「おまえが殿を憎むのは、わかる。母上を責めるのもわかる。だが、考えてみろ、母上が悪いのではない。母上がまことに愛しておられたのは、義朝さまで…我らの父がそれを承知であえて、力づくに、あの方を…母上を、妻にして…それは、父上は父上なりに、あの方を愛したのだが…母上もまたあの方なりに…義朝さまを愛しつづけ…父上を憎み、父上に似た私を憎んだ。母上を責めるな、忠信。我らに、その資格はない。あの方はあの方なりに…何も、裏切っていはしない」
兄にはもう私の顔が見えていないのかもしれない。それを忘れて、兄の一言々々に、私は夢中で必死になって、大きく首をふりつづけていた。ちがう。そんなことは聞きたくもない。考えたくもない。兄のことばの一つ一つが耳に入ってくるのが恐かった。私は兄の手をふりもぎり、逃げようともがきつづけ、声を出すまいと必死で歯をくいしばっていた。口を開けば叫びそうだった。やめて下さい。言わないで下さい。早く目をつぶって下さい。早く死んで下さい! 私の方ももう半ば目が見えず、何
も聞こえていなかった。それなのになぜか兄の声だけは、とぎれとぎれに、しっかりと耳に入ってくるのだった。
「弟。まちがえるな。怒りや意地で目をくらませるな…心が何を求めるか、本当に愛したいものは何か、求めているのは何か…しっかりと、つかめ。私は母上を愛し、おまえを愛し、母上の望むとおりに生き、そのことを後悔していない…父上にかわって母上を愛し、そのために生きることが、自分のつとめと思ってきた。よいか…屈辱や、恥など、小さいことだ。そんなものに自分をかけるな。そなた自身が不幸になる。…母上を、許せ。殿を愛してお仕えしろ…何より、そなたは、そうしたいのだ。そなた自身がそうしたくている…私にはわかるぞ…そなたが芝居と思ってしていることが…嘘と思って言っていることが…それが何よりも、そなたの本心だと」
血の気が徐々に兄の顔からひいていった。しかもこの時に及んで兄が、かすかに笑ったのを私は見た。どこか光を失った目で、それでも兄はしっかり私の方を見た。
「わかったな? 信じていていいのだな? …そなたが殿に…本心からお仕えすると…約束するな、私に今…?」
返事をしないわけにいかなかった。ここで黙ってしまったまま、兄を死なせてしまったら、もう私は、兄の今のことばを、たのみを、無視できなくなってしまう。この場は黙って安らかに兄を死なせて、などという余裕を持つにはあまりにも、兄のことばは私にとって、重くのしかかってきていすぎた。
「いやですッ!」
私は初めて絶叫していた。今まで誰にも決して語ったことのない自分の気持を、そう叫ぶことであらわにしてしまった恐怖にふるえ、一方で、大声で多く叫べばそれだけ自分のその気持の激しさと強さを兄に伝えられて、兄のことばを押しかえせる、納得してもらえる、そんな気がして、声をからして、ほとばしるように、全身で私は叫びつづけた。
「いやです、絶対にいやですッ! そんなことはいやです! いやです、いやです、誰が何と言ったっていやです! 死んだっていやですッ!」
「…忠信!」
澄んだ、鋭い声が耳もとでして、やわらかく、しっかりと、私は兄からひきはなされた。紫裾濃のよろいの草ずりがちらりと見えて、殿だ、と思った瞬間に、私の全身が寒くなった。私と入れかわりに兄のそばにひざまずいて、兄の名を呼び、何か激しい早口で、ことばをかわしている殿のななめ後の横顔を、砂の上にひざをついたまま呆然と見守りながら、私は色を失っていた。兄が手をはなしてくれたのはありがたかったが、どのみち同じことだった。殿に聞かれた…知られてしまった。それがどういうことなのか、どういうことになるのか私はわからず、ただ恐かった。私は兄を憎んだ。こんなことにしてしまった兄を憎んだ。兄の唇からあざやかな血が流れ出し、私が放り出していたかぶとのわきに、首ががくりとのけぞって落ちるのを、私はぼんやり、ただ見ていた。兄の手をつかんだまま、殿がふり向き、私を見たとき、私は思わずふらふらと立ち上がりかけた。自分はもう、この場にいてはならない人間だ、そんな気がして。
いつの間にか、皆がそこに集まってきていた。弁慶も、義盛も、片岡八郎も、駿河次郎も。皆が兄の死体と、私の顔をちらちら見ながら、何も言えずに立っていた。砂浜を波うちぎわまで、平家の軍を追っていって、今、ひき返してきたらしい。殿が一番早く走り戻って来たのらしい。
次々に馬をとび下りて私の回りに皆が来た。そのころになって私はようやく、心のどこかでぼんやりと、殿はかんちがいしたかもしれない、と思いはじめていた。私のさっきのあの絶叫が、聞こえなかったはずはないが、それにしても、ふつうに聞けば、あれは、兄の死ぬのを、いやです、と叫んだことばに思われはせぬか、と。
今、そんなことに気の回る自分が、私はほとほとみにくいと思い、そんなことを気を回さなくてはならない自分が、情なく、みじめだった。何も考えず、気にしないで、今、ただ、兄のために泣けたら。片岡か、亀井かが、肩に手をのせてくれたのをかすかに感じながら、私は一人になりたい…と思った。一人になって、考えて…だが何をだろう? 何を考えるというのだろう?
