。
 あなたの言ったとおりです。私は殿を愛したい。
 けれど、そんなことをしたら、今度は私が、殿を汚してしまうことになります。
 兄上。私には、こうしか生きられないのです。
 あなたがここで、死んだこと。
 私たちが母上から愛されなかったこと。
 そうしたことのすべてを、忘れようと思わない。許そうとも思わない。
 あなたがすべてを許したように、私はすべてにこだわります。
  
       ※
  
 「そこは寒くはありませんかな?」
 縁先の板をふむ音がして、年とった僧が一人、廊下を曲がって、近づいてきた。手にした紙燭の赤い火が、ちらちら風にゆれている。
 私は黙って首をふった。
 「お疲れじゃろう。方丈に来て、茶でもあがらぬか?」
 また私は首をふった。
 「一人でいたいものですから」
 私をきつくとりまいていた魔の声は闇の中に遠のいていた。だが、やせて、おちくぼんだ目をしたこの僧も、どこか魔物めいていた。夕方、兄の死体を馬にのせて、この山寺に入ったとき、迎えてくれた僧たちの中に、こんな男がいたろうか? 殿は一晩陣をはなれて、兄につきそっていていいと言い、それで私はこの山寺に来たのだったが。
 「よう、火がもえます」
 僧は沖を見て言った。
 私もそちらに目をやった。
 「海の上は寒いでしょう」
 私がつぶやくと、僧は首をふった。
 「いやいや、水は急には冷えぬから、波は夜でもあたたかです」
 歯のぬけた口を開いて、僧は笑い、じっと私を見つめた。
 「おやさしい方だ。…亡くなられたのは、お兄上かな?」
 うなずくと、僧は言った。
 「よいご主君と、弟御をもたれて、お幸せじゃろう、お兄上も」
 そう見えるのだろうか? 何の疑いもなく、そう言ってくれる僧のことばが身体にしみいった。殿が自分の馬に兄をのせ、多くの布施物とともにこの寺に運んで供養をたのみ、私がこうして一晩つきそっているのを見ると、人はそう思うのかもしれなかった。
 「お兄上が召されておったよろいじゃが」
 僧がまた、話しかけてきた。
 「寺男の中に、そういう細工の上手なものがおって、矢のあとはきれいに直しましたが、どうなさる? ご家来衆にでも使わせなさるかな?」
 「ああ、私が使います」
 私は急いで、そう答えた。
 「かわりに私のを、おいていきますから」
 「じゃが、よいかな? 一度矢が通ったよろいじゃが…」
 「でも兄のものですから」
 僧がまた笑うのが聞こえた。
 「本当に、おやさしい心の方じゃな」
 もう一度くり返してから、僧は続けた。
 「そのお心を、忘れなさるな。お兄上がきっと守って下さるじゃろう。み仏もな。いくさはむごく悲しいが、せめて、そのお心を、忘れなさるなよ」
 私は返事をしなかった。赤い灯がちらちらと、沖でもえつづけていた。
 「どれ、よろいを取ってきましょう」
 僧が行ってしまったので、私はまた、らんかんにもたれた。
 兄の声か何かよくわからない、さっきの声は、もう聞こえなくなっている。私はそれが淋しかった。魔の声でもいいから、兄のことばを聞いていたかった。私が言った、あのぐらいのことで、こんなにあっさりひきさがって消えてしまうことはないだろうに、と思った。
 波の音がひびきつづけていた。兄はここに埋められて、ずっとあの波の音を聞きつづけるのだろうか。私はまるで自分がそうして埋められているように寒くて、淋しかった。私が生きている間はまだいいが、私が死んでしまったら、私が兄について知っているたくさんのことを、知る人はもうなくなる。兄のことを知る人はこれからだんだん少なくなり、兄は次第に消えてゆく。兄の思い出が誰かの中に、新しく生まれたりふえたりすることはもうない。もう決してない。
 沖の、平家の軍船の灯が、いくつもいくつも重なりあった。大きくぼうっとにじみあう、金色の輪になって、私の目の中で、こまかく光ってゆれた。