三
屋島の海の暗い沖に、ちらちらと赤くいくつも火が燃えていた。平家の軍船のともしびだった。山の上の寺の、古びたらんかんにひじをついて、私は一人でそれをながめつづけていた。
らんかんのすぐ下に崖から生えのぼる松の梢があり、その葉むらごしに、砂浜に陣どっている味方の軍勢のかがり火が見え、ざわめきがかすかに風にのって聞こえてくる。波の音はもっと広く寄せてきて、白い波頭が夜目にもはっきり、海を横切ってくるのが見えた。
心の中の、ふれられたくない重いしこりと熱い痛みとがどうしても私を眠らせない。海から吹いてくる冷たい風がほおをなぶればなぶるほど、額の奥がほてってくる。
兄が死んだ。
もう何十ペんも自分に言いきかせたことを、再び私はくり返した。この世のどこにも、もういない。どこまで走っても、どれだけ待っても、決して会えない。
なぜだろう? それがふしぎだった。
そんなことがあっていいと思えなかった。世界はこんなに広いのだから、まだ、どこかに、兄が生きているということがあってもよさそうなものだと思った。
崖の下の暗さ。海の暗さ。その間にもえつづける赤い灯たちの小ささ、たよりなさ。突然、何もかもが心もとなく、誰でもいい、そばにいてくれたら、と、生まれて初めて私は思った。
生まれて初めて…そう、これまでは、いつも私のそばには、母がいた。兄がいた。義経さまが来てから母を私は失ったが、兄はまだいつも、いてくれた。
どこにでもすぐ、とび出してくる人。
だが、よく考えてみると、今日、ああして、義経さまの前にみごとにとび出してみせたように、兄が出てきたときにはいつも、それなりに理由があったのかもしれない。
私がそれに、気づかなかっただけで。
そういえば、母のきげんが悪いとき、兄はよく、まいこんできた。もしそうでなかったら、母は私を叱っていたのかもしれない。今日、義経さまをかばったように、兄はさりげなく、私をかばってくれていたのかもしれない。
単純で、乱暴な人。何もわかっていない人。だが考えてみると、兄に本当に傷つけられたことは幼いころから私は一度もなかった。気にさわることを言われたことすらなかった。荒っぽいからかい方や、さわがしい冗談のかげにかくれた兄の心の細やかさを、私は見のがしていはしなかったろうか。
そういえば、あの時…
私はつと顔を上げた。
あの、義経さまが来た次の日の朝…
馬に鞍をおいて、私はにげ出そうとしていた。そのとき、兄がとびこんできたのだ。べらべら陽気に何かしゃべって、女のところへ行くからと、馬をとっていってしまった。
あれは…あれは本当に、そうだったのだろうか?
兄は私をひきとめて、母と殿のもとに残らせ、そして、自分も私につきそいつづけて、ここまで来たのではないのだろうか?
見ぬかれていたのだ、あのときから。私の気持のすべてを。
いや、そんなはずはない。私は首をふった。そんなことのわかる神経があの人にあるとは思えない。私の、こんなゆがんだ気持。母への愛と、絶望と、母の愛する者への羨望と、憎しみ。
突然わきおこってきた一つの思いに私はらんかんの木を固くつかんだ。
兄は、わかっていたのではないか。
たしか、母を愛したといった。母は自分を憎んだが、それでも愛し、そして、弟の私をも愛したといった。
愛されなくても、愛する。
愛する者が、愛している者をも愛する。
そうするまでに、兄は、何を考えたろう。
私はふるえ出していた。兄は私を憎んだというのか。私が母に愛されていたから。自分は母に憎まれていたから。
そんなことがあるだろうか。それこそ、絶対に、あってはならないことだった。兄が死んだということ以上に、あってはならないことだった。
兄が私を憎んでいたはずはない。そんなことがあるものか。あってはならない。そんな恐しいことがあるはずがない。そうではなかったかと疑うことさえ恐しい。兄はそんな人ではないのだ。私はよく知っている。
冷たい何かが胸の底を吹いた。砂浜で私の手首をつかみつづけて、ひきすえつづけて兄が語っていたときの、あの戦慄を、再び思いおこさせられた。あれは私が初めて見る、兄だった。私は兄を、知っていたか?
容赦ない何かが、私に告げた。義経さまに対する私の気持が兄にわかったのは、兄が同じ気持を私に対して抱いたことがあったからこそではなかったのか、と。
私は身ぶるいした。初めて涙がこみあげてきた。あんまりだ。私のこんな気持を、兄が私に対して抱いたことがあるなどと。こんなみにくい気持を。こんな激しい憎しみを。私はふり向き、暗い、広い堂の奥を見つめた。広間の向こうに、兄のなきがらが安置され、かすかな灯が風にゆれている。
かけよって、ゆすぶって、問いただしたかった。兄がいつもの、ばかにしたような目で私を見て、バカか、おまえは、何をつまらないことを言ってる、と答えてくれさえしたならば、私がその場で、もう死んでもいい。
だが、らんかんに背を押しつけたまま、私はわけのわからない恐れにかられて、広間の方に入っていくことさえもうできなかった。崖の暗さより、海の暗さより暗い闇にとりまかれて、兄は横たわっていた。恐しい沈黙が、その回りをひたしていて、兄は私の手も心も届かぬ遠くにいた。
立ちすくみながら私は夢中で、最後に聞いた兄のことばを思いうかべた。今まではそれを思い出すのが恐かったのだが、もう、今は少しでも、兄のもとへ再び近づける手がかりがほしかった。
だが、なぜか、思い出すのは一番思い出したくない、一言だけだった。
「殿に、おつかえしろ、心をこめて」
激しく首をふりながら、私は海の方に顔をそむけた。いやです。それだけはいやです。闇にむかって私はつぶやいた。あの人を愛するぐらいなら私は死ぬ。あの人を許すぐらいなら、どんなみじめなみにくい生き方をしても、どんなに不幸になっても、その方がまだいい。
…だが、忠信。と、兄とも誰ともよくわからない恐しい声が虚空でひびいたようだった。…私はおまえを許したし、愛したのだぞ。
兄にどこかたしかに似ている、だが魔のようなその声は、ありありと私の耳もとにひびき、けもののように熱い息を首すじに吐きかけてきた。
…そなたがそれだけ心のままに殿を憎むなら、私もまた心のままにおまえを憎み、呪うが、それでもよいか。私がおまえをどうしたいと思っているか、今どうできるか、知りたいか。
剣をぬこうとしたが、手が動かなかった。私の身体はその何ものかにらんかんに押しつけられて、崖の方へ落ちかけているようだった。
私は黙っていた。わなないて、絶望しながら、私は心の中で、けれど、あなたは兄ではない、と言いつづけていた。兄がそんなことを言うはずはない。
…おまえにそれがわかるのか。その声が笑った。私はおまえの兄だ。おまえが知らなかっただけだ。おまえが殿を憎むように、私がおまえを憎んでいたのだ。
…許してほしいか。それなら殿も、お許しするのだ。愛して、おつかえするがいい。そうすれば、幸せになれる。
私はまた、首をふった。
いやです、と低くきっぱり私はつぶやいた。
心の底からふるえる思いが次々わきおこってきて、一つ一つ、恐れを消していった。
あなたはそれでいいのですか、と、ひどく静かに、私は問いかけた。こんな戦いのために、こんな死に方をして、母上のために、殿のために、私のために死んで、それであなたは満足ですか。
私は許せません。許したいとも思いません。こんなことのすべてを。
沖にちらつく平家の軍船の灯を私はじっと見つめた。
あれは敵ですか。私にとっても、あなたにとっても。
こんな戦いに私たちが何のかかわりがあるというのですか。私たちは源氏でも平家でもない。みちのくの、佐藤庄司の息子たちです。
こんな、たかが二つの家柄のどちらが都を支配するかの戦いに、なぜ私たちがまきこまれ、死ぬ必要があるのでしょう。
母上の、若い日の恋のためですか。私たちを愛してもくれなかった母上の恋のために?
父上にかわって、とあなたは言う。母上を力づくでわがものにした父上にかわって、我々が母上につくし、そののぞむままに生きるのだと。なぜですか。なぜ我々がそんなことをしなくてはなりませぬか。父上も母上も、したいことをしたのです。そのつぐないのために我々が、なぜ、自分の心を押しころし、憎むものを愛しようなどと、無理な努力をするのです。
そうすれば幸せに生きられるからですか。だったら、私はいやだ。
私だってできれば殿を愛したい。母上を許したい。心から殿におつかえし、かげひなたなく心をささげたい。そうできたらどんなに今より幸せか、私にはよくわかっています。
しかし、心のどこかで、何かが、そうしてはいけないと言います。
…兄上。私は力をこめて、闇の中へと思いを送りこんだ。
殿におつかえするということ、殿そのものが、幼い私にとっては、初めての夢であり、かけがえのない思いでした。
みちのくの草原の中で、殿とともに戦い、平家をほろぼすことを空想してうっとりしていたあの頃の私の心は、幼くはあったかもしれないが、そこには何の嘘もありませんでした。
信じきって、ひたむきに、私は、殿へ、源氏へ、母上の過去の思い出へ、この身をささげていたのです。
それを汚したのは、母上ではありませんでしたか。
愛とみせかけたものを通して、私の中へ自分の夢を注ぎこみながら、あの人は、私をただ、自分の夢をつぎこむ器としてしか見てはおらず、決して私を、私として、愛して下さったことはなかった。
私には許せません。あなたには、許せるのですか。
理由もなく、ただ父に似ているというだけで、母上からうとまれる、そんな理不尽な人の心の動きを、あなたは許すのですか。
あなたが許そうと、愛そうと、母上の心のみにくさは、かわりはしません。
いつわりの愛をとおして、注ぎこまれた夢を、どうして私が愛せますか。愛さなくてはならぬのですか。
たった、自分が幸せになるということだけのために、それを愛してしまったら、私までどこか、いつわりの人間になるでしょう。
あなたの言ったとおりです。私は殿を愛したい。
けれど、そんなことをしたら、今度は私が、殿を汚してしまうことになります。
兄上。私には、こうしか生きられないのです。
あなたがここで、死んだこと。
私たちが母上から愛されなかったこと。
そうしたことのすべてを、忘れようと思わない。許そうとも思わない。
あなたがすべてを許したように、私はすべてにこだわります。
※
「そこは寒くはありませんかな?」
縁先の板をふむ音がして、年とった僧が一人、廊下を曲がって、近づいてきた。手にした紙燭の赤い火が、ちらちら風にゆれている。
私は黙って首をふった。
「お疲れじゃろう。方丈に来て、茶でもあがらぬか?」
また私は首をふった。
「一人でいたいものですから」
私をきつくとりまいていた魔の声は闇の中に遠のいていた。だが、やせて、おちくぼんだ目をしたこの僧も、どこか魔物めいていた。夕方、兄の死体を馬にのせて、この山寺に入ったとき、迎えてくれた僧たちの中に、こんな男がいたろうか? 殿は一晩陣をはなれて、兄につきそっていていいと言い、それで私はこの山寺に来たのだったが。